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第六話 箱根クロニクル

 俺は今、世界が終わってしまったみたいな暗澹(あんたん)たる気持ちでいた。その理由を明確に説明するように求められたらきっと俺は困ってしまっただろうと思う。この世はやっていられないことだらけだし、そのうえとんでもなく非道だ。だからおれはできるかぎり傷つかないように、世間に背を向けて個人主義とかいうちょうどいい言い訳にすがって、痛々しい自分を見ないようにする。「他人」がいなければ、「自分」は成立しない。その逆もまた然りだが。

 俺は自分ほど醜くて恥ずかしい存在はいないと思ってきた。俺が金色の髪とブルー・グレイの眼にくわえて真っ白な肌をもっている、日本では目立ってしまうような姿をしていることが、その思考を増長させた。

 箱根旅行でも道行く人々の目を引いた。俺の方をちらりと見る。そしてもう一度ちらりと見る。約束事のように。

 もちろん俺は他人に外見をじろじろと見られるのが、どうしても好きではない。なぜなら俺は上野動物園のパンダではないからだ。

 俺は放っておかれたかった。幼児がいじりすぎているジャンガリアン・ハムスターのような心持だった。人は俺を自意識過剰と言うかもしれない。確かにそうだ。その通りだ。俺だって少しは自意識過剰かもしれない。認めよう。しかしどう考えても、他人にじろじろと奇異の目で、物色でもするみたいに、じっとりと観察されるのは気分のいいものではない。

 俺はいつだって死にたかった。生きていることが恥ずかしくてたまらなかった。それは俺の性格にも起因していた。俺は独りよがりだ。きっと俺のことを知っている者の誰もが否定しないで、こくりと首肯することだろう。

 俺は独りよがりで、エゴイズムにまみれた自分が大嫌いだった。そんな自分が避けられたりいじめられたりするのもある意味では正当性を感じた。しかしそれは耐えがたく、つらいものだった。俺には味方が必要だった。しかし、とうとう俺を庇ってくれる味方ができたかと思えば、俺は彼から精神的苦痛を強いられている。

 わかっている。岡田は、悪くない。俺が勝手に岡田に恋い焦がれているだけで、それは決して叶うことのない、成就することのない恋だということも理解している。それでもあきらめきれない自分がいることを俺は承知していた。

 先生は新しいまともな恋を始めるように俺を諭した。俺も先生の言うことはもっともだと思うし、その通りにするべきだと思う。しかしそれとこれとは話が別だった。理性と野性が戦っていた。それは近年まれに見る死闘だった。オトコの戦いだ。

 俺は中二で、夢を見過ぎる時代が終わりつつあることも肌に感じていた。それでも俺はやっぱり捨てたくない理想があった。俺は岡田と結ばれたい。でも、そんなの無理だ。尋常じゃない。

 俺は悩みあぐねていた。午前六時に目覚めてしまった俺は、旅館の近所を散歩していた。軽く霧が立ち込めていて、辺りは幻想的な雰囲気に包まれていた。箱根の坂道は傾斜が急だった。

 しばらく歩いていると、小学校を見つけた。校庭が狭かった。しかしその校庭にはサッカー・ゴールがあって、そこには人影があった。サッカー・ボールを蹴っている様子からするとシュートの練習をしているのかもしれない。俺はサッカーに関しては無知だった。しかも俺の立っている位置からだと遠くてよく見えない。だからあの人影が上手いのか下手なのかもよく分からなかった。

 俺は校門があいているのをいいことに、その人影まで歩いていった。今の俺はテンションが高めで、得体の知れない積極性が俺を前へ前へと進ませていた。驚いたことにその人影は少女だった。サッカー少女。珍しい響きだ。

「こんな朝から練習しているの?」

 俺は何気なく話しかけていた。自分でも驚くほどスムーズに。

 少女は俺に気がつくと、俺の頭から足の先までとっくりと舐めるように眺めまわした。俺は学校のジャージを着ていたが、少女にしてみればそんなことはどうでもいいようで、彼女がいちばんに注目しているところは俺の金色の髪だった。

「外国人さん?」

 それが少女の第一声だった。少女の声はどこか少年らしく、声優の沢城みゆきに似ていた。それは俺が似ていると思っただけで、本当に似ているかどうかはまた別問題だが。

「そうだよ」

 あながち間違っていなかったというか、その通りだったから、俺はそう答えた。繰り返すようだが、俺の国籍は日本ではないのだ。

「君はどうしてこんな朝から練習しているの?」

「サッカーが下手だから」

 少女はさっぱりした調子でそう言った。

 少女はリフティングをしながら、そう答えた。そのリフティングは誰が見ても上手だとわかっただろう。一目瞭然だ。俺には彼女がどうしてサッカーが下手だというのかよく分からなかった。俺はきっとそういう顔をしていたのだろうと思う。彼女は俺を馬鹿にしたように鼻で笑った。

