第十六話 〜心の在り処〜
間に合ったぁぁぁぁ!?
お久しぶりでっす、皆さん!
(>∀<)ノ
いやぁ、ギリギリセーフだったっすねー。
え、何がって?
やだなぁ、投稿日に決まってるじゃないですか!(笑)
もう、何が嬉しいって、こうして投稿日に間に合ったってコトですよー。
一回目からオチたりなんかしたら、もう冷や汗かきまくりですからね!
なかなかの達成感がありますよ、コレ(°∀゜)
友Y「土・日潰してるけどなww」
そりは言わないでぇぇぇぇぇ!
はい、休日がオワタ式です。
これで安心して年が越せそうですが、皆さん、お風邪などは大丈夫ですか?
私は土曜日にインフル予防接種に行ってきたばかりなのですが、お互いに体調に気をつけて、無事に年が越せるといいですね。
(⌒∇⌒*)ノ⌒☆
や、慣れない顔文字自重、ってやつですね、わかります(笑)
ではでは、長くなりましたが、引き続き本編をお楽しみください。
オ「え? 史実? なにそれ? おいしいの?」
目覚めるという行為が瞳を開けることだとしたら、それは目覚めというのではないのかもしれない。
だが、目覚めが五感の活性化を意味するのなら、彼女は間違いなく目覚めていた。
起きて最初に感じたのは、鼻腔を優しくくすぐる馥郁とした香りだった。
ただし、それは空腹をより刺激する豊富な食材たちの香りではなく、彼女が日頃から使用しているような安っぽい残り香など一切しない、豊潤な石鹸の香りであった。
それは水が喉を潤すように体内を循環し、呼吸を繰り返すだけで心安らかな清福に満ち足りていく…、しかしどこか、春の日差しのように儚く脆い慎ましさに溢れていて…。
それが誰の香りであるのかを、彼女は知っている。
そして、その上品な香りによる嗅覚への刺激が、寝起きの意識に絡み付く靄を振り払いながら五感を回復させていく。
「ん…、うぅ…」
肌触りの良い、しかしながらいつもと違う寝台の感触に気付くのに、時間はかからなかった。
身体を優しく閉じ込めるシーツの、撫でるように柔らかい贅沢な清潔感。
耳元まで深く沈み込む枕はまるで、母の胸に抱かれているかのような錯覚さえ覚える。
…それは彼女にとって、もう、とうに忘れ去ってしまっていたはずの懐かしい温かさだった。
思い出そうとすればするほど望郷の感慨に心奪われて、この厳しい現実に胸が締め付けられる幼き日々の思い出たち。
無用心に手で触れれば自らの肌に傷をつけてしまう砕けたガラス細工のように、それはどれだけかき集めてみても、もう二度と元には戻らない過去のカケラでしかなかった。
…生まれた時から全盲であった彼女には、故郷の場所さえ定かではない。
それどころか、あの惨劇から数日後、イングラムと名乗る老人に拾われていなければ、今頃は姉弟ともに野垂れ死にしていたはずである。
その後、彼の計らいによって居を移した孤児院での生活は長く続いていたが、生きているということさえ有り難い彼女にとって、そこに感謝こそあれど不満などない。
ただ、漠然とした不安にも似る疑問はあった。
十三の頃だったろうか、それまで続いていた孤児院での生活から急遽として王城の一室を与えられ、そこで生活することをなぜか許されているからである。
これは、どう考えても前例のない不思議な事態だった。
極言すれば、彼女は何の役にも立てずに病床に伏す身である。
働こうにも目が見えず、しかも同じ年頃の女の子と比べても遥かに低い水準の体力しかないルナは家事さえ満足にできず、自炊することも困難であれば、用便を足すことにさえ通常の何倍も時間がかかってしまう。
従って働き口など最初からなく、仮にあったとしても仕事は極端に限定されてしまうし、その効率も他の障害者と比べてかなり遅い。
彼女のような全盲者は、ごく当たり前の日常生活においてもこれほど大きな制約を受ける。
ただ歩くという行為にさえ一歩先にあるかもしれない未知の危険を警戒せねばならず、決して光が差すことのない暗闇の中で、一つ一つ手探りで丁寧に安全を確かめなければ、足を踏み出すことにさえ不安に駆られて恐怖するものなのだ。
そんな自分が、一介の配送屋にすぎぬはずの弟の働きによって、かつては物置だったとはいえ小部屋を与えられ、王城で生活することを許されるものなのだろうか。
尤も、これはいくら考えてみたところで答えなど出せるはずもなく、ヴィクターらに聞いてみても要領を得ない返事ばかりで言葉を濁すのだから、この話についてはあまり深く追及しないようにしていた。
それに、王城に越してからというもの、大切な友人も増えて嬉しかった。
ヴィクターが紹介してくれたグレッグに、庭園で出会った王女ジュリア。
二人はルナにとって掛け替えのない友人であり、どちらと過ごす時間にもささやかな幸福を感じることができた。
たった一人で過ごす寂しさに少しばかりの思い出を添えて、眠れない夜には二人からもらった木彫りの人形を胸に抱く。
毎日ヴィクターの安全を神に祈りながら、たまに顔を見せては聞かせてくれる地方の土産話や仕事での笑い話などに一喜一憂し、たった一人の家族の無事に安堵する。
ゆえに、たとえ部屋に閉じこもりきりの生活で人生が終わったとしても、彼女は弟より先に死ななければそれだけで自分は恵まれているのだとして、ヴィクターに余計な心配をかけぬよう心がけてきたつもりだった。
しかしそれも徒労に消え、今頃はきっと、彼は自分の安否を心配しているに違いなかった。
とはいえ、ルナ自身、いま自分が置かれている現状を把握できてはいなかった。
かすかに残る記憶の海から引き揚げられたのは、王城で兵士と衝突したその瞬間の頭痛とひどく心配そうに狼狽するジュリアの声、そして遠く離れていく王城の外観だけであった。
しかし、これ以上はどう頑張っても思い出せそうにない。
ここがどこなのか、そしてあの不慮の事故からどれくらいの時間が経っているのか、今のままでは何も分かりそうになかった。
その時、不意に扉が開く音がした。
次いで、仰々しく擦り鳴る金属製のブーツの足音がこちらに近づいてくる。
ルナは咄嗟にシーツを掴んで身体を強張らせたが、どのみちこの寝台から一寸先ですらも見えぬ自分には最初から抵抗する術もなく、相手がすぐそばで立ち止まっても逃げることはしなかった。
だが、内心は狩人を前にした兎のように、この先に待ち受ける自分の運命に怯えていた。
辺りから漂う上品な香りから、自分がいるこの場所にはかつてジュリアがいたであろうことは察せられたが、しかしだからといって、いま目の前にいる人物が彼女だとは到底思えなかったのだ。
恐らくは、男だろうとルナは思う。
それも、かなり体格の良い男性である。
近づくほど明瞭となる足音の重厚感。
目が見えずとも判然と鳴り合う鎧が自分のすぐ横に立ち止まった瞬間に最後の一音を奏でて、それが想像以上に高くから聞こえてきたことに驚く。
しかし、男はそれ以上、動く気配はなかった。
自分に触れることもしなければ言葉を投げかけてくる風でもなく、それが返って不気味に不安な沈黙の間となって、ルナの恐怖を増大させた。
堪え難い静寂にシーツを掴む手をさらに強くして、ルナは精一杯の勇気を振り絞る。
「…だ、だれですか…?」
相手に対する警戒と疑念を含ませた彼女の問いかけに、しかし男は特に気を悪くした様子もなく言葉を返した。
「起こしてしまったならすまない。…気分はどうだ? どこか痛むところでもあるか?」
そう言って、男は手に持っていた何かを、ルナの寝台の横に設けられたテーブルに置く。
小さな密室で水が跳ね上がる音から、ルナにはそれが水差しであることが分かった。
