第八話 〜四面楚歌の英雄〜
マーシア王国の象徴たる王城、シルヴァネール城。
その三階、玉座の間からそう遠くない位置に、聖騎士最強と名高い剣聖の執務室はあった。
書庫とも見紛うほどに夥しい本を納めた本棚を背景に佇む、重厚感ある光沢を放つ木製の事務机。
永らく沈黙だけが漂っていたその部屋は、急遽として帰還した主が再び腰を落ち着けたことで、ようやく横溢する生気を取り戻していた。
バールゼフォンは事務机の椅子に腰を下ろし、深い溜息をつく。
頑なに戦争を固持する王の強硬姿勢には、あの魔人が絶対的な後ろ盾として君臨しているからに他ならない。
そもそも、魔人ヴェンツェルがマーシアに参入した背景には、彼が自ら覇者オファ王へ接触したことが発端であるようだった。
西のウェールズに対抗する絶対的防衛線“オファの防塁”を創設できたのも魔人の暗躍があったとされ、永年の宿敵だったノーサンブリアを屈服させたのもヴェンツェルの功績があってこそだと言われている。
両者の間にどのような話し合いが行われたのかについては、当事者の一人がすでに死去している時点で知る術はなくなったのだが、フランク王国との対等外交をもって全アングロ・サクソン人の王を名乗ったオファ王の威光には絶えず、あの恐るべき魔人が陰で支えていたことは確かな事実だ。
現に、こうして魔人が健在である以上、その事実は疑いようもなかった。
彼の外見があまりに若すぎる、という不可解な事実を除けば、であるが。
「…やはり、あの魔人を倒さぬ限り、王の姿勢は変わらぬか…」
その時、扉が軽くノックされた。
剣聖が入室の許可を相手に伝えると、その人物は滑らかな動作で扉を開け、丁寧に礼をする。
「バールゼフォン様、失礼します―――」
入室したのは、凛とした美貌に輝く若い女性だった。
初見であれば、思わず息を呑むほどに整った繊細な容貌である。
艶やかに映える髪、白絹のように滑らかな肌。
高く細い鼻梁と理想的なフォルムを持つ唇が、驚くほど完璧に調和されていて見る者を魅きつける。
彼女の名はエリス。
バールゼフォンが深く信頼する副官にして、優秀な魔導騎士の一人であった。 エリスは持ってきた飲み物をバールゼフォンの机に置くと、やや疲れた気振りを見せる彼を心配そうに見つめた。
「バールゼフォン様…。
毎度のことながら、心中、お察し致します」
エリスの心遣いに、剣聖は一口ほど飲んで自嘲気味に笑った。
「最初からわかっていたことだ…。
あの魔人がいる限り、王は考えを改めぬ。
…しかし…」
それでも、三面戦争は最悪だった。
東西の戦いはあくまでも隷属国からの上納物資があればこそ辛うじて可能な戦である。
東には防戦を基本とした戦術でもって兵力を維持させ、その間に西の聖騎士を早期に倒すことでウェールズの戦意を一気に削ぐつもりだったのだが、それよりも早くウェセックスが宣戦を布告したのが悔やまれた。
しかし、ウェセックスの宣戦布告そのものはバールゼフォンとしても予期していたことだった。
敵視していたオファ王が死に、去年に誕生した聖騎士がウェールズ連合軍を率いてマーシアに攻めてきた好機を見逃すはずはない。
その関門がドゥムニアであったのだが、まさか、これほど早期にヴァイキングを退かせるとは思わなかったのである。
「…まぁいい。それよりも報告を聞こうか」
はい、とエリスは頷いた。
「東のイースト・アングリアは現在も国境警備に力を入れており、内政に従事しています。
これは我々が消極的な姿勢で前線を維持しているためであり、以前として我が国に侵攻する気配はありません。
西のウェールズについても同様です。
バールゼフォン様が帰還なされたことで、我が軍は一度ポウィスに前線を後退させたのですが、それを機に、かの聖騎士も前線から姿を消している模様です。
どうやら、ウェールズ内における各国の連携強化に向けて動いているようですが、まだ詳細な情報は不明です」
「そうか…。
引き続き、西には警戒してくれ。アレは、スレインよりも危険な存在だ」
「分かりました。
