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第七話 陰毛が生えた日

 ひょろ長い陰毛が一本、僕の股間に生えていた。

 それを発見したのは箱根から帰ってきてから十六日後の朝、トイレに入った時のことだった。その陰毛は俺の髪の毛と同じ金色をしていて、一本だけしか生えていないがゆえにどこか儚げで、それを思わず眺めてしまった俺はわびしい気持ちになった。その時の俺の感想はと言えば、俺の陰毛は黒色ではなく金色なのだなという半分現実に対して疑いを込めた驚きだった。確かに俺の頭髪は金色だし、そこに疑いの余地はない。とはいえよもや陰毛までご丁寧に金色になろうとは意識すらしていなかったがために、俺はやるせない気持ちになり、どうしても驚きを隠せず、そのひょろ長く縮れた金色の陰毛を見つめ、瞠目してしまうのだった。

 俺は驚きこそしたもののそのことを口外するつもりはなかった。岡田になら話してもいいような気はしていたが、別に自分から話す必要はないように感じた。何に対しても必要に応じていく必要があるものだ。俺にとってひょろ長い陰毛が生えた事実は、ちょっとしたショックだったが、公衆の面前でわざわざ晒す部分でもないし、自分から情報を開示でもしない限り、こんなことは誰にも露見されることはないと思った。

「ヌード・デッサンのモデルはもうできないな」

 俺は小便をしながら、ひとりでに呟いていた。少し残念な気持ちになっている自分に気づく。俺はきっと少なからずヌード・デッサンのモデルをすることで、自分に自信をつけていたのかもしれない。俺がヌード・デッサンのモデルになるに値する、それなりの姿形をしていることについて、俺はある種の誇りを持てていたのかもしれない。そう考えると俺がもう二度とヌード・デッサンのモデルをしないことを決めてしまったことが、容易には信じられなかった。ただし、俺はもうそのことに関しては決心を固めていて、ひょろ長い金色の陰毛を見たその瞬間に、俺はもうどこかで自分を大人の入り口に立っていると錯覚していた。そんなわけはないのに。とはいえ、俺は少なくともこれから股間に陰毛をたっぷりとたくわえた大人になることを想像し、ほんの少しだけ嫌な気持ちにもなったが、これは運命であり必然なのだと自分を諌めた。小便を終えた俺は、ボクサーブリーフとズボンを履いて、手を洗い、トイレを後にした。

 

 学校の授業を午前中の分を終えて給食を食べ、昼休みに突入したところで、俺はクラスメイトの雰囲気に何か嫌な予感を感じていた。何か集まって俺のことをちらちら見ながら話している様子があって、俺にはそこに何か気まずいものを感じていた。「ファック・ユー」と机に書かれたあの日から、俺のクラス内におけるポジションは悪い方向へと固まりつつあった。俺だってもちろんクラスの皆と仲良くできたらと思うこともある。授業中にこそこそとプリントの切れ端に書いたメモを回しあったり昼休みに適当なグループに入ってお弁当を食べたりすることができたらきっと楽しいだろうなと思うこともある。だけど俺にはそういった世間一般からしたら普通に誰もがやっていることが、とてつもなく難しいことのように思えた。醜いアヒルの子になるのがオチだ。心の奥底でそう確信している自分を知っていた。とはいえ野木さんは相も変わらず俺に話しかけてくるし、岡田だって俺との付き合いをやめることはしなかった。逆に俺にはそういう優しさが辛く感じるのだが、きっと野木さんも岡田もそのことを分かっていないのだと思う。というよりも、野木さんも岡田も俺がいつしかクラスメイトと打ち解けあえる日が来ることを信じている節があり、俺には野木さんと岡田のロマンチックな考え方に憧れた。本心を言えば、俺は岡田とできる限り距離を置きたかった。岡田に恋心を抱いている俺は普通に考えたら、岡田に嫌われてしまう可能性があるからだ。同性を愛するなんて、ちょっと考えたら(考えなくても)、おかしいことはよく分かる。 だから俺は岡田に話しかけられても、会話をいちいち広げるようなことはしなかったし、「いっしょに帰ろうぜ」なんて誘われても適当な理由をつけて断った。岡田はそのたびに残念そうに俯くのだが、すぐに他の人間に声をかけられて俺に「またな」と眼で合図をして去っていく。そういうことの繰り返しが続いていた。野木さんはそんなそっけない態度を取っている俺をどこか呆れた調子で見てくるものの、それ以上の干渉はしてこなかった。野木さんはいつだって俺に能動性を求めてくる。俺はどちらかと言えば、流されるままに生きていって気がついたら死んでいるような人間でありたいと思っているのに、野木さんはちっともわかっていないのだ。

