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第四話 しおからいメイプルシロップ

 俺は壊れてしまったブリキのおもちゃみたいに、何もかもがぎごちなかった。ヌード・デッサンのモデルをしていても、歴史の授業を受けていても、便器に放尿をしていても、オナニーをしている時でさえも、その行動の端々からぎこちなさが露見していた。

 理由は明白だった。友達ができたからだ。

 岡田優介。

 俺は彼の名前を幾度となく、頭に思い浮かべる。純粋に岡田のことが好きだった。彼と関われる自分が、このうえなく幸福なように感じた。もちろん、岡田には岡田の友達が大勢いる。彼はいつだって幾人かの人間と行動を共にしていて、一人でいるということがまずなかった。弁当を食べている時も、トイレに行く時も、着替えをしているときも、いつもだ。それでも彼が一人でいるときは一日のなかに一回は絶対にあって、そういう時彼はいつも上の空で天井を見つめていた。

 岡田は図書館で出会って以来、朝や放課後に俺に話しかけてくるようになった。話す内容は平凡で中学生的な話ばかりだった。オナニーを何回やったとか徹夜して眠いとか、そういうくだらないといえばそれまでの、コミュニケーション・ツールとしての会話ばかりだった。それによって、岡田は「俺」を引き出そうとした。俺は甘んじてそれを受け入れた。岡田がオナニーを毎日していると告白すれば、俺もオナニーを毎日していると告白した。

 そうすることによって俺は岡田をより深く知ることができた。岡田は比較的あけっぴろげな性格をしていて、物事を隠すというような発想があまりないようで、秘密主義とは対極に位置しているような男だった。そんな岡田は、人間の多面的な部分を嫌う俺とは、相性が良かった。

 人間のなんと多面的なことだろう。こっちでは良いと言っていることを、あっちでは悪いと言ったりする。環境・人間によって話や態度を変えるのは、よくある話かもしれないが、俺にはそれがどうも許せなかった。自分のない人間が大嫌いで、大人にはそういう傾向が多いことをよく知っていた。そんな大人が俺は大嫌いだったし、そんな大人になるくらいなら俺は一生子供のままでいたいと思ったこともある。俺はきっと子供だ。何もわかっちゃいない子供だ。だから、こんな正義のヒーローみたいなばかげた発想を持ってしまうのだ。人にはいわゆる本音と建前があって、裏と表がある。そういうものだ。俺にはそれが許せないとしても。

 あるいは俺はカッコつけているのかもしれない。自分にはそういった確固たる自分があることを誇りに持ち、そうして粋がっている自分こそ世界の真実なのに、とみんなを馬鹿にしてカッコつけているのかもしれない。そうだとしたら、俺はなんて愚かなのだろう。俺は馬鹿だ。おれは馬鹿で、どうしようもない。そしてとっとと死んでしまった方が良い人間だ。

 とにかく岡田は俺と相性がいい。話も弾むし、冗談を言い合って笑い合える。しかし、俺の繋がりは、それだけではなかった。俺が岡田と話していた時、野木さんが話に加わってきたことがある。九月のよく晴れた水曜日の放課後のことだった。彼女は俺と岡田が少年誌について話している時に、「あ、私もそれ読んだ」と言って、俺と岡田のところにやってきたのだ。俺は席に座り、岡田は俺の席の前に座っていた。そこに横からはいってきた彼女は、少女らしい笑顔を浮かべていた。

「野木さんも、漫画読むの?」と岡田。

「知らなかった? 私漫画大好きなの」と野木さん。

 俺はしばらく岡田と野木さんの会話を黙って聞いていた。野木さんと岡田の顔を交互に見比べた。野木さんは性格がしっかりしているわりに、顔や表情はあどけない。岡田は全てにおいて、何か達観したところがあって、それでもなお子供っぽくあろうとする頑迷さが見られた。いやそれは俺の買い被りで、単純に抜け目のない少年なのかもしれないが。

 俺にはあまり人の真実を見抜く目はないようだった。少なくとも目利きではない。俺は孤独でありすぎた。踏み出すことを恐れすぎた。人間がグループをつくるのには、ある程度の理由があった。俺はその理由をないがしろにしてしまったがために、こんな中途半端に小学生みたいな思想を抱いている。かわいそうな、俺。