「君の真横に小さなテーブルがあるから、そこに水差しを置いておく。手を伸ばせば簡単に届く距離だ、誤って落とさぬように注意したほうがいい」
「あ、ありがとうございます…」
その声音に、自分に対する威圧や敵意がないことはすぐに分かったが、しかし素性も知らぬ男を前にして簡単に警戒を解くわけにもいかず、それでも最低限のお礼を言おうとして、ルナは上半身を起こそうとした。
それを、男が彼女の肩に手を置いて制する。
「いや、そのままでいい。君が病に冒されていることはジュリア様より聞いている。無用の気遣いで無理をして病状を悪化させるよりも、楽な姿勢で安静にしておいたほうがいいだろう。
…ここには、君しかいないのだからな」
びっくりするほど優しく加減された大きな手に阻まれてルナは少し驚いたが、男の有無を言わせぬ言葉の迫力に気圧され、そのまま申し訳なさそうに顔をうつ伏せながら再び背中を寝台の床に伏せた。
「あ、あなたは…?」
声のする方へ見上げるルナに対して、男は邪気のない声音で応える。
「私はドゥムニア王国軍を束ねる、ゼノンと言う者だ。王女ジュリア様からの命により、君の身の安全と保証を仰つかった。
とはいえ、無理に私を信用する必要はない。目が見えぬ不安というのは、当人しか分からぬからな」
ゼノンはそのまま、部屋の様子をルナに伝えた。
今、二人がいるこの場所は、普段はジュリアが居する部屋から直接に繋がった隠し部屋であり、その存在を知る者は王族を除いてゼノンしかおらぬ秘密の個室である。
これは、もし王城が戦場となった際に王女が速やかにかつ安全に身を隠すことが出来ることを目的として造られており、内装こそ質素ではあったが、その機能性は人一人が生活するのに必要な物がすべて整えられていた。
ただし、備蓄している保存食と、時間が経つほど悪化する衛生面から、その利用期間は約一ヶ月程度でしかない。
従って、今回のように一部の関係者が内密に匿いたい人間の安全を確実とするために定期的な供給を施さない限り、ここはあくまでも身に迫る危険を一時的に避けるための避難場所でしかなかった。
そして、これらの配慮がすべて、王女ジュリアの好意によるものであることも。
「…じゃあ、ここは…」
一通りの説明に理解を示したルナの呟きに、自らをゼノンと名乗る男は意を汲んだように言葉を紡ぐ。
「そう。君から見れば、ここは敵地のど真ん中にいるということになるな。
…だから、間違ってもここから逃げ出そうなどとは考えないことだ。君のことは私とジュリア様以外には知られていない。この部屋から一歩でも出れば、君は王城に忍び込んだ不審者として即処刑にされるかもしれん」
尤も、全盲の彼女では一人で歩くこともままならぬことを、ゼノンは当然に既知としている。
ゆえにそれは、ある一つの可能性を除いては、警告というよりもほとんど互いに隔意なく確認したかったというほうが正しいだろう。
それを敢えて口にした男の言葉に、ルナは真摯な表情で頷いた。
「分かりました。ご心配を、おかけするような、ことは致しません。……ありがとうございます。私のような、者のために、何から何まで、良くしていただいて…」
深く頭を下げるルナに、ゼノンはやや呆れた様子で眼光を細めた。
「どこまでも演技を続けようというわけか。…まったく、アングロ・サクソン人はつくづく図々しい生き物だな」
言って、ゼノンは薄く笑う。
「…そうだな。この部屋の存在は私しか知らない。そして今、ここには男と女が二人きりだ。これが何を意味するか、分からぬ年頃でもあるまい」
あまりに明け透けな物言いに驚きを隠せぬルナは瞳を瞬かせ、男を見上げながらも返答に窮した。
当時、ルナのように十五を迎えた年頃の娘たちであれば、そろそろと結婚を意識しているのが常識だった。
なぜならこの戦乱の時代、強国同士が争い、山賊が領地に跋扈する危険な世の中では、治癒魔術などの強力な医術が充分に施されることのない平民たちの意識には常に、死という概念が身近にあったからだ。
天寿を全うしたとする平均年齢は、約五十歳。
これはウェセックス王国の現国王エグバートの年齢と同じであり、ゆえに彼はこの時代において、一時的にフランク王国に亡命していたとはいえ、かなり長生きしている国王であると言えるだろう。
また、十七を数える娘の多くは目途に頼れる男を見つけて祝言を挙げるものだったし、もっと早ければ、赤子の一人や二人を抱いていても何ら不思議ではなかった。
ゆえに勿論、ルナも男女の営みがどういうものであるのかは正しく理解している。
そして恐らくは、一生、我が子を胸に抱く幸福を経験することはないだろうということも、また。
途端、男が掛け布団を剥ぎ取って寝台に身を乗り出した。
ギシリ、と想像以上に大きく軋む寝台の悲鳴に身体を強張らせ、何が起きたのか分かるはずもなく寝間着を露わにされたルナの表情が凍り付く。
「誰も知らぬ部屋の中で悲鳴を上げても、外の人間はその異変に気付くまい。…ましてや君は招かれざる来訪者だ。君を助けてくれる人間は、ここにはいない…!」
吐息を感じるほどに近くから宣告された冷酷な口調から躊躇なく、ゼノンがルナの寝間着を乱暴に引き裂いた。
鎖骨から下腹部までを、肌着も着けていないルナの肢体が男の前に曝され、ヒッ、と悲鳴を上げて羞恥に顔を背ける少女はすぐさま隠すように身体を包める。
その一瞬に、ゼノンは見た。
水を弾くように木目細かい素肌、すらりと伸びる鎖骨の美しいラインと、仰向けの姿勢にあってなお形の崩れぬ小振りな乳房、その丸みから滑らかな曲線を描いて続く細い腹部。
だが、ゼノンが注目したのは、無数の男たちの官能中枢を刺激するような少女の魅力的な柔肌に対してではなかった。
臍より少し真下に位置する下腹部に、男が驚愕に慄く奇妙な光景が浮き出ていたのだ。
そこに薄く透けて見えているのは、紛うことなくルナ自身の子宮であった。
筋肉の壁でできた袋状の小さな構造、それは目を凝らさねば見えぬほどにうっすらと皮膚の表面から見えていたがために生理的な瞠目はなかったが、それでも、まるで体内を表から覗き見ているような感覚に息を呑んだ瞬間、ゼノンはソレと目が合った。
時間にして一秒にも満たぬ刹那の時の中で、しかしゼノンはなぜか九死に一生を得たかのような安堵感に次いで、言い知れぬ恐怖を自分にもたらしたソレを見てしまったことに心の底から後悔する。
無論、ソレが何であるのかをゼノンは知らない。
だが、彼女が咄嗟に身体を包めてくれなければ、自分はそのまま何の抵抗もできずにどこか―――時空を超越した想像も及ばぬ無明の房室で―――無慈悲な死よりもおぞましい混沌へと連れ去られてしまい、もう二度と現世に戻れなかったのではないかとさえ確かに思ったのだ。
―――しかし。
それはやはり、刹那の時の中で暴走した恐怖の震撼にすぎない。
「な、何だったんだ、今のは…」
急速に伝染する恐慌が鳥肌となって身体を震わせながらも、ようやく冷静な思考を取り戻したゼノンはそれだけを呟く。
見てはいけないモノを見た。
戒心したゼノンが己に刻したのは、見ただけで戦慄を撒き散らす理不尽なソレを単刀直入に表した、素直な感想であった。
そして間違っても、もう二度とそれには関わりたくないと戒める、ある種の蛇蝎そのものの絶対的な教訓も。
「き、君は、いったい…」
ゼノンが寝台から降りたことにも気付かず、ルナは急いで裂けた寝間着を寄り合わせて男に背を向ける。
「…それが、君の不治の病の原因、なのか…?」
ルナは、彼の問いに応えようとはしなかった。
