第八話 ブロークン・ユース
初めて陰毛が生えてから、二週間が経った。
岡田の夢をよく見るようになっていて、その内容はとても淫らなものだった。ここで、俺は改めて自分のことについてきちんと見直しておく必要があると判断した。
メダカが死んだのはつい先日で、気持ちが悪くてちょっと放っておいたら、水面にぷかぷか浮いていたはずなのに、脂肪が分解されて水槽の底に沈んでしまい、彼だか彼女だかは砂利に眼球をこすりつけて漂っていた。俺は別にメダカに対してこれと言って怨恨もなければ愛着もないのだけど、さすがに死体を割り箸でつまむのには抵抗がある方だ。とはいえ、手袋があったとしてもそれを自分の手ですくい上げるようなことはどうもしたくない。よく考えてみればわかると思うけれど、メダカくんだかメダカさんだかはもうすでに他界しているわけで、残され腐敗し水槽の水に溶けていくばかりのまずそうな肉には何一つとして可愛い要素はない。そもそもメダカを飼うのは、泳いでいるメダカが可愛いとかそういう理由なわけで、別に死んだメダカには特に要はない。まあ何が言いたいって、俺はメダカの世話は別に嫌いじゃないのだが、死んだメダカの処理というのはたまらなく苦手だ。一時期(飼いはじめた当初)はいちいちきっちりと嘆き悲しんで、公園にまで足を運んで穴を掘って埋めるような馬鹿みたいな真似をしていたけれど、よくよく考えてみるとあれは本当に馬鹿みたいな真似だった。
馬鹿みたいな真似と言えば、ミミズを花火で焼き殺したことがあるんだけど、それをした後にそのことを父さんに嬉しそうに報告したんだ。そうしたら父さんはちょっと驚かせようみたいな気概満々で「ミミズに祟られるぞ」なんて言って「そのミミズと同じ死に方するかもね」とかいう感じに脅すんだ。当時の俺はそのことを信じ切って、「ああ、俺はいつか花火を全身にまんべんなく押し当てられて焼死するんだ!」なんてオドオドしていたけれど、花火を全身にまんべんなく押し当てられて死ぬなんてちょっといかした死に方なんじゃないかなとか最近は思っている。もちろん素っ裸になってさ、「さあどうぞ」っていう感じで、ステージの上に立って絶世の美女たちに花火を押し当ててもらうんだ。遠のく意識の中で、美女たちの可愛い笑い声なんかが聴けたらそれこそ最高だ。
まあ要するに、俺は意外と生き物に関してというか生き物の痛みみたいなものに関して無知なんだね。ペイン。空を飛んでいる鳥を銃で撃ち殺すようなゲームをして遊ぶ人がいて、痛そうな針に餌をくっつけて魚の口元にずぶりと突き刺して、水中から引っ張り上げるような道楽をしている(つまり釣りをしている)人がいる世のなかじゃあ、まあ普通なことと言ってもいいような気がするけど、でも俺にはそういうことがちょっとばかし許せない、自分を含めてね。だから僕はこうして夜空の星を見上げながら、交差点の真ん中でオナニーなんかしてみるわけだけど、案外何にも起こらないもので。時間が午前三時っていうのもあれば、ここが田舎っていうのもあるのかもしれないけど、いくらなんでも車も全く来ないし人も通りかからない。俺はせっかくこうして夜空の下で、じかに冷たい空気を肌に感じながら、オナニーしているわけだから、人に見られたいわけだ。誰にも見られないで、こんなことをしていること以上にむなしいことはないと思うし。誰か来ないだろうか。
つまり俺がこうして変態的な行為に耽っているのにも遠大な哲学的テーマがあるのだということをよく分かってほしいわけだ。きっとおまわりさんは分かってくれないと思うけど。ここだけの話、おまわりさんってちょっと脳みそ足りてないんじゃないかなんて思うけど。まあそういうことをぐちぐちと愚痴っていたって、何も始まらない。そんなことは俺が生まれる百万年も前から決まっていたことなんだ。ね?
