第九話 タイトルは『社会的に生きる』
窓からダイブする直前の僕には、何も考える余地などなかったけれど、結果として、取り留めもなく文章を書く日々が続いた時期があって、その一部を欠落なく残すことになった。
雨降りの中を黙々と歩くことで気が滅入るのならば、さしている傘なんてどこか天空高く投げてしまって、しとどに濡れていくシャツのボタンをかきむしるようにして外していって、強引に弾け飛ばされたボタンの哀れな断末魔を聴きながら、全裸になってしまえばいい。革ベルトなんて僕の裸身に痣を作るための道具でしかないわけで。いいかい、言わせてもらうならば、僕がジョンのアパートにまでわざわざ訪ねて言って、「やあ、ジョン。元気かい」なんて言って。熱いハグを交わして、その抱き合ったまま、僕たちは玄関から廊下、寝室に至るまでの過程で手順を踏んで手際よく、すっぽんぽんになっていく。そういうことをわくわくとどきどきといらいらが、僕にこれから起こる一連のおふざけを中止するように言う。
「冗談じゃない」
と僕は叫んだ。道の反対側を歩いていた通りすがりのおばさんが、びくりとした。「僕はジョンとセックスをする。ジョンはゲイだ。だからというわけじゃない。ただ単純に、チビで砂色の髪にスカイブルーの目の可愛いジョンにリードされながら愛撫されるというのはたまらない興奮を覚え、僕をめちゃくちゃにしてほしいとさえ思ってしまう。それが社会的にどういうことなのかはよく分かっているつもりだけど、だから、何? ――僕はジョンと体を触れあわせていると安心できる!」
「安藤」と呼んでいるソプラノの声は、明らかに愛すべきジョンの声で、ジョンはつまり僕のことを読んでいた。僕は最高にハッピーな気持ちで、「やあ、ジョン。今日は君の好きなバナナを買ってきたよ」
「本当かい? よかった。ちょうどバナナ切らしていたからね」
ベランダから僕に話しかけていたジョンのことを見ていると、僕はふつふつと興奮していくのが分かった。マイルドな興奮というやつで、決してワイルドに染まっているわけではない。
ジョンは「裏から回ってこいよ。鍵開けとくから」と言って、ベランダから引っ込んだ。僕はジョンがいなくなったベランダに、時代の終りさえ見出した。時代は終わり、僕はとっくの昔に死んでいて、さっきの道の反対側を歩いていた通りすがりのおばさんも死んでいて、空気も空も海も大地も死んでいる。でも生き残っているのは、ジョン。ジョンだけ。
何を言っているのやら。
あはは。
僕のこういうバカ話は、さっくり無視していただければと思うよ、いやマジで。何しろ僕の見方は、どうやら価値観と偏見に、満ち満ちているようだから。哀しいかな。ま、何はともあれ、時代が終わっているわけもなく、僕らが死んでいるわけもなく。
裏に回り、鍵のかかっていない玄関を開けると、ジョンの家のにおいがふんわりと香る。僕は好きな匂いだ。「ねえ、ジョン」と僕が言うと、ジョンは「今日はプリントくれればいいから。いくらか聞きたいところはあるけど、それ終わったら、帰ってくれ。コーヒー飲むか?」
「レモン・ティーじゃなきゃ嫌だな」
「コーヒーしか用意がない。さっきコンビニで買ってきたやつ」
「ああ、焙煎の?」
「そう。飲む? 飲まない?」
「飲む」
「飲むのかよ。ちっ」
「ちっ」
「ちっちっ」
「ちっちっち」
「はいはい」とジョンは言って、僕の眼前のテーブルにどんと紙コップを置いた。
「ジョンってどうして男が好きなの?」
「好みの男を見るとウズウズした気持ちになったり、キュウって胸が締め付けられたりすることがある。でもそれだけだよ。確かに男のヌードには興奮するけど、女のヌードはえぐいもの見せられている気分になるな。女に幻想を抱いているのかもしれない」
すらすらと自分の感情を的確に述べられるジョンは、きっと真面目なのだろうと思うけれど、不登校の少年が真面目だとは一般的には思ってもらえないだろう。そこが僕のもどかしいところでもあった。僕はコーヒーをすすり、ジョンはコーヒーをすすった。
パラパラとプリント類をめくっていくジョンの手は淀みない。最後の一枚がめくり上げられた時には、ジョンの顔はとても退屈そうだった。
「どうした?」
「ジョンは『恐怖』だ」
ジョンは上着をむんずと両手でつかみ、引き裂いてしまった。ジョンの細くてしなやかな肉体が露になり、それは耽美的というに値する、心のわだかまりなんてものはどこへなりとも溶けていってしまいそうな。
「ジョンは『絶望』だ」
腰の革ベルトを乱暴に外し、ズボンを放り投げるようにして脱ぐと、彼はいつまでもどこまでも、いつまでもどこまでも、自分の全裸が時空を超克することを願った。ふるちんの包茎。敏感な乳首。あまねくその全てを、ジョンは晒すことを決めたようだった。誰に? 僕に!
