第十五話 〜光の影、影の光〜
もう、十を超えるページ数が当たり前のようになってきたオワタ式です。
深夜1時の投稿から、お邪魔しております。
実は、ついさっき前書きを書くのに夢中になっていて、危うく赤信号の大通りをそのまま直進しそうになりました。
こんな時間でも、まだ車は走ってるんですねー。
なんだか、他人のようには思えませんが。
ええっとですね、少し後書きにも何か書こうかなと思いまして、これからは遅くなる代わりに次回投稿予定日なるものを後書きに書いていこうかなと思います。
まぁ、あくまでも予定なので日にちが前後するかもしれませんが、ご容赦のほど、よろしくお願いします。
それでは、長くなりましたが引き続き、本編をお楽しみください。
フィダックス城の一階、南側の通路に設けられた部屋の一室、聖騎士スレインと王宮魔術士長イングラムはいた。
ここは本来、他国の重要な来賓者が体調を崩した際に使用されるため、その内装も特別に誂えた清潔的な個室であったが、しかし今現在、この部屋を利用しているのはまったく別の、本当なら地下牢に入れられていてもおかしくない人物である。
窓から差し込む陽の光に照らされて、天性の美貌を与えられた女性が、二人に見守られながら寝台で眠りについている。
それは、死神を傍に侍らせた眠り、ではない。
意識はなくとも呼吸は穏やかに安定しているし、素肌に適度の張りを残す胸は規則正しい鼓動を繰り返している。
また、一週間前の戦闘で負った傷も快方に向かいつつあり、腹部の二カ所の傷はすでに消毒して縫合されていて、折れた肋も治癒魔術による自己治癒能力の強化によって緩やかに矯正し、少しずつ癒着し始めていた。
そして、これらはすべてイングラム主導の下に行われ、本来なら確実に死していたはずの彼女を助けたのである。
穏やかな寝顔の、このまま順調に恢復すれば、やがて迎えるであろう生還への深い眠りにつく女性を見つめたまま、イングラムは口を開いた。
「ご覧の通り、今は絶対安静が最優先じゃな。…尤も、逃亡防止も兼ねて強制催眠をかけておるから、目覚めるのはずっと先になるじゃろう」
静かに眠るエリスを複雑な表情で見やるスレインは、暫しの逡巡のあとに言葉を返した。
「…彼女の命に別状はない、と?」
「うむ、危うい峠はすでに越しておる。あとは緩やかに快方に向かうだけじゃ。
…それにしても驚いたぞ。お主が剣聖の弟子じゃったことは知っておったが、まさか、彼女も一緒だったとはのう」
「…彼女も、私と同じく孤児だった。永い戦争が生んだ無力な犠牲者の一人…。山賊に襲われて全滅した名もない村の出身で、そうして村の惨状を聞き付けた御師様に拾われたと私は聞いている」
ああ、とイングラムは呟いた。
「よくある話じゃな。戦う気のない者も、自分の大切なモノを理不尽に壊されれば復讐する。
…そうして山賊は増え続け、やがて殺戮と奪略が日常となる」
スレインは頷いた。
「…私が御師様に拾われたのは十の頃だ。その時にはすでにエリスがいて、私は彼女とともに御師様の下で教育を受けてきた」
「…というと、お主と彼女は同じマーシア王国の出身か」
「ああ。…御師様の下で受けた教育は、学問から教養、剣術に至るまで幅広かった。一日中ずっと勉強や修業に没頭していて、ようやく眠りにつく頃には、疲れ果てて夢も見ずに朝を迎えていたよ」
イングラムはスレインに顔を向けた。
「それが、今のお主らの基礎となったのじゃな」
「だが、私は魔術の素質がないと分かると、いつも剣術ばかりを磨いていたんだ。
だから、エリスが魔術を操って見せてくれた時は、子供ながら羨ましいと思ったこともある」
イングラムは苦笑した。
「魔導と剣術、両方の才に恵まれた者は数えるほどしかおらぬ。…そして、その二つを本人の最高レベルにまで高めた者は、さらにその一割を下回る。
…このエリスとやらの努力たるや、それはそれは並大抵のモノではなかったはずじゃ」
スレインは頷いた。
「私と同じ訓練を受けていながら、彼女はさらに寝る間も惜しんで魔術の鍛練に精を出していた。
…尤も、そのことに気づいたのは拾われてから一年後のことでね。私はそれを知ると、自分も負けじと対抗心を剥き出しにして、剣術の鍛練に励むようになったんだ」
「何とも可愛らしいのう」
ああ、とスレインは微笑った。
「何とでも言ってくれ。
…それから暫くして、私は湖の乙女ヴィヴィアンに候補者として選ばれた。だが、私は素直に喜べずに悩んでいたんだ。もし聖騎士に選ばれたとしても、本当に私などに務まるのだろうかとね。
…だが、私が行くと決心した時、二人が背中を押してくれたことは今でも思い出せる」
「…ん? 彼女は選ばれなんだか?」
スレインは少しばかり眉を顰めた。
「少なくとも、私が御師様の下にいた時はなかった。実力的にも人格的にも申し分ないはずなのに…。
ただ、当時は女性の聖騎士というのは聞かなかったから、候補者に選ばれるのは男だけだと思って、一応は納得していたんだ」
「ふむ…。となると、彼女の何かが足りなかったのか、それとも去年の聖騎士が異例中の異例じゃったということになるな」
「ああ。…候補者に選ばれた時、試練には私の他に三人いた。
イースト・アングリア王国の騎士セレス、ドゥムニア王国の将軍ゼノン、そしてフィッチ王国の守護騎士カイン。
…三人とも、実に個性的な実力者たちだった」
「そして、最後に残ったお主が聖騎士となったのじゃな」
「私は最後の試練を終え、聖騎士の証として、この聖銀の鎧と魔導剣ルーンブレイドを託された。その時に初めて、私は魔人の実在を聞かされたんだ。
…正直に言えば、私は最初から魔人の存在を信じていたわけじゃない。当時は真しやかな噂だけがマーシアに広まっていただけだったし、それどころか魔人の存在を真面目に語るヴィヴィアンに対して、最初は疑念を抱いていたほどだ」