ただ、小さく頷いただけで彼女の拒絶を察したゼノンもまた倣うように黙し、これ以上カマをかけるのは無意味だと悟る。
「…いや、すまない。君が敵の間者である可能性を確かめるべく、失礼ながら試させてもらった。…今の非礼を心より詫びよう」
わずかに躊躇った気配を見せたが、ルナは背を向けたまま応えた。
「いえ…。このことは、どうか、忘れてください…。…私も、忘れます、から…」
ルナは正しく理解している。
それは、ゼノンという男が、たとえ誰であろうとも無抵抗の女性に手をかけるような無法行為に出ることは絶対にないのだということを。
でなければ、どうして王女が彼を信頼するだろう。
勿論、ゼノンが告げた言葉のすべてが虚言である可能性も否定できないが、この部屋に漂う石鹸の香りは間違いなく庭園で同じ時を過ごした王女のものに相違なかったし、その王女の部屋に簡単に出入りできる人間であれば、それが信頼に足る人物なのだろうということは推察に容易い。
それよりもルナが困惑したのは、今の今まで秘匿していたソレを他人に見られたということだった。
この十五年間、たとえ弟といえども知らぬソレを、彼女はたった一人で頑なに隠し続けてきた。
ソレは彼女が墓まで持っていかなければならない秘密であり、もしソレを公に露呈されてしまったら…。
「どうか、忘れてください…。他ならない、貴方自身の、ために…」
そして、ゼノンもまた、ルナの言葉を正しく理解した。
声色は優しげに穏やかであったが、はっきりと記憶から消せと告げる少女の明確な拒絶は、彼女の美しい肢体に対してではなく、そこに隠された“何か”のことを指しているのだと。
「…分かった。本当にすまない…」
一度は自分で剥ぎ取った掛け布団を、いまだ背を向けたままのルナの肩までゆっくりと掛け直して、ゼノンは言葉を繋げる。
「…ジュリア様は公務でお忙しく、ここには来られないと仰られていた。ゆえに、私が代わって君の世話に責任を持つようにと託されたが、あいにく私も迎撃準備に忙しく、なかなか顔を見せられないだろう。
従って、君の世話役を用意させてある。私よりも彼女の方が適任だろうから、君にぜひ紹介したいのだが…、いいかな?」
暫しの逡巡のあと少女が頷いたのを見て取って、ゼノンは入口に向き直った。
「入れ」
男の短い招きに応じて、はい、と続く返事とほぼ同時に扉が開き、奥から一人の女性が現れて静かな足取りで部屋に入る。
ルナは、立ち止まった足音の方角へと身を返した。
「初めまして、クリスティーヌと申します。以後お見知り置きを」
あたかも、それ自体が官能的なフェロモンで精製された驚くべき完成度を誇る香気の如く、短くも妖艶な声質がその挨拶には秘められていた。
目が見えぬルナにはその容貌を知覚することはできなかったが、同性の彼女からしても、十五年という月日を重ねてようやく積み上げた心の壁をたったそれだけで開けてしまいそうな、そんな魅力あふれる豊かな声調だった。
内心の動揺を抑えながら、ルナが短く会釈する。
「は、初めまして…。ルナと申します」
お互いに軽く挨拶を交わしたあと、ゼノンが再び口を開いた。
「彼女は王族に仕える侍女の一人だ。本来なら城内の雑務に当たっているのだが、少し無理を言って、君の身の回りの世話を付きっきりで引き受けてくれることとなった。何かあれば、すべて彼女に言えば問題ないだろう」
「はい。何がご要望がございましたら、すべて私にお申し付けください。私はいつでも傍に控えておりますゆえ、遠慮なく声をかけてくだされば、ルナ様の目となり足となってお応え致します」
「あ、ありがとうございます…」
二人の様子に、ゼノンは心持ち安堵した。
「それでは、私はこれで失礼する。…少々、手荒い真似をしてすまなかったが、あれは私の独断だ。ジュリア様の意思があの行為になかったことを、改めて言わせてほしい」
ルナはしっかりと頷いた。
「はい、分かっています」
そう言って、ルナは少し躊躇いながらも言葉を繋げた。
「あ、あの…。ジュリア様に、お伝え、していただけない、でしょうか。…私のために、ここまでの配慮を、していただいて、本当に、感謝の言葉もありません、と…」
「心得た。必ずジュリア様にお伝えしよう」
応えて、ふとゼノンは微笑んだ。
「…君のことは、フィダックス城にて拘束されていた時に随分と良く接してくれた友人だったと、ジュリア様より聞いている」
言って、ゼノンは視線を少しばかり伏せた。
「…あの方は国のことを思うあまり、いつも我が身を後回しにして公務に励んでおられた。そのために、心許せる友人が作れなかったことも知っている」
記憶の糸を手繰り寄せるように、ゼノンが滔々と語り始めた。
「私は、あの方が幼少の頃から世話の役を陛下より直々に仰せつかった。あの方の誕生の瞬間に立ち会えた喜びも束の間、その大任を任された感動に、私は王国の明るい未来を想像したものだ」
ゼノンが生まれたのは、今から三十七年前のことだ。
彼の家系は、代々よりドゥムニア王国の近衛騎士団長を輩出してきた名門貴族であり、ゼノンもまたその例に洩れず、二十を数える若さの頃にはすでに、老いた父に代わって近衛騎士団長を務めるに到っていた。
しかし、彼をその地位に戴かせていたのは、時代を経て積み上げられた家柄がその背景にあったからでは決してなく、天資たる強靭な膂力をこそ武器として鍛え上げた、超規格外の肉体による実績の賜物であった。
ニメートルを超える並外れた身長と、およそ百三十にまで達する体重は、その体脂肪率を理想的に維持するがゆえに高密度の筋肉を搭載し、全体的な体格のバランスを少しも損なうことなく怪物的な騎士の肉体を完成させる。
常人がどれだけ鍛え抜いても、遺伝子レベルで超人であることを前提に成長する男の肉体には遠く及ばぬであろう、それ自体が一種の才能めいた畏怖の具現。
撓められた膂力に体重が自乗し、さらに常人離れした瞬発力が加われば、これはもう誰にも止められぬ颶風の剣閃となって立ちはだかる敵を屠るだろう。
「…それは私にとって、心から幸せだったと言える唯一の思い出だった」
ただし、それは当然のことだが、ゼノンの意志とは無関係に成長し続ける才能でもある。
技が、幾星霜を経て培われる努力や才能の申し子たちによって永久に磨き続けられていく後世への継承であるならば、力とは個性的な二重螺旋を骨格とする、模倣も伝授も決してできぬ先天的なパーソナリティに他ならない。
騎士団長であることを義務付けられた誇り高き伝統の家系に生まれ、厳格な父の半ば拷問にも似た鍛練を物心つく前から繰り返し、そのための資本となる栄養を毎日毎日、吐き出しても受け付けなくなっても摂ることを強要される。
そうした日常は、同じ騎士の家系にあった大人たちさえも思わず目を背けたくなるような虐待にしか見えなかったが、それでも圧倒的な資質を秘めるゼノンの身体はその酷烈な環境に順応し始め、やがて苦痛を感じなくなった二十の頃には、彼の肉体はほとんど完成されていると言っても良かった。
そうして、怪物的な巨体を誇る騎士が誕生した。
鋼鉄のように凝縮された筋肉は硬質の存在感を宿して他者を圧倒し、その鋭い眼光は本人に威圧するつもりがなくても視線先にいる相手が勝手に怯えて竦む。
ゼノンの視覚的な迫力があまりに強烈すぎるため、男たちの畏怖や憧憬を集めこそすれど、女たちは引き攣った笑顔を見せてはそそくさと逃げ去り、残酷にも震えた表情を残して遠ざかっていく。
それを是と、彼は思う。
王族を守る騎士として己は厳格で在り続けなければならず、その象徴たる近衛騎士団長の地位を戴くのであれば、ただ是と。
