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第十三話 〜静かなる闇 中編〜

無計画に定評があるオワタ式です。


そろそろ風邪を引いても仕事の鬼な友人Y氏に『お前アホだろ』と本気で罵られそうで怖いのですが…。


今回は物語前半部の転換期フラグということもあって、またまたやってしまいました。


一話でまさかの30ページ超え!


うう…、本当にすみません…。


力を入れる話では、どうしても長くなってしまう傾向にあるようで…、こんなオワタ式で良ければ、どうか最後まで応援していただけると本当に嬉しいです!


皆さんの期待を裏切らぬよう、頑張って更新していきますね!


では、長くなってしまいましたが、引き続き本編をお楽しみください。

 聖騎士スレインと剣聖バールゼフォン。


 両国を代表する主力部隊は、丘陵地帯コッツウォルズにて、ついに衝突した。


 しかし、両者は互いに拮抗した兵力であるため、無意味な消耗戦となる真正面からの総力戦は避け、互いの出方を窺う消極的な牽制の繰り返しとなっていた。


 聖騎士スレインは、剣聖のらしくない消極的な戦い方に不審を募らせながらも、相手が相手であるがゆえに今一歩、罠の可能性を考慮して攻勢を踏み留めていた。




 その頃、ベンシングトンを防衛拠点としたイングラムの部隊も、副官エリスの部隊と交戦状態に入っていた。


 エリスの部隊一万に対し、イングラムの部隊は五千と二倍の兵力差ではあったが、イングラムの徹底した防衛戦術と伏兵戦術により、事態は膠着。


 どちらも決定打を欠いたまま、戦況は緩やかに長期戦の様相を呈した、かに思われた。


 ―――しかし。


 突如として王都に撤退したイングラムの伝令から、その旨を受けたスレインは、同時に一気に攻勢へと転じた剣聖の猛攻を受けて後退。 


 城壁の修復作業に着手はしていたものの、まだ実用段階にまで至っていないグロスタシャーで篭城するのは愚策と判断。


 グロスタシャーを放棄した聖騎士スレインと、進軍を開始した剣聖バールゼフォンは、迷いの森ディーンへと戦場を移すこととなったのである。




 一方、十字架による恐慌が部隊に浸透してしまったイースト・アングリア王国軍は、セレス将軍による指示の下、リュジット砦への攻撃を一時中断し、後退。


 セレス将軍は、魔人ヴェンツェルの提案によって急遽、互いの接見の場を設け、多くの兵士に囲まれながらも席に向かい合うこととなった。


 初めて会う魔人の意図を探りながら、非人道的な拷問を受けた捕虜の速やかな返還を求める強気なセレスに対し、ヴェンツェルはあっさりとそれを承諾。


 無事に捕虜を取り戻したセレスは、接見の場において隙だらけの魔人を暗殺する好機を、密やかに窺っていたのであった。


 『ウェセックス王国軍 聖騎士スレイン』



 スレインたちが今いる地点は、コッツウォルズ丘陵の西側―――現在では“製塩業者の丘”と呼ばれている、急斜面が込み入った場所である。


 ここでは騎馬による突撃が行えず、定石となる配置としては、弓兵および魔術兵が後方援護をしつつ、歩兵によって前線を維持するといった按配である。


 しかも周囲に対して見通しが良いために、強力な戦術である伏兵が使えず、攻勢を仕掛ける側としては非常に頭を抱える地形であるのだった。


 現在は双方ともに拮抗した兵力であることを自明としているため、愚かな消耗戦となる真正面からの衝突は避け、互いの出方を窺いながらの睨み合いとなっていた。


「スレイン様、やはり敵の動きは不気味です。

 こちらが動けば退きますが、逆にこちらが退こうとすると再び攻撃を仕掛けてきます」


「…そうか、分かった。

 下がっていいぞ」


「ハッ。失礼します」


 踵を返した偵察兵からの報告に、スレインは眉を顰めた。


 先刻から剣聖が仕掛けているのは、およそ戦術とは思えぬ武力接触だった。


 まるで自陣の懐深くまで誘き寄せんとする意図を剥き出しにしたそれは、時間稼ぎと見るには攻撃的であり、かといって精力的に攻撃を仕掛けてくるような気配でもない。


 無論、聖騎士最強と謳われる人物が聊爾を繰り返すはずもないのだから、それはやはりこちらの部隊を一網打尽とするべく練られた罠である可能性が濃厚であったが、そもそもが怪奇的な行動である以上、成功するとは思えない。


 ましてや、相手はかつての弟子である自分なのだ。


 最初から軽んじて挑発に乗るはずもなく、焦燥感に任せて軍を動かすこともありえない。


 それは、師である剣聖が一番よく知っているはずなのに。


「だからこそ、迂闊には手を出せないのだが…」


 あるいは、それをこそ囮として、他に何らかの策を講じているのではないか、とスレインは睨んでいる。


 だが、部隊を回り込ませようにも、この地形では周囲の状況が容易に窺い知ることができるし、元々が急斜面で構成された丘陵である以上、こちらの本陣を急襲することもできないのだ。 ならば、これはただの時間稼ぎではないかという考えもできるのだが、果たして何を待っているのかと言われれば答えることは難しい。


 とはいえ、防衛戦に適した地形をあえて放棄し、一気呵成に攻め込もうとするには時期尚早であるようにも思われた。


 確かに、南のイングラム率いる部隊は長期戦となれば形勢不利になるのは明白だが、だからといって短期決戦の総力戦に持ち込めば主力の被害もまた跳ね上がる。


 通常、部隊同士の戦争では二割の損害が出た時点で大敗となる。


 なぜなら、一万で実行可能な作戦を八千で維持するのは困難であるため、立案した作戦行動が兵力不足により実行不可能となった時点でその作戦はすでに失敗であり、即ち大敗であるからだ。


 南の援軍として駆け付けたは良いが、今回の敵を退けたとしても今後の部隊行動に支障をきたせば、もはやマーシア王国を攻めるどころではなくなってしまう。


 それゆえに今、スレインは慎重に慎重を期した判断を求められているのだった。


「罠か、時間稼ぎか、どちらも正しいのか、どちらも間違っているのか…」


 ならばいっそのこと、翩翻とひるがえる旗を掲げたここを囮とし、自分をもあえて囮として部隊を回り込ませ、敵軍の脾腹を突くか。


 それともここは森まで部隊を後退させ、グロスタシャーに伏兵を潜ませたうえで敵を懐まで誘い出し、挟撃するか。


 どちらも危険な策だが、このまま手を拱いているわけにもいかない。


「くそ…。どうする…、どうするのだ、スレイン…!」


 身動きのできない自問に頭を悩ませながら、手に汗握る緊張感がスレインを苦境に追い込んでいく。


 少しの判断ミスが部下の命を奪い、彼らの家族を悲嘆させ、更には国を貶めることとなる聖騎士同士の戦争に、彼は今、改めて威信を背負う象徴の重圧感に苛まれているのだった。


 『ウェセックス王国軍 イングラム元帥』



 ベンシングトンは、元はウェセックスとマーシアとが、両国を隔てるテムズ川を利用して国境線を見張るために設けた前線施設のようなものだった。


 しかし、マーシアの傀儡であった前王ベルトリックの計らいによってテムズ川を跨ぐ橋を完成させ、両国の交流を図り、いつしか街としての体裁を形作るまでに至ったのである。


 この街は、その中心部を横切るようにテムズ川が流れており、そこに橋を設けて、小さな監視塔を中心に、両岸の民家や商店が立ち並ぶといった按配なのだった。


 イングラムは、前哨戦での勝利によって得た束の間の時間を、その橋の上で水面を眺めながら過ごしていた。


 北側の入口付近に椅子や樽、箱や家具などの様々な障害物を乱雑に並べ、その物陰から射手が斥候に合わせて後退しながら弓を引く。


 その後、弓兵は街中に撤退し、第一魔導兵団と弓部隊に援護された第三騎士団の三分の一が入口を固め、騎士団の残り三分の二が左右に回り込んで敵斥候を伏撃する。


 斥候を叩くメリットは豊富だ。


 その後続部隊は敵を警戒して進軍速度を落とすこととなり、その結果、イングラムは多少の時間稼ぎに加えて、次の策を整えることができるからだ。


 そして、ここまでは波乱もなく順調に事を進ませることができたのだが、斥候を潰したとはいえ、敵は数百程度の被害にすぎない。


 次はまだ一万近くも残る後続部隊を相手にしなければならず、それには部隊の全兵力を動員しても足りないのだ。


 次の策は、戦術と呼ぶには心細いものだった。


 障害物に火を放ち、避ける位置に落とし穴を用意する。


 入口は先と同じく騎士団に任せ、後方より魔術兵と弓兵が支援。


 しかしながら数で押し切られることを考慮に入れ、様子を見てウェセックス側の岸まで後退し、橋を挟んで膠着とするのである。


 さすがに橋頭堡までは設置できそうにないが、最終手段として橋を落とすことも厭わない。


 だが、できることなら橋を落とす策は使いたくはなかった。


 なぜなら、この戦術には致命的なデメリットが生じるからである。


 仮に橋を落とした場合、運よく敵を引きつけたとしても、せいぜい数百程度の被害に留まり、しかも南へと進軍不可となった敵はそのまま剣聖の部隊と合流するはずだからだ。 つまり、聖騎士スレインの部隊一万であるのに対し、剣聖バールゼフォンの部隊は一気に二万近くにまで膨れ上がってしまい、両者の作戦行動において甚大な影響を及ぼす羽目になるのだ。