「ふむ…、それは仕方あるまい。普通の人間なら、伝説の中でしか存在しえぬはずの者の実在を告げられてもピンとこぬじゃろう。…かく言うわしもその一人じゃったし、ごく自然的な反応と思うぞ」
スレインは少し笑って見せる。
「私は当初、聖騎士とは騎士の頂点に位置する、ただの称号なんだと思っていた。ブリテンに存在する騎士の憧憬を一身に集める、騎士道の体現者なのだと…。
だが、聖騎士とは魔人を倒すために必要な実力を持った人間たちを指す言葉であり、その目的は即ち、魔人を倒すことに集約されるのだと、その時、私は初めて気づいたんだ」
「そしてお主は、マーシアを離れたのじゃな。…しかし、バールゼフォン卿や彼女には相談せなんだのか?」
イングラムの怪訝そうな視線に、聖騎士はじっと視線を足元に向けて、ぽつりと言葉を落とした。
「…いや、勿論した。魔人のいるマーシアを離れ、その打倒に力を尽くすべきだと。
…だが、御師様は頑として首を縦に振らなかった。エリスにも相談したが、やはり御師様から離れようとはしなかった。
…だから私は仕方なく一人でマーシアを離れ、ドゥムニア・ヴァイキング連合軍との戦いで命を落とした将軍不在のウェセックスに辿り着いたんだ」
イングラムは窓辺に目線を向け、当時の記憶を思い出した。
「そうして、わしとお主が出会ったのじゃな。…初見じゃというのに、バカ正直にマーシアの出身じゃと告げたお主の堂々っぷりときたら、呆れてモノも言えなんだわ」
そう言って、込み上げる笑いを堪えようと口に手を当てていたが、肩が小刻みに動いているのを見てとって、聖騎士は少し困ったふうに腕を組む。
「これから剣を捧げる国の重鎮に嘘をつく必要はないからな、当然のことだ」
イングラムは、ついに堪えきれず笑いを零した。
「…そして私は王と貴方に魔人の実在を話し、その打倒に向けて、まずは西のドゥムニアとの戦争を終わらせることから始まったのは記憶に新しい」
しかし、とイングラムはぴたりと笑いを止めて呟いた。
「わしらは再び、ドゥムニアと剣を交えねばならぬ」
言って、イングラムはスレインと顔を見合わせた。
「奴らはマーシアと手を組み、わしらを窮地に陥れた張本人どもじゃ。奴らが裏切らねば、わしらはもっと早く合流して剣聖を迎え撃つことができた。
…この卑劣なる暴挙を断じて許すわけにはいかぬ」
聖騎士は顔を顰めた。
「…イングラム…。彼らは、本当に敵なのか?」
「スレイン、何を言っておる。確かに奴らに裏切りを嗾けたのは剣聖じゃろうが、それを決意し、実行に移したのは他ならぬ奴らなのじゃ。所詮、ブリトン人とわしらアングロ・サクソン人は相容れぬ人種。…ほれ」
イングラムより手渡された書簡を開いて文を追うと、聖騎士は次第に目を見開かせて、その顰め面をさらに険しくした。
それは、ドゥムニア王国の国王直筆の独立宣言と、ウェセックス王国に対する宣戦布告を認めた公式文書であった。
スレインは困ったように彼を見やり、しかしすぐに目を伏せた。
「コレから見ても分かる通り、わしらに戦う気はなくとも奴らは遠慮なく襲ってくるじゃろう。わしらはわしらの国を守るために戦わねばならぬ。たとえ一時的に和平が成立しても、時間が経てば、どのみち軍備を整えた奴らが再侵攻に乗り出すのは火を見るよりも明らかじゃ。
…分かってくれ、スレイン。わしらがここで立ち止まるわけにはいかぬのは、他ならぬお主が一番よく知っておるはずじゃ」
彼の苦衷を汲んで肩に手を置き、イングラムは言葉を繋ぐ。
「すでに部隊編成は整うておる。…じゃが、お主も知っての通り、先の剣聖との戦いで三千の兵を失い、わしらは大敗を喫した。その上、マーシアはまだ完全に部隊を退いたわけではないでの、西に割ける戦力は五千が限界じゃ」
複雑な表情を浮かべながら、スレインが顔を上げた。
「…ゼノン将軍は、智略を尽くして戦う繊細なタイプじゃない。…だが、その豪放な人格から部下の信頼も厚く、野生的な魅力のある騎士だ。
衝突すれば、おそらく―――」
スレインは少し言葉を切り、窓の外へ視線を向けた。
「そういえば、東のイースト・アングリア王国軍の動向はどうなったんだ?」
イングラムは首を横に振った。
「イースト・アングリアは落ちた。どうやら剣聖の南下を狙って軍を動かしたようじゃが、そこに現れたのが、あの魔人だったようじゃな」
「魔人…!」
わずかに瞠目したスレインが、呻るように呟く。
「そう。奴はついに、本当の意味で表舞台に姿を現したのじゃ。自ら最前線に立ち、一万の軍勢を退けたばかりか、わずか五日間という短期間でイースト・アングリア王国を屈服させた…。これが何を意味しておるのか、お主ならすぐに分かるじゃろう」
「マーシアと対抗し得る勢力が一つ消えることで、我々以外に単独でマーシアと戦える勢力は西のウェールズだけとなった。
…そして、それ以上に影響が出るのは、これまで戦況を傍観していた東三国の取る姿勢だ、ということだろう?」
「その通り。イースト・アングリア王国の降伏に加えて、剣聖との戦いで大敗を喫した我らの不甲斐なさをつぶさに見てきた彼らじゃ。我々の状況が劣勢と知ると、自分たちに向けられるやもしれぬ魔人や剣聖の矛先を躱すため、あるいはマーシアに荷担する可能性も捨てきれぬ。
…もしそうなれば、我々はますます苦境に追い込まれてしまうわい」
そう言って、老魔術士長は溜息をつく。
「わしらには、もう悠長に論じておる時間すら惜しいのが現状じゃ。蛇の報告によれば、西のウェールズはわしらとの共闘を断ったとある。
…ならば、東三国の協力も得難いわしらは独力でマーシアと戦うしか方法がないのじゃ。そしてマーシアとの戦に専念するため、背後から剣を向ける裏切り者を始末せねばならん」
だが、とスレインは咄嗟に反駁した。
「今だからこそ西のドゥムニアと手を組み、打倒マーシアに向けて協力するべきではないか?
