第十四話 〜静かなる闇 後編〜
年末が近づいてやたらと忙しい中、電車内でケータイがぶっ壊れるという、仕事もケータイもオワタ式です。
すごく間が開いてしまって、本当にすみません。
三年間お世話になったケータイが、この度はついに夢半ばにて殉職されてしまいましたので、休日を利用して新しいケータイを買いに行きました。
三万もしました。
すごく…大きい…です…。
もう、ボタンを押す度にバキバキ鳴ってたので、仕方ないっちゃ仕方ないんですけど。
いつでもマルチバッドエンド状態ってやつですね、わかります。
でも三万はキツイ…。
とまぁ、こんな感じでだいぶ慌ただしくなってきていますので、更新の方はいつもよりかなり遅れるかもしれませんので、先んじてお詫び致します。
なるべく空いた時間を見つけてメモっていきますんで、がんばりますですよ!
それでは、長くなりましたが、引き続き本編をお楽しみください。
魔人ヴェンツェルにより黒騎士に変貌したセレス将軍は、捕虜に寄生した黒犬とともに野営地を破壊した。
この大混乱で、およそ一千人もの死傷者を出したイースト・アングリア王国軍は、ついにただの一度もマーシア王国軍と交戦することなく敗走する。
黒騎士セレスの叛逆によって有能な指揮官を失い、さらには捕虜への悪逆たる拷問と、黒犬のおぞましき誕生の瞬間を目の当たりにした兵士たちの恐怖と動揺が、恐るべき魔人の悪名を国内に広める結果に至ったイースト・アングリア王国は、事実上、マーシアへの進軍が不可能な状況へと追い込まれた。
これにより、イースト・アングリア王国軍は同時攻撃作戦から身を引き、戦場の舞台はウェセックス王国軍とマーシア王国軍との一騎討ちに絞られることとなったのである。
一方、エリスは別動隊二千を率いて王都急襲に成功するものの、あと一歩のところで駆け付けたイングラム率いる五千の部隊が背後に迫るため、後退を余儀なくされる。
しかし、それすらも逆睹していた剣聖の作戦に従い、エリスはディーンの森の目前に部隊を駐留させ、聖騎士スレインの部隊を完全に孤立化させると同時に、その生命線である補給線を封鎖することに成功。
イングラムは、窮地にあるスレインと一刻も早く合流したかったが、西より突如として叛旗を翻したドゥムニア王国軍の参戦により、エリスの部隊とともに王都を囲まれ、その動きを封じ込まれる。
前門の剣聖、後門の副官に挟まれた絶体絶命のスレインは、魔導砦を起動させて剣聖バールゼフォンの急追を辛うじて躱すも、依然として窮境にあることは変わらず、呪霧の結界を破られるのも時間の問題となっていた。
機略に富む剣聖の鬼手によって剣が峰に立たされ、難局の打開に苦慮するウェセックス王国軍。
九仞の功を一簣に欠くまいと、剣聖の圧倒的な戦術を背景に追撃の手を緩めぬマーシア王国軍。
そして、かつての旧怨を晴らそうと、捲土重来を期してマーシアに助勢するドゥムニア王国軍。
もはや、ウェセックス王国軍の逆転は絶望的だと思われた、まさにその時、幸運の女神は、その気紛れな御手を翻したのだった。
『イースト・アングリア王国軍 野営地』
叛逆の指揮官が誕生した帷幕から姿を現わしたのは、その全身を黒曜石のように鈍い輝きを放つ漆黒の鎧で覆った、禍々しい存在感を纏う一人の騎士だった。
いや、それを騎士と呼ぶには、あまりにも奇異な風貌である。
頭部を保護する兜には、おそらくは髪を模ったと見られる刺々しい突起が後ろに流れるように固められていて、鬼の形相を彫り抜く人面には、これもまた禍々しく歪む口元に無数の牙が鋭利に映える。
鎧は、あたかもそれ自体が漆黒の筋肉であるかのように騎士の屈強な体にぴったりとフィットしていて、黒騎士の不吉な佇まいをさらにおぞましく呪った。
それはまるで、無数の怨念を丹念に塗り固めて、膨大な呪詛を幾重にも丁寧に丁寧に編み込んだかのような、それ自体が一種の呪いとして成立するほどの“負”を帯びた黒鎧だった。
もし仮に、並の人間がこの鎧を着装しようものなら、手に触れたその瞬間に指から腕へと全身が腐蝕していき、ものの数秒足らずで発狂しながら命を落とすだろう。
その、濃縮された呪怨の黒鎧を身に纏う黒騎士は、魔人が捕虜に潜めた黒犬の伏撃に混乱を極める野営地の惨状を、しかし無感動に見つめていた。
光の粉を塗す赤い光があちこちの天幕に燃え広がり、大地を颯爽と舐める黒い獣が、それでも逃げ惑う兵士たちに向かって襲いかかっている。
最初こそ事態の収拾に躍起となっていた彼らであったが、いつまで経っても指示を出さぬ将軍の失踪と、黒犬が優先的に各天幕内の燭台を倒して火勢を一気に広めたことで、今ではもう、連絡を回す余裕すらなく壊走しているのだった。
黒騎士の正面には一面、すでに火が入っている。
巨大な炬火と化した天幕からは、すでに火の臭気どころか黒煙そのものが黙々と吐き出されて野営地に蔓延り、その火勢をさらに煽る風が時折、哀愁に翳る火の粉を大地に降らせていく。
しかしながら、この惨状は終わりではなく、一つの始まりにすぎない。
運命の騎士王誕生よりも前から密かに進行してきた計画の、即ち、緩やかに加速し始めたブリテンの破滅を予兆する暗雲が文字通り、今まさに野営地を埋め尽くす炬火の黒煙によって形作られようとしているのである。
漆黒の修羅が、地獄の炎の中を行く。
かつての部下だった兵士たちの屍を無関心に踏み付け、悲鳴に満たされた野営地の中心に立つ黒騎士は己が目の前に、辛うじて難を逃れたのだろう、立ち止まり肩で息をする若い兵士の姿を見つけた。
恐怖に顔を歪めながら、しきりに後ろを振り返る兵士は、そうして自分を見やる修羅に気付く。
「―――ッ!? う、うわぁああッ!」
今まで自分を追いかけていた黒犬など比べ物にもならぬ邪悪な気配に息を呑み、さらなる恐怖に凍り付いた表情をそのままに、彼は悪魔の化身めいた姿形の黒騎士から少しでも遠ざかるべく、もうさほど力も入らなくなった足に再び喝を入れて走ろうとする。
しかし次の瞬間、彼は前方の堅い障害物に顔をぶつけ、一歩分だけ後退った。
痛む鼻頭を押さえ、障害物など何も置いていないはずの道先に訝しむ兵士は、すぐ目の前に人型を切り取る不気味な闇の姿を捉えた。
帷幕のそばに見えた、少なく見積もっても十メートルは離れていたはずの黒騎士が、そこにいる。
「なッ!? なんで…ッ!?」
しかし、それは本来、あり得ぬはずだった。
邪悪な騎士の姿を見て逃げ出そうとしたその瞬間から、わずか一秒も経たずに音もなく自分の背後に回るなど、どのような超人であっても不可能なはずである。
だが、この黒騎士はその常識の向こう側に超越し、実際に眼前で君臨して見せている。
途端、兵士は尋常ならざる膂力で黒騎士に顔を掴まれ、ふわりと浮き上がる足場の浮遊感に驚愕し、そして同時に走る怖気に身体を硬直させる。
「た、頼む…! 助けてく―――……」
死の恐怖で竦み、強張る身体を震わせながらも懸命に救いを懇願する兵士に対し、片手で無造作に彼を持ち上げる黒騎士は、わずかの躊躇いもなく男の頭部を握り潰した。
鈍く砕けた頭蓋骨の音、ぐしゃり、と一息に脱力した兵士の身体が、支えの頭部を失って大地に頽れる。
剥き出しの頸椎を覗かせる首元から血の噴水が溢れ、横たわる地面にむっとする血臭を放つ赤池を生み出すと、その死臭を嗅ぎ取った黒犬が鼻を鳴らして死体に近付き、それを貪り始める。
沈黙の修羅は、まるで一瞥もなく彼の死体を踏み付けて、炎と人外が群がる地獄の奥へと一歩を踏み出した。
『マーシア王国軍 副官エリス』
この先、ディーンの森において聖騎士スレイン卿が率いるウェセックス王国軍一万の主力が駐留しているとの知らせを受けたエリスは、その手前に位置する街道にて進軍を止め、部隊を待機させていた。
簡単な野営地なら設置できそうな按配の地形ではあるものの、その準備も満足に持ってきていない強行軍のため、王都から無事に脱出した兵士たちは仕方なく街道の木々を背に、あるいは地面に胡座をかいて、それぞれが思い思いに身体を休めている。
エリスは、その中でも一際目立つ巨木の下で俯せ、城内にて交戦した際に負傷した傷を癒すべく、医術に心得のある女性の治癒魔導兵に手当てを任せていた。
怪我や事故で大量出血が起きた場合、まずは血液性ショックを避けるために迅速な止血が必要であるため、治癒魔導兵は清潔な布を傷口に当てて、まずは直接的な圧迫による血腹の止血を行う。
血液性ショックとは、血液または血液の水分が大量に失われ、血圧が急激に下がる時のショック状態のことであり、怪我をした際にはまず気をつけなければならない生体反応である。
しかし、その受傷から一時間近くは経過しており、その出血量はおよそ数百ミリリットルであると彼女は推測していたが、損傷の程度から直接圧迫止血による劇的な止血効果は期待できそうにないため、次に治癒魔術を施し、本人の自己治癒能力の強化を図ることにした。
治癒魔術とは聞こえはいいが、要は“地”系統魔術による肉体機能の強化であり、やはり通常の限界再生能力を超えた傷は恢復することができぬため、その神秘はあくまでも再生速度を上昇させる程度にすぎない。
しかし、この治癒魔術によって活性化した、人間の肉体に本来備わる賦活システムが、エリスの傷口にて行われる細胞構築を少しずつ速めていく。
充血した目が緩やかに白を取り戻し、頬を伝う脂汗が静かに引いていくのを感じながら、エリスは次に選択するべき部隊行動を思案する。
剣聖バールゼフォンより託された王都急襲任務の目的は、二つあった。
一つは、フィダックス城に在留するドゥムニア王国の王女ジュリアの身柄の安全を確保し、その後の速やかな王都脱出に助勢することである。
これは、南下前より交わされた密約において取り決められた条件の一つであり、そうでなくても半ば人質としての意味合いも含めて王城に囚われている王女を取り戻さない限り、ドゥムニアはウェセックス王国に対して叛旗を翻すことができないからだ。
従って、もし王女奪還が不可能あるいは失敗した場合、敵地の中心部で完全に部隊を孤立化させてしまうエリスにとって、この任務は絶対に失敗の許されぬ勘所であるのだった。
逆に、二つ目の任務であるエグバート殺害については、勿論ながら成功に越したことはないが、かといって絶対に成功させなければならぬというわけでもない。
無論、エグバートが死亡した時点でマーシアの勝利が決定するのだが、失敗してもジュリア王女さえ健在であれば、ドゥムニア王国軍の助勢を得ることができ、拮抗した戦力で王都を包囲してイングラムを封じ込めることができるからだ。
さらに言えば、エリスの部隊が北西に移動することによって、王都から聖騎士スレインへと伸びる補給線を絶つことができ、剣聖バールゼフォン率いる主力部隊の勝利はますます決定的となるのである。
つまり、エリスは自分の部隊をこの地域一帯に置くだけで、聖騎士スレインの主力を苦しめると同時に、イングラムの部隊を足止めすることができるのだった。
それゆえ、やはり部隊は現状維持のまま待機するべきだ、とエリスは結論付けた。
「エリス様。とりあえず、応急処置は完了いたしました」
「ありがとう。…ええ、随分と楽になったわ」
俯せていた身体を巨木に背を預ける姿勢に直し、両手を握り開いては、その動作の一つ一つから伝わる身体の調子を確かめていく。
王都急襲戦において行使した“天翔ける氷狼”によって大量の魔力を失い、刺傷によるダメージからの活力低下も相俟って、現状の魔力ではせいぜい、中級魔術を二・三発分しか使えない。
しかも傷口を塞いだとはいえ、再び激しい運動をすれば再出血も考慮に入れなければならず、各部隊の動向次第で激変する、この予断を許さぬ状況にある今では、次の戦闘が自分の限界であると彼女は思う。
確かに、ここまではバールゼフォンが立案した作戦通りであるが、戦場とは常に千変万化する、予測不可能な事象の塊である。
まさか、ここから逆転できる策など皆無に等しいだろうとは思うものの、どのような相手でも油断は許されない。
多少は鈍りつつあるものの、それでも許容範囲内だとして満足した身体の具合を確かめ、エリスは立ち上がった治癒魔導兵に向かって顔を上げた。
「伝令兵に、警戒態勢のまま待機させるよう各部隊に連絡を回せと。
…それと、食塩水を持ってきて頂戴」
応急処置として、食塩水を血液の代わりに輸血する方法は実在する。
血液の成分と酷似する海水を四分の一にまで薄めると、体液に限りなく近い濃度が得られるため、第二次世界大戦中のヨーロッパ戦線で輸血が間に合わない兵士らは、この方法を用いて緊急時の代用血液としたのである。
「ハッ。…しかし、ご無理は―――」
「ええ、分かってるわ。
…これは、あくまでも用心よ。相手の動き次第で情勢は変化する。
だから、相手が敗北を認めるまで油断は禁物なのよ」
「分かりました。…では、失礼いたします」
略式に敬礼し、立ち去る治癒魔導兵の背中を見届けた後、エリスは小さな溜息をつく。
本来なら、エグバートを殺害した時点で、このような憂いを思案するまでもなく戦争を終わらせることができたはずだった。
それがあの時、グレッグと呼ばれていた若い暗殺者をすぐに殺していれば、―――いや、それ以前に、王と対峙した時に初めから氷狼を使っていれば、王都急襲が完全な形で成功したに違いなかったはずなのに。
「…バカか、私は。
過去に囚われて現在を逃避しようなどと知れたら、バールゼフォン様に笑われてしまう…」
孤児だった自分を拾ってくれたばかりか、何の見返りも求めずに養ってくれた剣聖の存在は、エリスにとってまさしく父のようであり、そして理想の男性像そのものであった。
