第九話 〜友達〜
ウェセックス王が居住する王城“フィダックス城”には、その三階に小さいながらも、手入れの行き届いた庭園が存在する。
これは、執務の疲労を少しでも緩和するためにイングラムが設けさせた申し訳程度の自然であったが、城から出られぬ事情を持つ人間たちにとっては、ささやかな憩いの場として親しまれていた。
東三国への密約交渉の任を終えたグレッグは、久方振りの休日にヴィクターの姉であるルナを連れて、庭園に息抜きにきていた。
「…ッ、かぁ〜!
やっぱりこう、花に囲まれてると空気が違うよな〜。
いや、花よりも綺麗な人がいるからこそ、味わいも格別に深まるってヤツかね〜」
両手をめいっぱい広げて深呼吸を繰り返したグレッグは、後ろの腰掛けに座る少女に向き直る。
「ルナちゃんも、あんな部屋に閉じこもりっきりじゃあ、気も滅入るでしょ?」
ルナと呼ばれた少女は、少しだけ微笑んだ。
「そんなことは、ないかな。
あの部屋も、昼は陽の光が暖かくて、気持ちがいいし、夜は、ちょっぴり心細いけど、二人が作ったくれた、木のお人形があるから、大丈夫だよ」
「オワチャ〜!
あれ、まだ持ってたんだ?
恥ッずかしいなァ」
ヴィクターとグレッグは、以前、あの小部屋で一人きりのルナに対して、少しでも寂しさを紛らわせようと、彼女の誕生日に木彫りで作った人形をプレゼントしたことがある。
ヴィクターは、手先が器用なこともあってそれなりに人型をした木彫りを作れたのだが、不器用なグレッグは指先を乱雑に切り付けながら四苦八苦して、ようやく人…に見えなくもない木彫りを完成させたのだ。
元々、芸術などにはてんで無関心だったグレッグである。
料理の店を出すことが夢だったヴィクターと違って、他人のために一から工作したのも初めてなら、その処女作を意中の人に手渡すなど、到底かんがえられぬことであった。
幸い、と言っては本人に失礼極まりないが、それでも明らかに歪な木彫り人形を、ルナが実際に見ることができないというのは、彼にとって本当に溜飲が下がる思いである。
「もちろんだよ。
二人からもらった人形は、私の大切な宝物…。
ありがとうグレッグ」
不意打ちの感謝の言葉に赤面しながら、グレッグは狼狽する心臓を必死に落ち着かせた。「え? あ、いやァ…、そんな、感謝されるほどのモンじゃないからなァ…、あ、アハハ…」
照れ隠しの笑いでごまかしながら、グレッグは言葉を繋げた。
「それよりも、ホントに良かったのか?
そりゃあ、誘ったのは俺だけどさ、ルナちゃんの身体が第一なんだから、無理しなくていいんだぜ?」
ルナはにっこりと微笑んで、首を振った。
「ううん、大丈夫。
今日は、身体の調子がいいから、誘ってくれて、嬉しかったの。
安心して。
辛くなったら、その時は、ちゃんと知らせるから」
「分かった。
…けど、随分と難儀な身体だよな。
ヴィクターがいない時に限って、身体の調子が良いんだからさ。
たまにはあいつだって、ルナちゃんと一緒に、こーゆートコでのんびりしたいだろうに」
この時、グレッグは庭園の外側を囲む手摺の向こう側に広がる景色を眺めていて気付かなかったのだが、ルナの表情はゾッとするほどに凍り付いていた。
しかし、グレッグが再び振り返った時、その表情は崩れていた。
「…仕方ないのよ。
私たちは、運が悪かったの。
世の中、どうしようもないことは、本当に、どうしようもないから…」
「ま、そりゃそうだ。
俺なんか、西に行ったり東に行ったりで、ホントに大忙し。
こないだの仕事なんて、手紙とどけるだけで東の三国を巡り巡って、結局、相手がいないときたもんだ。
…あー、他に就職先みつからねぇかなァ…」
ルナは微笑んだ。
「配送屋さんも、大変なのね…。
ヴィクターも、今はどこかに、出かけているのよね…?」
「あいつなら、今頃はフィッチ王国に行ってるはずだぜ。
どうやら、俺たち男衆は他人のラブレターに縁があるみたいでね」
ルナは、破顔した。
「ふふ。
そんなこと、ないわ。
あなただって、ヴィクターだって、見つけようと思えば、きっといい女性が、見つかるもの」
「…そうだな。
少なくとも、俺の女神はやっと笑ってくれたし、今はその答えで良しとするか」
首を傾げる愛らしい少女に呵々と笑ってごまかすと、グレッグは不意に騒がしくなった庭園の入口へと目を向けた。
「もういいでしょ!
