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第五話 新世紀の薔薇

「君の心の囁きが聞こえた。ずっと昔から僕は君のことばかり欲していた。

 僕が君を想えば、君はくすぐったそうに笑った。それだけだった。

 その笑顔のほかに僕が君から得られるものはなかった。もうすぐ夏が終わる。

 君の大好きな季節が終わる。うるさいアブラゼミの鳴き声も、切ないヒグラシの鳴き声も、じきに無くなってしまう。秋がやってきて哀愁がやってきて、死にたくなって、それでも来年の今日を生きていく。

 そんな毎日で有り続ける幸せな自分を呪いたい。君が欲しいのに、僕は自分を不幸だと思ったためしがないのだから。なんで僕はこんなに物質的に幸せなのか! 訳もなく意味もなく望まないままに、そしてある側面では深く貪欲に切望している目に見える豊かさが憎い。

 きちんとした服を着て、学べることを学び、手の届くところに水も食べ物もある幸せを、自分のような人間が当たり前に享受していいのか。僕なんかよりもっと幸せになる資格のある存在は、この地球上にそれこそ数限りなくいるだろう。地球上で三秒に一人が死にゆく世界で、僕はぬるま湯につかって下らない戯言をほざき、虚妄を抱き、卑しくセックスを求めているなんて。

 自分が憎い。

 達観したつもりでいる自分に吐き気を催す。

 自分が自分を殺せたら、どんなにいいか。

 勿論、自殺は誰にでもできることを忘れてはいけない。自殺はやろうと思えば、この瞬間にでも誰にだってできる。それが夢の世界への扉になるかもしれないし、暗黒の空間への堕落かもしれないが、この世界に答えを知るものは、いない。少なくとも生きていることは、死んでいることとは色々な意味で違う。そういうことを学校で習わずとも、僕らはどうやら感覚で掴めるものらしい。

 嫌なものだ、まったく。

 ああ、君が欲しい。僕は君を見るたびに、君の後姿を見るたびに胸が爆発しそうになって、生きていることが虚しくて堪らなくなる。君の短く刈り込まれた髪の毛を優しく撫でまわしたい。それが悪いことだろうか。

 いいや、何も悪くない。

 君の鎖骨にキスをしたい。それが悪いことだろうか。

 いいや、悪くない。

 君の筋肉質な腹筋に手を触れ、そのまま僕の身を君に預けたい。それが悪いことだろうか。

 いいや、悪くない。君に抱かれたい。君と触れ合いたい。君と幾千の刻を過ごしたい。君とセックスがしたい。君と濃密なセックスがしたい。それが悪いことだろうか。

 いいや、悪くない。

 しかし世界は簡単に僕の要求を受け入れてはくれない。優しくない。

 ――何故?

 分からない。

 この世に不本意に生まれてから、数十年を過ごしてきたものの、僕には僕自身について万に一つも理解できてはいないようだった。

 神奈川県の真っ暗闇な夜。

 星の見えない、真っ黒な夜空に僕は何も見ることができない。夜があけ、濃紺のアダルトな色彩を得たとしても、果たして薄桃色の朝日が鷹揚に顔を出したとしても、僕の得られないものへの欲求が、満たされることは永遠に無いのだろう。たとえ君がどんなに優しくとも、君がどんなに素敵だとしても、僕がもつ果てしない愛情に行き場はなく、僕のもとで燻るほかにないのだから。

 そして僕は裸になった。丑三つ時の夜空ほど、僕を呑み込みかねないものはない。人気はなく、物音は僕の足音だけだ。靴を履いていないから、滑らかな官能的な音だ。耳に入ると、心で弾けて僕を栄光のヴェネツィアに誘う。