 しかも、こちらがスレインの部隊と合流する時間は、テムズ川をディーンの森経由で迂回しなければならぬため、敵が剣聖の部隊と合流するよりも遥かに遅い。


 こうした事情が重なれば、スレインの部隊が大敗を喫する可能性も高まるため、橋を落とす策はなるべく使用を避けたいところなのだった。


 イングラムは、緩やかに流れる川を覗く。


 ここが両軍の睨み合いとなる地点となるのは、おそらく時間の問題だった。


 最悪の場合、ここが戦場と化して橋を落とす可能性もあるが、スレインを孤立化させるような戦術は最後まで取っておくべきだろう。


 その時、後ろから駆け付ける兵の気配を感じ取り、イングラムは振り返った。


「イングラム様。

 ご命令どおり、落とし穴の設置を完了いたしました」


 伝令の報告に、イングラムはようやく、心持ちながらも微笑した。


「そうか、やってくれたか。…ご苦労じゃった」


「いえ、後続部隊の到着が思ったよりも遅かったのが幸いしました。

 これで、ある程度は敵の数を減らせるかもしれませんね」


 イングラムは頷いた。


「うむ。…じゃが、ここから先は神のみぞ知る運否天賦の御手に委ねるしかあるまいがな」


「しかし、それにしても敵は遅いですね。

 イングラム様の見立てでは、もう少し早く到着するはずだったのですが…、やつらはまだ、少し距離が開いた場所で進軍していると偵察が話しておりました」


「それだけ伏兵を警戒し、慎重に進んでいるということじゃろうな。

 どうやら敵の指揮官は、石橋を叩いて渡る人間のようじゃ」


 そう言ってイングラムが橋桁の手摺を叩いて見せると、伝令は愛想笑いを浮かべた。


 と、そこで伝令は何かに気付いたのか、ふと橋桁から身を乗り出して川を見やった。


「上流から草や葉が流れてきていますね…。

 嵐でも近付いてきているのでしょうか…?」


 イングラムも同じように水面を見たが、先ほどはなかったはずの雑草や葉が、上流から下流に向かって確かに流れていた。「うん…? …いや、空を見る限りでは蒼天じゃな。

 あのような小さな雑草であれば、いかな強風が吹こうと受け流すじゃろうて」


「では、誰かのイタズラですね」


 イングラムは呵々と笑った。


「ここより上流には街もないのじゃぞ?

 この程度の些細なイタズラをしたところで、気に留めるのはワシらぐらいの―――」


 そこでイングラムは気付いた。


 もし強力な台風レベルの風が吹き付けた場合、巨木が薙ぎ倒されることはよくある話だが、そうした強風でも、こんな小さな雑草は案外としぶとく大地に根を張って生きるもの。


 ならば、今このテムズ川に流れる雑草の群れは何か。


 これらがある程度の距離が離れた地点から流れ着いたことは誰にでもわかることだ。


 従って、この雑草を川に流した張本人は、イングラムたちが発見する数十分ほど前にそれを実行したと考えられる。


 しかし見たところ、雑草は毒作用のあるものではないようであったし、単なるイタズラと見るには早計すぎる。


 イングラムは、さらに身を乗り出して橋脚を見やると、その下部が黒く変色しているのが見て取れた。


 その部分は、長時間、水に接触していた橋脚部分が変色したものであり、それが肉眼で見えることは即ち、現在では水位がかなり下がっていることを意味している。


「しまった! 上流からか! ぬかったわ…!」


 あまり見ることのないイングラムの怒気に狼狽しながらも、伝令兵はおそるおそると顔を覗かせる。


「あの、イングラム様…、何か…?」


 イングラムはすぐに伝令に向き直った。


「急ぎスレインに伝えよ! 我らは橋を落とし、即刻、王都へ帰還するとな!」


「えッ…!?

 し、しかし、それでは後続部隊が…!

 スレイン様が孤立してしまいます!」


「それは囮じゃ!

 敵は斥候も後続も囮として別動隊を編成し、引き潮で浅くなった上流地点からテムズ川を横断したのじゃ!

 そやつらは今頃、王都に向かって直進しておるじゃろう!」


 そのため、踏み付けた靴底の雑草が川によって洗い流され、下流であるこの街に流れ着いたのだろう。 そしてそれは、すでに相当数の敵兵がテムズ川を渡ったことを意味しているのだった。


「なッ…!?

 では、敵の狙いは初めから王都であったと!」


 イングラムは頷いた。


「そうでなければ説明がつかぬ! ええい、今は一分一秒が惜しい! 急ぎ早馬を走らせよ!

 スレインには合わせる顔もないが、王を殺させるわけにもいかんのじゃからな!」


「ハッ!」


 伝令は逼迫した状況を理解し、すぐさま走り去っていく。


「くっ、さすがは剣聖じゃな。

 華々しい戦よりも中身ある作戦を取ったか。

 …じゃが、さすがに王を殺させはせぬぞ」


 完全に裏をかかれた盲点を憎々しげに噛み締めながら、イングラムはスレインの無事を切に願うことしかできない自分の至らなさを恥じた。


 しかし、仮に気付いていたところで、二倍もの兵力差がある以上はベンシングトンから割く余力などなかったこともまた事実。


 老魔術士長は、せめて王を守りきる責務を果たすことで、後々の非難を存分に浴びようと決意したのだった。


 『マーシア王国軍 剣聖バールゼフォン』



 バールゼフォンは、自陣の中でも一際高い丘のうえで腕を組み、広々と開いた前方を見つめていた。


 スレインの好地点と違って、バールゼフォンが陣取る地形は比較的、勾配の緩やかな見晴らしの良い丘陵である。


 そのため、最初から防戦には不向きであり、攻勢しようにも相手の陣地は圧倒的な地形効果で防御力に優れているために、こちらの兵の消耗率が高い。


 従って、もし本格的に戦うとすれば対等な地形条件で攻勢を仕掛けたい剣聖は、ゆえに前線で小規模の威嚇誘導を実施したのだが、勿論、この威嚇には効果を期待していない。


 元より、一定の機が訪れるまで無理に攻め込む必要のない彼は、この誘導伏撃を隠れ蓑とした別の策が成功までの間、スレインの注意を今作戦の最大の囮である自分に向けさせる必要があったからだ。


 別の策―――即ち、南に進軍した一万のうち、エリス率いる二千の少数部隊で暗々裏にテムズ川を渡り、ウェセックス王都ウィンチェスターへと急襲する今作戦の本懐である。


 テムズ川は、その潮汐によって水位や潮流が著しく変化することで知られている。


 普段であれば人一人を飲み込むにも容易い深さだが、下流になれば引き潮によって、水位が成人の腰間ほどにまで下がるため、当然、イングラムも下流付近の潮汐には警戒を抱いていたはずだった。


 ―――ならば。


 もし、それとは真逆に、上流においてそうしたポイントがあったならば、どうか。


 これは数十年前、テムズ川が一度、氾濫したために偶然にも発見された希少な地点であったが、バールゼフォンはそこに今作戦の必勝を見出だしたのである。


 これは、まだスレインが幼い頃、イングラムが現国王エグバートの即位に躍起となっていた時期であるため、二人が知らなかったのも無理からぬことだと剣聖は踏んでいた。


「これを見破れば、スレインは私が思っていたよりも成長したことになるが…。

 果たして勝利の女神はどちらに手を差し延べたのか…」


 バールゼフォンは静かに目を閉じ、厳格な姿勢でもって報告を待ち続けた。


 これの成否によって、彼が次に取る行動が決定するのだ。


 必要以上に緊張感を高めず、しかし無駄に気を緩めずに、剣聖は細胞の一つ一つを励起させて瞑想する。 その時、彼はこちらに駆け寄る人の気配を精確に捉えた。


 エリスより遣わされた伝令兵は、こちらが声をかけるよりも早く向き直る剣聖に一瞬だけ瞠目したが、すぐさま走り寄って跪いた。


「報告します。

 エリスさま率いる別動隊二千はテムズ川踏破に成功、予定通り、そのまま王都へ南下するとのことです」


 それは、バールゼフォンの策が九分九厘、成功したことを意味していた。


「そうか。連中、見事に陽動に引っ掛かってくれたな…」


 剣聖は更なる人の気配を察して目をやると、今度はおそらく、ベンシングトンにて南下に行き詰まった残り八千の部隊からの伝令が走ってくるのが見えた。


「報告します。

 敵はベンシングトンの橋を落とし、撤退を始めました。

 これにより、当初の作戦通り、バールゼフォン様と合流する予定でございます」


 剣聖は頷いた。


「よくやってくれた」


 そう言って、再びエリスの伝令兵に振り返る。


「お前はこれより我が指揮下に入れ。

 前方の敵部隊に総攻撃をかけるため、皆に作戦準備を心得させよ」


 伝令兵は立ち上がり敬礼すると、そのまま走り去っていった。


 バールゼフォンは残った伝令兵に顔を向けた。


「お前は部隊に戻り、敵の側面を突くように伝えろ。

 敵の指揮官の注意が完全に向くよう、私も出陣する」


「ハッ!」


 伝令兵は慣れた動作で略式に礼をした後、すぐさま踵を返して立ち去っていった。


 バールゼフォンは、見えぬはずの一番弟子に語りかける。


「スレイン、次があれば憶えておくがいい。

 聖騎士とは、敵を釣る最大の餌なのだ、ということを」


 厳しく眉を顰める剣聖の目は、はっきりと、遠く離れた聖騎士スレインを捉えていたのだった。


 『ウェセックス王国軍 聖騎士スレイン』



 スレインは、小競り合いの治まった前線の謎を訝しげに思案していたが、慌てて駆け寄ってくる伝令兵の狼狽した様子に、刹那の時が凍りつくような嫌な予感がした。


「スレイン様、敵が攻勢に打って出ました!

