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第十二話 〜運命の出逢い〜

 海岸線にほど近い小さな丘の緩やかな斜面に、一人の少女が蹲っていた。


 歳の頃は十二ほどだろうか。

 髪は背に向かって長く伸び、何度も布を当てた粗末な衣服から覗く肢体は、どう見ても他の同世代の子供たちより痩せ細って見える。


 しかしながら、彼女に脆弱な雰囲気はなかった。


 少女は地面にこびりつく短い草を摘み、また立ち上がっては、同じようなめぼしい草を摘んで、手慣れた動作で編み籠に集めていく。


 少女のそばには、同じく腰を屈めた老婆が編み籠を動かしながら草を摘んでいたが、しばらくすると手を休め、深い溜息をついた。


 皺だらけの顔に苦渋の表情を浮かべたその様子は、もはや個人の力だけでは補い切れぬ深刻な悩みを抱えていることが窺い知れる。


「この辺りもそろそろ尽きてきおったな…。

 しかし、この量じゃととても皆に配る分が作れぬ…」


 老婆は口惜しそうに呟く。


 彼女は薬草師であったが、このブリテンにおける戦も年々厳しくなって怪我人も多く、大地はひどく荒らされてしまった。


 現在、彼女が抱えている患者の数は百人にも上るが、対する薬草の数は在庫もとうに枯渇して、毎日に必要な分さえもろくに支給することができない状態である。


 ましてや、村がこれ以上の難民を受け入れるようになれば尚更、今後は命を落とす者も続出するだろう。


 そしてそれは、すでにそう遠くない未来にまで近付きつつあった。


「オババ、はい、これ」


 いつの間にか近付いてきていた少女から編み籠を手渡され、老婆は微笑む。


「ありがとう、フレア。お前は優しい娘だねぇ」


 そう言って老婆に頭を撫でられ、フレアと呼ばれた少女は嬉しそうに破顔した。


 老いた自分は、まだいい。


 怪我や病魔に蝕まれた患者たちの世話で慢性的な疲労にある老婆は、実際の年齢以上に皺が刻まれていたが、それでもそれなりに充分な寿命を生きたと思っている。


 勿論、己の命が続く限り患者を助けるつもりではあるが、皆とともに冥土へ旅立つことになろうとも不満はなかった。


 しかし、フレアのような子供が病に冒され、尽きた薬草を待ち続けて命を落とすということは、あまりに残酷ではないか。


 そうでなければ、これから先、いったいどのような夢や希望を抱けば良いと言うのだろう。 そんな老婆の沈み込む思いを余所に、フレアはふと顔を上げた。


「オババ…、何か、嫌な予感がするよ…」


 その可愛らしい端正な顔立ちを、ひどく緊張した様子で辺りをキョロキョロと見回している。


「む…、黒犬かの…?」


「ううん、たぶん違うと思うけど…、でも、すごく怖いの…」


 フレアは、危険に対する勘が非常に鋭い。


 そのため、遠出で薬草を採りに出かける者にとっては非常に頼りになる存在であったが、危険が迫る度に、いつもは溌剌と活発な少女が怯えながら自分にすがりつく様を見ると、やはり不憫にも思う。