その彼の役に立ちたいと願ってスレインとともに修行に明け暮れた多年の努力が結実し、今ではその右腕として全幅の信頼を置かれているのだ。
この身の全てはバールゼフォンのためにある。
無様な失態を晒して落胆させてはならぬと、エリスは酷使した身体に一息の休息を与えるべく、再び瞑想する。
『ウェセックス王国軍 イングラム元帥』
ウェセックス王都ウィンチェスターは、周囲を囲む城壁に東西南北へと通じる門を構え、その内部に城下町を広めた按配となっている。
城下町は、正八角形をなぞる城壁に合わせて六区画に分かれており、その中心に国王エグバートが居住する王城が聳えていた。
王都を急襲した少数の敵部隊と入れ替わるように入城を果たしたイングラムだったが、現在はその城下町に指揮官用の連絡拠点を仮設し、敵の再侵攻に備えるべく戦力を北と西の門に集中させ、細緻な兵の配置に気を配っていた。
連絡拠点と言えどそう大したものではなく、各所に配置した兵の情報を記し、あるいは王都周辺の地形を記したパピルスを並べる机を設けただけの粗末なものにすぎない。
慌ただしく出入りする伝令兵に指示を飛ばし、その都度に細部の情報を更新しながら、しかしイングラムは敵の再侵攻はまずないと予測している。
なぜなら、意味がないからだ。
蜘蛛の報告によれば、敵マーシア王国軍はドゥムニア王国の王女ジュリアを連れて王都を脱出したらしく、ならば両国が事前に款を通じて、ウェセックスに攻撃を仕掛けてきたことは明らかである。
二重の策とは即ち、王の殺害と、ジュリア王女の奪還に他ならない。
国王エグバートの殺害に成功すれば、その時点でマーシアの勝利は決定的となるが、現にこうして失敗した場合、敵の急襲部隊が最も危惧しなければならないのは王都撤退戦における、こちら側からの追撃である。
元々、急襲部隊はテムズ川を越えての強行軍であるため、初めから補給線を失う覚悟で王都に侵攻しなければならない。
そして失敗した場合、撤退しようにも敵地で完全に孤立化する彼らは結局、スレインとイングラムの部隊に挟まれて壊滅に至るのは必然である。
これを防ぐ役割が、あのドゥムニア王国軍だ。
剣聖は、急襲部隊が王の殺害に失敗した時の保険も考慮し、おそらくは南下する以前にドゥムニア王国と密約を交わし、王女ジュリアと引き換えに共闘作戦の参加を提案してそれを承諾させた。
この密約によって、王都急襲は二重の意味を持つようになり、たとえ王の殺害に失敗したとしても王女ジュリアが安全に引き渡された時点でドゥムニアが参戦するならば、まさに予想外の伏兵として、こちらは追撃を断念せざるを得なくなる。
北西マーシア王国軍が約二千。
西ドゥムニア王国軍が約三千。
だが剣聖は、これに更なる策を含ませていた。
急襲部隊が北西に部隊を移動させることによって、王都から伸びていた聖騎士スレインへの補給線を断ち、主力の弱体化を図る策である。
ただでさえ剣聖という強敵を相手に、しかも二倍近い兵力差で交戦しなければならないスレインは、その上さらに補給線をも断たれることで時間にも追われ、半ば炙り出しの絶望的な状況に追い込まれてしまっている。
これを打開するには、やはり北西の急襲部隊を撃破する必要があったが、そこにドゥムニア王国軍という別部隊が西に展開する以上、下手に進軍すれば手薄になった王都を再び攻撃するのは明白。
しかしながら、敵に時間を与えてはならない。
これらを踏まえた上でイングラムに求められている策はただ一点、北西と西の敵部隊を退けて、聖騎士スレインの主力部隊と速やかに合流することである。
連絡拠点にて、ある程度の伝令を送り終えたイングラムは、こちらに駆け寄る蜘蛛の姿を捉えた。
蜘蛛は略式に敬礼すると、素早く跪いた。
「イングラム様のご指示通り、一千ほどかき集めて参りました。
これにより、いつでも出陣できます」
己が手塩にかけて育て上げた暗殺者の明るい声に、彼は幾分か安堵した表情で頷く。
「そうか、よくやってくれた。…して、鼠はどうか?」
「彼ならば、もうそろそろ、ご報告に姿を見せても良い頃だと思われますが…」
そう自信なさげに蜘蛛が言葉を濁した時、その遥か後方から連絡拠点に走ってくる人影をイングラムは見た。
グレッグもまた略式に敬礼すると跪いたが、その曇った表情から、満足な結果には達し得なかったことが窺える。
「申し訳ありません、イングラム様。
ご指示通り、何とかかき集めては参りましたが、それでも五百ほどが限界でありました」
やはりか、とイングラムは渋面を作る。
元々、マーシア王国とは交戦の機会が少なかったがため、数が少ないのは仕方がないとも言えるのだが、今回ばかりはそれが裏目に出てしまった。
これでは作戦遂行は難しく、別の策を考えねばならぬとして、イングラムは二人を下がらせようとする。
しかし、先に口を開いたのはグレッグだった。
「イングラム様…!
どうか、私に西の敵部隊への奇襲を任せて頂きたく思いますッ!」
「―――なに?」
予想外の嘆願に少し驚いた表情を見せるイングラムであったが、しかし作戦のリスクを考えると、とても認可できる代物ではない。
「お前の気持ちはよく分かる。ワシとて、裏切り者のドゥムニアを許すことはできん。
…じゃが、この策は使えぬよ。下手をすれば、五百が丸ごと全滅してしまうのじゃからな。
それは、今の我々にとってあまりに痛いダメージじゃ」
「―――ッ、……」
直属の上官に白紙を明言され、苦々しく言葉を飲み込むグレッグを横目で見やる蜘蛛は、暫しの逡巡のあと、イングラムに対して初めて意見を言上した。
「…イングラム様。陛下の温情を平気で踏み躙った裏切り者のドゥムニアに臍を噛む思いを味わったのは、我ら二人だけではありませぬ。
ここで奴らに一泡を吹かせる思いは皆が同じでございます。
どうか、我らに出陣の許可を頂きとうございます…!」
「蜘蛛…」
そこに、己の心中を掬しての配慮があることをグレッグはすでに理解している。
冷静沈着にして、イングラムに絶対の忠誠を誓う彼が自ら意見を言上するなど初めて見る光景であったが、驚きを隠せぬグレッグに、蜘蛛は少しばかり微笑んで見せた。
「勘違いするな。俺にだって誇りはあるんだ。
裏切り者を前に辛酸を舐めたままでは、我らの名に傷が付く」
「…ありがとう、蜘蛛」
「そう思うなら、必ず借りを返してやれ。…俺の分までな」
「ああ、勿論だ!
…イングラム様。どうか出陣のご命令をッ!」
両腕を組み、深く瞑想するイングラムは、ほどなくしてようやく決意を固めた様子だった。
緩やかに見開いた瞳には鋭い光が宿り、首を垂れる二人に向けて重い口を開く。
「今回の策は非常に厳しいものだ。…特にグレッグ、お前の部隊は苦戦を強いられることとなる。
…それでも、やってくれるか」
「ハッ。勿論でございます、イングラム様ッ!」
「―――では、イングラム様…!」
二人の期待に満ちた目が素早くイングラムを見上げ、彼は鷹揚にして頷いた。
「うむ。お前たちの士気がそれほどに高ければ、この作戦も必ずや成功に導いてくれると信じておる。
奇襲と引き際のタイミングを見誤らぬよう、心してかかれ」
「ハッ!」
鼠と蜘蛛が短く応えるとすぐさま立ち上がり、イングラムに敬礼した後に、部隊準備を整えるべくその場を急ぎ後にする。
イングラムは、その後ろ姿にウェセックス王国の明るい未来を見たような気がした。
「あの二人も随分と成長したものじゃ。
…尤も、ここに蛇がいれば万全を期すことができるのじゃが、それは仕方あるまいか。
…さて、ならば、わしのタイミングは―――」
二人の奇襲は、反撃の狼煙を上げるための楔にすぎない。
しかし、彼らの活躍なくして、ウェセックス王国がこの絶体絶命の血路を開く突破口を作ることができないのも事実だ。
世界が望む未来が、果たしてウェセックス王国の行く末にあるのか、それともマーシア王国の行く末にあるのか、イングラムは、この作戦にブリテンの未来を委ねる決意をした。
『マーシア王国軍 剣聖バールゼフォン』
ベンシングトンへと南下した八千の部隊と合流し、聖騎士スレインの主力部隊に決河の勢いで攻め込んだ剣聖バールゼフォンは、元フィッチ王国王都グロスタシャーの南にまで進軍したものの、その先に広がる迷いの森ディーンに発生した濃密な霧のせいで、思わぬ足止めを強いられていた。
ディーンの森は、フィッチ王国とウェセックス王国とを分断する国境線に樹木が密集した森林地帯であり、そこに街道を設けることで、現在のベンシングトンができるまでの間、南北の主要な交通路として確立された場所である。
だが、部隊同士での戦場となれば、森林戦は攻撃側が圧倒的に不利となる。
まず注目すべきは、機動力の低下だ。
多くの植物が自生する森林地帯では隊形を維持しながらの移動が難しく、樹木の幹や葉が障害物となって視界が悪くなり、互いの距離感が掴みにくく、指揮系統の円滑な連絡が困難になる。
従って、森林特有の地形から行軍速度を落とさざるを得ない攻撃陣はしかし、多くの樹木から偽装を容易くする敵の伏兵にも注意しなければならず、奇襲を受けた際の迅速な反撃が非常に難しいのが第一の特徴である。
次に注意すべきは、兵種の運用だ。
森林地帯は基本的に、地形の移動力低下から騎馬は不利であり、視界が悪く兵が密集しやすい部隊行動上から、魔導兵も敵弓兵の伏撃に狙われやすくなる。
それゆえに森林戦では歩兵が主軸となって部隊行動を展開するのが定石であるのだが、当然ながら街道に沿った進軍は愚策であるため、獣道に仕掛けられた敵の罠を解除しながらの進軍に体力の消耗が激しく、そこに極度の戦闘ストレスが重なる場合が多い。
これによって、進軍中は常に四方から敵の奇襲を警戒しなければならぬ緊張感と、思い出したように作動する敵の罠の緊迫感、そして障害物が乱立する地形から消耗しやすい体力と士気の低下、これが第二の特徴である。
そして、通称“迷いの森”とも呼ばれるディーンの森特有の現象が、今現在、剣聖が指揮する約一万八千もの主力部隊を足止めしているのだった。
迷いの森に続く入口の前で腕を組み、瞑想するバールゼフォンの下へ、不自然なほど森の内部に立ち込めている濃霧の調査に向かわせた魔導兵が、その報告のために帰還した。
「バールゼフォン様。
ご指示通り、これはやはり人為的に調整された呪霧による、巨大な結界であると判明いたしました」
予想通りの報告に、バールゼフォンは眉を顰めた。
「結界か。…ならば、その元となる霊源地があるはずだ。
範囲は絞られそうか」
「現在、魔導兵が総出で逆探知を試みております。
…しかし、相手側からの妨害もあり、まだ場所の特定には至っておらず、もう少し時間がかかるかと…」
「仕方あるまい。まさか、迷いの森の正体が、その全域を覆ってしまえるほどの結界だったとはな…。
さすがの私も、これは予想外だった」
そう言って、剣聖は再び森を見やる。
「だが、背水の策としては上出来だ。時間を稼ぐ目的であれば、これほど効果的な策はなかろう。
橋を落とされた今、王都に南下できるルートはここだけだ」
「では、早急に場所を突き止めるべく、逆探知を急がせます」
バールゼフォンが頷いたのを見て取って、魔導兵はすぐに踵を返した。
「さて、どうやらスレインは徹底抗戦の構えか。
…ならば、エリスは王の暗殺に失敗したな」
無論、彼女には失敗時の作戦行動も告げてある。
エリスの部隊に補給線を断たれたスレインは、だからこそ森の結界で時間を稼ぎ、この難局を打開する方法を思案しているはず。
断っておくが、スレインが呪霧を利用して王都側へ後退するのは愚策だ。
なぜなら、エリスにはベンシングトンに避難できるルートがあり、ドゥムニアが本国への撤退を可能とする以上、両部隊を壊滅させることはできず、結局は王都で籠城するしかないからだ。
そうなれば事は容易いが、逆に、バールゼフォンが最も危惧しているのは、結局はブリトン人であるドゥムニア王国の介在である。
一時的に利害が一致し、共闘を結んだとはいえ、その親交は浅く、最初からアングロ・サクソン人を敵視している彼らの疑念を刺激するような事態が起きたなら、あるいは彼らが愚挙に走るかもしれぬからだ。
剣聖は再び瞑想し、最悪の事態を想定しての部隊行動を脳裏に具案化し始めた。
『ウェセックス王国軍 聖騎士スレイン』
霧は、基本的に空に浮かぶ雲と同様に、飽和状態にある水蒸気から発生する。
元々、ブリテン島は海洋性気候にあるために湿度が高くなる傾向があり、水系統魔術の使いやすい土地柄と言えるのだが、かつてのフィッチ王国はそこに目をつけ、森林に人工的な霧を発生させると同時に古咒魔術を付与させ、ディーンの森を満たす濃霧に感覚遮断の呪詛を付け加えたのである。
幻覚症状をもたらすために必要な準備は、実はさほど大掛かりなものではない。
通常は精神的な苦痛から苛まれる“病”の類ではあるものの、たとえ健常者であっても、外部からの刺激が極端に少ない場合―――即ち“感覚遮断”に近い状態にある場合に幻覚症状は現れ始めるのである。
例えば、軽い目隠しや耳栓をされた人間が、延々と続く暗闇だけの部屋に一人きりで何ヶ月も放置されたとする。
この時、光も音もない、つまりは外部からの刺激をほとんど受けない状態にある人間は、しかし刺激を求めて自分から刺激を作り出そうとする働きをし始めるのである。
これは独り言などが代表例だが、そこからさらに症状が重くなると、いわゆる幻覚を生み出すのだ。
しかもこの場合、思考能力も著しく低下しているために簡単な計算や単純な運動もできなくなってしまう可能性があり、このことからも、外部からの刺激が人間にとっていかに重要で大切かを理解することができるだろう。