 事件は唐突に起こった。席に座って一人で文庫本を読んでいた俺のところに、話したこともなければこの先話す機会もなさそうだったクラスメイトの男子五人がやってきて、にやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべていた。俺は既視感を覚え、これから起こることの予測がなんとなくついたから、そっと文庫本をしまった。伊藤計劃の『ハーモニー』。

「なに?」と俺は何気ない調子を装って訊ねようとしたが、やっぱり声は少し上ずっていて、カッコ悪いことこのうえなかった。

「なに?」と俺の声真似をして、少しソプラノに近い音色を声変わりしたての声帯で発する男子はたしか村上という名前で、少し老けた顔をしていて、年相応ではなく高校生に見える。

 突如として俺は背後にいた男子に羽交い絞めにされて抱え上げられ、椅子が盛大に倒れる音が響き、視界に広がる天井がやけに白かった。俺は床に倒れ込む形になり、なおも羽交い絞めにされたままで、直後、俺は手足を押さえられ、身体を大の字に広げる格好にさせられた。俺はどうにかしてその体勢を崩そうと手足に力を入れて踏ん張るが、無駄な足掻きであることは彼らのせせら笑いからも察せられ、そもそも力のない一人きりの俺には男子五人に抵抗のしようがないことは明白だった。俺は惨めな気持ちになりながらも、しばらくじたばたと暴れたが、「必死だな、こいつ。なんかかわいいぞ」という声が集まり始めたギャラリーのなかから聞こえてきて、俺はなんだかもう面倒くさくなって、身体の力を抜いた。俺がろくに頭を働かせる余裕もないままに、彼らの作戦は第二段階に移行した。俺のベルトを外そうとする金属音が聞こえてきたが、俺は首を腕で固定されているうえに混乱していて、自分が何をされているのかを理解するのに数秒かかった。――脱がされる!

「やめて! やめて、お願い!」

 俺の声は甲高い情けないものになっていて、彼らを止めることに夢中になっていた。しかし俺の首は腕で固定されているままだったし、手足を押さえられ大の字の格好のままで床に仰向けに固定されているおれにはどうすることもできず、革のベルトは容易に外されてしまった。

「毛は生えているのかな~」

 男子の誰かが興味津々ではやし立てるように言った。俺は一本のひょろ長い金色の陰毛のことを思いだし、あれだけは誰にも見られたくないし、見られるようなことはあってはならないのだと奮起し、どうにかこの拘束から抜け出そうと足掻くが、その行為は無駄でしかなく、俺はあっけなくズボンを脱がされて、子供っぽいデザインのボクサーブリーフを公衆に晒していた。もう俺は泣き出していて、顔がバカみたいに熱くなっていた。

「やめて!」俺は叫び続けたが、その真意はその場にいる誰にも届かない。

「いくぞー! いち、に、さん!」

 誰かが音頭を取る。掴まれたボクサーブリーフは勢いよく脱がされて俺の足から抜かれ、教室の床に投げ捨てられる。水を打ったように静かになる教室で、俺のボクサーブリーフの落ちる乾いた音だけが反響したように感じた。

 俺はもう何もかもをあきらめて、このまま眠るように死んでしまいたいとも思った。俺の気持ちとは裏腹に、教室は爆発的に騒がしくなり、笑っている者もいれば評している者もいた。俺の眼からはぼろぼろと涙がこぼれていて、とどまるところを知らなかった。恥ずかしさで顔が真っ赤になっていることもわかっていたし、猛烈に全身が熱くなっていたけれど、俺にはどうすることもできなかった。