「去寺くんもそう思うよね?」

「……ああ、うん」

 野木さんは少し得意そうに、俺に話題を投げた。彼女は俺が岡田と話せていることを、あたかも自分の手柄ででもあるかのように振る舞う。彼女は何をしたのか。

 俺は寛容な表情を浮かべていた。今までの俺にはなかった種類の表情だった。俺は変わりつつあった。それは岡田のおかげではないか。

 俺は岡田を見た。岡田は野木さんに持論を述べていた。楽しそうだ。少年的で利発そうな笑みを浮かべている。そんな岡田を見ていると俺は胸を締め付けられるような気持ちになった。不思議だ。俺はこういう気持ちになったことが今までに一度だってなかった。友情を欲しすぎるあまりに、俺の心は壊れてしまいそうになっているのか? 俺は自分がよく分からなくなっていて、とても混乱していた。岡田を見ていると、胸が苦しかった。岡田という存在が、羨ましくてたまらないのだろう。俺はそう思った。

 だから野木さんの方に視線を移す。野木さんは俺を安心させてくれる。確かに俺は野木さんが嫌いではなかった。彼女には女の子特有の何かが欠けている。だから俺は野木さんと会話することができる。俺は女の子が好きではあったが、恐怖の対象でもあった。女の子の微妙で細かな人間関係は俺を尻込みさせるし、聞こえてくる陰口はいつだって女の子のあの可愛いらしい声ばかりだった。

 そうして俺たちはしばらく話をしていた。それは俺にとってとても充実した時間だった。ここ最近で、クラスの雰囲気も少しは良くなっているように俺は思った。とはいえ、それは幻想だった。

「ファック・ユー」

 ある朝、登校すると、俺の机にでかでかとそう書かれていた。俺は立ちすくみ、どうすればいいのか分からなくなっていた。小学生の時の記憶がまざまざと蘇り、俺の咽喉元を緩やかに締めあげていた。

 どこかでクスクスと笑い声が聞こえ、どこかで俺をあざけるセリフが聞こえた。俺がこの世に生きている意味を全否定されたような気分になった。俺は死にたくなった。でもどうやって死ねばいいのかもわからなくなっていた。

 やっぱり俺には俺という個人しかいなくて、他人には他人という強大なチームがあった。俺はここに来て改めて自分の孤独性を確かめた。俺はどこまで行ってもやっぱり一人きりであり、この世の荒波的な何かに俺の代わりに立ち向かってくれる人間なんてどこにも存在などしないのだということを理解した。俺は一人だった。

「誰だよ! こんなことしたやつ!」

 そう叫ぶ声。この声は、――岡田優介。振り返るとそこにはいきどおった岡田の顔があった。岡田の切れた顔を初めて目の当たりにした俺は、まるで自分にその顔が向けられているみたいにおののいてしまう。

「去寺の机に落書きしたやつ誰だよ! 早く出てこい! ぶんなぐってやる!」

 憤慨した岡田の顔にはある種の幼さがにじみ出ていた。彼は本気で怒っていた。つまり、俺の机に「ファック・ユー」と書かれていることに対して、本気で怒っていた。

 クラスはしいんと静まり返り、誰もが唖然とした顔で岡田のことを見ていた。きっと誰もがこう思ったのではないか。

――去寺のために、岡田が怒っている?

 なにしろ、俺も驚いていたのだから、クラスの人間が驚かないわけがなかった。岡田が俺についていた。岡田が俺の味方として君臨していた。こんなに心強い味方がいるだろうか。俺は胸が熱くなっていた。咽喉元に熱いものがこみ上げた。頬が熱く火照った。

(俺には、味方ができた……)

 俺はもうひとりぼっちの魔王ではない。それは素晴らしい現実のように思えた。俺は怒ってくれている岡田を見て、優しい気持ちになった。世界はこんなにもあたたかい。俺は今まで何を勘違いしていたのだろう。

 岡田はクラスメイトにひとしきり怒鳴り散らすと、家に帰ってしまった。激昂して勢いに任せたのかもしれない。あるいは我に返って気まずくなったのかもしれない。どちらでもよかった。岡田は帰ってしまったのだ。それは俺にとって少し寂しいことだった。

 岡田とすれ違いに登校した野木さんは、クラスの呆然とした雰囲気についていけず、何があったのかを友達に聞くと、俺のところにやってきて、諭すようにこう言った。

「先生のところに行こう。齋藤(さいとう)先生って頼りないけど、こういうのはしっかりと対応してくれるから」

「いいよ。消せばいい。あまりオオゴトにすると、面白がられるし」

 野木さんは悔しそうに目を伏せた。

「やっぱり俺はどうしてもクラスの雰囲気を悪くしちゃうのかもね」

 彼女の意を汲んでそう言った。彼女はクラスの雰囲気が悪くなるのが嫌で、俺のことをどうにか「普通の人」にしようとしている。俺はそう思っていた。しかし、彼女は俺の意に反して、俺を軽く睨みつけた。