ゆえに、その中級古咒魔術の名を“隠匿する鮮やかな抱擁”(ブラック・アイソレーション)
ディーンの森の南西部に建造された隠し魔導砦は、この水系統魔術による濃霧と、古咒魔術による感覚遮断を行使するための準備をほぼ完璧に整え、しかもそれらの神秘を円滑に発現するための魔導陣を二つ、地下に敷設しているのだった。
巨大な石材で組み立てられ、森林の外観に偽装するべく無数の植物を外壁に繁茂させた、まさに緑の砦と呼ぶべき拠点に聖騎士スレインはいた。
彼は目を閉じ、森の静寂に倣うように瞑想している。
現在の状況は、もはや絶望的だった。
北には剣聖バールゼフォン率いる約一万八千の主力部隊が陣形を構えており、さらには、テムズ川を渡ったマーシア王国軍の約二千が森を抜けた南東を陣取っている。
これにより、スレインは南東からの奇襲にも備えて戦力を割かねばならず、北に八千、南東に一千、そして重傷兵を含めた一千を砦に待機させた按配としてあるのだった。
さらに言えば、偵察兵からの報告により、予想外の叛乱を起こしたドゥムニア王国軍も南東に部隊を展開しているため、イングラムの部隊と合流することもできずに補給線まで断たれている始末。
完全に孤立し、時間が経てば経つほど弱体化する主力の現状では、このディーンの森をこそ最終防衛ラインとして剣聖が率いる敵主力部隊を撃破しなくてはならなかった。
しかし―――。
兵力差が二倍近くも開いている一方で、頼みの綱は砦の呪霧による一時凌ぎしかなく、王都側に撤退する愚策など選択しようものなら、相手は嬉々として攻勢に転ずるだろう。
幸い、森林戦は大部隊同士の交戦に適さぬ地形であるため、進軍経路も容易に的を絞ることができ、そこに呪霧を利用して多くの罠を仕掛けておくことができるが、これも所詮は微々たる策にすぎない。
聖騎士スレインに求められている策は、一つ。
呪霧を発生させる魔導砦を死守した上で、剣聖バールゼフォンを打ち破ること。
ここが最大の正念場となるが、逆転の可能性は残されている、しかし予断を許さぬ状況もまた続く今の時点では、大部隊の侵攻を森林の地形と呪霧で遅々とさせ、その間に敵大将である剣聖バールゼフォンを強襲し、討ち取らなければ勝機はない。
問題はタイミングだ。
敵軍の侵攻に応じて臨機応変に部隊を立ち回らせねばならぬ以上、スレインが直接に指揮を執る必要があるため、そう容易く本陣を抜けることができない。
何しろ、相手は自分とイングラムを同時に手玉に取った、あの剣聖だ。
今も呪霧に逆探知をかけて魔導砦の位置特定に躍起となっているであろう剣聖が、しかし真っ直ぐに砦に向かってくるだけとは限らないからだ。
閉じていた目を緩やかに開け、スレインは樹上に広がるオレンジの黄昏を見上げた。
「カイン…。どうか、私に力を貸してくれ…」
ディーンの森にたゆたう嵐の前の静寂に、部隊の緊張感が密やかな息遣いとなって聞こえてくるようだった。
今は亡き親友に空漠とした不安を呟いて、聖騎士は決然と前を見据えた。
『ドゥムニア王国軍 野営地』
ウェセックス王都ウィンチェスターの西部に広がる広野にて野営地を設けたドゥムニア王国軍は、依然として警戒態勢にはあるものの、それでも情勢の優位に勘案して北のマーシア王国軍と同様、部隊待機の策を採っていた。
両部隊が拮抗した兵力でもって王都のイングラムを包囲している以上、聖騎士スレインの主力部隊は孤立し、補給線も断たれて極めて不安定な状態である。
従って、無理に攻城して兵力を消耗するよりも、時間が経てば経つほど弱体化する聖騎士の部隊を剣聖バールゼフォン卿に撃破させることで、ただの一兵たりとも被害なく漁夫の利を得るのが最上の策であることは言うまでもないことだからだ。
無数の天幕が並ぶ野営地の中心に設営された帷幕の中、ドゥムニア王国軍を率いる将軍ゼノスを前に、しかしジュリアは何とも形容し難い複雑な表情を浮かべて面伏せていた。
王都脱出に尽力してくれたマーシア王国軍の兵士と衝突したルナの様子は、ジュリアでさえ唇を噛み締めるほど痛烈なものだった。
ほとんど錯乱状態にあると言ってもいいほどに取り乱した彼女の様子はもはや尋常ではなく、ここ本陣にて同行していた軍医に症状を診てもらったものの原因は不明。
そもそも、ここまで進軍速度を重視して部隊編成をしていたドゥムニア王国軍にとって、医薬の備蓄もそれほどに整っていなかったため、最前線の野営地にいるよりは、とジュリアは仕方なくルナを本国に送り、絶対安静にして様子を見るということしかできなかったのである。
揺らめく燭台の火を横目で見つめながら水を摂る沈鬱な面持ちのジュリアに対し、ゼノス将軍はしかし、安易に声をかけるに躊躇っていた。
いつもは気が強く、常に胸を張って毅然とした姿勢を心掛けている王女が、今では帷幕の中に自分しかいないこともあってか、珍しく弱気な表情を見せている。
それには、ともに連れてきたルナという謎の少女の身を案じてのことだと思うのだが、しかしなぜ、王女がそこまで彼女のことを心配しているのかがゼノスには理解できなかった。
敵国の王城から脱出し、本国の明るい未来を想像して、本当なら歓喜に燥いでもおかしくないはずなのに…。
暗い顔をして塞ぎ込む王女に堪え切れず、ゼノスはようやく声をかけることにした。
「ジュリア様。お気持ちは分かりますが、そろそろ本国へ戻るべきかと。
…いかに我らが優勢とは言え、ここは最前線です。敵が攻めて来た場合、ジュリア様に危険が及ぶ可能性もありますから」
「ええ、…そうね。
…でも、もう暫くは一人にして頂戴。…自分なりに整理したいの」
「…ハッ」
王女にそう言われては引き下がるしかなく、ゼノン将軍は渋々といった様子で帷幕から出ていく。
一人きりになった帷幕の中で、ジュリアは溜息をつく。
錯乱したルナのことも気がかりだったが、それと同じくウェセックス王国と袂を分かった本国のこともまた、彼女の動揺を誘った。
確かに本国の未来を思えば、あのままウェセックス王国の植民地となるよりも、マーシア王国軍に協力して危殆に瀕するウェセックス王国を分割支配したほうがいいのは誰でも理解できる話だ。
…そう、これはドゥムニアにとって、まさしく天啓である。
この機会を逃せば、再び統治を取り戻すまで時間がかかるのは誰の目にも明らかであるのだし、そもそもヴァイキングが再侵攻に乗り出したとて、以前と同じように協力してくれるかどうか分からない。
ジュリアにとって、王国の存続は大前提だ。
伝説の騎士王アーサー・ペンドラゴンより代々続く、このブリトン人最大の王国を絶やすわけにはいかず、そのためにジュリアは自らの身を差し出してまで徹底抗戦を唱えた父を説得し、存続のために王国を守り抜いたのである。
だからこそ、マーシア王国軍の提案に乗り、その作戦を成功させるべく軍を進軍させたことは理解できる。
「…理解は、できるわよ…。…私だって、もう子供じゃないわ…。
…、もう、子供じゃないもの…」
小杯に注がれた水面を緩やかに傾けながら、ジュリアはそこに映し出された自分の翳る顔を見て、自嘲気味に笑う。
「…そうよね。もう、何もかもが手遅れだもの。
私たちは叛旗を翻した。…思い出は、懐かしむだけにしておけばいいのよ…」
言い聞かせるように、あの優しかった場所を名残惜しむ自分を心の奥に無理やり閉じ込める。
そう言えば結局、ヴィットーリオには逢えなかったなと、場違いなことを思い出して苦笑した。
その時、妙に騒がしくなった帷幕の外の様子に首を上げると、ジュリアの名を呼びながら戻ってきたゼノン将軍の狼狽した顔が目に映った。
よく見れば、彼は複数の衛兵を連れている様子だった。
「将軍、いったい急にどうしたの…?」
「ジュリア様ッ! 敵襲です! 外は危険ですので、どうかこのまま帷幕にてお待ちをッ!」
「敵襲ですって!?」
ジュリアは、ひどく困惑した表情でゼノンを見据えた。
「じゃあ、相手はウェセックスの部隊なのね?」
「い、いえ、それが―――」
途端に口ごもる将軍の煮え切らない態度はしかし、すぐに意を決した様子で言葉を繋ぐ。
「―――敵は、マーシア王国軍です。軍旗を翻し、我々を裏切って攻撃を仕掛けてきた模様です…!」
「マーシアが!?」
とても信じられぬ、とばかりにジュリアは喫驚する。
「そんなまさか!?
だって、密約を持ちかけてきたのは、あのバールゼフォン卿なのでしょう!?
あの人が裏切るだなんて真似をするとは思えないわ!」
「しかし、これは事実です! マーシア王国軍の旗を掲げ、その鎧に身を固めた部隊が我が軍の野営地を強襲しているのですッ!
ですから、今は―――」
「―――大人しく、殺されてくれよ…!」
それは、突如として帷幕に侵入した影のようだった。
肌が粟立つ殺気にゼノン将軍が振り返ると同時に、同行していた二人の衛兵が声も上げられずに頽れる。
マーシア王国軍の紋章を刻む鎧を着た、しかし見るからに若い少年がそこにいた。
冷たい殺気を放つ鋭く細めた瞳が、ゼノン将軍と、その奥で息を呑むジュリアを捉えて放さない。
「貴様ッ! この裏切り者めッ!」
驚くほど長大な巨剣を抜くゼノン将軍の威圧を受け、少年もまた剣を構えて迎撃の姿勢を取る。
途端、雄々しく踏み込んだゼノンの剣を、少年が辛うじて防いだ。
ゼノン将軍は、並外れた巨漢である。
巨岩から彫り上げたような太い筋肉を束ね、その内に秘められた威厳で、帷幕が一回り縮んだような錯覚を起こす。
一本気で真面目な性格の彼は、どちらかと言えば繊細な剣技よりも、先天的に恵まれた膂力から生み出される剛剣によって、受け止める剣ごと敵を斬り伏せるタイプの騎士だ。
その自慢の剣撃を、比べれば二回りも身体の線が細い少年兵が、剣を断ち切られることなく防いだのを見て、ゼノンは驚いた。
しかしながら、少年兵は反撃もできぬほどの衝撃が剣から身体に伝播し、ただの一撃でごっそりと奪われたスタミナに狼狽していた。
よくぞ剣が砕けなかったものだと自ら感嘆する思いであったが、これほどの斬撃はそう長く耐えきれるものではない。
ならば、この男の攻撃は防ぐよりも躱した方がいいのだと考えたのも、無理からぬことである。
「チッ、このバカ力…! だったら…!」
少年兵はすぐに横に飛び退くと、軽快なステップで距離を取る。
―――だが。
それは、この男を前にして愚策でしかない。
「ふん、小賢しい…! 死ねィ!」
先の攻撃など児戯にも等しい、空を斬る音さえも悲鳴に聞こえる凄まじい一撃だった。
「なッ!?」
裂帛の気合いとともに、ゼノンの剣撃速度が爆発的に上昇し、初撃の速度とのあまりの落差に身体の反応が追いつかない少年は、しかし剣を構えて何とか直撃を防ぐものの、その威力を相殺できずに剣の刀身を粉微塵に砕かれて、机を下敷きに吹き飛ばされる。
「ガ―――ッ、ハッ…!?」
打撲による背の鈍痛と、両腕の尋常ならざる痺れが、少年の顔に苦痛の色を刻む。
「グ…ッ、このッ、化け物め…ッ!」
悠然と歩み寄るゼノンを前に危機を感じ、折れた剣を棄ててナイフを構えるも頼りなく、自分の反射神経を上回る攻撃速度を備えた敵を前に、その表情は実に険しい。
追い詰めた敵の、しかしまだ諦める様子のない構えに、ゼノンは目を細めて口を開く。
「ほう…、多少は骨があるようだ。…が、無謀と勇気を履き違える者の末路は、いつの世も残酷なものだ」
「待って! ゼノン!」
自慢の大剣を閃かせんとした手前、王女からの思わぬ合いの手に驚いて、ゼノンは僅かに首を巡らせるだけで答えた。
「ジュリア様、お待ちください。すぐにこやつを―――」
「いいえ、その必要はないわ。…すぐに部隊を撤退させましょう」
その言葉に、ゼノンと少年が同時に驚く。
「ジュリア様、しかし、それは…!」
「マーシアが私たちを裏切った以上、王都の包囲網は一気に崩れたわ。
彼らの愚行のおかげで、ウェセックスが反撃の挙に出るのも時間の問題。ここは部隊を後退させて態勢を立て直さないと、最悪の場合、全滅の可能性もあるわ。
…そうなったら、目も当てられない」
「で、ですが、この状況下で我々に攻撃を仕掛けてくるのはあまりに不可解です…!
ここはもう暫く様子を見たほうが良いのでは…!」
ジュリアは首を振る。
「私たちの兵力は、王都でかき集めた三千が限界…。それも、ろくに錬磨もしていない民兵がほとんどを占めているのよ…?
当初の作戦が瓦解した以上、もう私たちには自力でウェセックスと戦う以外、方法がないわ」
ゼノンは苦々しく表情を歪めると、その隙に距離を取って態勢を立て直す敵少年兵を睨みつける。
「貴様、運が良かったな…! …ジュリア様、では、早くここから脱出いたしましょう。
僣越ながら、私がお守りいたします」
「え、えぇ…」
堂々たる恰幅の将軍に護衛され、王女は帷幕から出ていこうとする。
しかし入口のところでふと立ち止まり、まだナイフを構えたままの少年兵に振り向いた。
「さようなら。せっかく王都で人質を用意してあげていたのに、貴方たちが裏切ったせいで無駄になったわ」
その言葉に少年が瞠目すると、一瞬だけ怒気に顔を歪めそうになったが、王女の哀しそうな瞳を見てハッとする。
「それじゃあ。…また会う時は、覚悟しなさい」
それだけを呟いて、ジュリアはゼノン将軍とともに帷幕を後にした。
そこに入れ替わるように、今度は部隊の兵士が少年の下へと駆けつける。
「まずいぞ、グレッグ! 被害が五十を超えそうだ…!」
グレッグと呼ばれた少年兵が、舌打ちを鳴らして顔を向ける。
「ここが限界だな…!
分かった、すぐに退くぞ!」
「ああ! お前も早く戻れ!」
兵士が帷幕から立ち去り、グレッグは一人ぐちる。
「…ジュリアなら、俺だということに気付いていたはずなのに、なぜ…?