夜気が俺は好きだった。雨に濡れた初夏の夜気も好きだけど、冬の乾いた夜気も大好きだ。今は夏休みでちょっとばかり意義とかを考えてしまうような頭の悪い宿題を出されて、それをやるべきかやらないでおくべきか散々仮想フレンドのジョン君と討論した結果、結局やることになったりしてね。ああ、そうだよ。俺はバカなんだ。大バカさ。とにかく夜気の中で、俺は延々と気の遠くなるような時間をかけてオナニーをしていた。俺は時間をかけてやるのが好きだった。段々と高ぶっていく気持ちとか火照っていく身体とかそういうことに関してはなにしろこだわるタイプだからさ。蒸し暑いなか、俺は額に汗してそんなことをしていたわけだけど、たまに自分でもウンザリするくらいにむなしいというか切ない気持ちになっちゃう。観客が欲しかった。一部始終を野次とか飛ばされながら、誰でもいいから大勢に見ていてほしかった。呼び込みでもしておけばよかったなとか思いながら、俺は強制されてやったオナニー・ショーのことを思いだす。
それで、俺は唐突に興奮して、そのままいってしまった。俺は気だるい気持ちになって、若干の羞恥心みたいなものを取り戻した。交差点にしゃがみ込んで、パンツを履くのもだるい気持ちになっていたら、ようやく車が一台やってきたから、道路の端に避けた。ゲイの面白いおっさんに誘拐されて強姦されて殺されちゃうのも悪くはなかったけれど、俺は黙々とパンツを履いて、交差点を後にした。少なからず俺が死んじゃうと悲しむ人はいるからね。そういう人のために今のところは生きておかなきゃとかバカみたいなことを思うのさ。どうだい、俺ってバカだろ?
佐伯ヒロの話をしよう。
その日は日曜日で部活の練習のあった俺は、休みの日だっていうのにわざわざ学校まで電車なんかに乗って向かったんだけど、学校に着いたころには練習が終わっていてね。皆は更衣室でシャワーを浴びたり裸で追いかけっこしたりしていたわけだ。どうして練習が終わっているのか俺にはさっぱり分からなくて、もしかしたら俺はタイム・スリップでもしたのかもしれないぞ、なんて思い始めたところに、佐伯ヒロがパンツ一丁でやってきてね、俺に「なに、ぼうっとしているんだよ」なんて聞いてくる始末。俺は「いや、あのさ。今日の練習って絶対に十一時からだったよね?」と聞いた。佐伯ヒロは「違うよ。九時始まりで、十一時終わりだよ」とあっけなく俺の夢とか希望みたいな、ちょっとふざけた代物を粉々に打ち砕いてくれちゃったわけだ。佐伯ヒロは股間の辺りをこんもりと膨らませていてさ、なんていうか超キュートだったね。ちょっと惚れそうになったよ。いやマジで。
「じゃあ俺がこうして学校に来たことには何の意味もないのかぁ」なんてちょっと残念そうに言ってみた。すると佐伯ヒロは「そんなことないよ」って言う。
「どうして?」もちろん俺は問いかけたね。そうしたら佐伯ヒロはこんな差し出がましいことを言ったのさ。「俺が練習に付き合ってやるよ。家に帰っても暇だし。もうちょっとトレーニングするくらいの体力は残っているから」だってさ。俺は鼻で笑いそうになったけど、有り難くその言葉を受けることにした。俺はその後、トレーニング・シャツと短パンに着替えて佐伯ヒロとトレーニングに興じた。実に有意義な時間だったよ、本当に。なにしろ佐伯ヒロは夕焼け空の下でT字路に差しかかる別れ際に寂しさとか切なさとか純粋な感情が沸点に達しそうになっておもむろに反吐が出そうになるくらいに超絶良い人なんだよ。涙が出るね、まったく。こんな俺みたいな腐った人間とよくもまあ、つるむ気になったなとかそんな卑屈なことを考えちまうくらいだ。