「ジュリア様は聡明で心優しく、そして何よりも明るい性格から、皆に愛されるお方だった。
王家の宝を隠したり、木の実を取ろうとして枝まで昇ったこともある。礼儀作法の時間を真面目に取り組んだかと思えば、その後の宵闇の下りる時間になっても隠れておられたかくれんぼには、城内が騒然として総出で探し回ったこともあったな。
…騎士の私が馬役になってジュリア様を背に乗せた時、あの方は愉しそうに燥いでおられた」
そんな彼に差し伸べられた、ほんのわずかにでも力を込めれば渇いた音を立てて折れてしまいそうな小さな手こそが、王女ジュリアとの出会いであった。
不器用にも胸に抱いた赤子のジュリアが彼の腕を頼りなくも掴んだ時、ゼノンはそれが驚くほど柔らかく、そしてかくも脆弱にか細いものなのだと知る。
ジュリア王女のお目付け役にも抜擢されたゼノンは、無邪気に城内を走り回る彼女の天真爛漫な行動に目まぐるしく引き回され、日が暮れてようやく王女が眠りにつく頃には、彼の方がくたくたになっていたほどだ。
騎士団の稽古の最中にも王女が現れて剣を振るうこともあったし、厨房で調理された昼食をともにつまみ食いしたことも懐かしい。
それが何日、続いただろう。
彼はいつの間にか、ジュリア王女の見せる屈託のない笑顔をこそ守りたいと思うようになっていた。
やがていつか現れるであろう想い人が彼女を迎えにくる日まで、そして結ばれてもなおジュリアの剣となり盾となり、あらゆる外敵を斬り伏せる忠実な騎士でありたいと。
―――それは、怪物が密かに夢を見る、ささやかな願い事。
「…あの頃だけは、何もかもが楽しい思い出だったと誇れる。人を斬ることで誉め讃えられてきた人生の中で唯一、手を血に染めることなく守り続けてこられた笑顔がそこにあったからだ」
そこで言葉を切り、同時にゼノンの表情が曇った。
「…だが、あの方はやはり、国の未来を導く王女様で在らせられた。
心許せる友を作る時間があれば国政に尽力して民の声に耳を傾け、和平派と抗戦派の複雑極まりない緊張の掛け橋となって両者の意見を汲んでこられた。
…なまじ優秀すぎたがために期待に応え続けてきた結果、いつの頃からか、私が守りたかった笑顔はとうに消えてしまっていたのだ…」
ゼノンは、生まれて初めて自分の無力さに憤りを覚えた。
騎士として国を守ることはできても、あんなにも一緒だった王女の笑顔を守ることはできなかったのだと。
通路ですれ違うたびに美しく成長していく王女の、しかし時が経つにつれて消えていく笑顔の言い知れぬ虚しさが、剣を握ることしかできぬ自分の掌に集約されていることをゼノンは思い知らされる。
―――それは、密かに夢を見る怪物を引き裂く、淡々とした現実からの贈り物。
「今なら分かる気がする。どうしてジュリア様が君を友達に選んだのかを。
…どうか君は、君だけは、ジュリア様の本当の友達であってほしい。…初めて会う君にこんなことを頼むのは道理に反しているのかもしれないが…」
いいえ、とルナは首を振った。
「私なんかで、よろしければ…。ゼノンさんも、どうか、ご無理を、なさらずに…」
思わず、男は息を呑んだ。
「あれだけのことをした私を…、君は許してくれるというのか?」
「それが、ジュリア様の、ことを、思っての、ことなら…。ゼノンさんは、ジュリア様の、騎士、ですから…」
「そう言ってくれるのか…。…君は強く、そして優しすぎるのだな。…いつの日か、その優しさで残酷な選択に運命を引き裂かれないことを切に願う」
ゼノンは、これほどに強い少女がこの世にはいたのかと改めて驚嘆し…、そして同時に強い不安を感じた。
目が見えず、病に伏す身体を乱暴にされながら、それでも感情的にならずに、相手の状況をきちんと理解したうえで斟酌するなど、誰にでもできる行動ではないからだ。
そしてそれは同時に、この病膏肓に入る少女が他人を思いやるあまり、自分の身を軽々しく扱っているのではないかとも思えてならない。
そこに、いったいどのような覚悟が秘められているのか、ドゥムニア王国の誉れ高き驍将ゼノンは、想像することさえ禁忌に触れるような気がして、そこで思考を止めた。
「…では、クリスティーヌ。後のことはよろしく頼む。どうか、彼女を支えてやってくれ」
「はい。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ゼノンさん…、お気をつけて」
「君も、自分の身体を大切にな」
そう言い残して去っていくゼノンの足音が閉まる扉の向こうへと消えたのを聞き届けて、ルナは不意に肩の力が抜けて安堵したのか、思わず溜息をついた。
「大丈夫ですか、ルナ様。あまりご無理をしては、身体に毒ですよ」
クリスティーヌと名乗った侍女の、びっくりするほど柔らかい赤子のような掌が自分の額に触れて、ルナは含羞の色を浮かべる。
「あ、あの…」
「ご安心ください。私は医術にも多少の心得がありますから、どうかそのままでお待ちください」
困惑しながらも成すがままに硬直する彼女をよそに、クリスティーヌはルナの体調を精確に淀みない動作で調べていく。
やがて触診を終えた侍女の手が離れると、ルナは意外にも少し残念に思った自分に驚いた。
「ルナ様は頭部を強打されたとお聞きしましたが、幸いにも疵痕が残るようなものではないようです。その他にも、呼吸、心拍数、体温などを調べさせていただきましたが、怪しい点はありませんでした。
…では、後で着替えとお食事の方をご用意いたしますので、今はごゆっくりとお休みください。起きたばかりで、お疲れでしょうから」
そう言って、テーブルの水差しを丁寧に小杯に注ぎ、そのままルナに手渡した。
「これで喉を湿らせてください。眠っている時は大量の汗を流しますから、適度に水分補給をしておかないと、せっかくの綺麗な肌が乾燥してしまいますよ」
「い、いえ…、そんな…」
不慣れな賛辞に顔を朱に染めて、慌てて水を飲み干したルナは小杯をクリスティーヌに返し、気恥ずかしそうに視線をうつ伏せる。
クリスティーヌは、くすりと微笑んだ。
「大丈夫です。ルナ様は、ルナ様が思っている以上にお美しい顔立ちをしていらっしゃいます。ですから、もっと自信を持ってください。
…今こうしている間にも、貴女は世界を守り続けているんだから」
唐突に、クリスティーヌの砕けた声調に意味深な余韻が灯り、無音のまま、しかしはっきりと戦慄したルナの動揺が硬直した表情となって現れる。
「あ、あなたは―――」
「―――すべて知ってるわよ。なぜ貴女の病が不治なのか、どうして魔人がこの小さな島国に固執するのか、…そもそも、この物語の本当の始まりがいつなのかということもね」
どこまで知っているのですか、と問おうとして先んじられた彼女の告白に、ルナは度肝を抜かれた。
「まあ、私自身はジュリオールからアイツの裏切りのことを聞いて、ここに来たんだけどね。
…ほら、当時の記憶の“原因”を消されていない貴女なら、覚えてるでしょ? 十五年前、ここから東に行った場所にある、かつて貴女が住んでいた小さな村を襲った張本人。…そして、貴女だけに呪われた真実を話した男のことよ」
ぞくり、とルナの表情が凍り付き、冷酷とも魅了とも取れるクリスティーヌの言葉が続く。
「ジュリオールが打ち明けた真実をよく受け止めたわね。…そんなにも細い身体で、貴女は誰にも知られることなく、たった一つの信念だけを味方にして運命と戦い続けてきた。
…千五百年前に現れた賢者と同じ力を持ちながら、世界を革命する英雄になるのではなく、たった一人を救うためだけに自分のすべてを犠牲にして」