 前線には聖騎士バールゼフォン卿の姿もッ!」


「なにッ…!?

 このタイミングでか…!?」


 目立った動きのない敵軍に対し、そろそろこちらから仕掛けようかと伝令を送ろうとした矢先の敵襲である。


 さらに前線に剣聖がいるということは、敵軍が必勝の策をもってして動いたということ。


 だが、謎だらけの小競り合いを繰り返しての突然の襲撃は、やはり何らかの機を窺っていたと見るべきだろう。


「分かった、私も前線に出る。各部隊に―――」


「スレイン様ッ!」


 別の伝令が切羽詰まった様子で駆け寄り、スレインは不穏な気配を察した。


「どうした?」


「た、大変です!

 テムズ川に沿って進軍したと見られる敵援軍が、南東より侵入してきました!」


 スレインは思わず瞠目した。


 本国からの援軍を待っていたというなら、それは北東からのはず。


 それがなぜ、わざわざ南東から回り込んできたのか。


「敵の数は?」


「約八千ほどです!

 現在、すでに前線が接触しておりますが、奇襲によって虚を突かれ、苦戦しております!」


「八千だと…?

 どういうことだ?

 敵は二万以上もこちらに戦力を割いてきたというのか?」


 それは、常識的に考えて、まずありえない事態だった。


 ただでさえ二方面の敵国に対して国境警備を万全にせねばならぬ慌ただしい時期に、二万という兵力で南下すること自体が極めて異例である。


 ここからさらに八千も援軍を送れば、国境警備に必ず穴が開き、易々と敵の進軍を許すこととなるのは明明白白。


 つまり、これは本国からの援軍ではあってならない部隊なのだった。


「スレイン様、ご指示を!」


 一万八千の部隊を相手に状況は極めて不利であるが、かといって後退すれば、イングラムの部隊が孤立してしまう。


 もしイングラムが敗れた場合、もはやここからでは王都まで戻るに時間がかかりすぎる。


 ゆえにここは、絶対に負けられぬ防衛線であるのだった。


 ―――が。「スレイン様!」


「またか…! 今度は何だ!?」


 二度あることは三度あるというが、さしものスレインも声を荒げずにはいられなかった。


 三人目の伝令兵はスレインの前で跪いた。


「イングラム様のご指示により、ご報告に参りました!

 敵の別部隊が引き潮で浅くなった上流地点よりテムズ川を渡り、王都へ進軍中であるとのこと!

 そのため、イングラム様は街の橋を落として増援を防ぎ、部隊を率いて至急、王都へ撤退するとのことです!」


「なッ!?

 テムズ川を渡っただと…!? …くっ、そういうことか…!

 ならば、八千の部隊はベンシングトンに向かった部隊なのだな?」


「ハッ!」


 スレインはようやく得心いったが、しかしまんまと敵の策に嵌まった自分を殴り付けてやりたかった。


 だが、今はそんな悠長に事を構えるわけにはいかない。


 急いで指示を出さねば、被害は広まる一方なのだ。


「よく知らせてくれた! 感謝する!」


 一拍の間を置いてから口を開いた。


「全部隊に告げろ!

 これより我らは南西、ディーンの森まで後退する!

 第一騎士団は私とともに剣聖の部隊を!

 第二騎士団は南東より侵攻する敵部隊に防戦しつつ後退させろ!

 また、第二魔導兵団については一足早く全力で森まで後退させ、フィッチ王国の遺産である隠し魔導砦を起動させるのだ!

 戦場はディーンの森に移る」


「ハッ!」


 三人の伝令はそれぞれの役目をもって三方に散っていった。


 残ったスレインは、やや誇らしげな面持ちで、しかしどこか悔しそうな表情をしていた。


「御師様、私はまだ、負けたとは思っていませんよ」


 次の瞬間、彼は駆けていた。


 己の戦場、相対するべき敵を打破するため、スレインは迷いを払拭して走る。


 かつての師、剣聖バールゼフォンとの戦いは、すぐそこまで迫っていた。


 『ウェセックス王国 フィダックス城』



 三人は、初めて出逢ったこの庭園で待ち合わせをするのが、すでに暗黙の了解となっていた。


 勿論、それはルナの体調によって大きく左右される交友の時間ではあったが、ジュリアはそれならそれでと部屋にまで押しかけてきたこともあって、二人の仲は親密と呼べるまでに育まれた。


 元々、不治の病により交友関係も制限されていたルナにとっても、初めての女友達である。


 尽きぬことのない話題は、しかし安定のない天気のようにコロコロと変わるものの、それが女の子の会話なのだろうと、グレッグは相槌ばかりをうちながらそう思った。


「…それでヴィクターは、いろんな場所を、転々としているみたい、なんだけど…。

 たまに怪我をして、帰ってくることもあるから…、私、すごく心配なんです」


「ふーん…。

 あなたも大変ね、忙しい弟さんを持って。

 …まあ、誰かさんみたいに失業中じゃないみたいだし、汗を流して働くのはいいことだわ」


「いや、ですからね…、俺は別にクビにされたわけじゃなくてですね…」


 ジュリアは微笑しながら、グレッグに振り向いた。


「ホントかしら?

 あなた、最近は毎日のようにルナと一緒じゃない。

 ほ〜ら、別に責めたりしないから、正直に白状なさいよ」


 グレッグは、拗ねた子供のように口を尖らせて腕を組む。


「違います。

 俺はヴィクターと違って優等生ですからね、辺境なんかに飛ばされずに、こうして王都でのんびりできるんですよ」


 そう言って、グレッグは誇らしげに胸を張ったが、ジュリアの胡散臭そうな視線に気圧されて徐々に徐々に目線を逸らすと、最後には、すみません、と小さく呟いた。


 ルナは、心配そうに首を上げた。


「本当なの? グレッグ…。

 そう言えば、前に新しい就職先が、なんて言ってたけど…。

 もしかして、馘首にされたの…?」


 グレッグは半ば自棄になりながら、全力で否定した。


「だから違うってば!

 俺はたまたま王都勤務が長く続いてるだけだって!

 …ったく。

 だいたい、俺がそんな甲斐性無しには見えないだろ?」


「…………」


「…………」


「………いや、あの…。

 せめて、どこでもいいから突っ込んでくれないと、俺、寂しいんですけど」


 堪えきれず、少女二人は破顔した。「ごめんごめん。

 そこまで言うなら、可哀想だから信じてあげるわよ」


 グレッグは肩を竦めた。


「ま、別にいいんですけどね。 

 お二人が笑ってくれるなら、どーぞどーぞ笑い者を演じてみせますよ〜ッだ」


 ジュリアは呵々と笑う。


「ほらほら、イジけないの。

 将来はルナを楽にさせるんだって、張り切ってる最中だもんね〜」


「え…?」


「ちょ…! 王女様ッ!? 今のは不意打ちすぎますって!」


「あら、いいじゃない。

 この際だから、本人に直接、言ってみたら?」


「い、言えるわけないでしょ! なに考えてるんですかッ!?」


「面白い事」


「人の恋路を弄ばないでくださいッ!」


 理解が追いつかずに首を傾げるルナを引き合いに出されては堪らぬと、グレッグはジュリアの一方的な口撃に赤面しながら背を向けた。


 その時、やけに慌ただしく庭園の入口に顔を出した、同じ暗殺者仲間の姿を捉えた。


 男もまたグレッグを見つけると、すぐに怒鳴り声を上げた。


「グレッグ! こんなところで何をしている!」


 少し距離が離れているため、グレッグも必然と声を張り上げる。


「蜘蛛か! 俺は休憩中のはずだ! ここへは来るなと言っておいただろう!」


 現在、グレッグが担当している任務は王の護衛である。


 二十四時間、たとえ王が眠っていようと二人一組で護衛するのが彼の仕事だった。


 蜘蛛は、そのグレッグの護衛任務に当てられたパートナーであったが、しかし、彼の鬼気迫る表情はグレッグを痛烈に睨み付けている。


 それが、単なる酔狂でグレッグに声をかけたのではないことを言外に示していた。


「お前こそ、なにを呑気にしてるんだ!

 マーシアの連中が門を突破してるんだぞ!」


『えッ!?』


 三人は同時に驚きの声を上げた。


 グレッグは、信じられぬとばかりに瞠目して声を荒げる。


「そんなバカな!

 スレイン卿やイングラム様が突破されたのか!?」


「わからん! なにせ突然だったんだ!

 守備部隊の連中が奮戦してるが、敵の奇襲に押されて危うい状況だ!