「こんなリフティングなんて誰だって練習すればできるようになるのよ」

「じゃあ君は何ができないの?」

「サッカー」

 彼女は孤独であることを誇張するかのようにそう言った。

 俺は得心した。

「君はサッカーができない」

「そう」

「俺もサッカーができない」

「そうみたいね。何となくわかる」

「俺と君はなんだかいい友達になれるような気がする」

 俺は心の底から優しい気持ちになっていた。朝のテンションは不思議だ。二十四時間ずっと朝だったら、俺はきっと友達が百人できると思う。

「私はそうは思わない」

 彼女はあくまで俺から距離を置いていた。

「どうして?」

 俺はその場にしゃがみ込んで、あぐらをかいた。

「名前も分からない人と仲良くなれるわけない」

「俺の名前は去寺アンドリュー。去寺でもアンディでも好きな方で呼べばいい」

「ふうん、本当に外国人なのね。わかったわ。興味あるから友達になってあげてもいい。でもあなたが私の名前を当てることができたらね」

 俺は少し考えるふりをしてから、こう言った。答えは出会った時から決まっていた。それはいわゆる運命みたいなものだった。

「沢城みゆき」

 少女は本当に驚いていた。

「すごい! どうしてわかったの?」

「なんとなくそんな気がした」

 俺の中にある好奇心みたいなものが、もっと少女を知りたがっていた。これは純粋な好奇心で、そこには性的な欲望はなかった。不思議なものだ。岡田のことを考えるたびにむくむくと反応する俺のアレは、寒さで縮こまっていた。

 俺と彼女はしばらく話し合った。彼女はリフティングをしながら、俺はあぐらをかきながら。冷え切った空気は俺の肌にまとわりつき、俺が生きていることを証明してくれた。

 少女と俺が打ち解けるのに時間はかからなかった。こうなることが百万年も昔から決められていたようなことのように思えた。少女の澄んだ目は誰にも媚びていなかった。俺はそんな彼女の大きくない眼が好きだった。二十年前の恋愛小説に出てきそうな古くさいショート・カットが、逆に新鮮に感じられた。斬新。

 少女は言った。

「明日も会える?」

 俺は言った。

「今日帰ってしまう」

「……」

 少女は沈黙する、名残惜しそうに、切なそうに、時代に取り残されたように。

「ねえ、もしかしたら私たちはこの早朝の一瞬のために今まで生きてきたのかもしれないね。そう思わない?」

「そう思わない」

 俺はゆっくりと暖かく答えた。

「私は去寺が好きになった。こんなに短い時間で人を好きなったことなんて、私今までに一度だってないわ。私はこれを運命だと思う」

「それでもこのかけがえのない出来事は、きっといつの日か俺たちの頭の中から泡のように破裂して消えてなくなってしまうだろう。過去はね、絶対に生きる理由にはなりえない。すがることはできてもね。これは俺の先生の受け売りだけど」

 少女は女の子のように泣いていた。ああ、忘れていた。少女は、女の子だったのだ。俺は少女に優しく微笑んだ。

「この時間を、この瞬間を、俺と君の宝物にしよう。君と俺は一緒にいた。そして君と俺は運命的に惹かれあった」

「うん。この時間のこの場所じゃなければ、そして去寺と私じゃなければ、こんなことにはならなかった。皆既日食のように、私たちは始まって、そして終わるのね」

「そのとおりだ」

 一時間も一緒にいなかっただろう。しかし俺と少女は何十年も連れ添った夫婦のように優しく微笑みあうことができた。

「さよなら」

 と少女が言った。少女は泣かなかった。

「さよなら」

 と俺が言った。

 俺の眼から勝手に涙があふれ、そしてこぼれだした。俺は少女に背を向けた。

 そして俺と少女は別れた。

 

 レモン・シャーベットは、シロクマが踏みしめるべき氷塊のように冷たかった。俺はレモンが好きだった。形状も色彩も風味も、どれをとってもレモンは完成された未来の果実のように思えた。