「すごい、金色の陰毛だ! 髪の色と一緒だな。でも一本しか生えてない」

「引っこ抜いちゃおうぜ」

「これ抜いちゃったら、またツルツルだよ。さすがに可哀想だろ」

「こいつのことを可哀想とか思うようなやつがいるのかよ」

 俺は股間に刺すような痛みを感じたことで、俺からあのひょろ長い金色の陰毛が失われてしまったのが分かった。俺はとめどなく泣き、誰も助けてくれない現状を呪った。岡田は校庭でサッカーをしているはずだし、野木さんは友達と図書室に行っている。俺を助けてくれるだろう二人は、今この場にはいなかった。この教室において俺は一人きりで、味方はいなかった。

「金色の陰毛、欲しい人!」「見せて」「見たい、見たい」

 ちょっとした騒ぎの中で、俺は下半身を露出したまま、昼休みが終わる十分前まで身体を丸めてうずくまるようにして、全身を震わせて泣いていた。しかしそんなことをしていたって、仕様がないことは分かっていたし、余計に惨めになるだけだった。俺はひとしきり泣くとボクサーブリーフを履き、ズボンを履いた。涙と鼻水で汚れた顔をティッシュで拭いて、熱くなり強張った顔を両手でマッサージすると席に着いた。クラスメイトの囁き声や笑い声が聞こえてくると、それらの全てが俺に関係しているような気持ちになり、俺はノイローゼになってしまいそうだった。始業のベルと共に教室に入ってきた汗だくの岡田は教室の異様な空気を察知して、眉をしかめ、不審な顔をしていた。岡田の机には、俺のひょろ長い金色の陰毛が中央に置かれていて、岡田はそれによってなんとなく事態を察知し、俺の方を見やったのだが、今の俺は岡田と顔を合わせるのが嫌で、気がつかないふりをした。かくして、俺は初めて生えてきた陰毛をむしり取られてしまったのだった。


「部活終るまで待っていてくれない? 話したいことがあるからさ」

 岡田の瞳はいつになく真剣で、その瞳に吸い込まれるように見入ってしまう自分がいることを察知し、「岡田ってこんな顔もするのか」と岡田の新たな一面を知ることができてうれしく思うと同時に、陰毛をむしり取られたショックから立ち直っていなかった俺は、家に帰ってさっさと風呂に入って眠ってしまいたい気分でもあった。だが岡田はどこか懇願するように俺の眼を見ていて、俺は岡田のその純真な瞳に見つめられている内に、とてもじゃないが断ることができなくなってきてしまった。俺は圧迫感を感じて岡田から軽く目を反らした。

「……わかった。図書室にいる」

「サンキュー。部活が終わったらすぐに行くよ。あとでな」

 そう言って、俺の肩をポンと叩く岡田の笑顔は凛々しかった。俺は胸の奥の方を真綿で締め付けられているような気持ちになり、この感覚が俺にはどういうわけか切なくてたまらなかった。やっぱり俺は岡田のことが好きで、岡田に対して恋愛感情を抱いている。俺にはこの感情の仕組みやロジックがよく分からなかったが、事実としてこの目に見えない感情が俺を支配しているという現象が不思議でならなかった。 俺は一体、どうしちゃったのだろう。俺は一体、何者なのだろう。俺にはその明確な答えを即座に思いつくことができなかったし、きっとこれから先考え続けたとしても解答することはできないような気がした。

 

 図書室で俺は文庫本を読もうと思ったのだが、その内容が一向に頭の中に入っては来てくれなかった。同じ文章を繰り返し目で追うような消耗的な作業をしている自分に嫌気がさして、俺は最終的には文庫本をテーブルの上に放り出して、そのまま突っ伏してしまった。眼をとじて眠ってしまおうとすると、釣鐘のようになる心臓の拍動が聞こえてきて、無駄に気持ちが高ぶっていることが分かった。濃くて熱いコーヒーを立て続けに三杯くらい飲んでしまった後のような気分だった。やけに興奮しているくせに、その感情の荒波についていけていない、冷え切っている疲れ切った自分がいる。俺は誰か話をする人が欲しかった。そんなことを思うのはだいぶ久しぶりのことのように感じた。いつからか俺は自分を悪役に見立てた物語をつくるようになっていた。物語の佳境では、悪役は一人きりで、正義の主人公と対峙するケースが多い。悪役には仲間なんて必要なくて、自分のやりたいことをやりたいようにやり尽くす。俺はそんな悪役になりたかったのだろうか。わからない。ただ一つ言えることがあるとすれば、俺は一人きりで、夢も希望もないままに、死ぬほど悩みあぐねていた。