ルナは、小さな雫の形をした熱が頬に滑り落ちていくのが、自分でも分かった。
「私は…、私は…!」
口元を忙しなく震わせ、痛ましげに眉を顰めながらも、何かに憑かれたように譫言を繰り返すことで課せられた己の責務を無理やり一念し、自らに稚拙な暗示をかけようとしているのである。
そうしなければ、今まさに脆くも崩れ去ろうとしている自分の心を守ることはできないのだと。
それをこそ、哀しいと言わずして何と言うのか。
泣きたい時に泣けない彼女の孤独はあまりに深く、それでもなお涙を堪えようとしているルナは、いったいどれほど傷つけば、その献身的な努力が報われるというのだろう。
…、それが永遠にこないということを、彼女は知っている。
「…そうね。それだけ身も心もボロボロに傷ついて、それでも力を使い続けるだなんて芸当は、憎しみでは不可能よね」
途端、ルナは優しい鼓動が聞こえるクリスティーヌの豊満な胸元に引き寄せられ、温かく抱きしめられた。
とくんとくん、と脈打つ生命の律動が、傷だらけとなった少女の心をどんな言葉よりも安らかに癒してくれる。
下唇を噛み締めるルナの瞳からとめどなく溢れ出すのは、まだほんの十五歳の女の子が母に甘えたかった哀しみであったのか。
「大丈夫、誰も見てないわ。…だから今は、思いっきり泣いていいの。貴女の王子様が迎えにくるまで、私が貴女を守ってあげるから」
その瞬間、ルナの感情はついに爆発して、力の限りの大声で、今まで全力で堰き止めてきた辛苦のすべてを吐き出した。
滂沱と溢れる涙が冷たくて。
クリスティーヌは、助けてあげることもできない残酷な運命を課せられたその細い身体に、何の足しにもならない温もりを与えてあげることしかできなかった。
『キャメロット城 地下二階 独房』
そういえば、隅々まで探索したキャメロット城も、この地下に設けられた牢獄には一度も足を踏み入れたことがなかったな、とジュリアは苦笑する。
冷たい風がどこからともなく嫋々と肌を撫で、身を震わせる王女はもう一度、周囲を見回してみる。
目の前には赤錆びた鉄格子。
地下二階の重罪人を閉じ込める小さな監獄の番人は、特別製の鍵がなければ開かないように工夫を凝らしてあるが、最初から逃げるつもりなどない彼女には大して意味がない。
陽の光など入りようもない石牢、その床には誰のものとも知れぬ白骨化した遺体が転がっていて、血と体液のこびりついたような饐えた臭いが充満していた。
暗闇を照らすのは、たった一本の蝋燭のみ。
それは申し訳程度に置き去りにされた壊れかけの食台の上に立ち、熱に溶ける蝋が円柱に沿って滴り落ちて固まり、土台の役目を担った。
そのすぐそばに敷かれているのは、所々が破れていたり黄ばんでいたりする、麻で編まれて薄汚れている寝台であったが、そこから何よりも強烈な生理的悪臭がジュリアの鼻をついて思わず顔を背ける。
気を取り直して咳払いした後、ジュリアは再び中空に視線を彷徨わせた。
「寒いわね…。ホント、いったいどこから風が入ってきてるのかしら。…なんて、そんなこと気にしても仕方ないわよね」
ひとり愚痴るジュリアは小さく溜息をつき、一人を除いては誰も訪れることのない鉄格子の方へと視線を向けた。
鉄格子の向こうから谺するのは、ジュリアと同じように罪を犯して囚われた者たちの、絶え間ない蠢動であった。
意味のない罵声や嘲笑を誰に聞かせるともなく叫んでは鉄格子を激しく揺さぶり、ようやく満足したのか単に疲れただけなのかは知らないが、ぴたりと喧騒が静まったかと思うとまた別の囚人が憂さ晴らしに嘯き始める。
地下に漂う空気は不浄に穢されて暗く冷たく、光に溢れる地上を嫉妬するように澱んでいた。
そこに暗澹と垂れ込める地下独特の圧迫感と、噎せ返るような囚人たちの狂騒が相俟って、ジュリアには自分が、あたかも肉食の猛獣たちに捧げられた哀れな子羊になったような気がして落ち着かなかった。
それは、今すぐにでも彼らが鉄格子の前に連なり、喚声を上げて蹴破ってきそうな、そんな漠然とした不安であったが、しかし誰に見えずとも王女としての威厳だけは保とうとして、ジュリアは毅然と前を見据えた。
だが、彼女が連想する不安は杞憂にすぎない。
事実、ジュリアがこの独房にいることを知っているのは、父である国王と将軍のみであるのだから。
途端、狭い地下の牢獄で常態化した狂気に酔いしれる囚人たちの喧騒がぴたりと止んだ。
階段を下りる足音が異様に地下に響き渡り、それだけで並外れた巨体を想起させるのに、不思議と鈍重そうな気配は微塵もない。
その人物はジュリアのいる独房へと真っ直ぐに向かっており、彼女にはそれが誰であるのかがすぐに分かった様子で淡い期待に目を輝かせる。
幼い頃から聞き慣れた特徴を間違えるはずもなく、ほどなくして鉄格子を挟んだ入口に立ち止まった騎士は、何の躊躇いもなく扉を開けて独房に入り込み、そのままジュリアの前にて跪く。
初見であれば誰もが息を呑むであろう隆々たる筋肉の鎧。
健康的な肌に刻まれた無数の傷痕は歴戦の戦士を想像させ、茶色の髪は短くも鮮やかに整えられている。
彫りの深い顔立ちに映えるのは湖水のブルーを湛える両の瞳、しかし容易には近寄れぬ威圧感をもたらす眉間の皺がそれにアクセントを添えて、黙しても強烈な存在感を放っている。
「ジュリア様。お待たせして、誠に申し訳ありません」
深く頭を垂れるゼノンに対して、ジュリアは静かに首を振った。
「いいえ、ゼノン将軍。私のワガママを聞き届けてくれただけでも深謝します。…それで、ルナの様子はどうだったの?」
「つい先ほど、お目覚めになられました。特に不調を訴える様子もなく、今は侍女の一人に世話を任せてあります。…その方が、男の私よりも気が楽でしょうから」
ジュリアはかすかに苦笑した。
「そうね、その方がいいのかもしれない。彼女は右も左も分からないんだし、せめて女同士で見知らぬ土地の緊張を緩和したほうが、いいのかもしれない…」
そう言って、しかしジュリアは面伏せる。
「…ルナには淋しい思いをさせるわね。…それに、ゼノン将軍。貴方にも大きな迷惑をかけて…」
いえ、とゼノンはすぐに言葉を落とした。
「何時いかなる時でも、ジュリア様が選ばれた決断こそが私にとっての最善でございます。…我が使命は全力でジュリア様をサポートすること。ならば、ジュリア様の決断に従い、それに伴うリスクを最小限に抑えてフォローするのが役目でありましょう。
…どうか胸をお張り下さい。あの時、ジュリア様の迷いなき判断を責めることなど、誰にもさせませぬ」
ありがとう、と言ったジュリアの表情は、ひどく翳っていた。
あの時―――帷幕に現れたマーシア王国軍の少年兵がグレッグだということに、ジュリアは一目見た瞬間から気付いていた。
それは同時に、野営地を襲撃してきた敵部隊がマーシアではなく、敵ウェセックス王国軍であることを意味しており、ゆえにジュリアの脳裏にはすでにこの時、その対応策を瞬時に弾き出していたのである。
野営地に現れた敵部隊の正体が、マーシアの装備に身を固めたウェセックス王国軍である以上、その狙いは王都に包囲網を敷く二国間に不和を生じさせ、疑心暗鬼となった双方を衝突させることで両者の兵力の消耗を謀るとともに、王都への包囲網を崩すという漁夫の利を得ることにある。
だが、それは両軍を相手に同時に急襲を仕掛けなければ成功しない危険な策であり、しかも鹵獲していた装備の絶対数の不足も相俟って、この敵部隊の兵力が自軍を上回るということは絶対にないと考えるのは容易かった。