その方が戦力も増えて―――」
「―――王の命が狙われた。そして部下の多くが命を落とし、その家族や友人が嘆いておる。戦争だからという言葉ですべてが割り切れるほど人の心が単純でないのは、孤児じゃったお主が一番よく理解しておるはずじゃ。
…それとも、愛する者を殺した裏切り者と協力するために、彼ら全員を説得するとでも言うつもりか?」
聖騎士は目を見開いて息を呑み、顔を顰めた。
「…すまぬ。今のは少し卑怯じゃったな」
イングラムの声は、どこか優しげだった。
「じゃが、分かってくれ、スレイン。お主の協力なくして魔人を倒すことは不可能じゃ。そしてその前に、我らはどうしてもドゥムニアを倒し、後方の憂いを絶たねばならん。
…わしらには、最初から二国を相手取る余裕がないからの」
スレインは黙したまま、俯いてしまっていた。
“我々は所詮、同じ穴の貉にすぎぬ”
そう言った師の言葉が、彼の脳裏に反芻しているのだ。
ブリトン人も。
アングロ・サクソン人も。
結局は同じ人間であるはずなのに。
思想、生活、習慣、血筋、宗教、政治、因縁、格差。
数え上げればキリがないほど積み重なりすぎた現実は、しかし最初こそは共に手を取り合うための集まりだったのかもしれない。
それがいつしか他者と区別し、上下関係を築き上げることで適材適所の人材を最大限に活かすための基盤が整理され、家庭の連なりが集落を生み、村から街へと拡大して、ついには国を形作ったのだ。
死にゆく者たちは子供たちのために、そして成長した子供たちは、また次なる世代へと想いを託していく。
“そうして両者は、血縁的にも地縁的にも、霊的にも命脈を構え、生者は死者のために祈り、死者は生者のために完結する”
そこに生まれるのは、誇りと思い出だ。
増え続ける家族たちを豊かにするために領土を広げ、より生活を楽にするために社会システムを発展させていく。
戦争は必然の産物である。
対話の通じない相手もいれば、足元を見て有利に交渉を進める者もいるし、こちらに戦う気がなくても問答無用で侵攻する者がいれば、裏切る者も現れる。
…そう、同じ人間だからこそ、過去に折り合いをつけるには、人はあまりにも多くの血を流しすぎたのだ。
ドゥムニア王国の場合は、どうだろう。
そもそも、アングロ・サクソン人がブリテン島に渡ってきた背景には、遊牧民フン族の侵略戦争により端を発した歴史的大移動“ゲルマン民族の大移動”が非常に大きな影響を及ぼしていた。
ゲルマン民族を攻撃するフン族の攻勢は、それはそれは凄まじいものだった。
あらゆる建築物に火を放っては社会生活を一掃し、その土着民族を徹底的に殺戮、奴隷化させていく。
そうした、冷酷極まりないフン族によって西へと移動することとなったゲルマン民族は、四世紀後半に入って辿り着いたローマ帝国に保護を求めるのだが、その二年間の扱いがあまりに酷烈であったため、ついには反乱を起こすこととなる。
これが、ローマ帝国が東西に分裂することとなった最大の原因であった。
東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めることでゲルマン民族の侵入を最小限に留めることに成功するのだが、西ローマ帝国はイタリア半島の維持さえも覚束なくなり、ついには滅亡してしまう。
当時、ブリタニアと呼ばれていたブリテン島は、このローマ帝国の属州の一つだった。
しかし、東西の分裂したローマ帝国の時勢を好機と見てローマ皇帝を自称したコンスタンティウス三世が軍を率いて島を離れた時、ブリテンに残されたケルト系民族ブリトン人は、自分たちだけで島の防衛と自治に当たらなければならなくなり、ローマ帝国によるブリテンの支配は実質、約410年ごろには終焉を迎えたと考えていい。
ただし、この時に入れ替わるようにしてブリテンに侵攻してきたのが、アングル人、ジュート人、サクソン人というゲルマン系三部族であり、彼らのことを総称して、現在のアングロ・サクソン人と呼ぶのである。
そして、その彼らを撃退したのが、後の二十一世紀にまで語り継がれるブリテン最大の伝説王、アーサー・ペンドラゴンその人だ。
最後までしぶとく侵入を試みたアングロ・サクソン人をバドン山の戦いで完全に退け、その後の二十年間をブリテンの平和に導き、しかし円卓最強の騎士ランスロット卿の裏切りによってフランク王国まで遠征するも、突如として反乱を起こしたモードレッド卿に王国を簒奪され、すぐにブリテンへと帰還したアーサーは、そうしてモードレッド卿と交戦したカムランの戦いを最後の戦場として、その波瀾万丈だった人生に幕を下ろすこととなったのである。
モードレッド卿を打ち破るも、深手を負ったアーサーがその後、どのような最期を迎えたのかは誰一人として分からない。
しかし、この希代の英雄によって、ブリトン人たちは自分たちの国を守ることができ、誰からも束縛されることのない、真の自由を手に入れたことは確かな事実だ。
尤も、アーサーという絶対的なカリスマを失った代償は大きく、再び侵攻を開始したアングロ・サクソン人の攻勢にブリトン人は島の端へと追いやられ、ついには南西のドゥムニア王国と、西のウェールズ地域に点在する複数の小王国を残すのみとなって、今に至っているのである。
…そう、彼らは最初から、単なる被害者にすぎないのだ。
ブリトン人は、ただ自分たちが生活していた土地に侵入してきたユリウス・カエサルの時代よりローマの支配に抵抗し、そして力足らず支配され続けてきた。
一度は大規模な反乱を起こすものの、それも鎮圧され、完全にローマの支配下に収められたところへ、あのゲルマン民族の大移動が始まったのだ。