それに人質って、まさか…?」
王女が残した言葉の意味を正しく理解していながら、それでも一部の矛盾した言動に納得のいかないグレッグは、しかしすぐに頭を切り替えて帷幕を出る。
首尾は上々だと安堵するものの…。
『同時刻 マーシア王国軍 副官エリス』
ドゥムニア王国軍の旗を掲げた約一千の部隊から突然の奇襲を受け、副官エリス率いる約二千のマーシア王国軍は混乱を極めていた。
襲いかかる敵兵の剣を弾き返し、心の臓を鎧ごと貫く。
さらに後方から振り下ろされる剣を受け止め、これも右に弾いて斬り伏せる。
部隊の混乱を鎮めるべく、早急に敵の意図を皆に伝えたいエリスではあったが、この混乱の最中に部隊の奥にまで敵が侵攻してきているとあってはそれも難しく、苦虫を噛み潰したように表情を歪めていた。
さらに続く敵兵を迎撃しながら、一人、また一人と仲間に合流し、ようやく部隊の中心地に戻った頃には、すでに混戦を深めた激戦の様相を呈する戦場と化していた。
「エリス様ッ!」
彼女に気付いた下士官が、慌てて駆け寄った。
「状況報告を」
「ハッ。ドゥムニア王国軍より奇襲を受け、部隊はすでに二割の被害を出しております。
敵勢は約一千ほどですが、まさかドゥムニアが裏切るとは思わずに、ここまでの侵入を許してしまいました…」
エリスは首を振る。
「いいえ、この情勢で彼らが裏切ることは考えられないわ。
無意味な叛逆で二方面に敵を作るだなんて、愚策を通り越して無能よ。
…だから、これはおそらく、ウェセックスの連中だわ」
その言葉を聞いた瞬間、下士官は度肝を抜かれたように目を丸くした。
「まさか…! では、ウェセックスは我々の装備を鹵獲した部隊を編成し、我々とドゥムニアとの間に亀裂を走らせようと画策していると…!?」
「ええ、おそらくね。
ドゥムニア王国軍に偽装したウェセックスの部隊が私たちを強襲したのと同時に、南のドゥムニアも我々マーシアに偽装したウェセックス軍の奇襲を受けているはずだわ。
…そうでなければ、この作戦は意味がないもの」
七王国時代の戦争は、実に三百年以上にも永きに渡って繰り広げられてきた。
その間、あらゆる国家が対立し、戦争をしたものだが、この時に敵の装備を鹵獲して自軍の軍備を補う方法は当然の戦略であったし、今回の策はそれを利用したものだとエリスは見抜く。
ただし、永く戦争していたドゥムニアと違って、マーシアとは前王の時代もあって鹵獲していた装備は少ないはずだとエリスは考えている。
「そ、それでは…!?」
「慌てないで。これはウェセックスにとっても苦肉の策にすぎないわ。
むしろ、この両部隊を撃破すれば王都の再攻略も容易くなる。
まずは―――」
「―――エリス様ッ! た、大変です!」
ひどく狼狽した様子で駆け寄る伝令兵に、エリスは向き直る。
「どうした?」
「我が軍の旗を掲げた謎の部隊がドゥムニア王国軍に強襲をかけ、混乱したドゥムニアが撤退を始めました!」
「な―――ッ!?」
これには、さすがのエリスも動揺を隠せぬ様子で喫驚した。
拮抗した戦力で王都の部隊を封じ込めているからこそ、剣聖バールゼフォン率いる主力部隊が、聖騎士スレインの主力部隊を相手に圧倒的優勢を保っていられるのだ。
それを自ら手放すような浅はかな愚挙に出れば、王都のイングラムは起死回生の進軍を始め、聖騎士の主力と合流を図るのは火を見るよりも明らかであるはずなのに。
「そんなバカなッ!?
この状況で撤退すれば、自分たちが危うくなるだけ…!
まさか、ドゥムニアがこの程度のことも見抜けない愚か者だったなんて…!」
「エリス様、ご指示を…ッ!」
ドゥムニアが撤退を始めた今、部隊をここに留まらせるのは自殺行為である。
南に割いた敵強襲部隊の数は不明だが、彼らが撤退したなら王都のイングラムは必ず動き出し、主力への補給線を断つこちらへ進軍することはまず間違いない。
その上、こちらの部隊は二千の少数であり、切り札たる三千の兵力を構えていたドゥムニアが前線から退いた今、イングラムの五千がこちらに集中するのは時間の問題であるのだ。
「くっ…! 仕方ないわ、全部隊に伝令を!
ディーンの森に部隊を進軍させ、聖騎士スレインの主力を挟撃する!
上手くいけば、バールゼフォン様の部隊と合流できるかもしれないわ…!」
「ハッ!」
伝令兵が走り去ると、エリスは再び疼き始めた腰の傷口に手を当てて、眉を顰めた。
更なる伝令兵がひどく困惑した表情でこちらに駆け寄ってきている。
おそらくは、敵後続の本隊が来たのだと、彼女は推測した。
『ウェセックス王国軍 聖騎士スレイン』
剣聖バールゼフォンが再び動き始めたことで、迷いの森ディーンは両軍の激突に火花散る激戦の舞台となった。
北の入口より、南西の隠し魔導砦に向かって直進する部隊一万三千に対し、スレインは予定通り、北に展開させていた八千の部隊を率いて出陣する。
スレイン側にとって最大の強みは、魔導砦より森全域に散布される呪霧の幻惑効果が敵兵のみを弱体化させることだ。
呪霧の効果は基本的に敵味方を区別するため、精神的な負担が通常の森林戦より遥かに重く、さらに視界の悪化に伴って部隊間の連携も難しくなり、ゆえに各個撃破しやすくなる。
しかも時刻は黄昏をすぎて、宵の口。
途徹もなく長く感じた二日間の戦いの終着点が、ここディーンの森で辿り着こうとしているのを感じながら、聖騎士スレインは自らが先陣を切ることで部隊の士気を上げ、次から次へと湧き出てくる敵兵を疾風迅雷の如くに切り裂いていく。
銀色の鎧を身に纏う、美しい高速の怪物。
その圧倒的な剛毅を止められる者は皆無に等しく、ゆえに一騎当千と言われる彼らは同じ聖騎士でなければ太刀打ちできない。
敵が視界に聖騎士の姿を捉えたその瞬間には、起き上がる大地に顔をしこたま打ち付けて、そこで初めて己が身を襲ったスレインの斬撃に気付く。
分隊ごと――約十人前後――に区分けした敵部隊をことごとく壊滅させながら、スレインは絶対防衛線を維持するべく次の敵部隊に奇襲する。
しかし、彼の獅子奮迅とした活躍も、それは局地的な話でしかない。
大局的に見れば、戦略面で常に先手を取ることで自在に戦場を操って見せた最強の聖騎士バールゼフォンが圧倒的に有利なのだ。
自分の注意を巧みに引きつけ、イングラムをも欺いてテムズ川を渡り王都を急襲、さらにはドゥムニアを味方につけて補給線を断ち、自軍を孤立化させるまでの一連の作戦行動には、一縷の隙もない見事な手腕だったと認めざるを得ない。
逆転の可能性は、ただ一つ。
剣聖バールゼフォンを倒し、指揮系統が破壊された敵主力部隊を各個撃破することだ。
数えて十になる敵分隊を壊滅させ、ひとまずは落ち着いた前線の状況を把握するべく、スレインは魔導砦に戻ることにした。
すでに数多くの罠を使い切り、それでも敵の優勢は依然として揺るぎない現状では、やはり呪霧に頼った防衛戦に終始する他にない。
ただし、呪霧の効果はすぐに発揮するわけではなく、少なくとも一時間ほど経過してから本格的に精神を破壊するため、それまでは何としても敵の攻勢を防ぎ、魔導砦を死守しなければならなかった。
スレインは、敵の撃破において優先順位をつけることで、兵力差を埋める戦術を採っていた。
森林戦において最も重要視しなければならないのは情報の伝達―――即ち、伝令の確保である。
各部隊の連携を繋ぐ生命線とも言うべき連絡網は、これが停止した瞬間に連携がスムーズに行えず、しかも情報も滞るために指示の詳細が把握できなくなる。
そのため、スレインは敵の連絡拠点を見つけ次第、これを優先的に壊滅させ、敵の動きを一時的にせよ遅速化させる方法を選んだ。
本来なら拠点を利用し、敵の各部隊に偽報を流したいところではあったが、補給線を断たれて時間にも追い詰められている自分たちにとって、そこまでの余力はない。
代わりに、第二に優先させた目標の撃破を心得させた。
敵分隊長および下士官の撃破である。
当然だが、それぞれの分隊に所属する兵士は、それを統率する指揮官の指示によって作戦を実行する。
現地にて柔軟な対応を思考する指揮官の命令が兵士たちの連携を強化させ、行動力を高めるのだが、逆に指揮官が戦死あるいは戦線を離脱した場合、部隊は簡単に分断され、一時的な後退を余儀なくされる。
部隊を全滅させるよりも、一人に狙いを定めて奇襲を仕掛けた方が効率が良いのは当たり前であり、スレインは二倍近い兵力差を埋めるための窮余の策をこれに当たらせたのだった。
魔導砦に帰還したスレインは、その入口に仮設した連絡拠点で慌ただしく指示を飛ばす参謀役の敬礼に片手を上げて制し、すぐに現状報告を促した。
「ハッ。
現在、敵は二方面から進軍しており、直進する一万三千と、東に迂回する五千の部隊を迎撃しております。
また、負傷兵は三百名近く、そのうち重傷者の二十名を確認し、砦に搬送させて手当てさせています」
「まだ呪霧の効果が現れていないとはいえ、視界の悪化だけでも敵の侵攻を大幅に遅らせているようだな」
ディーンの森に散布された呪霧の影響は、敵勢力だけにもたらされる。
これは古咒魔術の特徴ともいうべき神秘の発露であり、事前に呪詛を行使する対象を術者が選別し、任意に神秘を発現することができるからなのだが、その分、常時より消費する魔力が増え、本格的に効果が現れるまでの待機時間が長くなるといった欠点を持つ。
尤も、さすがに濃霧そのものは精霊魔術の神秘であるために敵味方の両方に視覚的妨害が影響するものの、それでも十分な恩恵がもたらされていると言って良かった。
「はい。そのおかげで、まだ軽微な被害で前線を維持しておりますが、後続の本隊と接触すれば激戦は避けられないかと思われます」
スレインは口に手を当てて思案する。
「まだ前線にバールゼフォン卿が現れていないのが幸運だな…。
…しかし、この総力戦で分けた北と東の部隊のうち、どちらかに潜んでいるのは間違いない。
…果たしてそれが、突破か迂回かのどちらかということだが…」
「まだ前線でバールゼフォン卿の姿を見たという報告は受けておりません。
さすがに前線を維持するだけで精一杯というのが本音でありますから、そこまでの余裕はすでに我が軍には…」
「分かっている。
問題は、向こうが仕掛けてくる方角と、そのタイミングだ。
考えられるのはやはり東からだが…、難しいな」
眉間に皺を寄せてスレインが呟いた、まさにその時に、起きてはならないことが起きた。
ディーンの森を覆い尽くす呪霧の結界が嘘のように晴れていき、重苦しかった空気が、元の静寂な気配に戻っていく。
悪い夢でも見ているようだ。
今、目の前で起きている事態を把握できず、ただ瞠目して周囲を窺うことしかできない聖騎士が口を開く。
「な、何が起きたんだ!?」
「わ、分かりません! これは、砦の結界が破られたとしか…!」
「バカな!? 魔導陣を用いた強力な結界だぞ! こんな短時間で外部から破れるはずが―――」
「―――ならば、内部から破れば良いだけのことだ」
渋い声質を秘めて投げかけられたその言葉に、スレインは息を呑んで戦慄する。
自分の背後から吹き付ける風はどこか生温かく、しかも仄かに香るは、鉄を含む血の臭い。
彼はすでに看破している。
背後にいる人物が、いったい誰であるのかを。
一切の魔術を使わずに、己が持つ天賦の才を、ただ絶え間ない努力によってのみ鍛え抜いた、生きながらにして伝説を体現する者。
ただ一人、武の神域に到達した最強の騎士。
躊躇いもなく剣を抜く聖騎士が振り返る。
「後方の守りを固めておくことは戦闘の鉄則だと教えていたはずだがな…、基本を忘れると、こうして足元を掬われる」
砦の開いた入口に超然と君臨する男は、やはり記憶に懐かしい師の姿と寸分違わずにスレインを見据えている。
銀髪を後ろに流した精悍な顔立ち。
冷たい光を湛えた、朝露に濡れた刃のような瞳が圧倒的な剛毅を宿して異質な存在感を放つ。
どれほどの資質を、どれほどの鍛練によって研摩すれば完成に至るのか、完璧に調和の成された肉体はまさしく、その生涯を武に捧げた人間のみに与えられる武神のそれである。
その、人類が到達し得る究極に限りなく近い男が今、脱力した二刀流の構えでスレインと対峙する。
「御師様…! いったい、どうやって…!?」
その男の名をこそ、人は剣聖バールゼフォンと呼ぶ。
最大勢力を誇るマーシア王国軍の最高司令官にして、聖騎士最強と謳われる男である。
「それがお前の限界だ、スレイン。…尤も、私に無防備な背中を剥き出しにしていた時点ですでに一度死んでいるお前には、もはや答える必要もないのだがな」
スレインはぐっと唇を噛み締める。
他の兵士たちも、剣聖と呼ばれる伝説を目の当たりにして狼狽し、すぐさま剣を構えるが、その腰は滑稽なほど引けて無様に震えている。
そんな彼らの様子をまるで意に介さずに、バールゼフォンは呟く。
「…そろそろか」
「―――スレイン様ッ!」
剣聖の言葉と、伝令兵が駆けつけてきたのは、ほぼ同時だった。
伝令はスレインに近づくと、すぐに報告する。
「北と東からの同時攻撃です!
呪霧が晴れたことを機に一斉に攻撃が再開されました!