…それとフィッチ王国の件ですが、どうやら魔人が言っていたことは本当のようです」
「街が壊滅的な打撃を受けている、と?」
「グロスタシャーに向かった密偵は国王直属の暗部が数名ですから、裏付けとしては確かかと。
…ただ、街の破壊が、ウェセックス軍が侵攻した後か、その前かについては、まだ不明ですが…」「ウェセックスがグロスタシャーを壊滅させて得られるメリットは存在しない。
…第三の勢力、ということは?」
「ヴァイキングであれば、ウェセックスがドゥムニア王国と交戦していた際にヴァイキング総指揮官の殺害に成功しており、彼らは一時撤退を余儀なくされております。
そのため、現在では目立った動きがなく、態勢を立て直していると予想されます。
また、フィッチ王国と隣接していたウェールズ側も同様。
我が軍との睨み合いの最中に、わざわざ戦力を割くような愚策はしないはずです」
「この時期、フィッチを攻め込むとすれば、もはやウェセックスしか存在しないが…、気になるな。
魔人は、城にずっといたのか?」
「はい。
監視させている密偵によれば、魔人はこの一週間、城からは一歩も出ていないと」
バールゼフォンは怪訝な面持ちとなって、目を細めた。
「…解せんな。
街一つを壊滅させる力など、見過ごすわけにはいかんが…。
まずは犯人を突き止めねばならぬか」
「引き続き、調査に当たらせます」
「頼む。
もし、それがヴェンツェルの仕業であったなら、ヴィヴィアン殿に相談せねばなるまい」
エリスは神妙な面持ちで疑問を口にした。
「湖の乙女、ヴィヴィアン…。
かつて、ブリテンに君臨した騎士王の助言者を幽閉したと言われる人ですね…?
あの方は、今なにをしていらっしゃるのでしょうか?」
「ヴィヴィアン殿は、魔人の結界を抑えておるのだ。
そのせいで身動きが取れず、我ら聖騎士に想いを託したのだ。
…尤も、三人が三人とも、互いを牽制し合う形となってしまったわけだが…」
そう言って薄く笑うバールゼフォンの気持ちは、エリスに痛いほど伝わってきた。
今は国同士で争っている場合ではないのだが、それを説明したところで証拠立てるものは何もない。
仮にバールゼフォンが魔人の暗殺に成功したとしても、功績だけを言うなら、ヴェンツェルはマーシア王国の英雄である。
最悪の場合、国家反逆罪となって死刑になる可能性があり、もしそうなってしまった場合、もはやマーシアには周囲を取り巻く三国の脅威を打破する力がない。
ゆえにバールゼフォンは、戦争を早期に終結させた上で魔人を倒さねばならなかったが、そのための問題はまさしく山積みであるのだった。「バールゼフォン様…」
エリスは何かを言おうとしたが、複雑な表情で言い止めた。
「…では、次にウェセックス王国軍の動向についてご報告いたします」
剣聖が頷くのを見てから、エリスは言葉を繋げた。
「聖騎士を指揮官とする第一・第二騎士団および第二魔導兵団で構成された主力の一万は、王都グロスタシャーを陥落後、同王国内のウスターシャー、バスを制圧し、事実上フィッチ王国を征服しました。
現在は王都グロスタシャーに戦力を集めてはいますが、街の大破壊によって城壁ともども激しく損傷しているため、城壁の復旧作業に当たっている模様です」
「当然だな。
グロスタシャーは天然要塞だ。
多少の時間をかけてでも外壁を修復させる価値はある」
「また、ウェセックス王都には第二騎士団および第一魔導兵団の約五千が在留しており、ドゥムニア王国の王女も、かの王城で身柄を拘束されているようです」
「第一魔導兵団…、イングラムの部隊だな。
…なるほど。
よほど魔人による王都の奇襲を警戒していると見える」
「ウェセックスは、我が国に宣戦を布告した際、東の三国に不可侵条約の密約を持ち掛けています。
これはケント王国からの情報なのですが、どうやら、かの国にはフランク王国からも圧力をかけられているようですね。
迂闊には身動きができない状況にあるようです」
「だろうな。
ドゥムニアを平定した今、我が国を攻めるうえで懸念すべきは、東から挟撃をかけられることだ。