 水の都が僕を躍らせる。

――さあ、仮面をつけて! 踊ろう。華麗に。踊ろう。美しく。

 その光景がまぶたの裏で鮮明に描かれ、眼をひらくとあっさりと見えなくなる。

 現実にあるのは黒い空と、コンクリートの道路、あとは不細工な建物や田んぼに畑。それだけじゃないか。何だよ。ツマラナイ。ツマラナイ。

 僕はどうしてこんなところで素っ裸でいるのだろう。自分の胸に手を当てて、そっと質問した。声変わりのしていないソプラノの声が夜空を突き抜けて、響きわたった。

「僕はどうして生きているの?」

 答えは返ってこなかった。胸の鼓動が手に伝わり、自分が未練がましく生きていることを理解させてくれた。冷たい空気のなかで、体温を有する自分こそ特別だった。白い皮膚は粟立ち、自分が寒がっていることを知らせてくれた。月明かりがぼんやりとクリーム色の光を放っている。主張しないきらめきが月の魅力だと思った。

 普段変わらない日常の中で、誰が月を率先して見るだろう。

 クリーム色の光が僕のカラダを通過して、僕をぞくぞくさせた。

 気持ちが良かった。

 この世で唯一人の勇者になった気分だった。唯一無二であり、絶対的な勝者になった気分だった。

 不思議なものだ。

 僕はただ、生まれたままの姿でコンクリートの道路に立っているに過ぎないのに。星明りは見えず、脆弱な月光を浴びてなお、暗闇は深く僕の心を蝕む。闇は光よりも強い、時と場合によっては。

 つまり世界の覇者になりたい。世界の理を覆したい。そして君と一つになりたい。君とアナルセックスがしたい。だから素っ裸の僕は夜空を眺め、静寂の月光を浴びながら絶望した。これほどに虚しい恋慕があっていいはずがない。僕は許さない。僕は許さない。ぼくはゆるさないぞ。僕がいくら君に恋い焦がれようと君は僕とアナルセックスには興じない。分かっている。そんなことは分かっている。それでも、僕はこの腹の底から湧き上がる愛情をどうすることもできない。

 僕はコンクリートの道路に座り込んだ。車は来なかった。来るわけがない。僕がここに座っているいじょう、車は絶対に来ない」


「これがあなたの今の気持ちってこと?」

 祖父母の家のにおいがする畳。傷だらけだがどっしりと構えているテーブル。そのテーブルを挟んで、考え込むようにあごに手を当てている先生。

 先生はお風呂上りで、旅館の浴衣を着ていた。髪の毛は後ろで束ねていて、いつもは見られないさっぱりとした姿をしていた。

「そういうことになります」

 ここは箱根のとある旅館だった。

 先生の知り合いが務めている会社がこの旅館を運営していて、会社の関係者やその知り合いならば、この旅館に泊まれるということだった。

 端的に言えば、俺は学校を休んで、先生と箱根旅行に来ていた。

 俺が先生に「どこか遠くへ行きたいです」と言ったところ、先生が「じゃあ、箱根に行きましょう」と言った。俺の言いたかったこととは少し趣向が違ったが、先生とどこかへ出かけるのは初めてのことだったし、それは俺にとって心躍るものだった。

 新宿駅に集合で、そこからロマンス・カーと箱根登山鉄道それからケーブル・カーに乗って、俺と先生は箱根に向かい、そして箱根に着いた。

 俺と先生はどちらもあまり流暢に話すようなタイプではなかったが、旅はそれなりに盛り上がった。エヴァ屋をのぞき、芦ノ湖を見て、大涌谷で黒卵を食べた。それ以外にもいろいろな名所を見て回ったし、山の散策もした。十分すぎるほどに楽しんだ。

 旅館に着くと、温泉に浸かって、日ごろの疲れを癒した。すいていて温泉には誰もいなかった。脱衣所にマッサージ・チェアが置いてあったから、しばらくそれに座ってみたりもした。体重計があったから計ってみると、四五キロあった。無料のカラオケ・ルームがあって、先生が一緒に歌おうと誘ってきた。俺は断固として歌わなかったが、先生は上手に歌っていた。そういった温泉らしいことを夕食まで連綿とやり続けた。

 夕食は旅館らしい豪勢で手の込んだ料理ばかりだった。俺は好き嫌いが少ない方だから、何の心配もなく美味しくたいらげた。しかし先生は大人のくせに食わず嫌いの傾向があって、魚料理に関してはまったく手をつけようとしなかった。