自分たちの意思に関係なく、他国からの脅威に怯え続ける日々に現れた待望の英雄、伝説の騎士王。
その王も消え去った今、しかしそれでも自分たちの国を守るためにアングロ・サクソン人への抵抗を続けるのは、当然といえば当然なのである。
自分たちの家族を、友を、仲間を、誇りを、思い出を、そのすべてを守るために戦い続ける。
その純然たる想いのどこが、アングロ・サクソン人たるスレインたちと違えようか。
…同じだ。
同じ人間だからこその、当たり前の行動なのだ。
しかし同時に、アングロ・サクソン人もまた、自分たちが生きるためにブリテンに渡り、存亡をかけた戦争を繰り返しながらここまでの繁栄を築いてきたのである。
ウェセックスを含めた七王国の社会制度は、大抵が三つないしは四つの身分に区分された階級社会だ。
王族の支配階級から、土地所有者たる貴族に至り、その耕地を農民が耕して、…そう、ブリトン人を奴隷にした労働力や…、…交易商品としても他国に売買していたことは、後世にも残る記録に明記されている。
“…私にとって平和とは、皆が幸福であることです”
「…ッ、ハハッ…。皆って、誰のことだ…?」
自嘲めいた苦笑を浮かべるスレインを、イングラムが横目で訝しむ。
もう、ドゥムニアとの戦争は避けられそうにない。
そして相手が“獅子将軍”の異名をもつ剛力の騎士ゼノンであるならば、正々堂々と真っ向勝負を仕掛けてくるだろう。
「…分かった。ドゥムニアは、私が引き受けよう」
そう告げたスレインの瞳は、どこか哀しみを帯びていた。
『フィダックス城 ルナの部屋』
その部屋には、いつもなら幽かな花の香りに包まれて、彼が愛する唯一の少女が帰りを待っているはずだった。
陽射しがよく似合う木の質感、肌触りの良さそうな白の生地に包まれたシンプルなベッドが窓に沿うように配置されていて、降り注ぐ空の健やかな透明感がそのまま、この寝台に投影するかのように表面が淡く輝いている。
その隣には、これもまた上質な木で作られたと思しきナイトテーブルがあり、その上には何も活けていない空虚な一輪挿しと、二人が少女の誕生日を祝ってプレゼントした木彫りの人形が凭れかかるように二つ、互いの手を繋ぐようにして丁寧に置かれていた。
それは紛れもなく、少女が日頃からそれを大切に大切に扱っていたことを証明づける、ささやかな日常の名残であった。
しかし今、ここには少女どころか、二人が慌ただしく入室するまでは、誰一人として存在していなかった。
「そ、んな…! …こんなことって…ッ!」
寝台に力なく手を添えながら床に膝をついた少年が、呻るように呟く。
その、あまりにも痛々しい背中を見ていられず、後ろで立ち尽くしていた同世代の少年が、意を決したように重い口を開いた。
「…ヴィクター、すまない…。もっと俺がしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのに…」
ヴィクターと呼ばれた少年はしかし、視線を伏せたまま首を横に振った。
「…グレッグのせいじゃないよ。…悪いのは、マーシアとドゥムニアの連中だ…!」
「いや、俺がバカだった。まさか王女が裏切るだなんて夢にも思わずに、俺は無警戒にも、彼女をルナちゃんに近づけさせていたんだ。
…初めての友達だからって、あんなにも簡単に気を許すべきじゃなかったことを、俺は今でも後悔してる」
体温が緩やかに低下していくような、息詰まる沈黙が部屋を満たした。
それは殺気などではなく、もっと本質的な…、そう、憎悪や赫怒が力任せに混じり合って慟哭しているかのような、そんな感情の激流であったのだ。
敢えていうなら、どうしようもなかった運命をこそ果てしなく呪い続ける、そんな沸然とした、しかしやり場のない嘆きの暴風…。
ヴィクターは顔をうつ伏せたまま立ち上がると、グレッグにも振り向かずにそのまま問いかけた。
「…君が言ってたことは、本当なのかい…? あの王女が、本国に人質を用意していた、って話したこと…」
「…あ、ああ…。確かにそう言ってたが…、って、お前まさか―――?」
瞠目するグレッグは見た。
わずかに首を巡らせたヴィクターの横顔、そこに輝く闇色の双眸が、何者をも寄せ付けぬ怒りを湛えて映えているのを。
そして、そこに隠された若干の哀しみのニュアンス。
「止めないでくれ、グレッグ」
ゆっくりと、再びベッドの枕元に視線を移した少年が呟く。
「僕には、もう姉さんしかいないんだ。この世に残された、たった一人の肉親…。血の繋がった、唯一の姉弟なんだ。もう父さんも母さんもいない世界で、僕が守らなくていったい誰が病気の姉さんを守るっていうんだ…!」
強く、鮮やかに朱い血が滴るほど強く握り締められた拳が意味する相当の怒気を汲んでやりたかったが、しかしグレッグはそれでもヴィクターを制する覚悟を決める。
「…お前の気持ちは痛いほどよく分かるつもりさ、ヴィクター。…俺だって、先の戦争で仲間を失った。…お前も知ってるだろ? 訓練の時、一緒に飯を食った蜘蛛さ。…あいつが死んだ時、俺も死にかけた。それを救ってくれたのがイングラム様だ。
…俺たちはイングラム様に助けられ、育てられ、そして忠誠を誓い合った。あの方がいなければ、俺たちは道端で捨てられたボロ切れのように、誰にも見向きされずにとっくに死んでた…! そうだろう!?
まずは冷静になれ! イングラム様に指示を仰げば、必ず助け出す方法が見つかる…! それに、仮にルナちゃんが本当にドゥムニア王国のキャメロット城にいるとしても、そのどこにいるのかが分からなければ助けようがないじゃないか!