佐伯ヒロとは言ってなかったけれど、というか言うまでもないことだけど長い付き合いだ。友達の知り合いということで知り合った。俺は佐伯ヒロに嫉妬していた。佐伯ヒロほど正体のはっきりしている存在はいない。清廉潔白で童貞の佐伯ヒロはなんだか見ていて犯したくなるくらいだ。やってしまいたくなる。もちろん、俺がガチで恋しているのが岡田であることは言うまでもないことだけど。でも佐伯ヒロは俺をまるで油でギトギトの海を泳いで魚の群れを追いかけるペンギンででもあるかのように接する。俺は言ってしまえば紛れもなく油でギトギトの海を泳いで魚の群れを追いかけるペンギンではあるのだけれど、いくらなんでもそれは友達同士の間の繋がり方とはちょっと言い難い。俺はもっとハングリーにフレンドリーに付き合ってほしいわけだ。精神的にも肉体的にもね。まあ高望みはしないさ。とにかく俺の横には佐伯ヒロがいて、佐伯ヒロはそのよく引き締まった肉体を僕に見せびらかしながら、着替えをしているわけだ。そして僕もトレーニングが終わって汗を拭きながら、ちょっと世界の成り立ちとかそういうことに頭を使って悩むんだよね。
俺にとって愛とか希望とかそういうものはなんていうか幻想みたいなものに思えて仕方がなかった。もし仮に愛がそこにあるのだとしたら、絶対にそれは目に見えないし掴み取ることだって出来やしない。感じることすら難しいかもしれない。俺は眼球に焼き付けられるものしか出来得る限り信じたくないけれど、ヒトはいつだってラブソングだとか抜かして愛を歌って、それを聞いて感涙するバカばかりだ。とはいえ俺にだって許されるのならば、そんな馬鹿でありたいとか思うものなんだよ。だってね、俺はなにしろある人(つまり岡田)を愛しているからなんだ。岡田は俺があった瞬間から心奪われて「ああ、セックスしたいな」なんて思わせられたとても素敵な人なんだ。俺はそりゃ生きているし、生きている以上はいつかどこかで本気で人間を好きになる日も来るかもしれないなんて思ってはいたけれど、意外とその日は早く来たってことだ。
岡田のことを考えていると、ふと思い出すことがある。その日は中学の入学式で、教室もクラスメイトも中学のいろはも分からない状況で、俺は校門をくぐった。教室を確認して下駄箱で靴を履き替えたんだけど、そのとき偶然にも靴を落としちゃったんだよね。「やれやれ」と思って靴を拾おうとしたんだけど、そうしたらそっと僕の靴を拾ってくれた人がいた、とても手際良くなんだけど。
「はい」
その「はい」って言ったその人の発音を僕は忘れない。別に有体の発音ではあるのだけれど、それでもそこにはある種のあどけない響きがあったんだ。その甘くとろけるような響きが俺の背骨をじかに優しく撫でたみたいな衝撃を与えてね、僕は今にも死にそうな二十一世紀を生き延びたニホンカワウソみたいな感慨深い気分になっちゃって、軽くパニックに陥ったね。「ああ、俺は死ぬんだ」みたいなね。その人こそ、正真正銘の岡田優介その人なわけだけど、当時の俺は彼の名前を知る由もなかった。友達伝いに知り合ってから入学式に靴を拾ってくれたその人だと気がつくまでにそれなりの時間があったわけだけど、なんだかんだ一致する時が来た。その時俺は歓喜に打ち震えて思わず失禁しそうになった。
とにかく俺は失禁しそうになり、岡田と友達になった。
そして俺が岡田に好意を抱いていることを察したのが佐伯ヒロだ。
佐伯ヒロは俺のことを“面白いやつ”と捉えたようで、メールをしたり暇な時に会って映画を見に行ったりする仲になった。岡田の代わりだと思って、冗談半分でキスをしてみたことがあるんだけれど、その時の僕の心臓の鼓動といったらなかったな。もしかしたら爆発して僕の心臓は四散していた可能性だってある。そういうことだ。やっぱり僕は。いや、何でもない。
ブラック・コーヒーを飲み過ぎた。俺は砂糖もミルクも入れないのが、カッコいいとか思っちゃうタイプなんだけど、実際のところ砂糖もミルクも入れない方が旨かったりするものだから、まあその話は置いておいて、とにかく俺は眠れなくて困っていた。これが何かの物語の始まりならちょっとは楽しむことはできたのかもしれないけれど、俺のこんな人生には物語もクソもありはしない。それはただ在るだけなのだ。それは、ただ、在るだけなのだ。
俺は学校の課題に取り組んでいた。その期限は明日で、明日は九月一日だった。二〇一五年の九月一日は俺の人生における最初で最後の二〇一五年九月一日だ。まあそんなこと言ったら、もう過ぎてしまった二〇一五年の八月二十日だって僕の人生における最初で最後の二〇一五年八月二十日になるわけだけどさ。とにかく俺はブラック・コーヒーをたっぷりと摂取して自分を眠れなくしてやろうと画策したわけだけど、その作戦はあまり成功したとは言えなかった。確かに眠れないことは眠れないのだけれど、どうにも眠気だけは消えてくれないんだよ。嫌になっちゃうよね。