ご指示を―――ッ!?」
彼もまた、砦の入口に立つバールゼフォンの姿に気付いたようだった。
目を見開き、慌てて剣を抜こうとして地面に落とし拾い上げ、震える腕で頼りなく剣を構える。
険しい表情を崩さずに、スレインが叫んだ。
「お前たちは前線に行け! ここから先に退くわけにはいかないッ! 何とか防戦に徹し、敵の攻勢を防ぐんだ!」
「は、ハッ!」
そう応えて、兵士たちはすぐさま走り去っていく。
残された二人の師弟は、互いを油断なく見つめたまま微動だにしない。
誰にも気づかれることなく砦の内部に侵入し、地下の魔導陣で呪霧を生み出していた百人の魔術士を剣聖は倒した。
だからこそ呪霧は晴れ、その時期を見計らって敵部隊が侵攻を再開したのだ。
しかし、いったいどうやって忍び込んだというのか。
バールゼフォンが魔術を使えないということは既知としているし、卑劣にして奸悪な指揮官であれば森に火を放ったであろう策などを良しとしない、非常にクレバーな戦術を好むことも熟知している。
つまり、剣聖は大胆な発想に基づく周到な準備を心がけた上で、慎重な判断により作戦を完遂する男なのだ。
だが、砦の入口はバールゼフォンが立っているここにしかなく、しかもその手前には連絡拠点を設けていたのである。
「…しかし、なかなかどうしてと言うべきか。どうやら、お前よりも優秀な人間がウェセックスにはいるようだな」
理解に苦しむ謎を前に苦悩するスレインを尻目に、剣聖バールゼフォンは失望の色を瞳に宿して低く呟く。
顔を上げたスレインは、剣聖よりもさらに後方、入口奥の通路に、一人の少年が両手にナイフを構えて立っていることに気付いた。
果たして、いつからいたのか。
ブリテン島西部のウェールズに赴き、ダヴェッド王国にて三人目の聖騎士との密約交渉任務に応じていたはずの蛇が、眼前の剣聖を見据えて身を屈めている。
どのようなタイミングでも迎撃してみせると意気込む構えだ。
「愚鈍な弟子に教えてやってくれないか。…私が、ここにどのような方法を用いて潜入したのかを」
バールゼフォンは彼の勇気に敬意を表し、スレインを見据えたまま、背後の暗殺者に低く呼びかける。
ヴィクターは一度スレインを見やってから、彼の了解を察して口を開いた。
「…重傷兵です。
貴方は、あの濃霧を利用して北部マーシア分隊に紛れ込み、交戦した迎撃部隊を壊滅させ、あたかも自分がウェセックス兵であるかのように偽装して重傷兵を偽り、この砦に運び込ませたのです」
その手があったか、とスレインは心の中で毒づく。
分隊で侵攻させていたのは、森林の地形から効率よく進軍させるためばかりでなく、一般兵に偽装した自分を相手に気取らせぬよう、多くの兵を自分たちに対応させるためでもあったのだ。
前線において重傷を負った兵を砦の中で手当する、それ自体は悪くないシステムであったが、しかしだからこそ、バールゼフォンも自分がスレインの立場であったならそうするだろうとして、一芝居を打ったのだと思われた。
そして、砦の中に運び込まれたバールゼフォンは行動を開始した。
剣聖は静かに言葉を繋ぐ。
「その通りだ。君の言う通り、私は重傷兵を装ってこの砦に忍び込み、全滅させた。
…そうなると、どうやら君も重傷兵を偽ってここまで辿り着いた人間だな?
少なくとも、この砦の中で私の襲撃にあっていない人間は、もはや戦う力すらない重傷兵らだけのはずだ」
それが言外に、砦に配置させていた一千の兵士すべてを、わずか一時間たらずで倒してのけたことを意味し、スレインは瞠目する。
そんな彼の心情を余所に、ヴィクターもまた沈黙した。
聖騎士アセルスよりマーシア王国軍の南下を聞いたヴィクターは、すぐさま王都への帰路につくものの、その途中にディーンの森の北入口に部隊を駐留させていたマーシア王国軍を見つけるとすぐに、森を移動するのは不可能だと考えた。
しかし、濃霧の影響で敵味方の判別が難しい現状から確実にウェセックス王国軍と合流するためには、その敵であるマーシア王国軍に紛れ込んだ方が最新の情報も得られて一挙両得だとし、それを実行。
その後は剣聖と同じく、分隊に参加して交戦したウェセックス兵の重傷兵を偽装し、魔導砦へと運び込ませたのである。
「――――――」
だが、ヴィクターは応えない。
否、応えられないのだ。
聖騎士スレインとともに前後を挟み、二対一という圧倒的優勢にあるはずの自分が、しかし背を無数の虫が這い回るような悪寒に苛まれて抑えられない。
あの超人騎士アセルスをして『あの男は強い』と言わしめたブリテン最強の男を目の前に、あらゆる攻撃パターンを刹那に予測し、それが皮肉にも自分を半ば混乱状態にさせているのだった。
それを、すでに見抜いていたのか。
瞬き程度の時間、一瞬の暗闇が視界に下りて開く、その瞬間に、剣聖と呼ばれる男がとうに自分の懐まで肉薄していることに気付く。
「―――ッ、え…?」
優に五メートルは離れていたはずのバールゼフォンの接近に、ヴィクターは驚く暇も与えられなかった。
サイクロプス戦で見た聖騎士アセルスの神速の踏み込みと同等か、あるいはそれ以上の速度による超人的な動作である。
砦にて鹵獲したウェセックス兵の剣の柄の突端を、最速の角度でヴィクターの鳩尾に当て、次いで首筋に鋭く打ち込む。
「がっ、―――あ…!?」
さらに地面に崩れ落ちたヴィクターの背、ちょうど肩甲骨の中央寄りに点在する急所を踏みつけ、たったこれだけの動作で剣聖は、イングラムが誇る最高の暗殺者を行動不能にしたのである。
「くッ…、御師様!」
砦の入口に駆け付けたスレインを、バールゼフォンはまさしく死神を連想させる冷たい瞳で射抜く。
「最初に掴んだチャンスは決して逃すな。最高レベルでの戦いで相手を仕留めるチャンスは滅多に訪れない。
…お前が本当に成長したのなら、そのまま背後から攻撃を仕掛けるか、あるいは切り札を使うべきだった」
「―――ッ!」
かつての師の言葉に囚われ、逸らすことのできぬ視線の呪縛に聖騎士は息を呑む。
だが、バールゼフォンはあえて攻撃を仕掛けない。
「それよりも聞きたいことがある。…お前は見つけられたのか? 三年前、私が別れの時に聞いた『平和とは何か』を」
湖の乙女ヴィヴィアンによる試練を終え、聖騎士となって帰ってきたスレインは、しかしバールゼフォンとエリスに別れを告げる決心をした。
彼女によって知らされたブリテン島に暗躍する闇の存在が、彼にマーシア王国との離別を決意させたのである。
バールゼフォンは、そんな彼を諭すこともしなければ、止めるようなこともしなかった。
しかし、たった一つだけ、問うたのだ。
『お前にとって、平和とは何か』
当時、スレインは確然と答えることができなかった。
漠然とした理想の平和は思い描いていたものの、それを言葉にしようとすると途端に色褪せて、遥か遠くに感じてしまうような気がしたからだ。
それは、空のように目の前にして、ゆえに遠く。
だが、今は違う。
親友カインの夢と死。
暗躍する魔人の実在。
そして、家族の無念。
それが、聖騎士スレインの理想をはっきりと形作ったのである。
「…私にとって平和とは、皆が幸福であることです」
スレインは滔々と言葉を繋ぐ。
「御師様に拾われる前、私には弟と妹がおりました。
しかし、二人は栄養失調で病に倒れ、死にました。
貧しくて、ろくに食べ物だと呼べるものさえ、満足に食べさせてやることができませんでした」
永い、本当に永すぎる戦争が生み出した負の遺産。
“誰も助けてくれない。
誰も救ってくれない。
誰も恵んでくれない”
あまりに夜が昏すぎて、そして冷たかった暗黒の日々。
「そういう時代なのです。
魔人が営々とブリテンを蝕んできたのなら、その貧困と理不尽に冒された泥沼を清めずして、世界が良くなるはずが決してないッ!」
良い世界が新しく訪れないというのなら、生者は何のために死者に祈り、死者は何のために生者に完結するというのか。
古く忌まわしいモノが蔓延るだけの社会しか訪れないというのなら、人間はこの先、どのような夢や希望を抱いて生きていけばいいというのか。
人は、何のために時代に巻き込まれていくというのか。
「魔人を倒し、ブリテンに点在する国家を統一して初めて平和が訪れる…!
国境線をなくし、夢や理想を共有してこそ、人々は互いに手を取り合い、共存することができる…!
それが、私が望む“平和”です!」
膨張しつづける列強同士の確執や軋轢が、最下層に漂う難民や孤児を汚濁のように吐き出していく。
澱み続ける問題が、内外を問わずに山積して人々を苦しみ続けるのだ。
その中心に蠢く者こそが、あの魔人なのである。
ならば、その原点を潰さずして、他の問題を解決できるはずがないではないか。
自ら表舞台に立ち上がり、マーシア王国に影の形に添うように裏で糸を操り、緩やかに動き始めているのだから。
挑戦するかのように輝くスレインの瞳を見据えながら、ただ沈黙に徹して聞いていたバールゼフォンは、しばらくして落胆の目で聖騎士を見やった。
「…そうか。やはり、お前は何も理解できなかったか」
「え…?」
予想外の言葉に狼狽するスレインを尻目に、剣聖はさらに言葉を繋いだ。
「確かに魔人は倒さねばならぬ元凶だ。それは認めよう。
…だが、皆が幸福である世界を、ブリテンを統一することで創ることができると本当に信じているのか?」
「も、勿論です!」
「ならば問う。
お前はブリテンを統一すると言ったが、このブリテンには我々アングロ・サクソン人の他にもう一つ、ブリトン人がいることを知っているな。
先住民である彼らを、元々が侵略者である我々の傘下に収めたとしても、彼らがずっと付き従うとでも思っているのか?」
「た、たとえ最初は難しくても、時間をかけて対話を心がけていれば、必ず認識を改めてくれると信じて―――」
「改めてどうする。虚々実々の駆け引きが、もっと巧妙になるだけだ。国境をなくしても、政治や宗教、人種が多種多様に違えれば、そこに生まれるのは幸福とは程遠い監視社会だぞ。
…間違えるな、スレイン。
我々は所詮、同じ穴の貉にすぎぬ。そして戦争とは、単に武力行使だけを指す言葉ではないことも覚えておけ」
「―――ッ、…!」
「改めて問う。
お前は、皆が幸福となる世界への革新こそが平和だと言う。
…確かに、その社会こそ理想的だろう。皆が幸福なら争いは生まれず、理不尽な死も訪れはしない。
まさに完璧な社会だ。
英雄王エグバートがブリテンを統一し、魔人を滅して平和になりました、か。
…お前はいつから、そんな幻想に甘えるようになったのだ?」
「ですが、その理想をこそ実現させなければ、いったい何のために我々が戦っていると言うのですかッ!
平和は現実に成されなければ意味がない!