「何言っているの?」

 彼女は俺に冷たくそう言うと、ひとつ深くて長いため息をついた。

「今日一緒に岡田君の家に行こう」

 彼女の真意が分からないまま、俺はその日の授業を茫漠と過ごした。

「ファック・ユー」の落書きは油性で書かれていて、濡らした雑巾でこすっても消えなかった。その「ファック・ユー」は何かの呪いのように、その日一日中、俺の眼前にあった。


 俺はメダカを飼っていることを忘れていた。

 底に敷いていた砂利や水草にはフンや食べ残しの餌が堆積し、ねっとりと茶色くなっていた。水は蒸発して減っているうえに、どこかの排水を組んできたみたいな異臭がしていて、それも茶色く濁っていてメダカが生きているのかも判断できなかった。彼らは生きているのだろうか。それがメダカの水槽を久しぶりに見た俺の感想だった。

 俺は生き物の世話に関してはルーズなところがあった。買ったばかりのころはまめに掃除やら鑑賞なんかをしているのだが、次第に飽きるし面倒くさくなってくる。それに彼らメダカは意外と屈強で、放置しておいても滅多に死なない。かえって丁寧に世話しすぎていた方が死ぬことが多い。そういうわけで俺は放任主義を決め込むことにして、半年近く掃除すらまともにしなかった。そのうちにメダカを飼っていることすらも忘れ、いまに至る。

 俺はそっと水槽のふたを開け、中を覗き込んだ。なんと彼らは生きていた。四匹。全員そろっている。死んでもいなければ、神隠しにもあっていない。俺は少し嬉しくなった。

 そしてメダカの掃除をすることにした。俺は頭を整理したかったし、そうするためには頭を使わないで身体を使う作業が必要だった。俺は庭の水道へ行って、メダカをバケツに移し、水槽をタワシで洗い始めた。

 俺は二日前に岡田の家を訪ねたことを思い出していた。

 岡田は俺と野木さんを家に上げてくれた。岡田の家はマンションで「アルカディア大崎」という名前だった。散らかっていたけれど、良いにおいのする家だった。岡田のワイシャツと同じにおいがした。

岡田はノースリーブとボクサーブリーフの格好で、少しふてくされた顔をしていた。眼が赤く潤んでいて、声が少し鼻声になっていた。

「あがれよ」彼はそう言った。

 野木さんは慣れた様子で、スニーカーを脱ぐとズカズカと岡田の家に踏み込んだ。彼女は手前にある部屋に入ろうとしたところで、玄関に立っている俺を手招きした。岡田は俺の顔をちらりと見ると、軽くうなずいた。

 岡田の部屋は俺の部屋より広く、ごちゃごちゃとしていた。壁に野球選手のポスターが貼ってあるのが印象的だった。岡田は野球が好きなようで、くたびれたグローブと薄汚れた野球ボールが、学習机に置かれていた。彼も姉ちゃんと同じで家で勉強をしないタイプのようだ。学習机が物置と化している。

 床にコンドームが転がっていて、俺はどきりとした。俺が直視していると岡田が「大学生のイトコからもらったんだ」と何気なく言って、それを拾うと力なく笑った。野木さんは聞こえないふりをして、大きな本棚に並べられている漫画の新刊を物色していた。その本棚には少女漫画もいくつか見られた。

「また泣いていたの?」彼女は唐突に言った。

「別に」彼は虚勢を張った。

「また?」俺は彼と彼女の関係を不思議に思いながら、質問した。

「そう。こいつ、泣き虫なのよ。ちょっとしたことですぐに泣くの」

「そんなことないよ」彼はむっとした顔になった。

「どうして泣いていたの?」

 俺は岡田の眼が赤く潤んでいる理由が気になった。俺にはその理由を知る権利があるような気がしたし、その理由を聞かないわけにはいかなかった。

 岡田は俺を「友達」だと言い、そして俺の「味方」をしてくれたから、俺はもっと彼のことが知りたくなっていた。大人びていると思っていた彼は、じつはそうではないのではないか。岡田の全てを俺は暴きたくなっていた。