ゆえに、本来ならゼノン将軍に敵部隊を邀撃させ、剣聖の副官が指揮しているというマーシア軍と合流することで補給線の封鎖を維持するか、あるいは偽装部隊の失敗によって戦力を致命的に消耗した王都を再攻略するのが一番の安全策であることは言うまでもないことだった。
しかし、ここで強烈な心理効果を発揮してくるのが、他ならぬ“疑心暗鬼”という人の心の働きである。
仮に、王都を急襲したマーシアの別部隊を剣聖が指揮しているというのなら、ジュリアは躊躇こそあれど何の不安も抱かずに敵部隊を迎撃するよう、ゼノン将軍に告げていただろう。
なぜなら、野営地を襲撃してきた敵部隊の正体がウェセックスだとジュリアが見抜いたのは、偶然にも顔見知りだったグレッグが帷幕に現れたからであり、ましてや剣聖の副官とやらがどのような人物なのか未知数である以上、自分と同じように敵の策を見抜いていると考えるのは一種の賭けに近い。
加えて言うなら、もしジュリアが本物だと名乗り出たとしても、同じように偽装したウェセックスの部隊に襲われたマーシアがそれを素直に認めてくれる可能性は不安が大きく、最悪の場合、あくまでも可能性の一つとしてではあるが、ジュリアやゼノン将軍に裏切りの冤罪を着せて捕らえることで、ウェセックスを倒したあとのドゥムニア陥落も容易にさせる目論見があるのではないかと疑懼に走ることもできるのだ。
これらを踏まえたうえで、ジュリアが見出だした方途は二つある。
一つは、こうした危険性を承知して敢えて飲み込み、敵ウェセックス王国軍を邀撃してマーシアとの連携を維持する、最も妥当な方法であり。
そしてもう一つは、野営地を襲撃してきたのがあくまでもマーシアだと敢えて認識したままで軍を後退させ、剣聖がウェセックスを打ち破るまで情勢を傍観する、しかし両者の形勢が対等化した時点で本国の孤立化を誘発しかねない危険な方法である。
ならば当然、本国の未来を思えば多少のリスクを冒してでもマーシアとの共同作戦を継続し、隣国であるウェセックスを確実に倒すことが最優先であることは言うまでもないことだ。
それなのにあの時、ジュリアが心を痛めたのは本国のことではなく、ゼノンが誇る自慢の大剣を前に為す術もなく追い詰められたグレッグの、じりじりと目の前で逼迫する死の瞬間であった。
―――殺せ。
彼は、間違いなく敵だった。
ドゥムニアがウェセックスと袂を分かった以上、グレッグが敵国の人間であることには疑う余地もない。
だが、一介の配送屋でしかないはずの彼がなぜ、ドゥムニア軍の野営地を襲撃しているというのか。
それが、一時的に編成された暴虎馮河の民兵であるというのならまだしも、グレッグは恐ろしく素早く、そして的確に躊躇うことなく二人の衛兵を殺してのけたばかりか、獅子将軍の異名を持つゼノンの烈火の如き剣撃をも、一度ならず二度までも防いで見せた。
これは、どう都合よく考えても、つい先ほど招集された民兵であるとは思えないのである。
ならば、突き当たる可能性はただ一つ。
グレッグが最初から配送屋などではなく、ウェセックス王国の兵士であったという事実だ。
それも、凄まじい鍛練を経て完成された実力者であろうことはまず間違いない、とジュリアは見ている。
―――ころせ。
ゼノン将軍は、その圧倒的な膂力から繰り出す剛剣を得意とし、さらには一族の家宝である大剣を得物とする、一撃必殺を体現した剛力の騎士である。
ゆえに三年前、聖騎士になれず帰ってきた彼を温かく迎え入れた王は、その絶対的な評価をいささかも揺るがせていないのだ。
だからこそ、聖騎士スレインに敗れて命を落とした将軍の跡を継ぎ、ヴァイキング撤退後にやむを得ず降伏せざるをえなかったドゥムニア王国の衰弱した軍の指揮を、近衛騎士団長であったゼノンに一任したのである。
騎士団長であった頃から“獅子騎士”との異名を持って部下から厚い信頼を寄せられていた彼は、そうして将軍の地位を得てドゥムニア王国軍を束ね、王都の治安を守り続けてきた。
ゆえにおそらくは、このブリテンでも指折りの実力者であろうゼノンの剣を、防ぐ。
これは、偶然の一言では容易に片付けられない驚愕に値するべきことであり、それゆえにグレッグの技量が、一般兵や並の騎士とは一線を画す、非常に高い水準に達している実力者だということは想像に難くない。
だが、そんなグレッグの技量をもってしても、ゼノンの剛剣の前にはたった二合しか耐えられなかったのだ。
剣を砕かれ、抜いたナイフを片手に構えながら奄々と呼気を荒げるグレッグに、ゼノンは当然のことだが敵を両断せんと剣を振り上げた。
―――コロセ!
友の死が、すぐそこまで迫っている。
初めて人の死を、他ならぬ人の手によって目の当たりにしようとする彼女は、しかしそれが互いに知り合いであるという皮肉な運命に直面し、刹那の時の中で永遠とも思える葛藤の悩乱に、また泣きたくなった。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
誰もが悪くないことは分かってる。
だが、生命を求めれば、生命を失うのが世の理なのだ。
目の前で二人も仲間を殺されたゼノンがグレッグを捕虜にするとは思えず、しかし無考えに横槍を入れてもいたずらに彼の疑心を招くだけならば―――。
―――コロセ! コロセ! コロセ! コロセ! コロセ!
民の誰もが愛する“優秀”な王女の、決断の時がきた。
ジュリアは選択肢を知っている。
非情な現実の前に、法律に縛られた道徳は境界線にすらなりえない。
運命とは、完璧にして冷酷な選択の問題だ。
―――さあ“どっち”を殺す?
優しい思い出をくれた友情か。
自国の救い手を求める愛情か。
善悪にはまるで無頓着な運命が嗤っている。
大人としてのジュリアは、自国を救うためにグレッグを見殺しにしろと言っている。
子供としてのジュリアは、友人を救うために将軍の剣を止めるべきだと言っている。
一人だけの友情を救うのか。
何万という愛情を救うのか。
そこがポイントだ。
―――さあ“どっち”を救う?
どんなに努力しても人間には限界がある。
救済が人の手に余るのは、何を以って救済と呼ぶのかを、本人も救い手も自覚していないからだ。
奇跡の寵愛が善悪に関係なく差し延べられるのは、黄昏の吐息に絶望することなく未来に敬虔であり、矛盾する信仰よりも強く罪と罰を受け入れることで、毅然と生き抜こうとする者の意志が盲目の奇跡の手を掴むからに他ならない。
ゆえに彼らは、救い手がおらずとも自己を尊崇して苦境を乗り越え、幾度も陥穽に堕ちながら幾度も這い上がり、困難に挑戦する。
だが救い手は、いつも自分が正しいと腐心する尊い行為で弱者を助け、畢竟すれば粗略に扱われる運命に絶望しながら秩序に捨てられる。
真に救済すべきは虚業の安全地帯で合法的に毒泉を生み出す狡猾な賢者たちであるのに、哀しいかな英雄は、目の前の名も知らぬ他人を救い続けることで、やがて保身に忠実な他人の手によって殺されていく。
善人は“ルール”に縛られて動けない人種だ。
だからこそ救い手は救い手であるのだが、その恩恵に縋る人間を本当の意味で救済することはできず、救い手自身も救済することができない。
そして真の悪夢の前では、奇跡でさえも間に合わない。
まるで見当違いの友情が邪魔をして、ジュリアの正しい愛情を阻んでいる。
こころが、クルシイノ…。
頭では、それが最悪の選択だということは分かっている。
トテモ、トテモ、くるしいの…。
それを選んでしまったら、王国は二度と独立できない。
どウシて? タすケて! こンなコトに? だレか!