逃げたくても逃げられないんだから、監視したって意味ないじゃない!」「そうはいきません。
我々は、お客人である貴女様の安全を護るためにいるのです。
これは王の御下命であり、我々は職務を全うするため、貴女様のお側を離れるわけには―――」
「あー、もうッ!
その言葉は聞き飽きたわよッ!」
入口の前に姿を現したのは、まだ年の頃十七・八といった若い女であった。
ドレスからすらりと伸びた肢体、長い髪をたなびかせて声を荒げる表情もまた、グレッグの目には見目麗しく見えた。
どうやら、彼女は護衛の任務に就く騎士二人を相手に、癇癪を起こしているようだった。
「グレッグ、何か、あったの…?」
入口近くの喧騒に気付いたルナが、怪訝そうに尋ねた。
「どうやら、王女様は今日もご機嫌ナナメみたいだな。
…ま、自分の国に攻め込んできた敵国の本拠地で捕虜となってんだ。
誰だって良い気分で過ごせるわけがないわな」
彼女の名はジュリア。
かつて、ウェセックス王国と激戦を繰り広げたドゥムニア王国の王女である。
「私にだって、たまには外で一人になりたい時があるわ!
あなたたちも騎士なら、そんな女心の一つぐらい汲んでくれたっていいじゃない!」
「そ、そうは申されましても、こればかりは、何とも―――」
困惑して口ごもる騎士たちの態度に苛立ちを募らせた様子のジュリアは、ふと、グレッグたちの視線に気付いた。
庭園に足を踏み入れ、そのままグレッグたちの前に立ち止まると、腰に手を当てて、その瑞々しい唇を尖らせた。
「…ちょっと、なに見てるのよ。
私は見世物じゃないんだけど」
グレッグは、慌てて跪いた。
「王女様、大変失礼を致しました。
ただ、こちらも騒ぎが気になりましたがゆえ、どうか、お許し下さい」
「も、申し訳ありません、王女様。
ご無礼を、お許しくださ―――あッ」
ルナもまた、慌てて腰掛けから立ち上がろうとしたが、足の踏ん張りが利かずに膝から崩れ落ちそうになった。
しかし、グレッグが寸前で支えたおかげで怪我もなく、事なきを得た。
ジュリアは、釈然としない様子ながらも、一応は納得してくれたようだった。
「…まぁいいわ。
ところであなたたち、ここで何をしてるの?
お邪魔だったら、失礼するけど」「いえ、とんでもありません―――」
口を開いたのは、ルナの方だった。
「―――今日は、身体の調子が、良かったものですから、私がお願いをして、ここに連れてきて、もらったのです…」
「身体の調子…?