 こんな子供の助けを必要とするほど、村の均衡は負に傾いているのだ。


 老婆のなるべく優しく安心させるよう、丁寧に頭を撫でてあげた。


「よしよし。それじゃあ、少し早いが村に帰ろうかの。

 皆が待っておる」


「うん」


 心から安心したように喜々と応えたフレアは、斜面を下りて街道に下り立つと、自作の鼻歌を交えて歩き出した。


 街道の左側には、見晴らしのよい海が広がる断崖となっている。


 老婆はやや後ろから、その様子を微笑ましく見つめていた。


 と、フレアが足を止めた。


 次いでぺたんと尻餅をつき、空に向かって人指し指を指しながら、酸素を求めて水面に接する魚のように口をパクパクと喘がせる。


 老婆も、ソレを見た。


 だが、それはこの世のものではあり得ない異形であった。


 まさしく、塔のように巨大な人間である。

 本来あるはずの二つの瞳の代わりに、左右のこめかみにまで届く大きな一つ眼が二人を凝視していた。

 その、顔半分を占める単眼の下には、同様に大きく裂けた口が歪に開いており、噛み砕くのではなく擂り潰すような臼型の歯がびっしりと並んでいる。

 遥か見上げるほどに巨大な背丈は強烈な威圧感と圧迫感を放ち、みっしりと詰めた筋肉の鎧が、相当の質量を秘めた破壊を好む性質であることを窺わせた。


 それは、現実には存在しないはずの怪物。


 あくまでも、伝説上の架空でしかなかったはずの怪物。


 ギリシア神話に登場し、地獄に身を堕落させた伝説の巨人。


 サイクロプス。


 それが今、二つの獲物を前に歓喜の咆哮を上げた時、二人はあまりの恐怖に体を萎縮させ、一種の金縛り状態に陥ってしまったのである。 その、圧倒的な死を体現する巨人の右腕が、大気を唸らせて振り上がる。


 標的をフレアに狙い定め、鉄鎚の如き握り拳に力が撓められていく。


 自分の脈拍が一息に跳ね上がり、鼓膜にまではっきりと響く胸の乱調を聞きながら、死を意識するフレアの視界が涙で滲んだ。


 がちがちと歯の根を震わせ、サイクロプスが人外の叫びを迸らせながらその腕を振り下ろした瞬間、少女は反射的に目を瞑る。


 近くで、何かが爆発したかのような轟音が響いた。


 痛みのない浮遊感を訝しく感じたフレアがおそるおそる目を開けると、驚くほど近くに見知らぬ少年の顔が映り、思わず息を止めて刮目する。


 信じ難いほど美しい容貌だった。

 稀代の彫刻家が何年もかけて彫り上げたような、しかしどことなくあどけなさを残した端正な顔立ち。


 九死に一生を得たフレアは、自分がその少年に抱き抱えられていることを悟ったが、同時に、自分のすぐ隣りには今にも泣きそうな表情をして微笑む薬草師の姿も見えた。


 少年は彼女を下ろすと、以前として圧倒的な死の迫力を放出するサイクロプスにナイフを構えて向き直る。


「お二人は急いで逃げて下さい! ここは僕が引き受けます!」


 少年の声はしかし、鬼気迫る険しい顔で吐き捨てられた。


 彼自身、その存在自体が己の常識を打ち崩す怪物との予期せぬ遭遇に狼狽し、内なる恐怖と不安を必死に抑え込んでいる、そんな表情であった。


「しかし、お主は―――」


「僕のことは構わずに! さあ早く!」


「…すまぬ。すぐに応援を呼んでくるからの!」


 老婆は、お兄ちゃん、と叫ぶフレアの手を強引に引いて、その場を立ち去っていった。


 伝説の巨人を前に、まるで心許無いナイフを逆手に構えながら、少年は決死の表情で怪物を見上げる。


 互いに敵として相手を認識した瞬間、サイクロプスは、その鈍重そうな巨体からは想像もできぬほど迅い拳撃を横薙ぎに繰り出した。


 少年―――ヴィクターはそれを紙一重で後方に躱し、その手首を切断せんとナイフを閃かせたが、尋常ならざる硬質の筋肉が刃の侵入を許さず、薄皮一枚を裂いたところで、逆にナイフの刃が欠けて弾き返された。「なッ…!?」


 これもまた予想外の事態に目を見張るヴィクターをそのまま、巨人は裏拳の按配で押し出すように彼の身体を容易く吹き飛ばす。


 その凄まじい重圧に内臓が軋められ、あまりの勢いに危うく断崖の海岸線に落ちそうになったが、ヴィクターは大地にナイフを突き立てて速度を止め、断崖への落下を辛うじて防ぐ。