 お前も早く戻れ!」


「分かった! すぐに行く!」


 蜘蛛が立ち去ると、グレッグは不安そうに表情を曇らせる二人に向き直った。「悪い、少し用事ができた。

 二人は早く部屋に戻ったほうがいい」


 入口から、来たぞ、と怒鳴る声が聞こえた。


「あなた大丈夫なの?」


「王女様、男には、命を賭してでも守り抜かねばならない大切なモノがあるんです。

 大丈夫、俺は死にませんよ」


「グレッグ…」


「ルナちゃんも、まずは自分の安全を確保してから、祈ってくれ。

 その方が、俺も安心できる」


 ルナは小さく頷いた。


「それじゃあ、行ってくる。

 王女様、ルナちゃんをよろしくお願いします」


「あなたなんかに言われなくても守るわよ。大事な友達なんだから」


 グレッグは苦笑すると、すぐさま庭園を後にした。


 ジュリアはルナの手を自分の肩に回し、小さく溜息をついた。


「…男ってバカね。

 置き去りにされて心配する身のことを考えたことがあるのかしら?」


「ジュリアさん…」


「だから、私たちも戦うの。

 グレッグが帰ってくる場所を守る戦いをね。

 さあ、行きましょ。

 そうじゃないと、彼が安心できないみたいだし」


「…はい」


 なんだかんだと言っても、ジュリアという少女は強い、とルナは感じた。


 それは心の強さ。


 生まれついてより王女であることを義務付けられたがゆえの責任感と、一人の女の子として持つ彼女なりの価値観が、清濁併せ持つジュリアの芯の強さを形成しているのだとルナは思う。


 それは同時に、生まれついてより他人に依存する生活を強制された自分とは、やはり一線を画すものであったこともまた、感じていたのだが…。


 ルナはジュリアに支えられながら立ち上がると、安定しない足取りで庭園を出る。


 通路は左右に分かれているが、辺りにはすでに、無数の足音と激しい怒声、そして金属が鋭くかち合う音が響いている。


 途端、左の通路の角から剣を持った兵士が飛び出し、ジュリアはひっ、と悲鳴を漏らしたが、兵士は目もくれずに二人の前を通り過ぎていった。


「ジュリアさん、どうかしました…?」


 ルナが怪訝そうに尋ねるので、ジュリアは溜息を漏らした。


「そういえば、ルナは目が見えないのよね。

 今だけは、それが羨ましいわ」


 首を傾げるルナを支え、ジュリアは先ほどの兵士が飛び出してきた左の通路に向かって歩を進めた。 通路そのものは、それほど長くはない。


 せいぜいが五十メートルほどだったが、敵軍の来襲によって背筋がチリチリと焼かれるような緊張感が、ルナに合わせた歩みもあって、実際の距離以上に長く感じられた。


 一歩一歩、曲がり角に近付くたびに剣を持った敵兵が現れやしないかとジュリアは不安で堪らなかったが、しかし友達を守るという意志によって弱気ではダメだと強く念じ、震える足を進ませていく。


 それは、ルナも同じだった。


 むしろ目が見えない分、耳に響く喧騒が恐怖を増長させて、永遠の暗闇に興じる不協和音が胸の鼓動を際限なく高鳴らせた。


 元々が平均より低い体力しかない彼女は、この、底無しの混沌が真下に広がる極薄の刃の上を歩くが如き緊張感に苛まれ、不安に胸が押し潰されそうになる。


 右へと鉤状に曲がった通路を突き当たって道なりに進むと、ほどなくしてようやく二階に下りる階段まで辿り着いたが、その時にはもう、ルナは肩で息をするまでに体力を消耗してしまっていた。


「大丈夫? ルナ」


「は、はい、大丈夫、です…」


 そうは言うものの、安定しない呼吸から、苦しそうに顔を歪めているのは明らかだった。


「この階段を下りれば、あなたの部屋は目と鼻の先にあるわ。

 それまでは、頑張って…!」


 弱々しいながらも、しっかりと頷いて見せたルナに微笑み、ジュリアは再び彼女に肩を回して歩こうとした。


 その時、階段から急に駆け上がってきた兵士が勢いよくルナとぶつかり、身体を病に蝕まれた少女は紙礫のように吹き飛ばされる。


「あぅッ…!?」


 ルナは壁にしこたま後頭部を打ち付け、ただでさえ苦痛に苛まれた疼痛がこの衝撃によって怒り狂ったように起き上がり、力の限り暴れ始めた。


「頭が…! 頭が…! 割れる…!」


「ルナ! 大丈夫!?」


 ジュリアの声すら、頭痛に阻まれて聞こえていない様子だった。


「ダメ…! 解ける…! あぁ…! 頭が…!」


 起き上がるどころか、辺りを憚らずのた打ち回る彼女の様子にどうすることもできないジュリアは、いたぞ、と階下に呼びかける無神経な兵士をねめつけた。


「アンタたち! なんて事をしてくれたのよ! 彼女は病人なのよ!?」 ジュリアの剣幕に気圧されたのか、兵士はばつが悪そうに狼狽したが、そのまま彼女の前に跪いて頭を垂れる。


「申し訳ありません、王女様。

 我々はマーシア王国軍バールゼフォン将軍麾下の者でございます。

 ご友人に対するご無礼のほどは後ほど責任を。

 今は将軍の命により、貴女様を保護し、速やかに城を脱出するよう申し付けられておりますゆえ、どうかお急ぎください」


「―――え…!?」


 ジュリアは、予想だにしない言葉の羅列に一時は理解が追いつかなかったが、すぐに頭の靄を振り払って意識を切り替えると、激しく否定した。


「あなた何を言っているの!?

 私はウェセックスとの間で締結された条約に従ってここにいるのよ!?

 私がいなくなれば、本国が危うくなる!

 そんなこと、できるわけないでしょ!?」


「お叱りはごもっともでございます。

 しかし、すでにドゥムニア王国とは共闘作戦における密約を交わしており、すでに三千の兵を引き連れてこちらに進軍しております。

 あとは貴女様の安全を確保できたなら、彼らは敗北の屈辱と汚名を晴らすべく、満を持して蛮勇を振るうでしょう。

 さあ、お急ぎください」


 そんな、と後退るジュリアはひどく困惑した。


 確かに、先の戦争によって兵力を著しく消耗させられ、反攻の意志すら抱けぬ状態にまで追い込まれた本国ではあったが、マーシア王国軍と連動した作戦行動を展開すれば勝機を見出だせると踏んだのも、無理からぬ起死回生の一手である。


 現にどのような手段を講じてかは不明だが、マーシア王国軍は王城にまで攻め入り、その王手は決定的とも言えるほどだ。


 そこにどのような話し合いが行われたかについてはさすがに知る由もないが、ウェセックス領土の分割支配となれば条件としては申し分ない。


 …、ジュリアは、苦い決断を迫られていた。


 それも、どう考えても自分一人の意志だけでは到底変えられぬ、運命の選択を。


「うぅぁ…! あ…! 頭が…! あぁ…!」


 呻くルナの悲痛を耳にしながら、ジュリアは泣いてしまいたかった。


 だが、泣けなかった。


 泣いてはならなかった。


 自分は王女なのだ。


 自分には、自国民を守る義務と、幸福を平等に分け与える使命がある。


 それが王女であるがゆえの前提。 それが、自分が生まれ生きていく上で定められた、不変の宿命なのだから。


 下唇を噛み切り、仄かに血が浮き出したことにも気付かぬまま、ジュリアは意を決して顔を上げた。


 そこにはもう、一人の女の子としてのジュリアは存在しない。


 存在しては、ならなかった。


「…分かったわ。

 けど、彼女をこのままにはしておけない。

 あなたと接触したせいで、ひどく痛がってる。

 早く医者に見せないと…!」


「分かりました。

 では、私が背負いますので、王女様は私の後に着いてきてください。…ああ、応援もきてくれました」


 ジュリアが振り返ると、階下から急いで駆け上がってきた複数の兵士たちが現れた。


 彼らはジュリアに略式的ではあるが敬礼すると、すぐに事情を知る兵士と素早く疎通して先導する。


「では王女様、急ぎましょう!」


「え、えぇ…」


 後ろ髪を引っ張られる思いで、ジュリアは兵士に護衛されながら王城を脱出する。


 一人の女の子でいられた、不幸せな幸福の時間に感謝を込めて、さようなら…。


 彼女は、一時の夢に浸っていられた王城へ、ついに振り返ることはなかったのだった。


 『同時刻 フィダックス城 玉座の間』



 玉座の間は、喧々囂々たる雄叫びと、甲高い剣の悲鳴が入り交じる戦場と化していた。


 優に百人は入る程度の面積を誇る玉座の間は、その半ばほどに少しばかりの段差があり、その先に王と妃が座する玉座がある。


 エグバート王は、その玉座を障害物として上手く利用しながら、聖騎士スレインとのかかり稽古で鍛えられた勘を頼りに襲いかかる敵兵を迎撃していた。


 その周囲には、次々と攻め入る敵を食い止める警備兵が十人と、護衛の任務に就く暗殺者、蜘蛛の姿があった。


「行け行け! 標的は目の前だ! 殺せ!」


「何としてでも食い止めるぞ! 恐れるな! 陛下を守れ!」


 もう何人の敵を斬ったのか、蜘蛛は覚えていない。


 エグバート王もそこまでの余裕はすでになく、死角を消しながら、息つく暇もなく入れ替わる敵を相手取るのに精一杯だった。


 気合を放つ敵兵の剣を辛うじて防ぎ止め、力任せに弾き返して斬り伏せる。


 いつ終わるとも知れぬ命の削り合いは、一太刀ごとに神経を摩耗させて、殺人という意識を麻痺させていた。


「陛下、ご無事ですか」


 つい今し方、敵兵を殺して近付いてきた蜘蛛の言葉に、エグバートは鷹揚にして頷いた。


「しかし、これではキリがないな。

 味方はまだ来ぬか?」


「今、イングラム様の部隊がこちらに駆け付けております。

 それまでは、何としてでも我々がお守りいたします」


 イングラムの放った早馬が到着したのは数分前のことだ。


 尤も、全部隊が王都に戻るには少なく見積もってもあと三十分かかるのだが、それでも長い長い攻防戦に光が差したのは確かだった。


 蜘蛛は、再び手の空いた敵兵を見つけると迎撃に赴いた。


 しかしそれはフェイク。


 エグバートは、いつの間にか背後にまで迫っていた美貌の女騎士を見て瞠目した。


 味方ではありえない彼女の殺意を前に、エグバートは胸の前に剣を構える。


「何者だ」


 若い女である。

 歳は二十半ばか。

 蛾眉に彩られた瞳は凛と輝き、鎧から見せる手足や柳腰がなお美しく、見る者を魅了する。


 すらりと剣を抜く動作の間にも一縷の隙もなく、しかし豹のように鋭い剣気を漲らせて、彼女は口を開いた。「私はマーシア王国軍バールゼフォン将軍麾下の副官、エリス。

 エグバート王、その首もらい受ける…!」


 最後の一音と、エリスが踏み込んだのは同時だった。


 虚を突かれ、元より歴然とした力の差にあったエグバートでは、その速度に反応することさえ至難の業。


 バネのように撓めた瞬発力が、あたかも猫科の肉食獣めいた速度まで臨界し、互いの間合いを刹那に詰める。


「もらった…!」


 防御も回避もできぬ、大気を切り裂く剣撃がエグバートめがけて放たれた。


 あっという間に詰め寄られたエグバートは身体を硬直させ、振り下ろされる剣の軌跡を間近で捉えた。


「陛下ッ!」


 蜘蛛がかけた言葉も虚しく、エリスの剛剣がエグバートの前頭部に接触する―――!