そして彼は最後の最後でこう語る。
「ジョンは『死』だと」
物語は始まった。もう誰にも抑えることのできない、今か今かと爆発を心待ちにしている物語が。
――その先には、死が舞っている。
「なあ、ジョン。君はタイムトラベラーだったりするのかい?」
「ははっ。そんなまさか」
そして僕たちはたいして気持ちよくもない濃厚なキスをした。形骸。
「世の中ってやつは大抵、何かと何かを対立させないことには始まらないみたいな風潮がある。男の子と女の子、大人と子供、文系と理系、エトセトラ。ま、思いつく限りではこんな感じだけど、きっと探せば、もっといろいろあるような気がする。そう思わない?」
ジョンは色白で細い肢体を僕に絡ませるように馬乗りにして、そう言った。僕はあいまいにうなずいた。僕は確かにジョンが好きだったけど、ジョンの言うことは得てして意味不明であることが多く、僕は聞き流すのだった。
ああ、ジョン。愛すべきジョン。愛ゆえに君のことをとても遠く感じるよ、フォーエバー、ジャスティス。
「世界なんて終わっちまえ、この有象無象共め」
ジョンは退屈そうに、いやらしくというよりは艶めかしく腰を振った。アレが可愛らしくぷるんぷるんと揺れる。
「なに?」
「君はとっても、とっても中途半端だ。君は悩んでいない。何一つとして物事を考えちゃいない。考えていることと言えば、僕の身体のどこを舐めようとか、明日もあるくそみたいな授業が憂鬱だとか、そんなことばかり。僕の身体が舐めたいのなら、遠慮なく舐めればいいし、授業が憂鬱なら学校なんてやめちまえ。恥も外聞も捨てろ。この唐変木め」
僕はそんなことをいってくれるジョンのことが愛おしくって愛おしくって、たまらなくって、ゲロ吐きそうだった。
「ああ、まったくもって君の言うとおりだ、ジョン」
そう言って、僕はジョンに飛びかかった。ジョンはソプラノの悲鳴を上げて、僕に押し倒され、されるがままになり、可愛い顔を恍惚のエロティック――官能的な表情に歪ませ、僕の愛撫に喘いだ。その嬌声は男の子らしくも儚げで、聞いているだけで耳の穴が踊り出しそうだった。
「なあ、君と僕は対立構造にない。それなのにこんな破廉恥なことをしてもいいと思うか? 許されることだとでも?」
「していいこととしてはいけないことを諮るのは誰だ? ジョン、君は許されたいのか? 誰に?」
ジョンは苦悶の表情を浮かべ、泣き出した。僕はその涙を舐め、眼球をレロレロしようかと思ったけど、痛々しいのでやめた。
「僕は外れたくないだけだ。規範みたいなものから」とジョンは切なげに言った。
「もし規範が実際に存在するのだとしたらの話だ」
「それは世界に? あるいは社会に?」
「社会的に生きる」
「なに?」
「僕はね、言うなれば根源的破滅招来体みたいなものであって、社会的に生きるというのは、ずばりそんな僕の希望的観測なんだ」
「僕もそこそこ大概だと思っていたけど、君も存分に大概だね」
「ジョン、君の場合は実にすっきりした見通しがある。要するに世界だとか社会だとか、そういう道程のど真ん中にのさばっている怪物を殺すのさ」
「怪物?」
「そう、あくまでそれは生きている。絶対に壁だとか無機物に例えてはいけない。融通が利かないわけじゃないのだからね」
「君って、変わっているね」
「だから、僕はこうしてジョンとセックスが出来るのさ」
「はっきり言って、もう反吐が出るほど、冗談じゃないって思う」とジョンは語気を荒げた。
「何が? 何に対して? 僕のことか?」
「君? 否定はしないね。僕が言っているのは、世界中にいる勘違い野郎についてさ。もううんざりだよ、何もかも。僕という存在に誤解を誤解を重ね、変態だなんてのたまうことは正義か?」