「なんて奴だ…。筋肉の密度があまりに高すぎて、刃がまるで通らない…!」


 あるいは、そもそもが別次元の生物であるため、この世界の生物とは一線を画した肉体構造であるからなのか。


 しかし、いかに筋肉の鎧に身を固めていようとも、鍛えようのない柔弱な喉を切り裂けば致命傷となるのは間違いないはずだった。


 しかしそのためには、あの暴風のような拳撃をかいくぐり、その懐まで入り込まなければならない。


「くっ…! だけど、こいつをこのままにはしておけない…!」


 間合いを計り、隙を見て高速接近したヴィクターにさらなる連撃が襲いかかる。


 右と左、あるいは両手で構えた上段から、さらには両足で踏み付けるように。


 その一撃一撃は、まるで城壁を破壊するために用いられる破城鎚以上の破壊力を秘めていた。


 巨拳を躱すたびに突風が吹き荒れ、身体がそれだけで吹き飛ばされそうになる。


 街道はすでに、サイクロプスの攻撃によって、手足の型を乱雑に烙印された被災地の様相を呈している。


 たった一撃だけでも直撃すれば即死は免れぬ拳撃を矢継ぎ早に繰り出す巨人は、しかし知能はそう高くないようなのが幸いした。


 単調な攻撃の一辺倒を繰り返す甲高い咆哮に最初は怖気もあったが、冷静に相手の動きを観察すれば全身の動作そのものは鈍重で、ただ目の前の敵を殺戮することを考えて闇雲に攻撃しているにすぎない。


 ヴィクターの身体能力をもってすれば、次なる攻撃の前兆さえ見逃さなければ、躱すこと自体は難しくはなかった。


 長大な戦斧にも似た迫力をもって迫る右の横薙ぎに反応し、少年は宙に跳ぶ。


 だが、ヴィクターはその跳躍の着地点を巨人が繰り出した左腕に定め、そのまま上腕部まで一気に駆け上がると、必殺を見出だした喉元めがけて渾身を込めて踏み込む。「これなら―――!」


 速度に乗せて切断力を相乗させたナイフの煌めきは、ヴィクターの予想通りにサイクロプスの喉を切り裂き、一文字の切り口から夥しい鮮血が噴出する。


「やっ―――!?」


 ―――だが、空中の無防備な姿勢にあるヴィクターに、致命傷を受けたはずの巨人が右の平手を放つ。


 内臓がそのまま背中を破裂させて飛び出しそうな、凄まじい衝撃であった。


 辺りを飛び交う小煩い蠅を叩き落とすが如き一撃に、ヴィクターの身体は大地に叩き付けられ、何度ももんどりを打っては激しく転がった。


 身体はようやく断崖間際で落ち着いたが、全身が絶えず電撃に苛まれているかのような麻痺と鈍痛が追い討ちをかけ、立ち上がることも困難なダメージに絶望する。


 それでも衝撃の瞬間、身体を逸らして最小限にダメージを抑えていればこそ、この程度で済んだのだ。


 だが、朦朧とするヴィクターの視界に、さらなる衝撃が展開されていた。


 渾身の一刀によって切り裂いたばかりの傷口はすでに出血が止まっており、しかも喉にぱっくりと開いたそれが、みるみるうちに塞がろうとしているのである。


 これには、さすがのヴィクターも開いた口が塞がらぬといった様子で、唖然と見つめるしかなかった。


 通常、あらゆる生命体は負った傷を自分で恢復することができる自己治癒能力がある。


 さすがに根元から失われるような四肢の再生などは不可能だが、骨折や切り傷などには時間をかけて、新たな細胞を作ることで少しずつ修復するのである。


 サイクロプスの場合、この自己治癒能力が桁外れに高く、即死以外のダメージであればすぐさま恢復せしめることができるため、ヴィクターは、その自己治癒能力を上回る攻撃でもって当たらなければならなかったのだった。


 そしてサイクロプスは憤慨している。


 己の肉体を一度ならず二度までも傷つけた少年を、その息の根を完全に止めるまで許すことはできない。


 怒りに猛る巨大な影の接近に死神の幻想を重ねながら、ヴィクターは不可止の死を覚悟した。


「くそ…、こんなところで、僕は…、…ごめん…、…姉さん…」


 巨人は両手を重ね、上段に振りかぶる。


 その様子を朧気な視界で捉えながら、ヴィクターは何とか身体を仰向けにして、空を見た。 どうせ死ぬのなら、遥か遠い地で自分の帰りを待つ姉と繋がる、蒼天の空を見ながら死にたかった。


 サイクロプスは、無慈悲に剛腕を振り下ろす。


 ズン、と大地が揺らぐような衝撃音。


 ………。


 …………。


 ……………?