だから今は落ち着いて―――」
「―――落ち着け、だって…?」
普段のヴィクターからは想像もできぬほど低い声の呟きと同時に胸倉を掴まれ、グレッグの身体がわずかばかりに浮き上がる。
「落ち着いてなんかいられるかッ! 今こうしている間にも、病魔に冒された家族が危険に晒されているんだぞッ!」
「く、苦しい…!」
首がきつく締め付けられ、グレッグが苦しそうに顔を歪めて喘いだ。
しかし、ヴィクターの言葉は止まらない。
「姉さんは一人じゃ満足に歩くこともできないッ! そばにいる人間が誰なのかも分からないし、ましてや大人に囲まれれば、その暴力に抵抗することだってできやしないんだ…! 夜にもなれば尚更、不安に胸が押し潰されて眠ることだって難しいはず…ッ!
…絶対に助け出す…! そのためなら僕の命だって差し出しても構わない…! 姉さんを守るためなら、僕は何だってしてみせる…ッ!」
乱暴に手を離して、ヴィクターが部屋から出ようと入口に歩き始める。
「ぐ…ッ、ゲホッ…、くっ、…待てよ、ヴィクター…! 待てって…!」
投げ捨てるように解放されたグレッグは暫しの間、呼吸を整えていたが、すぐにヴィクターを追いかけて部屋の外で捕まえ、肩を掴む。
長い通路の中央で、二人の少年が向かい合う。
「戦争準備の直前で、ただでさえ緊張してる敵地に単身で忍び込むなんざ、どう考えたって正気の沙汰じゃねえだろうがッ!」
グレッグの砕けた言葉が、通路に響く。
「うるさいッ…! 僕の邪魔をするな…ッ!」
「いいや、俺は何度だって、お前の前に立ちはだかって見せるさ! 仲間が死にに行くのを黙って見過ごせるわけがねえだろうがッ! 俺たちは親友だ! そうだろう!?」
唇を噛むヴィクターの表情が、複雑に歪む。
「頼む…! せめて、イングラムに言上してから決めてくれ…! スレイン卿がドゥムニアに進軍するのは時間の問題だ…! だったら、俺たちが騒ぎに乗じてルナちゃんを助け出せる公算も出てくるッ!
…それに、お前が死んだら、いったい誰がルナちゃんを守っていくって言うんだよ…ッ!」
ヴィクターが心の底から困惑し、心の底から憤怒しているようにグレッグには見えた。
激情のあまり怒鳴ることもできないようなのに、彼はそれほど怒り狂っても、目の前で仲間が殺され、傷ついているはずのグレッグが真摯な眼差しで自分を見つめていることを心のどこかで嬉しく、そして有り難く感じているのだ。
「いいか、これだけは覚えておけ! この先、何があっても俺はお前の親友だ! そして、俺はお前に負けないくらい、ルナちゃんを愛してる! 今すぐにでも助けに行きたいのは、俺も同じ気持ちなんだ…ッ!
だから頼む…! これ以上、俺に失う哀しみを与えないでくれ…ッ! お前らまで死んじまったら…、俺は…、俺は…!」
「…グレッグ…。君は、姉さんのことを…」
驚愕に導かれて少しずつ冷静さを取り戻していくヴィクターの問いかけに、グレッグは真摯に頷いた。
「…ああ。…俺は、ルナちゃんのことが好きなんだ…。…隠していて、本当にすまないと思ってる…」
申し訳なさそうに視線を床にうつ伏せるグレッグに対して、ヴィクターは親友の予想外の告白に目に見えて狼狽し、肩を掴む彼の手をすり抜けるように後退る。
気まずい沈黙から数秒の逡巡を経て、先に口を開いたのはヴィクターの方だった。
「………それって…、…いったい、いつ、から…?」
「俺が一つ目の最終試験を終えてから暫くして、初めて紹介してくれたあの日から、ずっと…。一目惚れってやつかな、ハハ…。ルナちゃんを見た瞬間、全身に電流が走ったっていうか、頭の中が真っ白になったっていうか…。…正直に言えば、もう、気がついた時には、自分でもどうしようもないくらい好きになってた…」
暗殺者―――ウェセックスが誇る闇の秘密工作員のことを指す彼らは、現在までに約百人がイングラム指揮の下でブリテンに暗躍し、多岐に渡る任務に従事している。
その中でも、特に優秀な暗殺者らにはそれぞれコードネームが割り当てられており、しかも、そのほとんどはイングラムの孤児院から選出された子供たちであった。
万能なる蛇を戴くヴィクター、絶対生還を誇る鼠のグレッグ、そして堅実速効を旨とする蜘蛛を含めたコードネーム保持者たちは現在でわずかに五名しか存在せず、しかも七歳の頃にはすでに、彼らは本人の希望によりイングラムによる教育を受けていた。
その理由は勿論、様々だ。
ヴィクターは姉の生活と安全を保証するため、そしてグレッグと蜘蛛は天涯孤独の身より餓死寸前だった命を救われた恩返しのため、暗殺者への道を選んだのである。
しかし、当然だが、その道程は酷烈なものだった。
まず、彼らには一人一人、それぞれに幼い犬が与えられ、愛情を注ぎながら世話をすることで責任感を養い、共に育っていく。
そして朝から夜にかけてはずっと、体力錬成や戦闘護身術、武器取り扱いから破壊工作技術といった、決して弱音の許されぬ心身鍛練が行われ、その後の深夜に至るまでには、医学、薬学、毒物学、語学、諜報の理論から実践経験、そのすべてを頭に叩き込む暗記だけで覚えなければならなかった。
訓練生が犬を飼育する目的は、二つ、ある。
一つは、そのあまりに過酷な訓練によって蓄積する訓練生のストレスを癒すためのリラクゼーションだ。
“古来より、犬は人間にとって掛け替えのないパートナーであり―――”
自分に懐く動物と触れ合うことで、養成所より外の日常感覚を維持しながら訓練のストレスを軽減する目的であるのだが、万が一、この犬を間違っても死なせてしまった場合、その訓練生は次の日から姿を消すこととなる。
その理由が、二つ目の目的に集約されていることを訓練生たちが知るのは、ずっと後のことになるのだが。