その一線を越えてしまったなら、もう二度と戻れない。
ダかラ? オネがイ! みステルの? ヤメて!
国を守るべき“優秀”な王女が、国を捨てるだなんて。
―――ドウシテ、コンナニモ、ココロガクルシイノ…?
この瞬間の記憶を、ジュリアは完全に失っていた。
王城キャメロットへと帰還する途中、半ば錯乱状態にあった思考に冷静さを取り戻した彼女は、なぜ軍が後退しているのかをゼノンから聞き、あの時に自分が帷幕で何を口にしたのかを知る。
そしてそれが、ジュリアが犯した最悪の大罪。
他人の容喙すべき問題ではない事態に、一時はゼノンが自らをすべての罪の犯人だとして国王に告げるも、それを是としないジュリアの告白により真実を知った国王は彼女の行動を叱責し、地下二階の独房へと身柄を拘束したのである。
王女は、まさしくゼノンに対する人質だった。
国王はジュリア王女を捕らえることで、今まで彼女を中心に活動してきた和平派の行動を遅鈍化させ、対ウェセックス王国戦に向けての本格的な準備を、自身を中心とする抗戦派を集めて着々と進めている。
そして、軍の後退があくまでも自分の指示だと固持して譲らないゼノンに対し、国王はジュリアを庇う彼の意思を忖度して交換条件を出した。
即ち、ジュリアを国家反逆罪から救いたければ敵を倒せ、と。
それが、今の二人が置かれた状況のすべてだった。
「…ゼノン将軍。こんなところで胸を張っても、誰も見てくれる人なんていないわ」
視線を伏せたまま、ジュリアは静かに口を開いた。
「…それに、私は皆を追い詰めた愚かな王女だもの。私を見て恨み辛みを並べることはあっても、喜ぶ人はまずいない…」
ゼノンは弾かれたように顔を上げた。
「そんなことはありません。ウェールズの聖騎士がブリトン人の希望なら、ジュリア様こそはブリトン人の栄光でございます。ジュリア様なくして、今のドゥムニアはありません」
王女は首を振る。
「いいえ。それは、私には身に余りすぎる言葉よ。栄光は国を守る勇者たちに与えられるべきもの…。私のような国を裏切った人間にではなく、ゼノン将軍のような気高い騎士たちにこそ相応しいわ」
「ジュリア様…。そこまでご自分を非難されるのはあまりにも酷というものです。
…利用する者される者。戦争は死を常に意識するあまり、いつ本性を露わにするか分からぬ魑魅魍魎が渦巻く混沌の世界です。
そんな中、ジュリア様は対話こそが正しい戦いなのだとして邁進してこられた。その努力は必ずや、未来のドゥムニアに栄光をもたらすはずです」
「ゼノン将軍…。力でなければ守れない戦いが戦争なのよ。今の時代、言葉はあまりにも無力すぎる…」
「ジュリア様、力がなければ国は守れない、それは確かに事実です。しかし、その後のことも考えてください。
我々のような騎士は剣を握ることしかできません。多くの仲間を失い、多くの敵を殺してきた我々は戦乱の時代にこそ活躍すれど、平和の時代になれば不要の存在です。
治安を守ることはできても、民の生活を豊かにすることはできない。
悪を懲らしめることはできても、悪が現れる原因を突き止め、それを改善することはできない。
騎士団は、民を導く政治があって初めて、その力を存分に発揮することができるのです。そうでなければ、我々は何のために、誰のために剣を振るうと仰るのでしょうか。
…ジュリア様、どうか顔を上げてください。我々と民を導き、思い描いた夢に辿り着くことができるのは、他ならぬ貴女様だけなのです」
しばらく無言だったジュリアは、躊躇いがちに呟く。
「戦争に勝つことも、平和を維持することも、どちらも同じ困難を伴うもの。…相手は同じ人だもの、戦争の時代に私が無力であることには変わりがないわ。
…言葉で相手の剣を止めることができないなら、私にどんな意味があるというの? 無抵抗でいたら、相手は攻めてこないとでも? 話し合いで戦いが終わるなら、誰も戦争なんて最初からしないわ…!
…こんな時、民を守ることができるのは…、貴方たちのような気高い勇者だけよ、ゼノン将軍…」
ゼノンは、深い絶望に自分を追い詰めていくジュリアを居た堪れない思いで見つめていた。
帰る場所さえ見失った傷だらけの小鳥のように、空に羽ばたくこともできずに檻に閉じ込められた王女が、陰鬱な地下の毒気に汚染されてひどく憔悴しているように感じたのである。
…確かに、四六時中、周りを囚人たちの耳障りな狂騒で一日が始まり終わっていくこの牢獄にいれば、その思考がネガティブになるのも仕方がないと思える。
だが、それでもジュリアは王国のために必要不可欠な人物だった。
それがゼノンのエゴであることは分かっていたが、もうウェセックスとの戦を回避することができぬ以上、そして彼我の戦力差があまりにも絶望的である以上、今後の王国と民の未来を考えれば、彼女の存在はどのような絶望をも覆すブリトン人の救い手となるはずだからだ。
牢獄の無機質な天井を見上げたゼノンは、赦しを請う罪人のような目で思いを巡らせる。
そして、忠実なる騎士は王女を見据えた。
「…陛下を中心とする抗戦派のお歴々は、ジュリア様を失った和平派の動きを封じ込み、独立宣言と宣戦布告を認めた公文書を使者に持たせてウェセックスに送りました。
元より、彼らを裏切った時点で独立するしかなかった我々は、単独でウェセックスを倒さねばなりません」
「無理よ。兵力差に違いがありすぎる。先の出撃だって、騎士団は兵力の六分の一しかいなかったじゃない…!