 緩やかに目を閉じて死を待っていたヴィクターはしかし、不気味に長い沈黙の時間に耐え兼ねて、静かに目を開けた。


 空が、昏い。


 否。


 それは巨人の拳が、寸前で止められていたがゆえに陽の光を遮ることで生じた影であった。


 しかし、ヴィクターの目は、もう一つの不可解な影の姿を捉えていた。


 黄金の太陽と見紛うほどに清らかな、宙に煌めく短い金の髪。


 身に纏う銀色の鎧が、煌々と輝いて美しい。


 その人影が、両手に剣を添えて、巨人の拳を受け止めていた。


「…なるほど。伝説に聞く通りの怪力だな」


 フルートの音色を思わせる、爽やかで滑舌の良い女性の声だった。


 その人物は顔をわずかに傾けて、背後にいるヴィクターに視線を送る。


 巨人の拳の輪郭に沿う昏い影とは対照的に、抜けるように白い肌。


 流麗な睫毛に彩られた切れ長の瞳は青色で、凛然と結ぶ唇は、あたかも桜桃のように瑞々しい。


「大丈夫か? …待っていろ、すぐに終わらせる」


 そう呟くやいなや、その女性は剣を閃かせて、受け止めていた巨人の拳を弾き返した。


 サイクロプスは瀕死の獲物を前に邪魔をされたせいか、怒りの咆哮を上げて謎の騎士に左右と拳撃を繰り出すが、彼女は涼しげな表情でいとも容易く巨人の両拳を切り裂いて迎撃する。


 ヴィクターですらダメージを与えられなかった巨人の体に斬撃の傷跡を刻んだ騎士は、しかし再生しようとする一瞬の隙を突いて神速に踏み込み、彼我の間合いを瞬時に詰めた。


「確かに、力は凄まじい―――」


 サイクロプスの一つ眼が、驚愕と困惑に見開かれた。


 女騎士の姿を見失ったことで生じた全身の緊張が、筋肉を致命的に硬直させる。


「―――だが、…」


 彼女は巨人の股を潜り抜け、その背中を、まるで巨木の幹を駆け昇るが如き動作で垂直に駆け抜け、着いた肩から跳躍して脳天から一閃、サイクロプスの心中線をそのまま両断した。 巨人の動きが止まった。