 そして俺の本当の目的は夕食後にようやく果たせたわけだ。

「詩かしら? それとも短編小説?」

「俺は文章だと思っています」

「なるほど」先生は難しい顔をしていた。俺も難しい顔をしていた。事態は深刻だった。そしてこの状況を誰かと共有しないことにはきっと俺は壊れてしまっていただろう。だから俺は最終的に先生に今の俺の率直な気持ちを打ち明けることにした。というのも俺の葛藤を打ち明けるのは女性にすべきだと思ったし、先生は俺の夢の中に出てきた初めてのリアルな女性だったからだ。

 俺はほとほと困り果てていて、自分ではもう結論を出せそうになかった。

 先生は言った。

「問題を明確にするために、君にいくつかの質問をしましょう」

「はい」

 俺は軽くうなずいた・

「君はつまり男の子に恋をしているの?」

 俺は口ごもった。そして軽くうなずいた。

「それは男の子の肉体に欲情するということ?」

 俺は少し考えた。そして正直に答えた。

「俺は男の裸を見て性的に興奮することはありません。岡田の裸はちゃんと見たことがないので分かりませんが。――あ、でも俺は岡田の裸を見たいと思っています。その文章にもあるように。とはいえ俺が見た今までのアダルト・ビデオは異性同士のものばかりで、俺はそれでオナニーをしています」

「うん」 

 先生は俺がオナニーをすることについて、さも当然のようにうなずいた。

「ということは、あなたは男性と行為をしたいわけではなくて、その岡田くんという子にのみ性的に欲求するわけね」

「たぶんそうだと思います」俺は軽くうなずいた。

「そしてそのことに苦しんでいる」

 俺はうなずいた。ゆっくりと。

「岡田とは友達で、今まで通りの関係でいたいと思っているけれど、一緒にいると胸が張り裂けそうになります。この気持ちが恋だと気がついた時から、俺はオナニーをするたびに、頭の中で岡田の服を一枚ずつ脱がしてしまうんです」

「それはつらいでしょうね」

 先生は気の毒そうな顔をしていた。

 先生は俺の気持ちをどうにか想像で補おうとしていたが、きっとそれには無理があると俺は思った。俺の気持ちを本当の意味で解ってくれる人はどこにもいない。だけど、俺は嘘でもいいから俺に対して「わかるよ」と言ってくれる人を求めていた。だから俺はくぐもった声で「はい」と言った。

「どうしてこの文章では一人称を『僕』にしているの、いつもは自分を俺と呼ぶあなたが?」

「分かりません。自然と一人称は『僕』になりました。俺の俺自身にさえも知覚できない部分ではきっと『俺』は『僕』なのかもしれません。分かりませんけれど」

 沈黙が場を制した。

 その沈黙を最初に破ったのは、俺のソプラノの声だった。

「先生、俺はいったい何者なのでしょうか?」

 先生は答えなかった。考えあぐねているようで、先生はひとまずテーブルの上にのっていた俺の手を握った。あたたかい。

「あなたが何者であろうと、それはきっと大した問題ではないと思う。岡田君はどんな人なの? 話を聞かせて」

 俺の口から勝手にリズミカルに言葉があふれでた。俺は岡田をどこまでも魅力的に表現することができた。俺の語りは熱っぽくなり、ありとあらゆる色彩を帯びていた。先生は相槌を打っては、先を促した。 そうして時は流れていった。語りきった時、俺の心はあたたかいもので満たされていた。先生は言った。

「あなたなら新世紀の薔薇にだってなれるわよ」

「でも……」

「こわい?」

「はい」俺はうつむいて軽くうなずいた。

「岡田くんは良い友達みたいだからね。確かに私は無責任なことは言えないし、色恋にときめているような年代でもない。でもやっぱり愛は勝つと信じたい。それが小説家である私の願いなの。とはいえ、もちろん私はあなたに傷ついてほしくない。だからやっぱり無理はしない方が良いと思うし、岡田くんとはしばらく距離を置いた方が良いかもね。さっさと彼女をつくるのが、あなたにとってもいいと思う」

「……そうですね」

 そこで話は終わった。俺と先生は協力して布団を敷いて、横になった。先生はすぐに眠ったみたいだったが、俺は何だか寝付けなった。もってきたウォークマンでSEKAI NO OWARIを聴きながらリズムを取った。そして二時間後に眠った。



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