 岡田は口をヘの字に曲げて、疲れたように首を右に傾けた。そして学習椅子に座ると、俺にはベッドに腰かけるように促した。俺はベッドに腰かけた。ベッドのうえで丸まっているタオルケットには、ウルトラマンがポーズをとっていた。

 野木さんは漫画に夢中だ。彼女は何しにここに来たのだろう。

「悔しかった、クラスのみんながお前を認めないことが。それに机に落書きされたお前は、虎にむさぼられている鹿みたいに、全てをあきらめているし。俺はさ、もっとお前に抵抗してもらいたい。お前だってこのクラスの仲間なんだってことを、みんなにわからせてやりたい。それなのにお前もみんなもまるでわかってくれない」

 岡田は意を決したようにそう言い切った。野木さんはおかしそうに、しかしあたたかく岡田をちらりと見た。しかし俺はあくまで物事を静観していた。

「でもそれは難しいよ。俺はあまりにもグループに属すことを拒み過ぎたし、全てをなかったことにしてクラスで仲良くやることは俺にもみんなにもできないと思う。俺はみんなから不当な扱いを受けてきたし、彼らは俺に不当な扱いをしてきた。それは揺るがない真実だ。確かに俺は野木さんや岡田と仲良くやれているけど、俺だってみんなと仲良くできるとは思っていない。一人や二人は気に食わない人がいると思うし、それは向こうも同じだと思う。要するにみんながみんな、俺を気に入るわけがないし、わざわざ仲良しゴッコをする必要もあまりない。そうするメリットがないもの。それは岡田が悔しがることではなくて、仕方のないことだ」

 俺は自分の意見を言った。

「どうしてお前はそう達観していられるんだ? いやじゃないのか、机に『ファック・ユー』なんて書かれて?」

「いやだけど、でもどうすればいいのか分からない。俺の机に油性マジックで『ファック・ユー』なんて書いて何が楽しいのかよく分からないし」

 岡田の部屋は沈黙に包まれた。野木さんが漫画のページをめくる音だけが聞こえた。

 俺は口を一度ひらいて、とじた。そしてもう一度口をあけた。

「俺はさ、岡田が俺のために怒ってくれて本当にうれしかった。あんなことは初めてだった。味方がいることに安心感を持ったのは」

 岡田は黙って俺のことを見つめていた。

「……だから、これからもずっと俺の味方でいてくれる?」

「いやだ」

 岡田はさらりと言った。俺は半ばイエスを予想して問うたわけだが、あっさりとその予想は外れた。俺は口をポカンとあけて、成す術もなくベッドに腰かけていた。野木さんは吹き出した。その原因は漫画なのか岡田の発言なのか、よくわからなかった。

 岡田は立ち上がった。そして俺の隣に腰かけて、俺の金色の髪を触った。それはとてもスムーズな流れだった。彼は言った。

「俺はお前の敵になることだってある、近い将来にきっと」

「どうして?」

「人間は必ずしも百パーセント理解しあえるなんてことはないからだ。もちろん今の俺はお前のことが大好きだし、お前の味方でいたいと思っている。同時に、お前が俺の味方でいてくれることを心から願っている。でも、人間ってきっとそんな簡単じゃない。だから俺はこれからもずっとお前の味方でいてやれるとは限らないし、これからもずっとお前が俺に味方でいてくれることを望むとは限らない。メリット・デメリットを抜きにしてもね。それでもきっと俺たちは『友達』であり続けるだろう。俺とお前がそう望む限りは」

 そう言って岡田は穏やかに微笑んだ。俺は少し寂しげに、それでも微笑んだ。

「俺はきっと岡田のそういうところが好きなんだと思う」

 岡田は俺に似ていた。俺よりも「核」を隠すのが上手なだけなのだろう。

 俺たちの関係はまるで、しおからいメイプル・シロップみたいだ。俺はそう思った。

 野木さんは漫画を読み続けていた。

 そしてメダカの水槽の掃除は終わった。俺はきれいになった水槽にカルキを抜いた水道水を入れ、そこにバケツに入ったメダカを流し込んだ。メダカは極めていつも通りだった。

 その時、俺は天啓でも受けたように、自分の過去を繋ぎ直した。そして俺はあることに気がついた。俺は恋をしていた。俺はある人間に恋をしていた。

 そう。

 俺はメダカに言った。

「――俺は岡田に恋をしている」

 太陽がさんさんと庭の樹木に光合成を促していた。アブラゼミの鳴き声がやかましいくらいだった。

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