…それでも、お父様を止めることは、もう誰にもできないのね。…そこまで追い詰めてしまったのは、他ならぬ私だもの…」
「元々、七年前の王妃様の事件以来、陛下は別人のようにアングロ・サクソン人を憎んでおられました。それが引き金となって先の戦争が起こり、我々が敗北したのは記憶に新しい、騎士団の恥部でございます」
国王がアングロ・サクソン人を毛嫌いしている背景には、農村から王都へと戻る途中に山賊に襲われ、ゼノンが救出した頃には、残酷にも変わり果てていた王妃に起因していた。
それはちょうど、ジュリアが十の頃の事件であり、この件を境に、父と娘の間には思想の決定的なすれ違いが生じることとなる。
父は許せなかったのだ。
母が農村に赴いていたのは、民の切迫した事情を現地で体感することで、実益ある打開策を施策しようとしていたからであり、それは決して気紛れな遊興などではなかった。
しかし山賊は一行を襲い、金品を奪ったばかりか、民から羨望の眼差しを受ける美しい母を嬲りものにして、その人格と精神をズタズタに破壊したのだ。
母は今も生きている。
だが、唐突に目覚めては狂ったように男を求める彼女を見るたびに、父は皆殺しにした山賊が憎きアングロ・サクソン人であることを思い出すのである。
その憎悪と憤怒を止める術など、あろうはずもない。
それはジュリア自身、当時は自分の理想であった母のあまりの変貌ぶりに三日三晩、泣き続けたことは今も昨日のことのように思い出せるからだ。
しかし、母が受けた凌辱に対する憎悪をジュリアが向けたのは、今の飽くなき戦乱を長引かせるブリテンの異常な社会全体に対してであった。
山賊は、必ずしもその略奪行為を至上の愉悦として最初から形作られているわけではない。
勿論、それを代々続く家業として生活を成り立たせている山賊もいるだろうし、泣き叫ぶ善人を前に躊躇うほどの良心が最初からない非道な山賊もいるだろう。
だが、愛する者を殺され、食べる物もなく、住む家を焼かれれば、誰もが生きるために山賊になる可能性を秘めているのだとジュリアは思う。
真に悪いのは、こうした酌量の余地ある山賊を生み出し続ける社会―――即ち、このあまりに永すぎる戦争そのものにこそあるのだとして、彼女はむしろ人々の心の奥底に根付く軋轢や摩擦を、対話によって少しずつ消化していくべきだと考えたのである。
当然だが、それが最も困難を伴う荊棘の道であることをジュリアは既知としている。
しかし、戦争や革命で社会を変革したとしても、犠牲という名の平和の土台には多くの次なる争いの火種が隠れて憎悪を養分に成長し、その悪意の花粉を社会に撒き散らす可能性がある。
もしそうなれば、ブリトン人とアングロ・サクソン人は永遠に戦い続ける泥沼の宿命にどっぷりと身を沈め、また母のような被害者を繰り返し繰り返し生み出し続ける温床を育てる結果に至りかねない。
…あまりに永すぎる三百年という戦乱の時代に、国民は悲壮感さえ漂うほど疲れきっている。
そうした声を受けて立ち上がった勢力こそが和平派であり、国王を中心とする抗戦派と対立する背景であるのだった。
ゼノンは眉を寄せて話を続けた。
「…陛下は全国民に訴えました。男ならば剣を取り、女ならば支援に回れとの通達を。…民兵は五万を越え、我々は出撃に備えて部隊編成に熟考しているところです」
「民まで巻き込む戦争に未来はない、なんて言う資格は、もう私にはないわ…。…私さえ、私さえいなければこんなことには―――」
「―――違う、違いますジュリア様…ッ!」
ゼノンは、崩れるジュリアを支えて言った。
「誰のせいでもありません。ジュリア様が“皆”を愛しておられることは、国民の全員が知っていることです。…後のことは、すべて私にお任せ下さい」
「ゼノン…」
哀しく濡れる王女の瞳を真っ直ぐに見つめて、ゼノンは頷く。
「私には、山賊をも救うという考えは思ってもみなかったことです。…なまじ力を持ちすぎる者は、どうしても力で物事を解決したがる性質があるようですね。説得に尽力して相手と対等のまま話が平行線を辿るより、力で押さえつけたほうが簡単ですから…。…しかし、ジュリア様は違う」
面伏せるジュリアに、ゼノンは微笑む。
「ジュリア様は、最も困難ではありますが、最も正しい過程を経て理想的な社会を作ろうとしておられる。きっと、貴女様の思い描く社会には、ブリトン人もアングロ・サクソン人もともに笑い合って生きているのでしょう。…私には想像もできない世界を、貴女様は夢見ておられる。
…思うに、それは王妃様の件だけではない強さが芽生えたからではないでしょうか。…例えば、恋、のせいですかな…?」
ジュリアは瞠目して顔を上げ、目の前に微笑むゼノンを見据えた。
「やはりそうでしたか。…ならば相手はおそらく…、あの時に帷幕に現れた少年、でありましょうか?」
途端に赤面して瞬きを繰り返す王女の初々しさに、ゼノンは無言の確信を得た。
「そうでなければ、あの時の貴女様の動揺ぶりはご説明できません。
…それにしても、あの少年がジュリア様の想い人であったとは…。いやはや、もう少し間近で、もっとよく見ておくべきでしたかな?」
そう言って、将軍は呵々と笑う。
「ゼノン将軍…、私は…!」
「あの少年は筋が良いですぞ。足の運びから踏み込みのタイミングと速度は申し分なく、小手調べとはいえ私の初撃を耐えて見せた胆力と技量は、紛れもなく将来有望な男です。
…まあ少々、口が悪いのが欠点でありましょうが」
そういえば、グレッグに『この化け物め!』と言われていたのを、ジュリアは朧気ながらも思い出した。
「人は時として、残酷な選択を強いられるものです。家庭か仕事か、友か愛か、そして生か死か…。
ジュリア様の場合、それが人よりも早く訪れてしまっただけのことなのです。まだほんの十七歳で、生命の天秤をその手に握らされてしまったのですから」
「…それでも…」
ジュリアは、苦虫を噛み潰したように顔を歪めて言葉を繋げる。
「それでも、私は祖国を裏切ったわ」
「いいえ、裏切ってなどおりません。…なぜなら、真相を知るジュリア様は、この戦いを経て私服を肥やそうとした将軍の奸計に捕まり、謂われのない汚名を着せられて地下に囚われているのですから」
「…、え…?」
一瞬、ゼノンが何を言っているのかを、ジュリアは理解することができなかった。
「生き抜いてください。…それだけが、私の望みです」
立ち上がるゼノンを見上げて、困惑の色を隠しきれないジュリアが声を荒げる。
「ゼノン…!? 貴方、いったい何を言ってるの…!?」
「愚かな王女には、愚かな騎士がよく似合う。…そうは思いませんか?」
ゼノンは、牢獄の入口へと向かいながら言葉を続けた。
「マーシア王国軍との共同作戦が成功すれば、ドゥムニアはウェセックス王国の領土の半分を支配することができます。愚かな将軍は、その後に与えられる相当の報奨に目が眩み、その甘い誘惑に喜々として軍を動かしたのです。
しかし、王都から無理やり連れ出されたジュリア様はそれを見破り、命懸けで私を説得しようとしましたが、私はその警告を無視した。そこへ、あの急襲が始まったのです」
「ダメよ! そんなことをしたら、貴方が…!」
ジュリアが急いで駆け寄ったが間に合わず、頑なに閉じられた鉄格子の向こう側に立つゼノンを見据えた。
しかし、ゼノンは背を向けたまま、さらに言葉を繋ぐ。
「そして国王には作戦失敗のすべての罪がジュリア様にあると嘘を告げ、冤罪を背負わされたジュリア様は、こうして地下に閉じ込められてしまう…。
これが、ウェセックス王国に対するドゥムニア反乱の、真実です」
ジュリアは鉄格子にしがみつきながら首を振った。
「違う! 貴方は自分のために他人を巻き込むような人じゃないわ! 貴方は、ただお父様の命令を―――」
「―――ジュリア様、もう立ち止まれないのです。すでに和平派の全員を売国奴として捕らえ、この地下に幽閉しております。…王城に残る者はみな、国王陛下に追従する抗戦派のお歴々のみ…。そして、ここまでは私の計画どおりとなりました」
この瞬間、ジュリアはすべてを理解した。
「待って! ゼノン!」
ジュリアが鉄格子に縋る。
その、向こう側。
振り返る騎士の表情は―――。
「ルナ様からの言葉をお借りして、改めて言わせていただきます。
…ありがとうございました。
私のことはどうか、お忘れください。そしてすべての責任が私にあることと、その証拠が私の執務室に眠っていることを、覚えていてください」
―――それは、狂気を演じる気高い騎士の、壮絶な最期を予感させる笑みだった。
「ゼノン! ダメ! 貴方は…! 貴方こそ、今のドゥムニアに必要な人なのよ…! お願い! 待って…! ゼノン…!」
王女の痛烈な声に、しかし騎士は、ついに最後まで振り返らなかった。
遠く離れていく、優しくて力強い背中に届かぬ手を必死に伸ばしながら、王女はその場に崩れ落ち、密やかに泣いた。
次回更新予定日は、1月12日になると思います。
開き直ってページ数を気にしなくなると、うんと書きやすくなりますね。
それでも、編集が面倒で誤字脱字のガンパレード状態は改善したいところですが…。
では、また次回でお会いしましょう!
ありがとうございました。