 凍り付いたように停止した体は、時間差で緩やかに左右に乖離し、血飛沫を上げながら崩れ落ちた。


 ヴィクターはその中央、至高の芸術品を思わせる美しい両刃剣に付着したサイクロプスの血糊を滑らかに振り払い、腰の鞘にするりと収めた美麗の女騎士の姿を見た。


「…ただ、それだけのことだ」


 そう吐き捨てるように呟くと、彼女は悠然と歩を進めてヴィクターの傍らに歩み寄り、彼の身体の傷を一瞥してそのまま右手を差し出した。


「身体の傷は、大したことはないようだな。

 …骨折もないとは、素晴らしい受け身だ。

 立ち上がれるか?」


「あ、はい…」


 ヴィクターは彼女の手を取って立ち上がると、軽く会釈した。


 まだ痺れや痛みは残っていたが、それでも動けないほどではなかった。


「すみません。助けて頂いて、ありがとうございます」


「気にするな。お礼を言うのは私の方だ。

 君があの怪物の注意を引きつけてくれたおかげで助かった、とあの二人が言っていた。

 …改めて、礼を言わせてくれ」


「あの二人…?」


 ふと、あのサイクロプスに襲われていた少女と老婆のことを思い出した。


「いえ、子供が危険に晒されているのを、黙って見過ごす訳にはいきませんから。

 …それでも、こんなザマですけど」


 そう自嘲気味にヴィクターが笑うと、彼女もまた微笑した。


 改めて見れば、彼女はまだ十代後半の年頃に見える。


 しかし、その若すぎる超人騎士は、ウェセックス王国が誇る最強の騎士スレインと同じ聖銀の鎧を身に纏っていた。


「君は優しいのだな。

 …それに腕も立つようだ。

 安心しろ、君は強い。

 それは私が保証する」


「ありがとうございます」


 まさか、とヴィクターは無意識に、彼女に向けて訝しげな視線を送っていた。


 その気配を察したのか、彼女は、ああ、と向き直った。


「そういえば、まだ私の名を言ってなかったな。

 私は聖騎士アセルス。

 ちょうど、すぐ近くに私の村がある。

 君に助けてもらったあの二人もそこにいる。

 彼女らも、やはり直に君にお礼を言いたいそうだからな、ぜひ来てくれないか」


 やはり、とヴィクターは思った。 彼女こそが、史上初となる女性の聖騎士。


 ダヴェッド王国の代表者にして、ブリトン人最後の希望の星と言われている、ウェールズ連合軍の総指揮官なのだと。






 彼女の言う村とは、しかしヴィクターの目から見れば、とうに村としての機能を失った、ただの集落のようにしか映らなかった。


 切り崩した木を寄せ集めて簡単に接合しただけの、ただ、ないよりはマシだとして雨風を凌ぐ程度の小屋ばかりがそこかしこに建てられている。


 動き回っている村人たちに男衆の姿はあまりなく、老人や子供が圧倒的に多かった。


 そして、誰もがぼろ切れのような衣服を纏い、裸足のまま各小屋に出入りする。


 村の空気は、重苦しく澱んでいた。


 そこに錆び付いた鉄のような血の臭い、肉が爛れ腐ったような悪臭が入り交じり、何とも言えぬ圧迫感が生理的な嫌悪を催す。


 それは、村全体に満たされた、濃密な死の気配だった。


「こっちだ」


 アセルスに先導され、ヴィクターは慌てて後を追った。


 途中、最も近付いた小屋からは、今にも消え入りそうな呻き声や乾いた謦咳、そして弱々しくも苦痛を訴える悲鳴が漏れ聞こえたが、おそらくはどの小屋からも、そうした沈痛な声が聞こえてくるだろうと彼は察した。