…そう言えば貴女、ずっと目を閉じているけど、もしかして目が見えないの?」
ルナは恐縮そうに、すみません、と応えた。
グレッグは、ルナを援護するように付け足した。
「彼女は、生まれつき身体が病に冒されているのです。
そのせいで、この王城どころか、部屋から出ることも難しく…。
それで私が無理やり彼女を連れ出したのです」
互いに庇い合う二人の話を聞きながら、ジュリアは少し面伏せた。
「…そう。
ごめんなさいね、余計なことを訊いて」
「いいえ、もう、慣れていますから…」
「隣、いいかしら?」
「あ、はい、どうぞ」
ジュリアはルナの横に腰を下ろした。
護衛の騎士は、周囲を窺いながら庭園を調べていく。
「あなた、お名前は?」
「私は、ルナ、と申します」
「そう、ルナ…。
良い名前ね。
私はジュリア。
お互い不自由な身の上同士、仲良くしましょ」
「え、あ、あの…」
ルナは、少し困惑した表情を浮かべた。
「あら、敵国の王女とは、お友達になれないのかしら?」
ルナは、慌てて首を振った。
「い、いえ、そんなことは…。
…ただ、私のような平民が、王女様と、お友達になるなんて、とても恐れ多い、ことですから…」
ジュリアは苦笑した。
「そんなことは気にしなくていいわ。
ここじゃあ、私の肩書きなんてただの飾り。
ただ、王家の血筋を守るために差し出された、生贄なんだから。
…それに…」
ジュリアは、少し遠い目をして、言った。
「あの国でも、私には、友達と呼べる人なんて、一人もいなかった…」
「王女様…」
ジュリアは少し目を瞑ると、少し微笑んでルナに向き直った。
「だからね、あなたとはお友達になりたいの。
普通に女の子の話をして、普通の女の子として遊びたいの。
…私は、貴女の前でだけは、女の子としていたいのよ」
「―――」
「それに、貴女はきっと嘘をつかない。
痛みを知っている人は、すごく優しい顔をしてるって、ばあやが言ってたわ。
…それはきっと、貴女のことなのよ」「そんな…!
…私は、そんな、大それた人間じゃあ、ありません…」
ジュリアは苦笑した。
「私もよ、ルナ。
王女なんて肩書きはあるけど、私も一人の人間なの。
ただの女の子なのよ。
だから、私たちはある意味、似た者同士だと思わない?」
「王女様…」
「王女なんてよして。
私のことは、ジュリアでいいわ」
「えッ…!?
あ、いや、あの、でも…、それは、…」
「別にいいじゃない、名前くらい。
ほら、世界は、ほんの少しの勇気で変わるものよ」
困惑ながら俯いたルナは、しかし時間を置いて意を決したのか、面伏せていた顔を上げてジュリアに振り向いた。
「あ、あの…。
それじゃあ、…ジュリア、さん…、よ、よろしくお願いします…」
「こちらこそ、よろしくね、ルナ」
「良かったですね、王女様、ルナちゃん」
二人は、グレッグに顔を向き直した。
「ありがとうグレッグ」
「あら、あなた、まだいたの?
少しは空気を読んでほしいものだわ」
グレッグは、ちょっぴり切なくなった。
「いや、あの…せめて、私もお仲間に入れていただけると嬉しいのですが…」
「ジュリアさん…、グレッグは―――」
「―――ああ、はいはい、分かってるわよ。
ま、ヴィットーリオじゃないのは残念だけど、ここはあなたでもいいわ。
よろしくね、グレッグ」
「ありがとうございます、王女様―――」
グレッグは略式に礼をした。
しかし、どことなく嫌な予感がして、グレッグはあえて尋ねてみることにした。
「―――ところで、ヴィットーリオとは…?
こちらにいる方なのですか?」
ああ、とジュリアは少し微笑んだ。
「ヴィットーリオは、私をこの城まで護衛してくれた男の子のことよ。
いつか白馬の王子様が私を連れ去ってくれないかと星に願ってたんだけどね。
でも、すごくカッコいいのよ、彼。
白馬でもないし、王子様でもないけど、あれはきっと運命に違いないわ…!」
おもむろに立ち上がっては感慨深げに両手を胸に合わせるジュリアに、ルナは微笑んだ。
「女の子の夢ですよね、ジュリアさん」
「でも、なかなか見つからないのよね、彼…。
ここにいると思うんだけどなァ…」 そりゃそうだ、とグレッグは心の中で呟く。
ヴィクター。
ヴィットーリオ。
道中、王女に名を尋ねられた蛇が、危うく本名を口走りそうになって機転を利かせた偽名に違いないのだから、この世に存在しない人物を捜したところで見つかるはずもない。
直接、本人と会ってしまうような事故が起きればそれまでだが、まさか王女と自分の姉が意気投合してしまうなんて事態は、さすがのヴィクターも予想外にあるはずだった。
しかし、なるほど。
ヴィクターがすんなりと、このおてんば王女を護送できた背景には、誰あろう王女自身の恋心にあったとは。
グレッグは心の中で、今は遠く離れたヴィクターの波乱万丈な未来を想像して、笑いを堪えるのに一苦労したのだった。