 ―――その、刹那。


 一際、甲高い金属の衝突音が鳴り響き、わずかに眉を顰めるエリスの前に、ナイフを持つグレッグが現れた。


「させねぇよ…!」


 必殺の剣撃を止められ、エリスはすぐに間合いを取った。


「グレッグ、遅いぞ!」


 ここでようやく応戦していた敵兵を倒し、蜘蛛が合流する。


「悪いな、真の主人公は見せ場を心得てんだよ」


「ふん…!

 先ほどまで女とくっちゃべっていた軟派者の言う台詞ではないな」


 グレッグは、むっ、と口を尖らせた。


「いいだろ、別に。

 間に合わないモノを間に合わせるのも主人公の務めさ」


「では、その主人公とやらに今から大活躍してもらおうか」


「や、できれば手伝って。こいつ、他の雑兵と違って別格だ」


 暗殺者の中でも腕に覚えのある精鋭二人を前に、しかしエリスは油断も慢心もない冷ややかな視線を注いでいる。


「話は済んだ?

 貴方たちと違って、私は忙しいの。

 できれば、そこをどいてほしいんだけど」


 エリスの挑発的な誘い文句に、グレッグはあえて応えた。


「だったら、俺たちを倒すしかねえな」


「ふん、ヘラヘラして殺られるなよ?」


「へッ、どっちが…!」


 その瞬間、二人は一斉に駆けた。


 蜘蛛が左、グレッグが右に展開する左右同時攻撃。


 いかなる超人でも、一度に取れる行動は一度のみ。


 人間という身体機能の死角を突いた二人の連携は、まさに鼠の如き素早さと蜘蛛の冷酷さを秘めてエリスに襲いかかる。 だが、それは相手が動かなければの話だ。


 二人が動いたその時、エリスもまた敵の陣形を瓦解するべく颯爽と踏み込んだ。


 閃く二刃の軌跡。


 グレッグのナイフを鋭い剣撃で弾き、さらに後方から接近する蜘蛛のナイフを、初撃の太刀筋を利用して軌道修正し、受け止める。


「なッ…!?」


 驚愕に見開かれる蜘蛛を足蹴に吹き飛ばし、次いで死角から飛び出したグレッグに向かって剣を閃かせる。


「チィッ…!」


 グレッグは舌打ちを鳴らすが、上体を低くすることで横薙ぎの斬撃を辛うじて躱す。


 そのままエリスの懐に飛び込み、鮮やかなナイフ捌きをもって連撃を繰り出すものの、それらすべてをことごとく迎撃する女騎士の技量が遥か上をいく。


「こいつ…! 本当に手強い…!」


 しかしながら、エリスもまた、グレッグや蜘蛛の技量に心の中で舌を巻いていた。


 だが、特別訓練相手として手合わせの機会が多い彼女の身体には、悪夢のような超斬撃を繰り出す剣聖との戦闘経験が染み付いている。


 確かに二人の速度と技術は水準を遥か上回るものの、それでも判断を誤らなければ、冷静に対応できるレベルにすぎなかった。


「だが、これは躱せまいッ…!」


 上半身のバネを利用して連撃を仕掛けるグレッグにエリスの注意が引きつけられた刹那、吹き飛ばされていた蜘蛛は壁を蹴って、矢の速度で女騎士の背後に飛来する。


 これには、さすがのエリスも剣による迎撃は不可能であった。


 目の前の少年が繰り出す猛撃のすべては、いずれも致命の急所を狙い定めた精確無比の必殺である。


 それが、彼らがイングラムに求められた必須の技量であり、ゆえに彼らは信頼される暗殺者の一員に選ばれたのだ。


 言わば、イングラム麾下の暗殺者とはそれ即ち、ウェセックス王国が誇るダークナイトに他ならない。


 その暗殺者の中でも、三指に数えられる少年の全霊を込めた連撃に、さしものエリスも視線を切ることができない。


 ゆえに、なればこそ。


 無数のダースと見紛うほど鮮やかなナイフ捌きを見せるグレッグを囮に、蜘蛛の見えざる閃光が女騎士に命中する。


 ―――正しくは、する、はずだった。


「―――“天翔ける氷狼”(ライカンズ・ブルー)」


 必殺を確信した二人の暗殺者は、今度こそ驚愕した。 エリスの背に蜘蛛のナイフが貫く寸前、彼の体は物理法則を無視して突然、横方に吹き飛ばされた。


 否、吹き飛ばされたのではない。


 何も存在しなかったはずの空中から何の前触れもなく、全身をクリスタルのような結晶で構成された獣が現れ、彼の身体に覆い被さったのである。


「蜘蛛!」


 予期せぬ妨害に、グレッグは思わず彼に呼び掛けたが、すぐにそれを、強敵を前に自ら晒してしまった致命的な失態と悟る。


「遅い…!」


 グレッグの連撃が止まった刹那、エリスはここぞとばかりに当身を入れて彼を吹き飛ばした。


 人体最弱の急所である鳩尾に当てられた強烈な肩当てに、グレッグは胃が握り潰されそうな圧迫感を抱いたまま壁に激突する。


「ぐぅあ!?」


「グレッグ…!」


 仲間の窮地を前に一刻も早く駆け付けてやりたい気持ちを、しかし神秘の獣に文字通り身体ごと押さえ込まれ、蜘蛛は身動きが取れない。


 ふらりと定まらぬ足腰で何とか膝を屈するのを踏み留めたグレッグだったが、ピタリと喉元に突き付けられたエリスの剣先に不動を命令され、そうでなくても全身を走る激痛に表情を険しくした。


「クソ…! アンタ、魔導騎士かよ…!?」


 憎々しげに問い掛けるグレッグの言葉に、彼女はあくまでも冷ややかな目で若き暗殺者を見据えた。


「応える義務はないわ。

 尤も、貴方がそう思ったのなら、きっとそうなのでしょうね」


 最悪だ、とグレッグは己が浅はかさを呪った。


 蜘蛛を押さえ込む氷の獣といい、事前に呪文詠唱を済ませた上で背後の死角を補完する技量といい、彼女が魔導騎士の中でもかなり高いレベルに位置する使い手であることは明らかである。


 魔導騎士―――その名の通り、魔導を操ることができる騎士は、それだけで兵士百人分の働きをこなすと言われている。


 しかも、彼女が操って見せた魔術は、精霊魔術における“水”系統の大型魔術。


 未知の戦力を秘めた敵の能力を推し量ることもせず、勝利を焦ったことが今のピンチを招いてしまったのだとグレッグは後悔した。


 火系統魔術が、空気中の酸素を精霊の活力だとすると、それを継続して燃やす火種が術者の魔力であるならば。


 水系統魔術は、空気中の湿度に大きく左右され、その水の状態を術者の魔力によって変質させる魔術である。 水の気体状態は、俗に水蒸気と呼ばれている。


 これは通常、大気中にほぼ必ずある程度の割合を持って存在し、基本的に沸点以下の温度でも気化しているため、人は空気中の水蒸気量のことを湿度と呼ぶ。


 空に浮かぶ雲は、この水蒸気が凝縮されて液体になるか、凝固されて固体になった時に形作られるのだが、これは空気中に安定できる水蒸気量を越えたがために起きた、不安定な過飽和状態となっているからなのだ。


 エリスの水系大型魔術“天翔ける氷狼”は、こうした、空気中に含まれる水蒸気をかき集めて凝固させ、本能レベルでの操作を可能とした氷の獣を生み出す術なのである。


 氷狼と直結した本能とは即ち、生存本能のことを指している。


 あらゆる生命体にとっての最優先本能とも言うべきそれは、まさしく狼を象って主人に害を及ぼす敵を迎撃する。


 しかも、この氷の獣は自らの意思によって身体を、液体・固体・気体へと変質させることができ、必要に応じて変態することができた。


 そのうえ周囲に豊富な水の供給があれば再生は容易く、まさに主を護衛する絶対の守護者として敵に立ちはだかるのである。


 ただし、このように複雑な性質を持つため、神秘によって一度に生み出す獣は一体が限界であり、他の魔術は使用不可、さらに奥義と位置づけられる精霊召喚に負けず劣らずの魔力消費量を覚悟しなければならず、術者にとってもリスクの高い持続型魔術であることを念頭に入れておかなければならなかったが。