俺はきっとどこかで監禁されることを夢見ている。だってそういう夢を見たくらいだからさ。どんな夢かっていうと、真っ白な部屋で手足を拘束することの出来る頑丈な鉄の椅子にただひたすらに手足を拘束されておしっこなんか垂れ流しでうんこなんかはお尻と椅子の隙間でべっとりと張り付いているような状況で、十万年くらい放置されている。十万年くらいっていうのはもちろん分からないし適当だけど、感覚としてはきっとそのくらいだ。お腹が空いていることも忘れて胃は縮こまっていくばかりなのに、眠りから覚めると夢精しちゃっていて股間は精液でネッチョリなんてよくあることでね、性欲はたっぷりあるみたいなんだ。俺は真っ白なパンツだけを履いている状況で、そのパンツももはやおしっこやうんちで黄色とか茶色とかに変色している。頭はべったりして何だか痒いし、というか全身が意識しだすとむずがゆくてたまらないみたいな感じだ。その真っ白な部屋の中で俺だけが不潔で、俺だけが異物みたいな感覚があって、俺はとっとと死んでしまいたいとか思い始めている。このまま生きていたっていいことなんて一つとしてないだろうし、監禁されているこの状況を考えれば、もっと悪い目に遭う可能性だって考えられる。舌を噛み切って死のうか。そんなことを思案しては、恐くなっておしっこをしたくなる。延々と死について考え、考えるのをやめる。その繰り返し。俺はそんな夢をここ最近よく見ていて、あわよくばそんな酷い目に遭ってみたいものだとか他人事のように思っている。
俺は夏休みの宿題をあきらめることにした。絶対に終わらないことが明白で、終わったとしてもその仕上がりはとても中途半端になることが考えられたからだ。俺は中途半端が大嫌いで、何においても中途半端を許せない性質だった。だから一巻を買った漫画は必ず全巻揃える。俺にとってその手のことは当たり前のことであり、当然のことだった。しなくてはならないという強迫観念に駆られるわけではなく、「そうしたほうがいいな」という適当な気持ちからだった。「そうしたほうがいいな」という適当な気持ちから、俺は漫画を全巻揃える。
日付は変わっていた。もう二〇一五年の九月一日は始まっていた。俺はそのことに対して圧倒的に何かに惨敗した気持ちを味わった。この日が来たことで、俺は新学期を生き抜く必要があり、過去を懐古する権利が与えられたのだ。俺にはそのどれもが結局は一億五千万年後くらいには「なにそれ?」と鼻で笑っちゃうようなものになっていることは何となくわかっていたし、一億五千万年後に「なにそれ?」と鼻で笑ってくれる誰かがいないかもしれないことをなんとなくは分かっていたけれど、それでも俺はどうしてもこの時ばかりは一億五千万年後もきっと変わらないであろう夜空のお月様を眺めては悲嘆に暮れるほかなかったのだ。
「酒でも飲みたい気分だよ」なんてわざとらしく呟いた俺は、スマート・フォンを引っつかんで数多くいる(?)友達の誰かと連絡でも取ろうかとも思ったが、スマート・フォンの電源はあろうことか切れていた。これでは無料のアダルト・ビデオを見ることだってできはしない。ひとつばかり学園ドラマの初々しい女の子みたいなため息をついて、パンツ一枚だった俺はハンガー・ラックから白い半袖シャツを取るとそれを腕に通して颯爽と身に着けた。コンビニに行くつもりだった。二十四時間営業という響きが俺は大好きで、二十四時間営業を思いついた人の頭を軽く敬意を込めてはたいてやりたい気分だった。たぶん、僕の予想ではその人はズラ(ウィッグ)だから、頭を叩かれることを極端に嫌がると思うのだけど、俺は遠慮なくその人の頭をはたいてズラ(ウィッグ)を頭上からたたきおとすのだ。
コンビニで深夜バイトをしている山中くんは僕が入店すると顔をほころばせた。店内には彼一人しかおらず、もう一人おっさんがいるそうだが、その人は店の奥で眠りこけているそうだ。「顔に落書きしたってきっと起きないぜ」と山中くんは機嫌よく言った。