そんな環境の中で、ヴィクターとグレッグは相部屋の共同生活を送るパートナーとして互いを認識していた。
しかし二人の仲が良かったのはそればかりではなく、年齢が同じだったこともあるのだろうが、それ以上に性格がまるきり違う正反対の二人だったからなのかもしれない。
グレッグは、すべての面において養成所の優等生だった。
水泳から長距離走、道具を用意して何時間も潜水したり、何日も水だけで断食したりなど、過酷な訓練の当時の最高記録を塗り替え続ける期待の新人。
明るく陽気で仲間想いの人格から周囲の信頼も厚く、日々に成長し続ける彼の記録更新が、いつの日か、次代の“蛇”を担う者として周囲の羨望を受け止めるヒーローのような人気に拍車をかけていた。
一方、ヴィクターはと言えば、その内気で優しい性格と、グレッグの二番手に常に位置する成績から万年次席のあだ名で揶揄され、首席のグレッグにへつらう尻尾だと風評を買っていたのである。
勿論、そんな事実は存在しない。
それはあくまでも噂にすぎず、優秀なグレッグとともに切磋琢磨しながら訓練をしてきたからこその成績であり、二人はむしろ、その噂をこそ追い風として親交を深めていったのだ。
“―――種族の垣根を越えたその関係は―――”
だが、そんな二人に転機が訪れたのは、彼らが十三歳の頃―――ちょうど、あの秘密工作員養成所にきてから約五年ほどが経過した、ある日のことだった。
当然のことだが、養成所で行われる連日の訓練に精神的にも肉体的にも限界を感じる訓練生が現れるのは、当たり前のことだった。
いかに命の恩人たるイングラムのためとはいえ、すべての訓練生が優れているわけじゃない。
現実の訓練から蓄積し続ける過度な負担に辟易とし、懐く犬にさえも嫌気がさすほどのストレスに苛まれる訓練生は、その苦悩から逃げるために脱走を決意し、それを実行することがある。
脱走者一名、その始末を命じられたのが、養成所の訓練でも特に良い成績を修めていたヴィクターとグレッグの両名だった。
追いつくだけなら、さほど難しくはない。
だが、肝心の脱走者を目の前にして、グレッグはどうしても、己が手に持つナイフを、昨日まで同じ飯を食べて訓練に励んできた年下の仲間の心臓へと突き刺すことができなかったのである。
…訓練と実践は、違う。
人を殺す技術を身につけるのと実際に人を殺すのとでは、天と地の差があるように。
そこには一切の虚構が通用しない、非人間的な意志力が要求される行為であるものなのだ。
実行したのは、グレッグではなくヴィクターだった。
見逃してくれと懇願する眼前の仲間を殺すことに躊躇する彼とは逆に、ヴィクターは淡々と脱走者を殺してのけた。
そして、その日の枕元で密やかに聞こえる親友の泣き声を、かける言葉など見つかるはずもないグレッグはただ、その慟哭とともに夜を明かすことしかできなかったのだ。
誰かがやらねばならぬ任務だった。
訓練の秘密と養成所の位置を外部に漏らさぬために、脱走者は必ず始末しなければならない。
だが、グレッグはそれを放棄しかけ、危うく取り逃がしそうになったところをヴィクターが代わってそれを実行したのである。
そしてこの結果、ヴィクターはイングラムの手に引かれて翌日より養成所を卒業し、グレッグはそのまま養成所に残って、急に冷たくなった仲間たちの視線を浴びながら最終試験の日を迎えることとなる。
仲間たちからの、侮蔑や嘲笑を多分に含ませた陰口などどうでもよかった。
ただ、善悪に関係なく他人を殺すという行為に躊躇してしまった彼は、それを日常茶飯の仕事とする暗殺者としての心構えをもう一度、改める必要性に迫られていたのである。
“―――まさしく魔術のように神秘的な親しみを感じさせてくれる存在です”
それが、この最終試験のすべてだった。
暗殺者として養成所を卒業するために必要不可欠な最終試験の目的とは、擬似殺人による処女性と罪悪感の喪失に直結するため、それ即ち、命を奪うことに集約される。
しかし、ただ命を奪うだけでは認められなかった。
たとえば、罪人を用いて殺したとしても、その訓練生の心情には相手と自分とを善悪で区別できてしまい、ある程度の納得材料としてその決断を易々としてしまうからだ。
ならば、どのような相手が適当であるのか。
幼い頃より共に成長し、その日常を過ごしてきたもう一人のパートナー。
相部屋の友人とはまた違う友情を分かち合い、無垢な愛情を全力で注いできた真摯な心の拠り所。
―――そう。
今まで丁寧に向き合ってきたその犬を、訓練生が自らその手で、殺すのだ。
自分の大切な存在を、自分の手で殺す。
そうした、鉄の意志力を持った者こそが、善悪に関係なく命を奪うことを“殺人”と苦悩するのではなく、“仕事”だと割り切ることができる暗殺者たりえるのだ。
ゆえに、普通の人間が足を踏み入れる領域の世界ではなく。
表面では張り切っていても、自分は殺人者になりきれないと悩む者は、この最終試験を経て二度と姿を見せなくなる。
グレッグは、この直面において初めて理解した。
ヴィクターが養成所から卒業したのは、脱走者の始末こそが最終試験の目的である殺人と同意であるために、皆に先んじて合格を得たのだと。
最終試験は、十分間の猶予の間、イングラムの目の前で犬を殺さなければならない。
命を奪うことに躊躇した自分の代わりを忠実に実行したヴィクターの、しかしその日の夜に流した彼の涙の慟哭を存分に味わいながらたっぷりと苦悩して…、そして、グレッグは自らの手でもう一人のパートナーを殺したのである。
彼は、その瞬間から暗殺者となった。
それは同時に、犠牲にした愛犬に誓って命の大切さを心に刻み、生きることの素晴らしさを学んだのである。