撤退したヴァイキングに怯える必要がない以上、地盤を固めずに攻勢へと打って出るのは無謀を通り越して自殺行為だ」
「しかしながら、グロスタシャーの惨劇を聞きつけたエセックス、サセックスの両国は、まだ密約を受け入れるか決めかねているようです。
これらのことからも、ウェセックスは進軍に難しい立場にあり、復旧作業に従事していると思われます」
「テムズ川のベンシングトンはどうした?」
「まだ我が国の勢力下に置かれています。
ウェセックスは東に対する武力的な圧力を配慮して、あえて制圧に乗り気でないようですが、我が国への侵攻を考えるとそれも時間の問題かと」
「ふむ…」
バールゼフォンは口元に手を当てて思案する。 こちらの兵力は二万。
対するウェセックスの兵力は、スレイン率いる主力が一万、そしてイングラム率いる後衛が五千ときている。
兵力で言えばこちらがわずかに有利だが、東西にも敵を抱えている以上、下手に兵力を消耗させることはできない。
戦いはウェセックスだけでは終わらないのだ。
しかし、だからといって、スレインやイングラムを相手にするとなると、これは余力を残して勝つことは難しい。
イングラムと言えば、長年ウェセックスを支えてきた智略とその魔力をして名があり、剣術指南をしていた頃から才能のあったスレインは湖の試練を経て、さらに実力に磨きをかけたはずである。
いかに剣聖と言えど、油断や慢心をもって挑めば、敗北は免れぬ難敵であるのは明白であった。
しかしながら、バールゼフォンは己の肩書きである“剣聖”に毛ほども頓着していない。
そもそも、バールゼフォンの思考にあるのは真実だけである。
戦争に善悪は存在しない。
犬の死体も人間の死体も、基本的には同じであると彼は考えている。
いかなり価値観も美意識も、絶対的な“死”を前にすれば、その者の本性が剥き出しとなって簡単に逆転することを彼は知っている。
自分が生きるということは、他人を殺すこと。
勿論、これは極論の一つにすぎない。
しかし、これもまた厳然たる事実であり、彼が他者の死を冷徹に見届け続けた結果に至った、生の本質の一つであるのだった。
ただし、彼は身勝手な殺人肯定者でもない。
彼は聖騎士とはいえ、戦争において多くの人間の命を奪ってきた。
それが仕事であり、そして自分と仲間と国が生きるための行為であるからだ。
しかしその一方で、自分の命を晒したうえで、自分の信じる生の原理に忠実であろうとする生き方が介在する。
即ち、殺人を肯定する負の生き方を貫くには、それに相応しい正の生き方を自分がしなければならないという厳しい自己規定があるのだ。
今までに無数の人間の命を奪っていながらも、それが心に一点の影も落としていない剣聖の心の在り方は、万人とは一線を画す、超現実に存在するものであった。
そしてそれは、より客観的な事実を捉えるうえで重要なアイデンティティでもある。 自分の能力と相手の能力とを見極め、分析し、あらゆる思考や努力を重ねて勝算を極限まで高めていく。
そこには剣聖であるがゆえの驕りも、いかなる相手に対する侮りもありはしない。
どのような状況に置かれても、彼の目は真実だけを捉え、そして、ただ生きるために彼はすべてを賭ける。
生きてきたすべてと、これから生きるであろうすべてを。
長く感じられた剣聖の思案は、しかし実際には数秒程度のものであった。
バールゼフォンは俯いていた顔を上げ、じっと待つエリスに目を向ける。
「厳しい戦いはいつものことだが、今回の作戦はお前の成否にかかることとなる。
…やってくれるな?」
「ハッ。
この命、すべてはバールゼフォン様のために」
問われるまでもないと言わんばかりに、エリスは一切の躊躇もせずに断言した。
「ありがとう、エリス。
では、まず作戦の概要だが…」
かつての弟子が相手であるというのに気負いの一つもないバールゼフォンの姿勢に改めて心奪われながら、エリスは一つ一つ噛んで含めるように説明する剣聖の言葉に耳を傾けていた。