理想がなければ、人は前に進めません!」
「その通りだ。人は理想という空を見上げて夢を抱く。それが善しきにしろ悪しきにしろ、それぞれの理想を空に思い描くものだ。
…だがな、スレイン。人が実際に踏み締めるのは大地という名の現実なのだ。
人が空で生きていけるようには形作られていないように、それでも人が空に辿り着くには相応の犠牲がいるように、そして空と大地が最初から相容れず乖離しているように、理想と現実は互いに必要でありながら相反する相剋にすぎぬ。
…実際に人が手に取ることができるのは、夜空に瞬く流れ星の耀きではなく、泥塗れになりながらも生命を育み続ける土と水の逞しさだけだ」
「―――ッ、…!」
「昼と夜が繰り返すように、平和と戦争もまた繰り返すものだ。
昼が正しくて夜が間違っているのだとしたら、それこそが間違いの原点だ。
人は光だけの世界では眠れない。夜があればこそ人は休息の時間を定めることができる。
…確かに、人の心の闇は誰も褒めはしない。まるで、光だけが正しいのだと言わんばかりにな。
…だが、昼と夜が繰り返すなら、人もまたそうであって何故いけない。
お前は聖騎士であろうとするがゆえに思考が極端となっている。相手を善と悪に分け、新世界に夢を見るあまり、現実を蔑ろにしているのだ。
…尤も、今のお前では、私の言葉も届かないだろうがな」
スレインの表情に正体不明の色が浮かぶ。
激しい困惑。
静かなる憤怒。
忍びやかな慟哭。
それらの感情が強く混ぜ合わさり、剣聖の言葉の意を汲み取れぬ自分に混乱しているのだ。
バールゼフォンはかすかに眉を顰める。
「スレイン、自分の本質を忘れるな。聖騎士とは所詮、ただの人殺しにすぎぬ。そして人殺しでは、どう足掻いても理想には辿り着けない。
…私が夢を見ていないのはな、スレイン…、私が生み出した犠牲への責任を、まだ果たしていないからだ」
唇を噛み締め、剣を強く握り締めて、スレインはひどく哀しそうに顔を歪めて剣聖を見返した。
「…分からない…! 私には、貴方の言っていることが何一つとして理解できないッ!」
胸の前に剣を構え、それだけをバールゼフォンへの対抗手段として、内なる動揺を力ずくで押さえ込む。
「勿論だ。元より、お前に理解してもらうつもりもない。
…さて、お前の意志が知れたところで私はもう充分だ。
お前の部隊が逆転するには、私を倒すしかあるまい。…ならば、躊躇せずにかかってこい」
怏々と沈殿する心の蟠りを振り払うように咆哮を迸らせ、聖騎士はバールゼフォンの制空権に身を投じる。
大地を抉るが如き踏み込みによって成し得る、爆発的な高速接近であった。
一呼吸の暇もなく剣聖の懐に踏み込んでのける超人的な動きを当たり前のように繰り出し、ほとんど目に見えぬ魔導剣の一閃が師に肉薄する。
その瞬間、二つの光が交錯し、弾けた。
スレインの閃光にしか見えぬ高速の斬撃を、事もなげに涼しげな顔で左剣を合わせるバールゼフォンはしかし、一歩たりとも動いていない。
「く―――ッ!」
弾き返される鍔迫り合いの反動から間合いを取り、スレインは少しの逡巡もなく再び踏み込む。
地を這うように低い前傾姿勢から繰り出される閃光の連撃が、踏み込みの加速からさらに速度を増してバールゼフォンに襲いかかる。
その一刀だけでも容易に相手の剣を切り裂き、肉も骨も断ち切る凄まじい斬撃である。
関節のある同じ人間とは到底思えぬほど柔軟に、しかし見れば鉄をもバターのように両断してしまいそうなほど豪快な剣撃が、刀身が宙に残す光の軌跡となって高速に展開されていく。
だが、この聖騎士の動きに、バールゼフォンの表情は些かも揺るがない。
速いとは見えぬ、しかし現実にはスレインよりもさらに速く精妙に、神速の太刀捌きをもって一歩も動くことなく、かつての愛弟子の攻撃をことごとく防ぐ。
両者の流れるような剣が重なる度に、あたかも極上の旋律を奏でる楽器となって即興の楽譜を演奏しているかのようだった。
しかし、驚くべきは剣聖の細緻な剣技にある。
勿論、スレインの斬撃は恐ろしく無駄のない組み立てから放たれ、その動きに一瞬でも躊躇や読み間違いがあれば、それは即座に使い手の致命傷となって聖騎士の前に倒れることとなるのは明らかだった。
しかし、それでも怜悧な瞳でスレインの斬撃をすべて把握するバールゼフォンは、これ以上ないほど完璧なタイミングで迎撃していながら、その剣の刀身は少しも毀れさせていない。
これは、驚愕すべきことである。
剣聖が両手に持つ二振りの剣は、スレインのルーンブレイドと違って特別製でも何でもない、この魔導砦に配置されていたウェセックス兵より奪った、ごくごく普遍的な剣にすぎない。
それを一振りだけで、しかも剣の芯をずらすことでスレインの斬撃を真正面から耐えるのではなく、受け流すことによって刃毀れも生じさせずに防ぎ続けているのだ。
バールゼフォンは目を細め、眼前の聖騎士を見やる。
「どうした、スレイン。ヴィヴィアン殿の試練から三年を経て、この程度しか成長していないのか」
この挑発に反応するよりわずかに早く、聖騎士は後方に跳躍して己が師を見返した。
「…騎士は言葉で語らず、剣によって語れ。…かつて、貴方より教わった言葉は、まだ私の胸に生きています…!」
言い終えた瞬間、これまでの速度よりも速く、信じ難いほどの踏み込みを見せてスレインが間合いを詰めた。
相当の使い手であっても視認困難であろう神速の足運びから急速に近づく弟子の閃光と、僅かに目を見開いて迎撃する師の閃光とが重なって、そして―――。
光の激突から数秒と経たず、スレインが後方に退く。
「…なるほど。よほどヴィヴィアン殿に鍛えられたと見える。
…少なくとも、私の剣を折るほどにはな」
バールゼフォンが繰り出した左剣は、スレインが渾身でもって放った全力の斬撃に耐えられず、刀身の中心から砕けていた。
剣の芯を外しての迎撃だったとはいえ、いかなる達人でも自身の技術によって補う範囲には、やはり限界がある。
その上限を上回る一撃が放たれたなら、何の強化処理も施していない凡庸の剣が、湖の乙女たるヴィヴィアンが創製した魔導剣に耐えられるはずがなかった。
「よかろう。お前は仮にも、私の剣を超えてみせたと言うべきだな。
…ならば刮目するがいい。己が未熟を噛み締めて―――」
静かに瞼を下ろしたバールゼフォンが、砕けた剣を床に落とす。
右手に光るは、もう一つの剣。
「―――その身に刻め…!」
開眼したと同時に、剣聖が動いた。
それは、もはや単純な踏み込みでは有り得なかった。
生物の動作は、その前提として、ある程度の体重移動や呼吸の癖を無意識に働かせている。
なぜなら、それが本人の経験に基づく最高の運動能力を発揮するために必要な準備であり、これが成されなければ、人は小脳が指令する自在の運動が不能となるからだ。
簡単な話、物を掴むだけでも体重移動は不可欠であるし、座るだけの動作にも呼吸のタイミングを無意識に計っている。
しかし、バールゼフォンはその準備をほとんど必要とせずに最高の運動能力を発揮することができるため、相手に運動や攻撃の先読みを完全に不可能とさせた状態で仕掛けることができるのである。
行住坐臥、常に奇襲を警戒する剣聖を象徴するかのような、およそ常人離れした身体能力であった。
これにより、あらゆる敵に対して奇襲を可能とする彼の動きは、同時にあらゆる敵の奇襲を無力化するため、どのような超人であろうとバールゼフォンが攻勢に転じた時点ですべての動作は後手を回らざるを得ない。
ただの一蹴りで最高速度まで臨界する途轍もない筋力の躍動が通路の床を叩いて、ほとんど瞬間移動かと見紛うほどの疾走が解放された。
聖騎士の眉が、途端に跳ね上がる。
数メートルは離れていた剣聖の姿が幻のように消えたと同時に、すでに懐まで接近して宙に閃かせていた師の剣撃に辛うじて魔導剣を合わせる。
「く―――ッ!」
悲鳴を上げるルーンブレイド。
その衝撃を相殺できずに轍のような足跡を大地に刻みながら、スレインは砦の入口より外へと弾き出される。
その、次の瞬間にはすでにバールゼフォンが肉薄して剣を閃かせる凄まじい瞬発力が聖騎士を襲い、それも寸前で何とか魔導剣を合わせるものの、毛ほどの間もおかずに襲来する剣聖の斬撃は、もはやスレインさえもが戦慄するほどに恐るべきものであった。
宙を舞う切っ先が触れずとも、擦過しただけで大地が切り裂かれ、大気が引き攣り戦慄するが如くに唸りを上げる。
バールゼフォンの一撃一撃が大地に斬撃の傷痕を残して地形を変え、足の踏み場も切り裂いていく様は、あたかも悪夢が現実を侵食して投影されていくかのよう。
聖騎士の動体視力をもってしてもなお捉えることの難しい神速の閃光が、巨大な鉄槌の質量を秘めて魔導剣とかち合い、そのたびにスレインが剣聖の超斬撃の衝撃によって体ごと後退させられていく。
「く…ッ、…ハァァ…ッ!」
交錯する二刃の閃光。
目も眩むような激しい剣撃に押される聖騎士は、しかし鬼気迫る表情でようやく見出だした死中に全力で踏み込み、バールゼフォンの斬撃を鍔迫り合いに持ち込ませる。
「御師様ッ…!」
「よくぞ踏み込んだと言いたいところだが、これが私の罠だとは考えもしなかったのか?」
その時、スレインは全身が干からびていくような悪寒が背筋に走った。
刹那、鍔迫り合いの拮抗から剣聖の右腕が振り抜かれ、スレインは予想を遥かに超える膂力に押し負けて吹き飛ばされる。
バールゼフォンの右腕一本の膂力から面白いように宙を舞う聖騎士は、しかし空中で容易く体勢を立て直して見せ、一度の着地では相殺できない慣性に二度三度と着地することで、運動エネルギーを動摩擦によって散逸させる。
スレインはようやく立ち止まると、すぐに五感を研ぎ澄ませて周囲の気配を窺ったが、剣聖が追撃に接近する気配はない。
「く―――ッ! さすがは―――ッ!?」
顔を上げてから一秒と経たずに、それはスレインに狙いを定めて彼方より瞬時に迫り、大地をなぞるように宙を疾走する。
もはや剣も間に合わぬタイミングで飛来する、巨大な孤を描く刃状のソニックブームであった。
ただでさえ視認が難しい極細の、しかも透明をした死の風が、空気中の塵や砂埃を舞い上げてその姿を露わとし、聖騎士に高速で接近する。
しかし、スレインは顔を上げたそのままの勢いで思いっきり身体をのけ反らせ、紙一重で躱してのけた。
文字通り目と鼻の先を通過し、前髪の毛先を切り裂いたソニックブームが、そのまま背後の木々を薙ぎ倒していくのを極限の集中力に研ぎ澄まされた目で見たスレインは、すぐに体勢を立て直して第二波に備えるべく剣を構える。
超音速の絶技が、再び聖騎士を標的に飛来する。
視認して反応するだけでは絶対に間に合わないその攻撃を、ソニックブームの高速接近を示す大気の振動や風切り音、そして遥か前方にいる剣聖の斬撃軌道を精確に読み、ほとんど脊髄反射レベルの域に達した超反応で、一つ二つ三つと襲いかかる死を切り裂いていく。
もはやそれ自体が神業と讃えるべき驚異的な身体能力であったが、小脳からの指令伝達と、それを即座に処理する細胞の反射速度が異常に速いスレインだからこその技巧であり、やはり聖騎士の名は伊達ではないのだと証明する極上の剣技である。
音速の壁を越えた絶技に対し、これもまた天性の反射神経でもって迎撃するスレインの精密な斬撃が三度、剣聖のソニックブームを切り裂く。
全力で振り抜いた魔導剣の刃を合わせ、その接触面から乖離したソニックブームは左右に流れて樹木を切り倒したあと宙に溶けて消えた。
ようやく止まった追撃の手に一呼吸して、スレインは剣を地に下げた脱力の構えでこちらを見やる剣聖に、改めて息を呑む。
単純な目測でも七メートル以上はある距離で、それでも絶技ソニックブームによる一方的な攻撃を仕掛けることができる剣聖に対し、スレインはあくまでも必殺の間合いに詰め寄って初めて攻撃することができるため、すでにリーチで差が歴然とした両者のどちらが優勢であるかは、考えるまでもないことだ。
しかし、すでに三合の打ち合いをもってソニックブームの加速度と迎撃のタイミングを見切っているスレインは、いかな超音速であろうと、ある程度の距離が離れていれば防御することは可能だった。
問題は、接近すればするほどソニックブームの迎撃が困難となるうえ、さらに剣聖の踏み込みにも警戒しなければならないことである。
勿論、魔導剣の四大能力を使えば、この状況から逆転することも可能なのだろうが、その神秘が発現するまでの待機時間を、あのバールゼフォンが素直に待っていてくれるとは天地が覆ろうとも有り得ない。
ならば、やはり躱しながら突き進むというのか。
しかしそれは、未来予知の固有能力者でなければ到底不可能な領域の回避技術を要求された接近であるのだ。
確かに、ソニックブームそのものは剣聖の斬撃から生み出される超音速の衝撃波であるのだが、その斬撃もまた目を凝らさなければまず反応できないうえ、絶技の連発も可能とする以上、接近すればするほど迎撃のタイミングも極端に短縮されるなら、不用意な踏み込みは確実な死を意味する。
呪霧が消滅した今、できる限り早期に部隊と合流し、前線にて敵の攻勢に歯止めをかけたいスレインであったが、心技体、どれをとっても上回る剣聖バールゼフォンを倒す方法が見つからず、顔を顰めて隙を窺うばかり。
そんな彼の心中をすぐに看破した剣聖は、失望の余韻を含ませる溜息をついた。
「…ヴィヴィアン殿は人選を間違えたな。やはりお前では、魔人を倒すことも、ブリテンに平和をもたらすこともできはしないだろう。
甘い夢に浸るのは幻想の中だけにしておけ。…現実は、お前のように恵まれた、優しい人間ばかりではないのだ」
この時点で、すでにバールゼフォンの意識はスレインに注がれてはいない。
東の方角より、こちらに走り寄ってくる小規模の何者かたちの気配を捉えたがゆえに、聖騎士の微細な動きにも注意を払いつつ、森の道なき道を駆ける者たちの存在を見抜いたのだ。
砦の入口前、夜空が見える開いた場所に佇む二人の前に現れたのは、バールゼフォンが従える部隊の兵士たちであった。
分隊規模で行動していた九人のマーシア兵らは、もはや聖騎士の決闘場と化した二人の一触即発とした空気に狼狽しながらも、剣聖に向かって声を張り上げた。
「バールゼフォン様! 東の敵部隊が北に向かって後退を始めました!」
その言葉にスレインが瞠目し、次いで苦々しく表情を歪める。
元々、東の戦力差はウェセックス側が一千であるのに対し、マーシア側は五千を投入して迂回させていたのだ。
この五倍もの兵力を埋めるための策が魔導砦の呪霧であったのだが、それが剣聖の潜入によって無力化された今、東の前線を維持するのは確かに困難だろう。
だが、北に後退し、八千の部隊と合流したところで、マーシアの北部隊一万三千が存在する以上、必然と挟撃されるのは目に見えている。
それは手痛い悪手に他ならなかったが、全滅するよりは、と考えて苦渋の決断を下した参謀らの気持ちも、スレインには理解できた。
ここまで部隊を追い詰めさせてしまった責任は、他ならぬ自分にあるのだとして。
だが奇妙なことに、声を大にして報告事項を告げた彼らは歓喜に浮かれてはいない。
その報告には、まだ続きがあったのだ。
「しかし、エリス様の部隊がこちらに後退しており、その後方を追撃する敵部隊の姿も…ッ!