だからこそ、彼はどのような任務でも必ず生還してのける“鼠”の異名を与えられ、後にヴァイキング暗殺任務で大活躍するのだが、それはまた別の話である。
そして、本当の意味での最終試験はこの後に待っていた。
養成所を無事に卒業した暗殺者たちには約一ヶ月間の休暇が与えられ、そこで思い思いの日常を過ごすこととなる。
十四歳という若さで晴れて暗殺者となったグレッグは、当時すでに第一線で活躍していたヴィクターと再開するのだが、その時に紹介されたのがルナだった。
ルナのことは養成所の頃から聞いてはいたが、小部屋とはいえ王城の一室を与えられて生活することを許可された人物に会うことに、グレッグは当初、乗り気ではなかった。
不治の病、知らず知らされずの事情から仕方のないことではあったが、それでも実の弟が鞅掌に人を殺めてまで手に入れた生活を享受する少女とやらに、彼はどのような顔をして会えばいいのかわからなかったのだ。
だが、挨拶程度に済ませておこうと考えた彼を待っていたのは、その部屋の、あまりに脆くも完成された聖域然とする空気に咲く、一輪の慎ましやかな花だった。
ヴィクターと瓜二つの相好、盲目と病に苛まれてもなお力強く生きていこうとする心の強さに支えられた、ある種の芸術めいた神秘的な雰囲気を醸し出す細身の繊細さ。
まさに、誰にも穢されることなくたゆたう窈窕の花―――見る者触れる者すべての幽愁を揺さぶる、ただそこに在るだけで心を惹きつける千鈞の花であったのだ。
聞けば、生まれてからずっと続いているという彼女の闘病生活、日常を死で怯えながらも懸命に抵抗し続ける生き方そのものが命の尊さを教えてくれると同時に、五体満足で健康的に生きられるということの有り難さを再認識させてくれる。
それは奇しくも、彼が矜持する“生きることの素晴らしさ”を全霊で体現していることに他ならないのではないか。
ならば、その過酷な運命を細い身体で耐え忍ぶ彼女こそが自分の理想の体現者であり、ゆえにすべてをかけて護るべき信念そのものであるのだと。
そんな彼女と接するだけで殺伐とした心が洗われ、命令一つで善も悪も殺し尽くす暗殺者へと成った自分を“人”に戻してくれるような気がした。
ヴィクターが惑溺し、自らの手を血に染めてまで守り抜こうとするのも頷ける、最期の良心…。
それこそがルナという少女の魅力であり、そしてグレッグもまた、運命が花開くように彼女に惹かれていくのにそう大して時間はかからなかった。
この出会いが、彼の精神力を強くしたのだろう。
暗殺者本当の最終試験とは、この休暇にあった。
のんびりと休暇を過ごす卒業生たちはその日常の一部始終を監視され、その忠誠心などが徹底的にチェックされる。
そしてある日、彼らは突如として敵国の間者容疑で捕縛され、容赦のない尋問は酷烈な拷問へと変わり、ついには絞首刑にまで至るのだ。
勿論、本当に殺したりはしない。
絞首台の足場が開かれて卒業生が落ちる瞬間、彼らの首を絞める縄が切れる仕組みになっており、秘密の暴露を強要されてもなお口を割らなかった者だけが、初めて本当の暗殺者の一員となることができるのである。
ルナと出会って二週間が経ったある日のこと、秘密地下牢に捕縛されたグレッグは、最後まで口を割らなかった。
自分が生きることだけを考えれば、裏切る方が正しい選択なのだろう。
だがグレッグは、自分が生きるためではなく、仲間たちが生きるための最善の方法を選んだのだ。
イングラムが拾ってくれなければ、とうに朽ち果てていたこの命、ほんの一歩分の運命を踏み外していればヴィクターという親友と巡り会うことも、そしてルナという少女に出会うこともなかったはずなのだ。
ならば、最期は自分のためにではなく、他人のために使うのも悪くはないのだと、そう自分の運命を誇りながら死んでやろうと思ったのである。
こうしてグレッグは、真の意味での暗殺者最終試験を終えた。
そして一年後、ドゥムニア・ヴァイキング連合軍との戦いで戦死した先代の“蛇”に代わってヴィクターが最高峰のコードネームを襲名し、グレッグもまた新たな“鼠”のコードネームを得てヴァイキング暗殺任務に就くこととなったのは、記憶に新しい難事であった。
わずかに静寂する通路で、グレッグは思い出そうとするように視線を伏せて、再び口を開いた。
「俺は彼女を守りたい…。だが、そのための最善の方法が無考えに今すぐ潜入することだとは絶対に思えない。…それに王女のことを庇うわけじゃないが、あのタイミングで俺だと確信していながら軍を退かせ、人質だと偽って居場所を教えた彼女の真意が分からない。
だからこそ、ここは慎重に動くべきだろう…!?」
見上げる親友を前に、ヴィクターは視線を外した。
「…たとえ罠だろうと何だろうと、僕は姉さんを助ける…!」
言って、しかし彼は静かに言葉を繋ぐ。
「…だけど、確かに君の言う通りだ。僕は気が動転して、少し焦っていたのかもしれない。
…イングラム様に言上しよう。それがダメだったら…、その時は、僕は一人でも姉さんを助けに行く」
冷静さを完全に取り戻したヴィクターを見て、グレッグがようやく微笑した。
「バ〜カ。その時は俺も一緒だ。将来は義弟になるかもしれない親友を放っておけるわけがないだろ?」
それにつられて、ヴィクターも苦笑する。
「僕を義弟にしたいなら、絶対に姉さんを助け出さないとね。
…ありがとう、グレッグ。君が姉さんを好きになってくれて、本当に良かった」
「おいおい、まだ助けてもないのに礼なんて言うなよ。そうゆうことは、ルナちゃんを助けてからにしようぜ」
「そうだね…。…うん、確かにそうだ」
「そうそう。やっといつものヴィクターに戻ったな。それでこそ蛇を名乗れるってもんだ」