「……誰か、助けて」

 俺は声には出さずに、口の形だけをそのようにつくり、ゆっくりと深呼吸をした。

 気がついた時にはもう俺はまどろんでいて、いつしか眠りに落ちた。眠っている間に俺はいくつかのエピソードのある夢を見た。それは断片的なものだった。俺にはその夢の本当の意味みたいなものがよく分からなかったし、イメージとして頭に残ったのは廃墟と化した工場で響き渡る銃声の音だけだった。廃墟と化した工場がどこなのかもわからなければ、響き渡る銃声の意味も分からない。俺がそういうことをイメージしてしまうような精神構造をしているということだろうか。頭に浮かぶセピア色の空の下の廃墟と化した工場。頭に浮かぶ音のない銃声。たかが夢だ。そんなことを意味づけるのに何の意味があるだろう。

「起きろ、去寺……」俺の名を呼ぶ声がする。俺の名を呼ぶ声がする。もうろうとする意識の中で、夢と現実の狭間に閉じ込められたような気分でいた俺は、とじていた瞳を開けた視線の先にいた岡田の優しく利発そうな表情を見て、はっきりと意識を取り戻した。岡田は俺の金色の髪の毛をいじりながら、その手触りを楽しんでいた。俺は終生その行為を続けてほしい気分だったが、カウンターの向こう側にいる司書の人の目が気になって、「やめろよ」と言って岡田の手を退けた。岡田は軽く眉をあげて、両手を 肩よりも高い位置にあげて「わかった」と言った。そんな岡田の気障っぽい仕草が俺の目には堪らなく魅力的にうつった。俺の胸はねっとりとしめつけられていて、今すぐにでも岡田に俺の気持ちを解って欲しかったが、理解を得られない可能性の方が高いことを重々承知していた俺には、リスクが大きかった。何よりも俺はたとえ岡田とセックスができなくても、岡田を失うよりは岡田と友情で結ばれていた方がマシだと思えた。その友情がどこまでのものなのかは、俺一人でわかった気になれるような類いのものではなかったが。

 俺は岡田が何か俺にたいして言いにくいことを話そうとしていることが、岡田の調子からわかった。暗に岡田は俺に会話の目的を尋ねるよう示唆していた。俺はそれが少し嫌だった。岡田は俺の引っこ抜かれた金色の陰毛について話そうとしているのだ。何があったのかを聞かれるのだろう。事の次第を聞いた岡田はきっと憤慨してくれるだろう。「ファック・ユー」と落書きされたとき、岡田がクラスメイトに向かって怒鳴り散らしたときのように。まあそんな確証もないけれど、どちらにせよ俺は俺がいじめられた話を岡田に話すような女々しい真似はしたくなかった。俺は男なのだ。逞しく、力強くあらなければならない。

「どうしてしばらく休んでいたの?」岡田は思わぬ方向に会話の舵を切った。俺に答えない理由はなかった。「昔数学を教わっていた先生と箱根に旅行に行っていたんだ」

「マジか。学校サボるなよ」岡田は少し嗜めるような調子で俺のことを見つめた。俺は岡田に挑むように見つめ返した。「俺の勝手だ」

「あの落書きのことで、何か問題があったのかと思った。正直に言って心配していた」

「この俺を?」俺は驚いていた。

「ああ。お前だよ」俺は戸惑うようにして、こう言った。

「俺なんかを心配したって得られるものは何もないよ。俺はみんなからある種避けられている。俺はみんなからある種欺かれているんだ。俺は悪役で、RPGの魔王なんだよ。誰も俺とは親しくしたくないし、心配されるようなことはないんだよ」

「何言っているんだよ。言っていることがよく分からないけどさ、たぶんそれは逃げなんじゃないかな? お前は実際のところ自分と他人を区別して楽になろうとしているだけなんだよ。本当に大事なものをすっぱり切り捨ててさ、面倒くさいことから目をつぶっているだけなんじゃないかな?」