ちょうど中間に位置する我々は、このままだと挟撃に合う可能性があります…! どうか、ご指示を…!」
今度は、剣聖の眉間に更なる深い皺が刻まれた。
エリスの部隊がこちらに向かっているということは王都の包囲網が破られたに相違なく、ならば今頃はドゥムニア王国軍も後退しているはずだった。
となると当然、王都から出陣したであろうイングラムは、スレイン率いる主力への補給線を絶つエリスを追撃しているはずであり、このままでは東に迂回させていた五千の部隊が挟撃に合うのは時間の問題である。
本来であれば、このままスレインを倒し、次いで東の五千とエリスを合流させ、イングラムの部隊を迎撃すればいいのだろう。
だが、王都急襲のために限界ギリギリの強行軍を課せられてきたエリスの部隊は消耗率が桁違いに高く、合流する前にイングラムに捕まり、捕虜の身に、という事態に発展すれば、バールゼフォンは最大の理解者にして有能な指揮官を失うこととなる。
躊躇いは須臾ほども有り得なかった。
バールゼフォンから放たれた絶技ソニックブームが、スレインに疾走する。
イングラムの援軍に安堵した、その思考の隙を突かれた不意打ちに慌てて迎撃するスレインだったが、その奥に剣聖の姿はとうになく、すぐさま気配を辿ってみれば、いつの間にか兵士たちの傍にいて何事かを話している師の姿を捉えた。
「御師様…ッ!」
しかし最小限の応えもなく、返ってきたのは宙を駆けてスレインに強襲する一陣のソニックブームのみ。
「く…ッ!」
ほぼ完璧なタイミングで絶技を両断したスレインは、しかし視界から消えた剣聖の代わりに、剣を構えてにじり寄る兵士たちの殺気を受け止める。
「御師様…! …く、しかし、砦の重傷兵を見捨てるわけには…!」
「さ、先を急いでください…! スレイン様…!」
聖騎士が振り返ると、砦の入口に胸を押さえて壁伝いに歩いてきた蛇の姿が見えた。
剣聖の打撃を受けて一時的に行動不能となっていた身体のダメージがある程度、恢復したのだろう。
まだ万全の調子とまではいかない様子だったが、それでも彼が、たかが一般兵に遅れを取るような少年でないことをスレインはよく知っている。
「私が砦を死守します…。どうか、イングラム様を…」
さすがに少しばかり逡巡したスレインだったが、しかし現状ではそれが最善の策だとして決意を固めた。
「…分かった。お前を信じるぞ、蛇。…決して死ぬな」
微笑んで頷いて見せた蛇に対して聖騎士もまた微笑み返し、依然として殺気を放つ兵士たちに向き直る。
「そこをどけ。…今の私は、手加減できそうにないからな」
次の瞬間、銀色の風が颯爽と駆けて消えた。
『マーシア王国軍 副官エリス』
後退戦術ほど、部隊の消耗率が跳ね上がる戦術はない。
そもそも、後退行動そのものが部隊の士気や体力、精神力に大きな負担を引き起こすものであり、従って迅速な退却行動に基づきながら、敵の追撃を防がなければならなかった。
逆に、敵の視点から見れば戦術は追撃戦に移行するため、一時的に弱体化した敵戦力を速やかに補足して、相手の組織的な反撃を封じ込みながらの圧倒的な殲滅戦を仕掛けることができる。
それゆえに、部隊の被害を最小限度に抑えるため、自ら最後尾に立って敵の追撃を迎撃していたエリスの体力は、もはや限界に等しい域にまで消耗させられていた。
「穢れたる大気にたゆたう母よ」
粘るような森の薄闇、行く手を阻む木々の間を駆け抜ける彼女は、しかし自分と同速度で追いかけてくる三つの気配に全神経を集中させて警戒する。
樹木の根を器用に避け、顔を打つ枝を躱しながら、ぞくりと背筋に走る殺気に左から襲来する暗殺者の気配を捉えた。
「おおりゃあああああ!」
「―――くっ!」
闇の向こうから強弓の速度で飛び込んでくる若き暗殺者グレッグのナイフを身体を屈めて避け、次いで右方向より飛び出した暗殺者、蜘蛛のナイフを前方に転がることで何とか避ける。
すぐに体勢を立て直し、再び剣を構えると、途端に接近する二人の猛攻を紙一重で防いでは、疼く腰の激痛に顔を歪めた。
暗殺者のピタリと息の合った連撃に後退しつつ、しかし突如として彼女の姿が闇に溶けて消える。
「歎いたる不和の音色を止め、揺らぎの声を集めん」
エリスは樹木の影に入るやいなや、すぐさま後退の速度を活かして倒木を蹴り、垂直に跳躍して頭上の太い枝に取り付いたのである。
本当に闇に溶けたかと見紛うほどに意表を衝いた動作であったが、その驚異的な体術の代償がすぐさま腰の傷口に跳ね返ってその端正な顔をしかめると、途端に肌が粟立つ殺気に顔を上げる。
「“普く真空の窮奇”(サイクル・シューター)」
不可視の旋風がピンポイントにエリスを直撃し、辛うじて防御姿勢を取っていた彼女の鎧や四肢の表面を切り刻み、その足場であった枝をも切断する。
「く―――ッ!」
足場が崩れる前に自ら飛び降りて地面に着地するエリスを、さらに二人の暗殺者が急速に間合いを詰めてナイフを閃かせる。
「オラァ!」
「フンッ!」
気合いを放つ両者のナイフ捌きを、苦痛に歪める表情をそのままに防ぎ続けるエリスはしかし、とうに限界を超えた体力に息を荒げ、その視界も狭窄し始めるほど疲弊していた。
ナイフを弾いてグレッグを足蹴に吹き飛ばし、次いで踏み込んでくる蜘蛛のナイフと鍔迫り合いに持ち込みはしたが、その刀身に王城で見せた力強さが備わっていない。
「あの時とは立場が逆転したな…! 先刻の屈辱、今ここで晴らさせてもらうぞ!」
以前よりもさらに増した気迫をもって宣言する蜘蛛を前に、しかしエリスも負けじと殺気を迸らせる。
「それは残念ね…! 今の私は手加減できないわよ…!」
「フン、戯事をッ!」
予想外に撓められた蜘蛛の全力に剣を弾かれ、途端に腹部に走る激痛が、眼前の暗殺者が仕掛けた回し蹴りによるものだと気づく。
「ぐっ…!」
後退する、その一瞬の隙を的確に突くグレッグが蜘蛛の肩を蹴って上空から、そして蜘蛛もまた低く姿勢を屈めてエリスの懐へと踏み込む。
顔を上げた瞬間に捉えた上下の暗殺者の奇襲に、迎撃の思考を刹那に混乱させられたエリスの狼狽につけ入るように、二人は間合いを即座に詰める。
「―――ッ、く…!」
上空から襲いかかるグレッグのナイフを剣で受け止め、しかし地面すれすれの前傾姿勢から接近する蜘蛛のナイフを、跳躍して後退することで辛うじて躱す。
その、瞬間―――。
「“引き付ける相剋の楔”(イン・サイト)」
真後ろに飛び退いたはずのエリスが突如として空中に静止したかと思うと、まるで巨人の掌に捕われて引き寄せられるが如くに、物理法則を無視して二人の暗殺者へと身体が戻っていく。
「な―――ッ!?」
あまりにデタラメな事態に言葉も出ないエリスを待ち構えるは、やはりグレッグと蜘蛛の両名。
「いらっしゃいませぇぇぇぇ!」
グレッグのナイフがエリスの剣を弾き飛ばし。
「しまっ―――」
「―――これで終りだ…!」
蜘蛛のナイフが、寸前で致命を避けるもエリスの腹部に深く突き刺さる。
「くぅぅぅぁぁッ…!」
血肉をえぐられる激痛に大きく顔を歪ませ、蜘蛛の腹を蹴飛ばして後退するも、深い傷口からの出血に手を当て、上半身を屈めて肩で息をするその身体はもはや満身創痍。
武器もなければ魔力もない。
そしてエリスは見た。
朦朧とする意識と混濁する視界の中で、二人の暗殺者の間から現れる何者かの姿を。
空間が奇妙にも人型に切り取られ、何かが翻ったと思った瞬間、頭部から足元までを長く包むマントが宙にたなびく。
その隙間から見えるのは、矍鑠と背筋を張った肉体と。
そして、頭巾のような被り物に覗く威厳のある面構え。
その老人が現れた時、グレッグと蜘蛛は同時に跪いて忠誠の姿勢を示し、主の出現に頭を垂れる。
「ほほう…、二人をてこずらせた魔導騎士と聞いてきて見れば、よもやこれほどの美人さんじゃったとはな。
さすがは剣聖、実力があれば区別など不要というのじゃな」
そは、永きに渡ってウェセックス王国を支え続けてきた老練たる頭脳。
四大精霊魔術の中でも、最も繊細なコントロールと精神集中を必要とする“風”系統魔術を自在に操る者。
高密度に収斂された魔力を滾らせて登場した老魔術士に対し、エリスは苦々しく顔を顰めた。
「やはりイングラム…! まるで姿を見せない第三の追撃者…! それにそのマント…、ニーベルンゲン族の財宝…、宝具…!」
南の大国ウェセックスが世に誇りしその名はイングラム。
ブリテン最高の魔術士との呼び声高き、数少ない賢者の一人である。
イングラムは視線をやって二人を立ち上がらせると、反撃する力のほとんどを失った敵指揮官を鮮やかな緑色をした瞳で見やる。
「ほう、知っておったとはなかなかに博識じゃな。…そう、お主の想像通り、このマントは東の英雄ジークフリートが使用していたものじゃ」
ジークフリートとは、現代でも知られるドイツ英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』に登場する主人公の名前であり、現代のベネルクス三国の王子にあたる人物である。
彼は少年時代、自らの力試しのために自国の北に位置するノルウェーに住まう小人族と戦うのだが、そこで手に入れた財宝の一つが、今イングラムが着用して見せているBクラス宝具“遮蔽する世界より此方へ”(タルンカッペ)だった。
これは古代ドイツ語で“姿を消すマント”という意味を持っており、その名の通り、装備者の姿を完全に消すと同時に、十二人力の力を与えるという特性を秘めた宝具である。
このマントはカメレオン効果の究極型として、リアルタイムで周囲の環境色彩を完璧に映し出し、全方位からの視覚的空間同化を確立することで、相手の視界から完全に姿を隠すことができた。
勿論、これは本来であれば接近戦に長けた戦士用の宝具であることは言うまでもないのだが、だからといって魔術士なら利便性が低いのかと言われれば、実はそうでもない。
当然だが、神秘を操る魔術士にとって最大の弱点は、呪文詠唱そのものにある。
ただし、呪文と言っても各神秘ごとに定められた文言などでは決してなく、普通なら発生し得ない神秘を強制的に発現させるために、術者がこの世界に対して霊的交感における精神連結を実行するために必要不可欠な“言霊”と言えばいいのかもしれない。
かみ砕いて言えば、世界に対する専用言語である。
世界という商人から神秘を買うために、言霊という言葉を用いて交渉し、神秘を得る代わりに世界が提示した魔力を支払うことで、魔術士は初めて魔術を行使することができるのだ。
従って、世界と親交の浅い初心者は無駄に長い詠唱から一度で息が上がるほどの魔力を消費しても初歩魔術しか扱えず、逆に世界と親交の深い術者は簡略化した詠唱で魔力の消費を抑えながら、強大な威力を誇る神秘を操ることができるのである。
尤も、これには裏道があるのだが。
しかしながら、この言霊交渉―――即ち、呪文詠唱に対してはいかなる術者であっても忘我の集中力を必要とするため、これの実行の際には予め、その致命的な隙を守るための対策を事前に練っておかなければならなかった。
多くの場合、その方法とは事前に詠唱を済ませておくか、あるいは強靭かつ信頼に足る戦士と行動を共にすることである。
前者は、戦闘が始まる前に術者が済ませておくべき当然の行為であったが、それでも相手が倒れなかった場合、または増援などで戦闘が長期化した場合には、どうしても後者である強力な前衛の存在が活きてくる。
これは戦士と魔術士、つまりは前衛と後衛が備える一長一短の特徴を上手く補い合った必然的な帰結であるとも言え、戦術の主軸であるとも断言できるのだ。
―――ならば。
もし仮に、魔術士が自らの姿を完全に消しながら神秘を操ることができるとしたなら、どうだろう。
自分の存在を相手に悟らせぬまま目標を一方的に攻撃することができるこれは、相手にしてみればまさしく悪夢のような不可視の死神として戦場を蹂躙することができる。
しかもマントの効果によって十二人力の身体強化を受けた魔術士は、自分の限界以上の体術をも駆使して行動することができるため、さらに幅広い戦術を用いることができるのだった。
ただし、中級古咒魔術に分類される“気配遮断”の効果はないため、術者は自分の気配を消しながらの移動を心がけなければならず、さらには中級火精霊魔術の“熱感知”によって装備者の体温を感知されても発見は容易くなるなど、意外に脆い弱点もあるのだが。
敵意を露わにした鋭い目の色を向けるエリスに対し、イングラムはにこりと笑って肩を竦めて見せた。
「まあ、こうしてあえて姿を見せたのは、お主に対する敬意の表れと見てほしいものじゃな。
お主のような美人さんを殺すのは、世の宝を消し去るに等しい行為じゃわい」
そう言って、しかしすぐに目を細める。
「…尤も、王を危険に晒しめた罪は重い。素直に投降すれば、命だけは助けてやらんでもないぞ」
エリスは、唇の端をフッと吊り上げた。
「それは、私の選択肢にない、行動ね…。…、私は、たとえ差し違えても…、貴方たちを、殺す…!」
蜘蛛のナイフによって受けた腹部の傷が疼くのか、苦痛に歪めた表情から察するに、致命傷ではないものの、彼女にとって相当のダメージであることが窺い知れる。
足元の下生えには、大小の様々な血痕が滴り落ちていて、蜘蛛が与えた傷の深さを推察することができた。
「しかし、お主に武器はない。命は投げ棄てるモノじゃなかろう。大人しく投降したほうが身のためじゃ」
くすり、とエリスは笑って見せる。
「武器はない、なんて、貴方がよく言えるわね。さっき、貴方自身が言ったことを、もう忘れたの…?