「おいおい、僕は君のことを変態だなんて思ったことは一度だってない」
「君が僕のことを可愛いと思っているのは知っているぜ。僕はね、その可愛さこそ変態の証のようなものだとさえ思う」
「どうして?」
「言いたくない」
ジョンは黙った。ジョンは全裸のままキッチンに行って、ウイスキーのボトルを手に取ると、ガラスのコップにオンザロックを作って、一息に呑んだ。僕は革張りのソファに座って、自分が勘違いをしている可能性について今一度考え、手近にテーブルに放置してあったバナナをむさぼった。完熟。
「僕は何もセックスがしたくて、セックスをしているわけじゃない。言っている意味分かる?」と僕は言うと、ジョンはむっつりと黙ってこくりと頷いた。きっとわかっていないな。
「もし僕が主人公の物語があるとするのならば、いわばこれは前振りみたいなものだ。プロローグだ。ジョン、君は法律が許すのならどこかの交差点で、クラクションを鳴らされながら自らすすんで全裸になるのかい?」
「やってみないと分からない」
「いいや、僕たちはもうそれをしているようなものさ。決してやってはいけないことをしている。それは犯罪だ。絶対にやってはいけない。僕たちは犯罪者だ。そして君と僕は共犯だ。世界が鷹揚にほほ笑んだとしても、社会は冷たく嘲笑う。僕はね、そんな気がする」
「君の言っていること、時々訳が分からない。さっきまでの君とは別人みたいだ」
「そりゃそうだよ。僕は少なくとも人だ。ヒトの形をしていて、ヒトとして生きようとしている。そういえば、今話していることにぴったりな、そんな歌がどこかにあったね」
「そんな歌ないよ」
「そうだね。ないかもしれない。それは僕の勘違いかもしれない」
「ねえ、世界と社会の違いを教えて」
僕は黙った。ジョンも黙っている。ジョンは僕の答えを待っている。期待するように。あるいは、品定めするように。品? それは何だ?
――僕だ。僕だ、それは!
沈黙。時計の音だけが聞こえる。ちくたくちくたく。僕はその時計の音を聞いているだけで、口から十二指腸がでろでろ出てきそうだった。いや、ちょっと待て。この言い回し、なんか既視感があるな。まあ、いいや。使っとけ、使っとけ。
「なあ、ジョン」と僕は言ってから「正直に答えてほしい」と前振りした。まるで僕たちのセックスみたいに。形骸。
「君はやっぱりタイムトラベラーなんじゃないか?」
「質問を質問で返すなんて君らしくないよ」とジョンはわざとらしく可愛く言った。僕はそういう種類の可愛さは嫌いだった。
「やめてくれ、ジョン」というと、「何を?」とジョンはふてくされて言った。ジョンがふてくされる理由。どうしてここでふてくされる? どうして今、投げやりになる? それは――。
「そうだよ」とジョンは言った。
「安藤の言っていることは大体正しいように見えるし、きっと正しいことなのかもしれない。あるいはものすごく間違っていることなのかもしれない。それは感じ方の問題であって、軽蔑する人もいれば感銘を受ける人もいるかもしれない。感動する人もいれば、生理的嫌悪感を抱く人もいるかもしれない。でもね、安藤。君は君のままでいてほしいと思うんだ」
全裸のジョンは優しく笑った。
「僕はタイムトラベラーだ」
気が付けば、窓に雨が打ち付けていた。空から雨が降ってきた。曇り空は僕らのこれからの暗示。何もかもを晒しているようでいて、何も晒していなかったジョン。何もかもを押し隠そうとして、何もかもを晒していた僕。
「ああ、そうか」
僕らは、対立していた。
これが僕が窓からダイブする前に残した文章。そして、僕は今、その文章を読み返している。