 岡田のその言葉に俺はカッとなった。

「俺が逃げているって? 俺が面倒事から目をつぶっているって? ――そんなわけあるか! 俺はこれでも一生懸命なんだ。逞しく力強くあろうと、どんなに迫害されたって、ああそうだよ、机に『ファック・ユー』と書かれたって、一本きりの大事な陰毛を引っこ抜かれたって、こうやってしっかりと通いたくもない学校に通っている。何か文句があるか? 言ってみろ!」俺は怒鳴り散らしていて、カウンターの向こう側にいる司書の人がこちらを、目を見開いて見つめていた。岡田はびっくりしたみたいで、身を強張らせてじっと俺のことを凝視していた。「……落ち着けよ」岡田は掠れた声でそう言った。しかしそんな言葉は俺の前では意味をなさなかった。俺は肩で息をしていて、顔は紅潮していた。世界中の何もかもが俺の敵のように思えた。壁に張り付くように設置された大きな本棚も、その本棚に詰め込まれた数多の蔵書も、いくつかの椅子もいくつかのテーブルも そもそも図書室そのものが、学校そのものが、俺の住んでいる街そのものが、日本そのものが、地球上に現存しているありとあらゆるものが、俺の敵であるように思えてならなかった。岡田さえも今の俺にとっては敵だった。岡田は目を伏せて、少し悲しそうにしていた。

「別にお前一人きりで逞しく力強くあらなければいけない理由なんてどこにもない。なあ去寺、少なくとも俺はお前と友達だと思っているし、お前のことが好きだよ。お前が何か悩んでいるのなら、力になりたいとも思う。俺が言いたかったのは、要するに、もっと俺に頼ってほしいってことなんだ。お前が一人で悪役だか魔王だか面白そうなポジションでいたいなら、話は別だけどさ、そういうのってなかなか疲れるでしょ。なんとなく分かるもん」

 岡田はヘヘッと言って、照れたように笑った。俺の凝り固まっていた感情が、自然と解きほぐされていった。俺はまさに浄化されていた。重たかった肉体が軽く感じるようになり、自分という個体を特別視する必要がなくなった。しかしそうやって、岡田の言うとおりに岡田に頼るということの意味が俺にはよく分からなかった。俺は生きていて、岡田も生きている。岡田にだって俺のように苦しいことや辛いことが同じようにあるはずなのだ。胸の内をえぐられるような、生と死の淵で悶えてしまうような、そんな状況が絶対にあるはずで、岡田は俺に対してそういった弱みを決して見せようともせずに、俺に頼ってほしいとか訳の分からないことを言う。「……ずるいよ」と気がつけば俺はか細い声で発していた。

「ずるい?」

 岡田は不思議そうな顔をする。そんな岡田の顔を見ると何故か俺の視界はぐらぐらと揺れた。「やめてくれ。……俺を傷つけないで」

口から勝手に戯言が漏れ出る。岡田は軽く眉を寄せる。

「どうした、大丈夫か?」

 ふらつく身体を支えるために、椅子の背もたれに手をつく。椅子が傾いて、そのまま倒れる。手をついていた俺は、椅子もろとも床に倒れ、尻もちをつく。その鈍痛が、俺の精神に多大な衝撃を与える。

夕陽。夕陽の射しこむ窓。夕陽に煌めく埃。夕陽を浴びる岡田。心配そうな岡田。余裕そうな岡田。岡田。岡田。岡田。ああ――俺は岡田に嫉妬している。有能で万能な岡田に嫉妬している俺がいる。俺は岡田を恋すると同時に、岡田に嫉妬しているのだ。なんて残酷なことだろう。夢物語を見続ける暇すら現実は与えてくれない。俺が得てして孤独であり、孤独でいつづける宿命を与えられたアメリカン・ショートヘアのように。

 俺は言った。

「痛い」

「ああ、大丈夫か」そう言って岡田は俺に手を差し伸べたけれど、俺は独力で立ち上がった。「ありがとう。でも大丈夫。……もう、大丈夫」

 気がつけば、言外に俺は岡田を拒絶していた。岡田のことが好きでたまらないにもかかわらず、同時に岡田のそばにいるだけで自分の身が嫉妬心で焼けつくされてしまいそうになる。俺は生きるために、岡田とは離れなければならなかった。