「驚いただろう」


 そんな彼の心中が顔に出ていたのだろう。


 ヴィクターが素直に頷いたのを見て取って、アセルスは少しだけ微笑んだ。


「これでも、まだマシになったほうだ。

 システムが出来上がるまでは皆が手一杯で右往左往していてな、…昔はもっと酷かった」


 彼女たちの村は元々、数百年にも及ぶブリテンの戦により見捨てられた重病人や戦災孤児、寿命の尽きかけた老人などが集まって、一年ほど前に形作られた集まりが発端だった。


 そこに薬草師の老婆なども寄り集まり、弱者たちの村が形としてだけできたのだが、それは食料や医薬の備蓄を切り詰めながらの危うい均衡の上に成り立つ状態である。


 そして彼らは、弱者であるがゆえに同じ弱者たる難民を無条件に受け入れる。


 それが、最底辺の環境で必死に生き延びようとする彼らの誇りであったし、自分たちもまた助けられたがゆえに他の弱者を助けようと心に誓った絆であるからだ。


 ―――だが、その夢に現実が追いつかない。 難民を受け入れれば受け入れるほど、村の負担はますます増していく。


 村にいる誰もが弱者だからこそ難民を拒絶せず、しかし弱者だからこそ村の寿命は互いに助け合う身の重さで押し潰されようとしているのだった。


 そうした背景までをヴィクターが知る由はなかったが、それでもこの村が、異質な事情を抱えた瀕死の状態であることを肌で感じ取っていた。


 村の奥に進むと、他の小屋よりは頑丈そうな造りをした、しかし小汚い木造の小屋に辿り着いた。


「ここは…?」


「私の家だ。二人もここで待っている…そう言って聞かなくてな」


 そう微笑してアセルスが扉を開けると、ある程度の広さを持つ居間に直接つながっていた。


 その中央、粗雑な円卓を囲む椅子に老婆が座っていて、その周りを少女が忙しなく歩き回っていた。


 二人は、玄関に立つ聖騎士と少年に振り向くと、途端に安堵の表情を浮かべた。


「お兄ちゃん!」


 愛らしい小柄な少女は、すぐさまヴィクターに走り寄って抱き付いた。


「良かった! 無事だったんだね!」


「うん、アセルスさんに助けてもらってね」


 ゆっくりと椅子から立ち上がった老婆もまた、ヴィクターのそばに歩み寄った。


「そうかそうか、間に合ってよかったわい」


「はい、おかげで命拾いしました。ありがとうございます」


 満面の笑みで何度も頷く老婆に対し、ヴィクターは軽く頭を下げた。


 代わって、奥の椅子にはアセルスが腰かけた。


「だが、ギリギリだったよ。

 あと一秒でも遅ければ、彼は押し花になっていた」


 小さな円卓に置かれた水差しを少量、杯に注いで、彼女はそのまま美麗なフォルムを持つ唇に流し込む。


「お兄ちゃん、助けてくれてありがとう!」


「ワシからも礼をいわせておくれ。

 本当に助かったわい」


「いいえ、当然のことをしたまでです。

 …しかし、あんな怪物がいるようじゃあ、外出は避けた方が賢明ですね」


「いいや、あんな化け物は初めてじゃよ。

 尤も、黒犬とて厄介には変わりないがの」


 水を飲んで一息、落ち着いたアセルスが老婆に顔を向けた。


「オババ、私はその少年と話がある。

 少し、二人きりにしてくれないか」


 オババと呼ばれた老婆は、彼女の、言外の意図を感じ取った様子でゆっくりと頷いた。「分かった。

 …ほれ、フレア。お姉ちゃんもああ言っておることじゃし、ワシらも仕事に戻るとしよう」


「うん! それじゃあ、またね、お兄ちゃん!」


「うん、またね」


 扉が完全に閉じるまで手を振るフレアの姿が消えたのを見届けて、ヴィクターは聖騎士に向き直る。


「そこに座るといい。

 …と言っても、あまり持て成しはできないが」


 アセルスが示したのは、ちょうど真向かいに位置する椅子だった。


「いいえ、…失礼します」


 ヴィクターは、これもまた雑な手作り感の漂う木製の椅子に腰を下ろし、アセルスが注いだ杯を手渡されて、眼前の円卓に置いた。


 先に口を開いたのは、アセルスの方だった。


「さて…、私はあまり駆け引きというのが好きじゃない。

 早速、本題に入らせてもらうぞ」


 射抜くような鋭い視線が、嘘偽りを拒絶する無言の圧力となってヴィクターに警告する。


「…君は、ウェセックスから来た人間だな」


 息を呑む、その気配でアセルスは察したようだった。


 この時期、東西の国がマーシアと敵対関係にある今、この村の現状に驚くのは異国の人間であるし、それがどの国から来た人間であるのかは簡単に範囲を絞られる。


「そうか。

 …それで、要求は降伏か、それとも不可侵か、…いや、…、同盟か」


 一瞬にして素姓と目的を看破されたヴィクターは、内なる動揺を全力で押さえ付けながら、すぐさま虎穴に飛び込むほどの決意を固めて口を開いた。


「はい。イングラム様は、西のウェールズ連合軍と東のイースト・アングリア王国軍、そしてウェセックス王国軍での、マーシアに対する三国同時攻撃を提案させていただくべく、代表として密かに私がこちらに伺った次第でございます」


 ヴィクターの言葉を一言一句と漏らさずに耳を澄ましながら、聖騎士は瞬き一つなく異国の少年に真っ直ぐな視線を注いでいた。


 仮に、今ここで必要なことを語らず、嘘を混ぜた真実を話したなら、彼女の慧眼はすぐにそれを見破って自分に愛想を尽かし、密約の提案にも興味を失うだろう。


「こちらが、その旨を記した書簡でこざいます」


 円卓に書簡を置く、その動作の最中にも視線を逸らすことなく、ゆえに喉がごくりと動いて唾液が嚥下されていく音を明瞭に聞き、額にじわりと汗が吹き出し始める。 聖騎士はしばらくヴィクターの様子を窺った後、ようやく書簡に目をやり、手に取って中を開いた。


 喉がひどく乾く。


 だが、目の前の杯すら遠く感じ、手を伸ばすにも躊躇するほど緊張していた。


 アセルスが書簡に目を配る最中にも摩耗していく胆力をなお絞り、懸命に無表情を装いながら、ヴィクターはヴァイキング暗殺任務にも感じたことのない極限の緊張状態に身体が研ぎ澄まされていることを実感する。


「…君の名前は?」


 唐突に、まるで予想外だった質問を受け、ヴィクターは目を丸くした。


「君の名前だ。まさか知らぬわけでもないだろう?