言って、互いの隔意が解けた二人が破顔すると、ヴィクターの後方からこちらに近づく何者かの足音が聞こえてきた。
「―――ん? 二人とも、そこで何をしておるのじゃ…?」
二人が向き直ると、そこにはエリスが眠る部屋のそば、南側の階段より一階から二階へと上がってきたスレインとイングラムがそこにいた。
直属の上司たる彼の姿を見やると、二人は途端に跪いて忠誠の姿勢をとる。
「せっかくの雰囲気に水を差して悪いがの、お主らには対ドゥムニア戦において、重要な任務を託したい。後でわしの執務室に来てくれ」
イングラムの言葉に顔を見合わせた二人は、少し躊躇った様子だった。
だが、ヴィクターは意を決したように口を開いた。
「イングラム様。折り入って、お話がございます」
興味深そうに、イングラムが首を傾げた。
「なんじゃ、蛇、改まって。申してみよ」
「ハッ。…実は、私の姉であるルナが、先のマーシア王国軍の王都急襲に紛れて敵地であるドゥムニアに連れ去られてしまったのです。それで、イングラム様には何卒、救出の許可をいただくべく―――」
「―――何じゃと!? ルナが攫われたのか!?」
その、予想外に狼狽したイングラムの声に驚いたのは、何もヴィクターやグレッグばかりではなかった。
聖騎士スレインもまた、いつもなら冷静な表情を崩さぬイングラムの心底、困惑したように眉間に深い皺を寄せる様をまじまじと見やり、驚いていた。
イングラムは口に手を当てて思案投げ首になり、うつ伏せた視線そのままでヴィクターに問いかける。
「…蛇よ。それで、お主の身体は大丈夫か?」
え、と思わず声を漏らすヴィクターは、その言外に込められた意図をまるで理解できずに彼を見返す。
「身体…、でございますか…?」
「そうじゃ。…たとえば、何か良からぬ夢を見るようになったとか、あるいは奇妙な幻聴を耳にし、不思議な幻覚を見るようになったとか…」
そうは言われても、まったく心当たりのない怪現象の体験を問われて困惑するヴィクターは、しかし仕方なく思い返すような仕種をしてから、やはり首を垂れた。
「…いえ、そのような体験は一度も…。それが何か…?」
少し顔を上げたイングラムの様子は、わずかながらも瞭然と安堵した風だった。
「いや、何もないならそれで良い。…元々、双子とは母胎にいやる頃から魂を共有しておる。もしお前の姉に何らかの悪影響があったなら、お主にも何らかの形で影響が出るやもしれぬと思っただけじゃ」
「は、はぁ…。なるほど…」
霊魂などにはてんで無関心だったヴィクターであったが、イングラムがそう言うからにはそうなのだろうとして疑問符ばかりが浮かぶ思考を強引に納得させ、その先は敢えて尋ねないことにした。
だが、それきりイングラムは口を閉ざしてしまい、二人の若き暗殺者は主に倣って黙し、彼が再び口を開くのを待つ。
スレインは奇妙な沈黙の間を利用して、ヴィクターに声をかけた。
「蛇よ。お前の姉がドゥムニアに攫われたというのは確かな情報なのか?」
当然に思う質問に応えたのは、グレッグだった。
「はい、私が彼にその事実を伝えました。ドゥムニア王国軍に奇襲を仕掛けた際、敵本陣の帷幕にて確かに耳に」
「ふむ…」
少し考えてから、スレインが言葉を繋ぐ。
「…ならばイングラム、ここは私の部隊より先行させ、先に王都に潜入させれば良いのではないか? 先のヴァイキング暗殺を果たした彼らだ。王都に忍び込むだけなら容易いだろう。
私の部隊は五日後に出撃する。その五日間で居場所を探り当てれば、後は簡単だ。
私の部隊を確認すれば、ゼノン将軍は背水の陣で必ず迎撃に出てくる。この時、手薄となった王都でなら、彼らも動きやすくなるだろう。その隙に救出してやればいい」
自分が助けられなかった妹と弟の幻影をヴィクターら姉弟に重ねながら提案するスレインの言葉に、イングラムはさらに眉を顰めて沈思黙考する。
「スレイン様…」
「確か、お前の姉は常日頃から病苦に苛まれていると聞く。ならば、お前が心配するのも仕方のないことだ。
…尤も、奴らがなぜお前の姉を攫ったのかが分からぬ以上、最悪の事態も覚悟しておいた方が良いことも、分かるな?」
「…はい」
不意に、イングラムが顔を上げた。
「…良かろう。お主…、いや、お主らが王都を掻き回してくれれば、それだけスレインも敵を撃破しやすくなる。
…蛇と鼠の両名には、ルナの救出を命じる。早速、今日の夕刻より王都を出立するがいい」
その瞬間、ヴィクターとグレッグの二人は顔を見合わせて表情を明るくした。
「ハッ。ありがとうございます、イングラム様」
「それでは、失礼いたします」
いや、とイングラムがグレッグを制した。
「鼠、お前には少し話がある」
そう言って、今度は聖騎士に向き直った。
「スレインは先に王の下へ行ってくれんか。少し話が長くなりそうじゃからの」
「分かった。…蛇。お前たちが無事に帰ってこれるよう、私も神に祈ろう」
「スレイン様…。勿体なきお言葉に、感謝の念が絶えません」
二人が通路の向こうへと去っていくのを見届けてから、イングラムがグレッグに振り向く。
「…さて、グレッグよ。お前にはこれより、王都潜入に向けて一つ、非常に重大な任務を与える。…これは、お前にしかできぬことじゃ。やってくれるな?」
「ハッ。勿論でございます、イングラム様」
「うむ。…では、心して聞け―――」
びっくりするほど優しい声で続くイングラムの詳述に、グレッグは全身に冷水を浴びせられたが如き戦慄に、視界が真っ白になった。
次回投稿予定日は、12月22日を予定しております。
私のような若輩者の作品をご愛顧していただき、本当にありがとうございます。
それでは、また次話でお会いしましょう。
ありがとうございました。