「岡田……」俺は呟くように言う。

「なに?」岡田はあっけらかんと尋ねる。

「俺、帰る」俺は呟くように言う。

「……そうか」岡田はあっけらかんと言う。

「じゃあな」俺は呟くように言う。

「おう」岡田はあっけらかんと言う。

 しかしそこにはもはや今までのような関係はなく、俺と岡田の間には底の見えない溝が発生しつつあった。飛び越えることもできなければ、橋を渡すこともできない溝。

 俺は嫉妬心に気づいてしまったがゆえに、まともに岡田の顔を見ることすらできなくなっていた。俺は弱い人間だ。俺は弱い人間だ。俺は弱い人間だ。俺は生きてはいけない。そう、俺は生きていてはいけない。何も持たない俺のような人間が、生きていてはいけない。

 そして俺は図書室を後にした。岡田は一緒に帰ろうとは言わず、俺のことを見送った。きっと岡田は俺の心境に気がついている。そしてそれでもなお岡田は俺のことを気にかけているのかもしれない。そう考えると胃液でドロドロになった昼ごはんを吐き出してしまいそうなくらいに、嫌な気持ちになった。俺は何故ここまで岡田に対してこう言う気持ちを抱くのかがよく分からない。俺は下校中、悶々としながら、ひたすらに岡田の関係する過去を回想した。

 空は青く澄み渡り、道路に植えられた木々はコンクリートに囲まれた孤独の中で、黙々と生きていた。広がる畑は耕されているものもあれば放置されている者もあった。俺はそこに感想を持たない。農作業について俺の知っていることは少ない。月に行くために必要な知識の全てを俺が持っていなくて今後も持つつもりがないように、農作業のノウハウにも俺は興味がなかった。とはいえ俺が学生を終えた時、俺は何をしているのかを考えると、皆目見当がつかないことから、もしかしたら俺は月に行く決心をしているかもしれないし、農作業に目覚めているかもしれない。わからない。人生なんて間違えようと思えば、いくらでも間違えられる。だから、恐い。だから死にたい。

 児童公園では小学生男子がサッカーをして遊んでいた。小学生女子は集まってこそこそと何かを企んでいた。おじさんがベンチに座って眠っていた。俺はうんざりした気持ちになって、コンビニのフライド・チキンと淹れ立てコーヒーを摂取したい気分になった。

 走り出す俺。


「ヌード・デッサンのモデル」

 家に帰ると、洗面台で手を洗っている俺のところに姉ちゃんがやってきて、そう言った。俺はなんとなく姉ちゃんの顔を見つめた。俺は奇妙なことに誰かとセックスがしたい気分だった。セックスを了承してくれるのなら、姉ちゃんとでもやれそうな気分だったのだ。しかし俺は勃起しているアレを誇示するようなことも、姉ちゃんに申し立てるようなこともせずに、こう言った。

「やってもいいけど、勃起していて、勃起がおさまる気配がない。それでもいいなら」

「いいよ」姉ちゃんは平然と言った。

「俺がいやだ」俺は冷静な顔を作って、なるべく冷たい声音を作った。

「そう、いやなの。わかったわ。また今度ね」

 姉ちゃんは俺の顔にじっとりと視線を注いで、なめるように観察すると、洗面所から去っていった。俺は果てしなく居心地の悪い気分だったが、今日はどうしてもヌード・デッサンのモデルをやれるような状態ではなかった。

「今日は生まれて初めて、陰毛が生えた日。そして生まれて初めて、陰毛を抜かれた日」

 俺は事実を呑み込むようにして、鏡にうつる自分の金色の髪と病的な白い肌、ブルー・グレイの瞳をしっかりと観察して言った。それでも足りないと思った俺はその場で制服を全て脱いでいった。ワイシャツのボタンを下から一枚ずつ外していって脱ぎ、革のベルトを外し、ズボンを足からするりと脱ぐ。子供っぽいデザインのボクサーブリーフ一枚になった俺は、大きく呼吸をしてボクサーブリーフも脱ぐ。露わになった俺のアレには今や一本の陰毛も生えてはいない。「ツルツル」と俺は呟いた。教室で俺をひどい目に遭わせた人間の誰かが、そう言っていたのを思い出す。俺は嗜虐的な気持ちになり、クラスメイトの大多数に性器を観察され、そればかりか生えたばかりの金色の陰毛をいじられて引っこ抜かれたことに、どうしようもなく興奮しだしていた。俺はアレを握り、そしてするべきことをした。

「……あぁ」

 おれはうなだれるように、洗面所の床に座り込み、しばらく呆然と脱ぎ散らかした制服を見つめていた。




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