 剣先が喉元に触れている、その鋭い冷たさに薄皮一枚を隔てた死を感じながら、グレッグは眼前の女魔導騎士の隙を虎視眈々と窺っていた。


 しかし、寸耄ほどの油断も隙もない彼女から虚を見出だすのは容易ではなく、少しでも判断を誤れば喉元の剣が首筋を貫くのは火を見るよりも明らかだった。


 エリスは、そんな諦めの悪い少年の一挙手一投足に気を配りながら、口を開いた。


「この世に言い残したことはあるかしら。

 …なければ…、一足先に地獄へ送ってあげる」


「へっ…、それ、完全に悪役の台詞だぜ?」


「戦争に善も悪もない。

 …そして、戦争を終わらせることができるのはルールではなく、勝利か敗北かの、結末だけよ」


「いや―――」


 少年は、不敵にほくそ笑む。「―――愛だけが、戦争を終わらせることができるのさ」


 最後の一音を聞き届ける寸前、エリスは背後からの殺気に気付いた。


「ぬぅぉおお!」


「くッ!」


 エグバート王の渾身の一振りが放たれる。


 エリスは電光の速さで向き直り、王の剣撃を精確に捉えて受け止めた。


 その直後、背後の少年が迫る気配を感じた。


「おおりゃああああ!」


「なッ―――!?」


 エグバートの剣撃から一秒と経たずに繰り出されたグレッグの突進は、王の気迫に振り向かざるを得なかったエリスの腰間にナイフの刀身を深く突き刺す。


 突如として走る焼け付くような痛みと裂かれた肉の感触に、初めて苦痛の表情を浮かべた副官はしかし、すぐさま王の剣を薙ぎ払い、背後のグレッグに蹴りを入れて吹き飛ばし、二人から距離を取るべく後方に跳躍した。


 蜘蛛に覆い被さっていた氷狼は主の危機を察知してエリスの傍らに戻り、ようやく自由を取り戻した暗殺者もまた、王とグレッグに合流する。


 両者の間合いは、玉座の間中央に段差を持つ階段を隔てた位置で睨み合っていた。


「陛下、援護していただき、感謝の言葉もありません」


 辛うじて繋ぎ止めた命の救世主たるエグバートに、彼は敵を見据えながら会釈した。


「よい。お前が倒れれば、私が殺されていた。

 あれは、まさしく賭けだったよ」


 グレッグは、視界の片隅でじりじりと忍び寄る王の姿に気付いていた。


 だが、自分が王を見やればエリスはその不可解な視線の先をすぐに辿るべく感覚を研ぎ澄まし、背後のエグバートを感知するだろう。


 それを防ぐためには、何としても自分に注意を引きつけておかねばならず、グレッグはあえて敵に悪態をついて見せたのだった。


 それは、彼本来のキャラクターというものが、エリスの鋭い目を巧みに誤魔化した隠れ蓑となったのかもしれなかったが、今回はそれが上手く機能したと言えるだろう。


「―――だが、あれは厄介だぞ。

 マスタークラスの魔導技術を持つ騎士に加えて、精霊レベルの能力を備えた幻獣が相手なら、棄てる覚悟で挑まねば勝機はない」


 蜘蛛の言葉は正しい。


 そもそもが、エリスの技量は二人より優れている上、魔導技術に関しても造詣が深い。


 ましてや、その隣には彼女が生み出した氷狼が三人を威嚇しているのである。 魔術の具現化とも言うべき神秘の力は、その難易度に応じて四種類に分類されている。


 初歩魔術―――各魔術系統の骨格を成す、最も基本的な神秘の力。

 魔導に目覚めた半熟の魔術士たちの前に立ちはだかる、最初の試練でもある。


 中級魔術―――一般的に魔術士と呼ばれる者たちが身に着けた神秘の力。

 このレベルに応ずる魔術を操る者が、ようやく一人前の魔術士と呼ばれるようになる。


 大型魔術―――俗にマスタークラスと呼ばれる、魔術士の中でも一流の天才たちが自在に行使する神秘の力。

 この領域に足を踏み入れた魔術士は、強大な魔力の所有によって老化が著しく低下し、永ければ最大でも百五十年近く生存することができる。


 “奥義”―――各魔術における最高峰の超神秘の力。

 これらは奇蹟の力である“魔法”に負けず劣らずの絶大な威力を誇ると言われるが、その領域に到達するのは数えるほどしか存在しない。


 エリスはこれらの内、大型魔術に位置付けられる幻獣を生み出して見せた。


 元々、使い魔ではない純粋な戦闘用の獣を瞬時に生み出す魔術はマスタークラスにしか操れぬため、蜘蛛はエリスの魔導技術をすぐに把握することができたのだが、それは彼らの状況が、以前として窮地にあることを示していた。


 グレッグの突進はエリスにダメージを与えたが、それは致命傷ではない。


 彼女はグレッグの気配を瞬時に嗅ぎ取り、防ぐは間に合わぬと判断するやいなや、すぐに身体をずらして急所への命中を躱したのである。


 憎々しく射殺すが如き強烈な殺気の視線を浴びせかける女魔導騎士は、しかし手負いの獅子となっても三人に襲いかかるのは明らかだった。


 生半可に与えた負傷が災いし、もはや彼女は一縷の隙もなく攻勢に転ずるだろう。


 そう覚悟して身構える三人に対し、エリスは再び無言の殺気を迸らせて剣を強く握り、踏み込みのタイミングを窺う。


「陛下はここで、我らが奴を引き受けます」


 蜘蛛の言に、エグバートは神妙な面持ちとなった。


「大丈夫か? 彼女は手強いぞ」


「我らのことよりも、どうか、ご自身の身を守り抜いてください。

 おっしゃった通り、彼女を相手にしては、エグバート様の援護までとても気が回りません」


 グレッグの言葉に、エグバートはやや逡巡してから頷いた。 氷狼を従えるエリスと、王を護衛する暗殺者二人が駆けたのは、ほぼ同時のタイミングだった。


 二人は氷狼の変則的な動きから苦戦を強いられていたが、互いの役割を柔軟に割譲し合いながらの連携で、エリスの猛攻を防ぎ続ける。


 手負いであることをまったく感じさせぬ、むしろ鬼気迫る迫力に威力を相乗させた凄絶な剣撃だった。


 一刀を受け止めるにも全身の骨格が響くほどの凄まじい衝撃に、蜘蛛とグレッグは氷狼への注意も相俟って、その体力を砂時計のように滑り落とされていく。


 だが、体力に余裕がないのはエリスも同じだった。


 氷狼へ半永久的に供給する魔力の消費に加え、グレッグの一撃によって負傷した刺傷は深く、このまま動き続ければ、いずれは出血多量で行動不能となるのは明白である。


 これは早急に手当てを受けねばならなかったが、その前にはどうしても、目前にまで近付いた敵王の首を打ち取らなければならなかった。


 密かに慕う剣聖から託された作戦の本懐を果たすべく、エリスは一振りごとにごっそりと奪われる体力を気迫のみで補いながら、しかし攻防戦はどちらも決め手ない混戦と化していく。


 両者とも一歩も譲らぬ攻防戦は、傍目から見れば互角に映る。


 縦横無尽に宙を駆ける氷狼が二人の暗殺者を翻弄し、その隙をエリスが巧みに突くかという寸前で、蜘蛛とグレッグは、ほとんど目も合わせずに互いの死角を消し合う間合いを維持してエリスの奇襲に対応する。


 激しく打ち鳴らされる金属の悲鳴が、高速で展開される両者の戦いの激しさを物語る。


 だが、蜘蛛とグレッグの心中や、実は冷静ではなかった。


 二人は、まるで反撃の暇もなく襲いかかる幻獣とエリスの猛攻を防ぐだけで全力を尽くしていた。


 攻勢に転ずる機会は、思考の間も与えず踏み込む敵の剣撃によって切り替えられ、あるいは急襲する氷狼の冷たい顎や爪が霧散させる。


 二人は、防戦に徹して機を窺っていたのではなく、防戦に全神経を集中させなければ全く歯が立たない窮地だったのである。


 不幸中の幸いであるのは、彼らの目的が敵の撃破ではなく、あくまでも王の命を守り抜く、この一点にあることだ。


 放っておいても出血多量で体力を著しく削られ続けるエリスと違い、二人は防戦だけでも目的を果たすことができる。 従って、グレッグと蜘蛛には極限の緊張状態にあるとはいえ、敵を倒さねばならぬという焦燥感はない。


 だが、エリスは違う。


 彼女に託された任務は王の殺害である。


 ゆえに、エリスは隙あらば多少の無茶をしようとも王に急襲する構えを見せていたが、それを眼前の暗殺者たちが巧みにかき消す。


 ならば氷狼を、と言いたいところではあるが、手負いで動きが鈍りつつある今の状態では、この二人を同時に相手取るのは難しいのだ。


 よって、エリスはまず目の前の二人を叩くことに意識を集中していたが、しかし彼らも、そこはやはり王の護衛を任された暗殺者である。


 自分たちの実力が劣ると悟るやいなや、互いに死角を補い合う巧妙な連携で防戦に徹し、時間に追い詰められる自分を凌ごうとしている。


 そうエリスは推察したが、それが自分にとって最悪の戦術であることに変わりはなく、ただ時間だけが冷酷に過ぎていくばかりだった。


 両者は、再び距離を取った。


 互いに肩で息をしながら、しかし毛ほどにも気を緩めることなく、眼前の強敵に睨みを利かせる。


 息遣いは荒く、特にエリスには大粒の汗が端正な頬に滑り落ちていた。


 その時、思わぬ闖入者がエリスの傍らに駆け寄ってきた。


「エリス様!」


 それは、彼女の部隊に属する伝令兵だった。


 エリスは、凄腕の暗殺者二人を前に視線を切ることなく、跪いた伝令兵に多少、声を荒げて応える。


「敵部隊が王都に近付きつつあります!