「久しぶりだな。この前会った時に、全裸になってチンコ揺らしながら、AKB48の『ヘビーローテーション』を踊りだしたお前が記憶に鮮明に焼き付いている」
山中くんはちょっと皮肉っぽいやつだけど、基本的には良い男だ。乳首は茶色いし、チンコもでかい。頭が良いし、きれいな背中をしている。俺が山中に関して知っていることはあまり多くないが、俺は山中に対して激しく信頼していた。そういう必要があったとも言える。幼稚園からずっと同じ施設で育ってきた我々には自然と仲間意識みたいな息苦しいものが生まれて、気がつけば俺と山中は友達になり、登下校を共にしていた。部活が一緒だったというのもそういうことになった原因だと思う。とはいえ我々はお互いの心を少なからず半開きにはしていると思うのだ。だからたとえば俺がAKB48とかの話をしている分には何の問題もないのだが、それが吉田さん(山中が好きな近所の女の子)の話題になったりすると、山中は途端に俺に心情を見せまいと必死になる。そういうことが分かってしまうことが、俺には少し悲しくもある。
世界中に生きている全ての人間と友達になれるかというと、そんなことはたぶん絶対にないし当然のことのように不可能だと思う。それは至極当たり前な発想だと思うけれど俺はその思考のどこかで不安定に慟哭せずにはいられない。それは山中と俺の関係のことだ。それは山中と俺の関係性のことだと言った方が良いかもしれない。
家に戻った俺は誰でもいいから人と話をしたい気分になっていた。リビングで姉ちゃんが新しく缶ビールのプルタブを開ける音が聞こえたから、俺は玄関で靴を脱ぐとリビングに行き、奥の冷蔵庫から冷えた缶コーラを勝手に出すと、姉ちゃんの向かいのテーブルを挟んだ椅子に座って、「BLの魅力を教えてよ」と言った。すると姉ちゃんは達観したような光のない瞳を俺に向けて「あんたにはまだ早いわ」と言った。「ふうん」と言って、俺は缶コーラを飲む。テレビはもうついていなかったし、リビングには漫画もなかった。姉ちゃんはたそがれたように缶ビールを飲むばかりだった。とうに日付も変わり、丑三つ時は近い。僕には姉ちゃんの考えていることが今一つ分からなかった。でも姉ちゃんの容姿は分かり易いくらいに綺麗なことは確かだった。こんな人が裸のショタのイラストを書いて悦に浸っているようには、とてもじゃないが思えない。コミケで同人誌を完売するくらいの力量を姉ちゃんは持っていた。姉ちゃんの部屋にある同人誌を見たところ、姉ちゃんはガチでショタが好きなようだったが、俺にはイマイチその良さが分からなかった。俺は虚空を睨んでいる姉ちゃんがなんだか愛おしく思えてきたけれど、そう思っている自分に気味の悪いものを感じた。
俺は何も言わずに自分の部屋に戻り、机に散らかっている宿題の山を一瞥し、ベッドにゴロンと寝転んだ後、天井をじっと見つめ、なんだかむしゃくしゃしていることに気がついた俺は、白い半袖シャツからパンツに至るまで着ていたものを全て脱いだ。机にあった宿題の冊子やらプリントやらをビリビリに引き裂いて紙片にした。窓を勢いよく開けて夜空の月とか星々へ向けて、両手いっぱいに抱えた紙片をばらまいた。風に乗って夜の街へと流れていく僕の宿題は、僕に別れを告げるようにひらひらと滞空していた。最後の仕上げに僕は窓から身を乗り出した。乳首が鋭敏に冷ややかな外気を感じ取り、僕はぞくぞくする。死ぬかもしれない。僕は下を見てそう思う。植木に上手く引っかかれば、死なずに済むかもしれないし、下は庭の芝生だから少しは柔らかい。着地したところにアリさんが一匹芋虫の死骸を運んでいるかもしれないけれど、アリさんにはまあ犠牲になってもらうとしよう。僕は電柱とか電線とかの向こう側に広がる夜空の小さく見えている月を眺め、「さようなら、世界。さようなら、僕」と呟いた。僕は窓枠を蹴りあげて、夜空に飛びあがったかと思いきや、重力に引っ張られるようにすぐさま僕は地上に落下していった。全ては一瞬の出来事で、なんだかものすごい音がしたかと思ったら、全身に激痛が走って、僕の意識は途切れた。