私が、誰なのかを―――」
その言葉に続く彼女の素早く小さな呟き声と、イングラムが飛び退いたのは、ほぼ同時だった。
「行けッ!」
エリスの前に、合計十本ほどの氷柱が鋭利な突起を三人に向けながら現れたかと思うと、彼女の号令に応じて宙を疾走したのである。
入森する前に晴れていたため、彼らは知る由もなかったのだが、スレインが起動させていた魔導砦の呪霧の名残が今現在も影響していることによって、ディーンの森は一時的に湿度がかなり高い状態にあった。
そのため、活力の多くを失っていたエリスだったが、この湿度の高さが精霊の活性化を生み出し、水系統魔術の発現を比較的、手助けする役目を働かせていたのである。
しかし、この氷柱の奇襲に対し、三人はほぼ完璧に回避してのけていた。
強く引き絞られた弦から放たれた矢の如き速度で迫る氷柱を、イングラムは横に飛び退いて躱し、その後ろにいた蜘蛛とグレッグもまた、それぞれ身体の一部を薄皮一枚分だけ裂いた程度で回避したのである。
そもそも、エリスの前口上からして魔術による攻撃が予測できたため、致命傷に至ることはなかったが、実のところ彼女にとっても、これは攻撃を目的とした神秘ではなかった。
いや、本当は攻撃用として予め言霊を詠唱していたのだが、自分に残された魔力と敵戦力を比較しても、武器を失い負傷した今の状況では彼らを倒すのは困難だとし、あえて自身に満ちた法螺を吹いたのである。
三人が退避行動を取った瞬間、エリスはすぐさまその場を後にして、今もなお抉られているかのような痛覚の走る傷口に手を当てながら森の中を駆ける。
確か、蜘蛛、と呼ばれていた手練れの攻撃によって更に削られた活力の最後の切り札が、あの中級水系統魔術“連立する単結晶”(クリスタル・ラッシュ)だった。
これを使ってしまったことでエリスに残された攻撃手段は皆無に等しく、覚束ない足取りからも自覚できるように、あの三人の実力者を一度に相手して倒せるなどと自分を過大評価して無理に戦おうとは微塵にも思わない。
戦場は元より、どのような状況でも自惚れや過信こそが最大の敵だと剣聖に教え込まれてきたエリスが、愚かにも彼我の戦力差を見誤り、焦燥感に任せて自暴自棄になるなどありえない。
だからこそ、ここが最後の引き際だとして後退を選択したのも、当然といえば当然であると言うべきだろう。
相手が、イングラムでさえなければ。
「“遠ざかる相剋の楔”(アウト・サイト)」
今度は、突如として巨人の掌に押し出されるかのような衝撃だった。
突如として受けた横からの強烈な圧力によって宙に浮いた身体が、更なる圧力に慣性をつけて速度を上げ、樹木に叩きつけられたのである。
「がッ―――ッ、くぅ…!」
当てられた樹木の厚い幹の表面が剥がれ、わずかに窪むほどの衝撃が、負傷しているエリスの身体に致命的な追い討ちをかけた。
右の肋骨が幾本か折れたのが、自分でも分かる。
息をするのも辛く、吐血した唇から赤い筋がとめどなく流れては、眩暈でぼやけた視界に吐き気を催して青褪めた顔を俯せる。
ほとんど残されていない体力から今にも崩れ落ちそうな膝を支えているのは、もはや芯の篭らぬ気迫のみ。
口の中に溜まる血とその臭いに苛まれながら、いつのまにか左右に回り込んでいた二人の暗殺者に両腕を掴まれ、目の前に歩み寄るイングラムの姿を見る。
腕を組んでエリスを見据える老魔術士は、彼女の傷の具合を一瞥して口を開いた。
「その様子じゃと、もう反撃する力も残されておるまい。
先の牽制で魔力を使い果たし、そのうえ武器も失ったのでは、いかにお主とて抵抗するだけ無駄じゃよ」
もう、言葉を返す気力さえ惜しかった。
呼吸を整えるだけでも滑り落ちていく体力の砂粒を一つ一つ掬い上げるように、エリスはただひたすら肋の灼けつくような痛みに堪えて、今にも途切れそうな意識を懸命に繋ぎ留める。
「よし。蜘蛛と鼠はそのまま、こやつを連れて下がれ。わしはこのまま先に進み、敵を挟撃してやろう」
その言葉に二人が短く応えると、絡めたエリスの肩を押し上げて、脱力しきった彼女の身体を少し浮かせるようにして歩き始める。
エリスは、できるなら彼らの腕を振り払ってやりたかったが、もう両脚にすら力の入らなくなった身体では、普通に息をすることさえ困難なのだ。
反撃どころか、ともすれば生命に関わるほど多くの血を失ったエリスが、しかしこうして辛うじて意識を保てているのは、代用血液として用いた食塩水が僅かながらにも効果を及ぼし、彼女の負担をほんの少しだけ軽減する役割をになっているからだった。
しかし、それももう限界である。
王城戦で背後より受けたグレッグの傷と、先の攻防戦で蜘蛛より受けた傷、そして大量に消費した魔力とイングラムの魔術により、エリスはすでに生と死の境界線に立たされていた。
このまま傷口を放置し、出血を止めねば、そう時間をかけずとも彼女は死ぬだろう。
勿論、イングラムは彼女を殺すつもりなど更々なかった。
剣聖の副官を務めているのであれば、マーシア王国の実情の多くを知っているはずであるのだから、この戦いで剣聖を退けることに成功したなら、それから時間をかけてゆっくりと、彼女から話を聞き出すつもりである。
それに、結局は捕らえられたとはいえ、たった一人で部隊の最後尾に立ち、自分たちの追撃を防ぎ続けた彼女の働きは敵ながら天晴れと言うしかなく、それは同時に、この女指揮官を失っただけでもマーシアの戦力を大きく削ぐには充分な効果があると確信しているのだった。
その時、グレッグが掴んでいたエリスの手が滑り、彼女の身体がわずかに頽れる。
「おい。…ったく、しゃあねぇな」
傾いた分だけ膝を曲げ、グレッグは彼女の肩に回した左手に力を込めて、再び体勢を立て直そうとし―――。
「―――伏せいッ!」
だが、イングラムの言葉は間に合わなかった。
唯一、偶然にもエリスが頽れると同時にバランスを崩したグレッグだけが、奇しくも彼の言葉通りの行動を実行していて難を逃れたのである。
しかし、蜘蛛は小脳から四肢に向けて発するべき回避の運動信号をすら、送ることができなかった。
白銀の閃光が、背後から目の前を奔り抜ける。
少なくとも、グレッグにはそう見えた死の風は蜘蛛の首を通り抜け、自分の髪の毛先を擦過して、目の前の木々を切り裂いていく。
それが何であるのか、彼には皆目見当もつかなかったが、それでも致命的な何かが蜘蛛に直撃したのだということは理解できた。
「蜘蛛…?」
応えは、ない。
呆然と前を見据えたままピタリと動かなくなった蜘蛛は、そのまま緩やかに、そして鮮やかに朱い横一文字の切り口を首の表面に浮かび上がらせ、じわりと滴る血に滑るように、ソレがごろりと落ちた。
グレッグの眉が、途端に八の字に吊り上がる。
落ちた蜘蛛の首がこちらに向き止まり、驚愕も恐怖もない無表情の顔がかえって不気味にグレッグを見つめたまま、瞳の光が消えていく。
とても理解が追いつかない、追いつきたくもない現実が、もう二度と戻らない過去として大地に転がり、昏い眼差しで見上げているのだと、彼は知る。
―――これが、死だ。
「…ッ、ぅぅぅぉぉぁぁぁぁああああああアアアアアア!」
グレッグの口が裂けそうなほどに開き、声を発するよりも前に低く振動する喉から、ディーンの森を震わせる嘆きと怒りの絶叫が迸る。
「“遠ざかる相剋の楔”(アウト・サイト)」
エリスが力なく地面に倒れたことにも気づかず、仲間の死に瞠目して硬直するグレッグの身体が後方に吹き飛んだ瞬間、直前まで立っていたその場所に再び閃光が疾走する。
これはイングラムの機転だったが、しかし神秘の威力を加減するまでは圧倒的に時間が足りなかったため、その直撃を受けて樹木の幹に激突したグレッグは後頭部を打ち、そのまま崩れ落ちて気絶した。
「…可愛い部下のためとはいえ、随分と粋な現れ方をするものじゃな。…のう、剣聖バールゼフォン卿…?」
イングラムの視線の先、切り口に沿って緩やかに滑り落ちる樹木の陰にその男、バールゼフォンはいた。
右手に剣を携え、油断のない獅子の眼差しを向ける男の殺気を受け止めながら、イングラムは先の不可解な衝撃波が剣聖による間接的な攻撃であったことを直感で理解する。
「貴公こそ、あの包囲網を破るとは大したものだ」
徒歩の早さでゆっくりと、バールゼフォンは樹木を避けてイングラムの前に現れる。
絶技の初弾を躱した彼に対し、無防備にも位置を晒した剣聖の心境はよほどの自信の現れなのか、それともイングラムを格下と見たがゆえの余裕なのか。
「それに、エリスがテムズ川を渡り、王都に直進していると見抜いた洞察力や見事。貴公の判断が少しでも遅ければ、この戦いはとうに決着がついていたものを…」
…、そのどちらでもない、とイングラムはすぐさま否定した。
互いの必殺の間合いに足を踏み入れた剣聖は歩を止め、地面に横たわる副官の怪我を一瞥する。
夥しい汗が額に浮き出ており、腹部の下生えには彼女の血が付着していてじわりじわりと拡がっている。
朱い血の筋が溢れる青褪めた唇の呼気も荒く、目を開ける体力すら惜しい様子である。
右第二・第三肋骨の骨折、肝臓に著しい負担、吐血および喀血も見られ、特に血腹からの大量出血はエリスの表情を窺う限り、少なく見積もっても彼女の全体重の四分の一近く、その他にも打撲傷や切創が数多く見受けられた。
それは間違いなく、生死に関わる危険な状態であった。
「よくぞ見破った。やはり貴公を優先的に倒しておくべきだったか。さすがはイングラム卿…。こうして直に会うのは三度目だが、互いに歳は取りたくないものだな」
エリスのダメージを精確に把握し、剣聖は不敵な笑みを浮かべる老魔術士を見やる。
「ふん、お主に褒められても嬉しくないのう。…それに、わしの可愛い部下が一人、お主の技の前に倒れてしもうたわ」
どちらも互いの出方を窺い、全身のあらゆる微細な動きにも反応できるよう神経細胞を電列励起させ、エンドルフィンを放出する。
両者の距離は四メートル。
ここまで近づけば剣聖が圧倒的に有利かと早計に走りそうになるが、相手がイングラムであれば簡単な魔導罠を仕掛けていても不思議ではない。
尤も、絶技ソニックブームによる間接攻撃が可能なバールゼフォンであれば近づくまでもないが、彼が手に持っているのは強化処理をこしらえていない一般的な剣であるため、これ以上の斬撃は剣の耐久力を大幅に超え、壊れてしまう可能性が高い。
バールゼフォンの経験則が正しければ、あと二・三回も斬撃を繰り出せば、この剣の刃は砕けて使い物にならなくなる。
ここまで彼の斬撃に堪えたこと自体がすでに奇跡に近いのだが、さらにその上、スレインがこちらに向かっているはずであることを考慮に入れても、今ここで剣を失うわけにはいかなかった。
「…私としては、彼女を引き渡してもらいたいのだがな。今ここで彼女を失えば、マーシアは貴重な人材を失うこととなる。
…それとも、我が剣の露と消えて森に朽ち果てるか?」
じろりと眼球だけを動かし、イングラムは剣聖を見据える。
「ふむ、お主らしくもない焦りが窺い知れるの。…いったい何をそんなに焦っておるのだ?
彼女の身を案じてか?
それとも魔人の動向が気になるか?
…あるいは、スレインの移動の気配を察してのことじゃろうかな?」
そう言って、イングラムは唇の端を冷酷に吊り上げる。
「まさか、わしらを同時に相手して勝てると思うほど自信家でもあるまい。
…ここは退いた方が良いと思うのじゃがな。そうしてくれれば、わしらはあえて追うまいて。
無論、お主の見目麗しい副官殿についての処遇も諒恕してやらんでもないぞ」
しかし、剣聖は否定もしなければ肯定もしない。
「それは私の台詞だな、イングラム卿。よもやスレインが辿り着くまでに、ここまで接近を許した私を防ぎ切れるとお思いか」
「お主が本気なら、こんな無駄口を叩くまでもなく、とうに仕掛けておるじゃろう。それをせぬということは、すでにこやつに仕掛けたトラップに気づいたということ。
…ふん。こんな時でも、つくづく冷静すぎるお主が一番嫌いじゃわい」
剣聖は、初めて口元を微笑ませた。
「いつまでも食えぬ奴だ。スレインとは大違いだな」
「元々、わしとアレでは役割が違うでの。奴が光を担うなら、わしは闇を引き継いで支えてやらねばならぬ」
ふと、そこで剣聖の笑みを理解した。
「…なるほど、お主も同じ考えか。ククク…、なるほど。確かに…、本当に、互いに歳は取りたくないものじゃな」
「時代は変わっていくモノだ。その行く先が希望であれ絶望であれ、変わっていく性質であるものを逆行させることは誰にもできない。
…ならば、我々は世界が望む役割を果たせばいい。それは紛うことなく、我々でなければ果たし得ないことだ」
「大層な役割を押し付けられたものじゃな。…わしも、お主も、もっとこの時代に成すべき仕事があるじゃろうて」
「後の仕事を若者に押し付けることができるのも、老人の役得というものだ」
「ふん。お主がそんな軽口を言うとは、世も末じゃな。…もっと違う時代であれば、良き友になれたじゃろうに」
「ブリテンは変革の時を迎えようとしている。…そして、おそらくはスレインが最後の聖騎士となるだろう。
…その時、あの男が抱く幻想が、今と変わらぬことを願っている」
「闇を知らぬアレには難しい注文じゃが…、しかし、剣聖と呼ばれるお主も弟子に対しては随分と甘いのう…」
途端、剣聖の瞳が鋭く細まった。
「…語りすぎたな。
…良かろう。たった今、エリスはここで死んだ。ならば死体を魔人の傍に置いておくよりも、貴公らに処分してもらった方が確かに良い」
「良かろう。元より、我等も反逆者を始末せねば先には進めぬ。
…安心せい。部隊の安全を確認したなら、彼女はスレインに面倒を見させるからの」
バールゼフォンは微笑した。
「じゃじゃ馬にじゃじゃ馬を宛がうか。貴公の趣味も随分と悪くなったな…」
そう言って、剣聖は背を向けた。
「…残念だが、結界は破壊不可能だ。今はヴィヴィアン殿が辛うじて抑えているが、臨界点を超えるのも時間の問題らしい。
…その前に、対策を講じる必要がある」
イングラムは溜息を漏らした。
「やはり無理か。高速更新型の結界は特に厄介じゃから困る…。
…分かった。こちらでも何か手を打っておくことにしよう」
イングラムが瞬きをした、その瞬間にはもう、剣聖の姿はどこにもなかった。
「イングラム…! 無事だったか…!」
闇夜にざわめく木々の葉が揺れて、入れ代わるようにスレインが現れる。
イングラムは、彼の無事を確認して心の中で安堵した。
「お主こそ、よく持ちこたえてくれたの。…じゃが、新たな問題が浮上したわ。
スレイン、お主は主力を後退させ、わしらと合流させい。そうすれば、向こうも容易には手出しできなくなるからの」
「…分かった。…だが、バールゼフォン卿がこちらに来たはず。今、無闇に動くのは―――」
「安心せい。奴はお主が来て引き返したわ。…尤も、部下が一人だけ殺られたが、奴の副官を捕まえられたなら仕方ない犠牲じゃ」
「副官…?」
スレインはイングラムが指し示した方向へ目をやると、そこにエリスが横たわっていることに気づいた。
「エリス…!?」
「なんじゃ、知り合いか。
…まあ、そんなことは後回しじゃ。今はちょいと時間がないでの、お前は早く部隊を引き返してこい。こやつは、わしが責任をもって治療してやる」
「…分かった。イングラム、よろしく頼む」
風に溶けるように走り去っていく聖騎士の背中を見やり、そしてもう一度、大地に横臥するエリスを見やった後、イングラムは再び溜息を落とした。
「…確かに、そろそろ老人は次代に仕事を委ねるべきじゃな。豊かな才能に恵まれた若人たちは、何よりも尊い財産じゃからのう…」
闇が下りて、天蓋に点る星たちが瞬いている。
この日、剣聖との戦いにおいて多くの被害を受けたウェセックス王国軍は敵マーシア王国軍の後退に合わせ、全部隊を一時的に王都へと帰還させた。
ウェセックス王国軍が軍備の再編成と西ドゥムニア王国軍への再侵攻を計画する中、ブリテン島の西部に勢力を構えていたウェールズ連合軍はポウィス奪還を果たし、マーシアを牽制。
剣聖バールゼフォンは、南部の“テリック砦”に部隊を駐留させ、再び王都へ帰還したのだった。