 レモン・シャーベットは旅館の自動販売機で買ったものだ。旅館に帰ると先生はとっくに起きて、身支度を整えていた。

「レモン・シャーベット?」

「そうです」

 俺は答えた。

 レモン・シャーベットという言葉にはある種の特殊な響きがあった。

 俺は紙のスプーンでレモン・シャーベットをすくい、口に運ぶ。口の中にいれる。舌のうえで転がす。咀嚼(そしゃく)する。呑み込む。それを黙々と繰り返す作業こそが「幸せ」なのだった。

 俺はしばらくレモン・シャーベットと向き合い続けた。換気のために開けられた窓から吹き込む優しい風が、真っ白なカーテンをゆらしていた。影の薄い空気清浄機が、奇妙な音を立てていた。先生が、洗面所で何かをしていた。時間は鷹揚(おうよう)で、俺はちっぽけだった。

 レモン・シャーベットを食べ終えたとき、俺の口内は冷凍庫の中のようだった。窓から吹き込む風を感じながら、俺は座椅子に座っていて、テーブルに手を投げ出していた。

 先生が洗面所から戻ってきて、テーブルを挟んで俺の向かいの座椅子に座った。

「去寺くん、君に話したいことがある」

「なんですか?」

 俺はレモン・シャーベットの余韻に浸っていた。先生はいつものように穏やかな愛想のいい顔をしていた。

「これは少し長い話になると思う。それでも最後まできちんと聞いてくれる?」

「面白ければ」俺は淡々と言った。

「そうね。努力する」先生は可笑(おか)しそうな顔をした。

「私はね、じつは拒食症なの。食べ物を食べるのが好きではなくて、食べてもすぐに吐いてしまうの。こうなったのには理由があって、私が十代のころを君はもちろん知らないけれど、その頃の私はとても太っていた。肥満体で、メタボリック・シンドロームだった。そんな私はとても内気で、いわゆる変人でもあった。というのも、その頃の私は執着的に村上春樹作品が大好きで、彼の作品なしには生きられず、いつだって彼の作品を携行し、貪るように読んでいた。それらの本は、今はもう私の手元にはない。売ってしまったの、二十二の春に。こんな私が持っているには、あまりにももったいないと思ってしまったみたいね。

とにかく変人だった私はクラスでも浮いていた。体育祭の時も修学旅行の時も、いつだって村上春樹作品を読んでいる私は、クラスメイトから見たら、それはもう、とてつもなく変に見えたと思う。いまだから分かるわ。そして私は孤独だった。孤独な自分を悲愴的にみることは嫌いではなかったし、私にとって『他人』は恐怖の対象でしかなかった。ごめんなさいね。私は去寺くんにお説教する資格なんてないの。だってその時の私のハートはきっと去寺くんのものよりひどかった。そしてナイーブだった。ガラスの靴みたいにね。

一人でいる分には良かったのだけれど、それだけではやっぱり済まなかった。私は女子で、女子はグループに所属していないと徹底的に弾圧される。男の子にはちょっとわからないかもしれないけど、そういうものなのよ。そして私は弾圧された。苦しかったし、何度も死のうと思った。デブと罵られていくうちに、自分の外形をとことん嫌いになって、そして私は拒食症になった。食べなければ痩せるはずだなんていう馬鹿げた発想にとりつかれたのね。

 吐いているうちに、そうしている自分がだんだんと好きになった。みるみると痩せていったし、たぶんそれは精神的に病んでいたせいもあると思うけれど、まあ私は痩せたのよ。そこまでは良かったのだと思う。私はとりあえずデブと罵られることはなくなった。陰口のキーワードを減らすことに成功したの。その時の私を君に見せてあげたい。勝ち誇っていたわ。いじめられていたことに変わりはなかったのに、私はどういうわけか自分に自信を持ち始めていたの。私は単純で、世間一般でよく話題にされるようなバカなのだと思う、それは今も昔も変わらない。少しは成長していることを切に願うけれど。

 高校生としての私はパッとしなかったし、昔から私はこれといって何か人に言えるような長所のある人間ではない。だからこそ私は人よりも秀でた何かが欲しかった。秀でていれば、それはなんでもよかった。こんな拒食症の私に何かできることはないか。高校卒業と同時に、私は自分に何ができるのかを懸命に考えた。国際ボランティア? 違う。物書き? 違う。ベンチャー企業? 違う。私は考えに考えた。それでも私にできることは思い浮かばなかった。私は失意に暮れながら、大学生活を過ごした」

 そこで先生は、伏せていた眼を俺の方に向けた。俺は先生の眼を見て「それで?」と言った。俺は少しワクワクしていた。人の過去は見えなければ、体験もできない。俺は先生の話を想像で補いながら、先生の過去を愉しんでいた。俺は基本的に人の話を聞くのが大好きだった。


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