 敵兵の数はおよそ五千ほど…! おそらくは、ベンシングトンに駐留していた部隊かと!」


 それを聞いた瞬間、エリスは苦虫を噛み潰したように顔を歪め、逆に、エグバートら三人は心中ながら希望を見出だした。


「くっ…! 時間切れか…! 思ったよりも迅いわね…!」


「作戦通り、すでに部隊は例のポイントへ後退しつつあります!

 エリス様も、どうか早くお退きください!」


 敵国の王を前に、むざむざ撤退しなければならぬ歯痒さに苛立ちを抑えながら、エリスは頷いた。


「よし、全部隊に徹底させろ! これより我らは北西に後退する!」


「ハッ!」


 伝令兵はすぐさま走り去り、エリスは剣を前に構えながら、じりじりと後退する。「おっと、このまま逃がすわけにはいかねぇな…!」


 後退しようとするエリスとは対照的に、蜘蛛とグレッグがじりじりと前進する。


「その通りだ。大人しく縛につけば、命だけは助けてやるぞ」


 蜘蛛の、多分に挑発を含んだ言葉を、エリスは一蹴した。


「命拾いしたわね、エグバート王…!

 だけど、次に会う時は容赦はしない…!」


 エリスは踵を返し、玉座の間から走り去る。


「待て!」


 二人は慌てて追いかけようとしたが、玉座の間の入口を氷狼が陣取り、安易には進ませてくれなかった。


「くそっ…! このバカ犬…!」


 喉の奥を唸らせて威嚇する氷狼はしかし、玉座の間に慌ただしく入ってきた兵と入れ違うように姿をかき消した。


 おそらくは気体となって主の元へと去ったのだろう。


 再び二人は追いかけようとしたが、しかし入ってきた伝令兵が、ひどく狼狽した表情でエグバート王の元へ駆け寄ったため、二人は伝令兵へと向き直る。


「た、大変です!

 西より、ドゥムニア王国軍が、こちらに進軍しております!」


 エグバートは、心底ホッとしたように安堵の表情を浮かべた。


「助かった! 援軍か!?」


「い、いえ…、それが、我が国に和平の証として在留していたジュリア王女が王都を脱出した模様で…、これはどう考えても、マーシアの動きに合わせた進軍としか…!」


「な、なんだと!?

 それは誠か!?」


 青褪めた顔で目を丸くした王と同様に、グレッグは、全身から水分が抜け落ちるように血の気が引いていくのを感じた。


 『イースト・アングリア王国軍』



 リュジット砦より東に位置する平野で、イースト・アングリア王国軍は野営地を築いていた。


 細い幹を柱に見立てて薄い布を張った程度の、しかし多少の雨風ではビクともしない天幕の群れが、外柵の内側に連なっている。


 その一郭、慌ただしい喧騒とともに人の入れ替わりが激しい天幕が、数ヶ所に渡って設けられていた。


 最前線用に設置された簡易型の治療所である。


 それは前線で傷ついた友軍に応急手当てを施すための必要不可欠な施設であり、主に軍医や治癒魔術に長けた魔導兵らによって構成されている。


 彼らは戦闘力こそないが、こうした後方支援による尽力が軍の活躍に一役を担う重要な存在であることは言うまでもない。


 しかし、まだ本格的な戦闘に至っておらぬはずの、本来ならまだ暫くの余裕をもって世間話にでも戯れているであろう彼らは今、その強力な御手によって仲間を冥土に連れ行こうとする死神と懸命に戦っていた。


 リュジット砦の前に、まさしく見せしめのために張り付けられた十字架の捕虜たちが、次々と運び込まれているのである。


 捕虜たちの外貌は陰惨を極めた。


 顔の皮膚が乱雑に剥がされ、放置されている間に無数の虫に襲われたのだろう、醜く浮き出た肉は虫食い穴のように、あるいは刺されて腫れ上がっている。


 眼球はとうにない。


 妊婦のように盛り上がった腹部は男女ともに見受けられ、それが想像を絶する水責めに苛まれたことが窺い知れる。


 両手の甲には松明が貫いていた空洞が風を通し、神経や血肉を撫でて激痛を走らせ、身の毛もよだつ呪われた苦痛のオーケストラが、彼らの焼け付いた喉から絞り出されていく。


 これでは、生きている方が地獄である。


 もし、イースト・アングリア王国軍の進軍が後一日でも遅ければ、彼らはその二十四時間分、たっぷりと苦しみ続けなければならない。


 生きていると言うよりも、魔人によって生かされていた彼らの心臓は、十字架より下ろされた時点で急速に弱々しくなり、手当ての甲斐なく息絶えていく。


 一人、また一人と死神に連れ去られた仲間たちは、そうして最後の一人の死を確認して全滅したのだった。


 その訃報は当然、将軍セレスの下へといち早く届けられた。 その治療所より捕虜全滅の報告任務を受けた伝令が向かった先は、この野営地の中央に設営された大振りな指揮官用の天幕である。


「失礼します。セレス将軍へ、ご報告に参りました」


 その若き将軍が待機している帷幕の中に足を踏み入れた時、伝令は思わず身震いするほどの緊張感に息を呑んだ。


 天幕の内部は、三又槍のような燭台に灯された火の光で満たされていた。


 左右の幕際にはそれぞれ三人ずつ、合計六名の衛兵が直立不動の姿勢で待機していたが、彼らは明らかに事の成り行き次第ではいつでも抜剣できるよう心構えしていることが窺い知れる。


 その衛兵に見守られながら、あるいは一挙一動を監視されながら、二人の男が椅子に腰掛けて、中央の机を挟み真正面に相対していた。


 一人は、勿論ながら伝令もよく知る男である。


 数年前、武勇に優れた前任者の将軍が剣聖の副官と交戦した際に深手を負い、そのまま病に倒れてしまったのだが、その将軍の副官だったのがセレスだ。


 彼は、元々が大貴族の家系に生まれ育ったために国王との社交機会も多く親交があり、そこに前任の将軍から推薦状を頂いたため、晴れて軍部最高の地位である将軍の座に抜擢されたのである。


 セレスは苛立たしげに眉を顰めていた。


 王国軍一万の野営地に単身で乗り込み、その大本営とも言える将軍の帷幕にて悠然と腰を下ろす男の存在そのものが、彼の神経を逆撫でしているのだと伝令兵は理解する。


 入口に立つ伝令兵からはその背中しか見えなかったが、しかしそれでも、この男が噂に名高い魔人だとは到底、思えなかった。


 邪悪な気配も、剣呑な殺気もない。


 その後ろ姿は伝令さえもが拍子抜けするほど平凡であったし、身に着けている衣服もそれなりに高級そうには見えるが、ただそれだけだ。


 伝令が入口に入って思わず緊張したのも、将軍から息詰まるような敵意が、そもそも隠すつもりもなく発散されているからだった。


 セレスは睨みを利かせた視線そのままを伝令に向け、顎をしゃくって傍に来るように促すと、伝令兵は細心の注意を払って歩み寄り、捕虜全滅の意を彼に伝えた。


 報告を受けたセレスは一瞬、目を見張ったが、すぐに内なる動揺を抑えて伝令を下がらせる。


 伝令兵が辞去して暫しの逡巡のあと、セレスは口を開いた。

「今し方、連絡があった。貴様が拷問した捕虜たちは全員、無念にも息を引き取ったそうだ」


 セレスの口から訃報が告げられた瞬間、ざわり、と幕際に待機する護衛たちの動揺が波紋となって静寂の空間に一石を投じた。


 しかしながら、肝要だったヴェンツェルの反応に変化はなく、それゆえにセレスの苛立ちはますますもって膨らんでいく。


 その様子を他人事のように愉しげに見つめながら、魔人は芝居がかった素振りで驚いて見せた。


「それはそれは、誠にお気の毒に…。

 心から、お悔やみを申し上げます」


 慇懃無礼なヴェンツェルの言葉を最後まで聞くまでもなく、セレスの目が一瞬にして殺意の光を宿した怒気を孕む。


「貴様ッ、何と白々しくもそのような言葉が吐けるな!

 彼らを死に追いやったのは他ならぬ貴様であろう!

 この罪は断じて償いきれるものではない!

 王の栽可を仰ぐまでもなく、今ここで私が死刑を執行することもできるのだぞ、魔人…!」


 一触即発の緊張感はしかし、魔人を毛ほども揺るがせはしなかった。


「フフフ、貴方も意外とせっかちでいらっしゃる…。

 貴方のように聡明な方であれば、この私を利用して王国の内情を聞き出すのだとし、あえて私の誘いに応じて招き入れたものだと思っていましたが…?」


「ふん、無論だ!

 しかし、たかが情報を聞き出す程度であれば、何も貴様が五体満足でいる必要はない!

 …なに、我らは寛大であるがゆえに殺しはせぬよ…、…尤も、生かしもしないがな…!」


 魔人は口に手を当てて、含み笑いを漏らした。


「フフフ、恐ろしや恐ろしや…。

 私の命は今まさに、貴方の手によって生殺与奪を決定付けられる運命にあるのですね…、フフフフフ…」


「そうだ。

 貴様がマーシアの内情をすべて吐露し、リュジット砦の防衛戦力を無力化するというのなら、その命だけは永遠に鎖に繋ぎ留めておいてやるぞ」


「フフ、随分と荒々しい将軍でいらっしゃる…。

 思わず親しみを感じてしまいましたよ…、クックックックックッ…」


 小馬鹿にするような魔人の嘲笑が、怒髪天を衝くセレスの感情をついに爆発させた。


「下劣極まりない貴様と一緒にするな! 虫酸が走るわ!