 君が私の名を知っているのに、私が君の名を知らぬというのは存外に不公平ではないだろうか」


「あ…」


 そう言えば、まだ名乗っていなかったことを思い出し、問われるまで気付かなかった自分の至らなさと無礼を、彼女が抱いた手痛い減点材料として猛省する。


「申し遅れました。

 私はヴィクターと申します。

 自己紹介が遅れてしまい、大変失礼を致しました」


 改めて非礼を詫び、時間をかけて頭を下げる。


 今、ヴィクターに求められていることは、決して偽りを吐くことなく、誠意ある態度で臨むことであった。


 ゆっくりと顔を上げると、アセルスは意外にも首を振った。


「それは君の仮面だ。

 格式張った物言いは君自身を殺し、不相応に釣り上げた自分を演じてしまう。

 それでは、君の良さが台無しだ」


 緩やかに、極限まで高められた緊張感が静かに沈静化していくのをヴィクターは感じた。


 それは少なくとも、アセルスが自分に対する警戒を、ある程度まで引き下げてくれたことに起因しているのだろうと思われた。


「だが…、残念ながら、この提案は受け入れられない」


 丁寧に書簡を円卓に戻した様を見て、今度は背中の汗がじっとりと滲み出た。


 気付かぬうちに、また無礼を働いたのではないかと不安になる。


 心の奥底までよみ解きそうなアセルスの視線に気圧されながらも、ヴィクターは疑問を口にした。


「…この書簡には、マーシアを制圧した際の分割割譲までを明記しております。

 どの国にとっても旨味ある話だと思いますが、なぜ…?」


「理由は三つある」


 聖騎士は滔々と言葉を繋げた。「一つ目は、我々があくまでも連合軍だということだ。

 確かに私は軍を任されてはいるが、それは各国から無条件で兵を借りているにすぎない。

 従って、どのような作戦行動にも各国の王たちに了解を得ねばならず、そして彼らが、アングロ・サクソン人である君たちからの提案に首を縦に振るとは思えない」


 そう言うアセルス自身は、人種に対しての拘りがない様子だった。


「二つ目は、私が君の主であるイングラム殿を一切、信用していないからだ。

 なぜなら、彼は夢を見ていないからな」


 眉を顰めて首を傾げたヴィクターを尻目に、彼女は言葉を続けた。


「三つ目は…、失礼だが、よほど幸運の女神が気紛れを起こさぬ限り、ウェセックス王国は敗北するからだよ、ヴィクター」


「え…!?」


「すでに剣聖バールゼフォン卿率いる二万が、南に向かって王都を出発した。

 確か、南の聖騎士殿がグロスタシャーにいると聞くが、ならばそろそろ交戦していてもおかしくない頃合だ。

 …あの男は手強い。

 私はウェセックスに恨みはないが、彼と対等に渡り合える人間はほとんどいないんだ。

 南は負けるだろう」


 そう言って、アセルスは再び杯を口に添えて水を飲む。


 だが、ヴィクターは、すでにマーシア王国が動いていたという事実に頭が混乱していた。


「…マーシアが、すでに動いていたのですか」


「なんだ、知らなかったのか?

 彼らが南に戦力を集めたおかげで、ポウィスの兵も激減したが…、君も見ただろう、あの伝説の怪物を。

 さすがに、あのように強力なモンスターが現れることは稀だが、ウェールズでは近年、黒犬による被害が深刻化していてな。

 なかなか思うような作戦行動が取れないんだ」


 彼女の言葉は謎だらけであったが、それ以上に本国のことが気掛かりだった。


 そして、王都に残してきた姉のこともまた。


 勿論、彼女の言葉を鵜呑みにするつもりはなかったし、ましてや王都が戦場になるようなことは想像もできないが、それでも募る焦燥感は唯一の家族の不幸を予感させずにはいられなかった。


「…気になるようだな。

 大切なモノを守ろうとする、強い意志の力を感じる。

 …どうやら、君には自分の命よりも大切なモノがあるようだ」


 それは穏やかな、優しげとさえ感じられる声音だった。 自分とそう変わらぬ年頃の少女であるというのに、全身から迸る桁違いの精気が、アセルスという聖騎士の存在感を強烈に際立たせている。


「申し訳ありません。

 私は…、僕は、国に戻らなければ」


 アセルスは、期待に違わぬ稀少な芸術品を前にしたように、満足げに微笑んで頷いた。


「君は、そうでなくてはな。

 …提案は呑めないが、だからといって、我々がウェセックスに攻め込むことはないだろう。

 そう、イングラム殿に伝えてくれればいい」


「分かりました。…それでは、失礼します」


 立ち上がり、扉に手をかけて出て行こうとするヴィクターを、その寸前でアセルスが声をかけて引き止めた。


「忠告だ。イングラム殿には気をつけろ。

 彼は君と違って躊躇しない。

 …それが、夢を見ないということだ」


 やはり理解に苦しむ言葉に会釈して、ヴィクターは小屋を後にした。


 想像以上に緊張していたのか、自分でもびっくりするほど汗ばんだ衣服の肌触りに、冷たい汗の名残がいつまでも残っていた。

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