 …ええい、もはや我慢ならぬ!

 この男の首を斬り棄てて、犬にでも喰わせてしまえ!」 セレスの命に短い言葉で応じた六人の衛兵は一斉に剣を抜き、そのうちの二人が左右に詰めて魔人の両肩を掴み、椅子を下がらせて強引に跪かせた。


 首を前に突き出させたその姿はまさしく、罪人が斬首に処される死刑執行の直前の光景そのものであった。


 セレスは、不気味にも無抵抗を続ける魔人の様子に釈然としない蟠りを感じてはいたが、それ以上に、この男の下卑た笑い声をもう聞かなくて済むのかと思うと、途端に得意満面な笑みを浮かべて、ヴェンツェルとやらの惨めな姿を後世の笑い話として残してやりたい気持ちになった。


 眼前に跪く魔人に対し、彼は椅子から立ち上がると、腰に手を当てて悠々と歩み寄る。


「さて、魔人よ。

 その存在すら赦されぬ貴様の所業は八つ裂きにしても飽き足らぬものだが、私は慈悲深いのでな。

 最期を飾る言葉ぐらいは訊いてやろう」


 無論、命を助けてくれと懇願しようが、許すつもりなど更々なかった。


 むしろ、とことん惨めな姿を自ら晒け出せてやってから、最高に無様な死に方を処してやるつもりである。


 しかし―――。


「ふむ…。そういえば、セレス将軍。

 貴方はつい先ほど、犬がどうとかおっしゃっておられましたね?」


 セレスが耳にしたのは、場違いなほど予想だにしなかった言葉だった。


「…なに?」


 眉を顰めて訝しく思案する彼を余所に、魔人は言葉を繋げる。


「犬は素晴らしい動物だと思いませんか?

 古来より、犬は人間にとって掛け替えのないパートナーであり、種族の垣根を越えたその関係は、まさしく魔術のように神秘的な親しみを感じさせてくれる存在です」


 それは歴史が証明している。


 戦争では、古代ギリシャの時代に実在した武装する戦闘犬や、第二次世界大戦時には防毒マスクを被って活躍した軍用犬の姿が確認されている。


 また、生活面でも、寒さに強く持久力のある犬ぞりで親しみの深いハスキー犬や、身体障害者補助犬法に則って現代社会の実生活に活躍する、盲導犬・聴導犬・介助犬が存在する。


 神秘的とされる不思議な能力も垣間見せる時があり、一度も訪れたことのない土地を真冬の山脈を自力で踏破して主人を捜し当てる感応追跡などが、その代表例であろう。 尚、これは余談ではあるが、犬の祖先の原型である狼についても、実は彼らが人を襲ったという事例は皆無に等しく、そのほとんどは人間の作り話や家畜の被害、そして童話の影響による先入観の恐怖が濃いと言われているのである。


「犬は主人に褒められたり、愛撫されたい、ただそれだけのために忠誠を誓うのです。

 心と心で繋がったその関係はとても美しく、それは貴方がたとはまるで一線を画すものだとは思いませんか…?

 …そう、低俗な褒美と取るにも足らぬ名誉のために偽りの忠誠を平然と誓う、愚かで醜い国家のイヌたち…クックックックックッ…」


 あまりのことに、セレス将軍は反論することも忘れて絶句した。


 まさか、このような状況下で、これほどの悪態をつくとは思いも寄らなかったのである。


 度を越した死の恐怖で気が触れてしまい、卑しくも畜生と人間を同等と見るなど、愚の骨頂をすら通り越して虚仮にされたとしか思えないのだ。


 しかし、それはそれで激しい怒りが再燃した。


 捕虜を皆殺しにし、気狂いの人間が部下の前で自分を侮辱する暴言を吐くそれは、屈辱以外の何物でもない。


「貴様ッ…! 構わん! さっさと斬り棄ててしまえ!」


「ハッ!」


 上段に剣を構えた兵士が、その手に握る柄に力を込め、ついに振り下ろそうとしたその瞬間―――帷幕の外から騒々しい悲鳴が聞こえてきた。


 魔人は密かに嘲笑う。


「そこで、私個人から貴方がたに犬をプレゼントしようと思いましてね…。

 どうぞイヌ同士、存分に戯れてくださいませ」


「…なに?」


「失礼します! 将軍、大変です!」


 ひどく荒れた喧騒に狼狽するセレスと衛兵は、しかし天幕に青褪めた顔で駆けてきた伝令に振り向いた。


「この騒ぎは何事だ!」


「そ、それが…、治療所に運び込まれた捕虜たちの腹部から突如として黒い犬が現れ、我が軍の野営地で暴れています!」


「黒い犬だと!? …それで被害は!?」


「軍医と治癒魔導兵のほとんどが重傷または死亡し、さらには他の兵にまで襲いかかって―――うわぁッ!?」


 横から飛び掛かる黒犬に喉を噛み付かれ、伝令兵はすぐに絶命した。


 衛兵たちは魔人のことも忘れて入口に向き直り、黒犬の奇襲に対応するべく剣を構え直す。 その中央、ほんのわずかな数秒だけ目を離したその隙に、魔人はゆっくりと立ち上がる。


「さて、もうお遊びにも飽きたな…。

 名残惜しいが、そろそろ幕引きとするか」


 全身から横溢する魔力に周囲の空間を歪ませ、セレスと衛兵の視界に映る魔人の姿が陽炎のように揺らめく。


 そこにはもはや、先ほどまでのように無抵抗に興じていた男の矮小に見えていた気配は微塵もない。


 魔人の口元が真っ白な犬歯を剥き出しにして、悪魔的に歪むと同時に、妖気とも邪気とも言うべき圧倒的な魔性が爆発的に膨れ上がる。


 この瞬間、周囲で剣を構えて魔人を囲んでいた衛兵たちの身体が一斉に炎上した。


 詠唱も何もない、ただ内に秘めていた魔力をほんの少しばかり解放しただけの一撃である。


 ただの戯れ程度に放出された膨大な魔力が衛兵に直撃し、その圧倒的な質量に耐えられず発火した彼らは、両手を空に翳して悲鳴を上げる。


 だが、彼らはすぐに死ぬことを赦されない。


 脳が熱せられ、内臓が焙られ、神経が焼かれ、細胞が燃え、息絶えて完全な焼死体となるその瞬間まで、彼らは地面をのた打ち回り、あるいは上半身を必死に振り乱して気狂いながら、想像を絶する苦痛をたっぷりと味わい続けたのである。


 そして―――セレスは恐怖に身体が竦み、満足に呼吸もできない金縛りにあっていた。


 今すぐにでも帷幕から逃げ出したい衝動に駆られた身体は、しかしどれほど力を込めても動いてくれない。


 理解できない異常な事態に混乱を極めた視界の中で、淡々と焼け焦げていく仲間たちの臭いに吐き気を催しながら、セレスは己の背後に回った魔人の掌が優しく肩に触れたことを、全身に電流が走るように痛感した。


 顔すら自由の利かぬ将軍は、耳元で囁くように語りかける魔人の妖しい声に震え上がる。


「フフフ、そんなに怖がることはないだろう…?

 斬って棄ててしまえるような男の手など、身震いするほどおぞましいものでもあるまいに…、フフフフフ…」


 何故、この男を殺せると思い上がってしまったのだろう。


 何故、自分の浅はかな言動を固辞してしまったのだろう。


 セレスは確信する。


 この男は人間に非ず、そして人間は誰もこの男に勝てやしない。


 ゆえに、彼はこう呼ばれている。


 ―――魔人、と。 これほどの魔性。

 これほどの魔力。

 これほどの残虐性。


 頼む…、助けてくれ…、ああ誰でもいい…、おお神よ…、早くこの悪夢から目が覚めてくれ…。


「フフフ…」


 静かなる嘲笑が耳元に囁かれ、逃避しかけた意識が無慈悲に現実へと引き戻されると同時に、左耳に“何か”が張って蠢くように侵入しようとする不快な動きを正確に感じた。


「大丈夫、怖がらなくていい。これは君にとって、むしろ僥倖となるべき儀式なんだ。

 …そう、私と君との密やかな力の契約さ」


 静かなる闇は語る。


「どうやら君には魔導の資質がないみたいだから、その分、肉体機能を増大させてあげよう。

 …なに、別に痛くも痒くもない。

 君は今日から超人に生まれ変わり、私の新しいイヌとなるんだ。

 …これはすごく光栄なことさ」


 助けてたすけてタスケテ…!


「ただ、その代わりに君の理性が失われてしまうんだが…、まあ、これは些細な代償だな。

 …元より、悪魔との契約には代償が付き物さ。

 …フフフフフ…」


 左耳に侵入した異物が鼓膜を突き破り、脳へと移動し始める。


 魔人の言う通り、痛みはない。


 しかし、自分の頭の中で“何か”が蠢く不愉快な感覚に怖気が走り、それでも身動きできず悲鳴も上げられぬ自分に、血の涙を流して絶望する。


「―――おめでとう。 たった今この瞬間より君は黒騎士となって、遥か昏い夜の帳に暗躍する闇の眷属の仲間入りを果たしたのだ。

 …フフ、これからの活躍に期待しているよ、私の可愛いイヌたち…ックックックックックッ…アッハハハハハハハ、アーッハハハハハハハッ!」


 ヴェンツェルの高らかな哄笑を最後に、イースト・アングリア王国軍最高司令官、セレス将軍は、その人格を形成していた意識を完全に失ったのだった。

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