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第三話 ファンタジーの出発点

 二日学校を休み、そして元の何もない日々に戻った。

 あれ以来、岡田とは会話すらしていなかった。一切のコミュニケーションをとっていなかった。あの猛烈な居心地の良さをもう一度、体感したかった。しかしそれはもう叶わない願いかもしれない。俺は少し悲しかった。

 野木さんもあれっきり俺に話しかけなくなっていた。俺から話しかけてくるのを待っているかのように、時折俺の方を見ては挑発的な顔をしてくる。

 姉ちゃんは俺の変化を敏感に感じ取っているようだったが、たいして俺に対する扱いは変わらなかった。俺はヌード・デッサンのモデルを間断なく引き受けていた。別に嫌ではなかった。俺の身体は小学生のそれと変わりなかった。二次性徴を遂げていたらもう少し羞恥心をもったのかもしれないが、俺には今のところヌード・デッサンのモデルをすることにためらいはなかった。むしろモデルになることによって俺という存在が現実味を帯びるような感覚を得られた。これは俺にとって重要な経験だった。

 先生とはあの夢をみて以来、会っていないし連絡も取っていない。

 俺の毎日は悲愴的なものになった。次々と市の図書館から本を借りて、そして読破していった。それ以外に俺のやることはなかった。それが俺のやるべきことだと思えた。俺は一人ぼっちでありたかったし、どうしても他人と関わりたくはなかったのだ。どんなに他人と触れ合える喜びを知りたくても。

 そして終業式を迎え、夏休みに入った。担任の先生は「絶対に面倒事を起こすな」と繰り返し生徒に伝えた。そして俺はあてもなく夏休みを茫漠と過ごすのだろうと思った。しかしその予想は大きく外れることになった。

 終業式とホーム・ルームが終わった直後、俺はトイレに行った。小便をするためだった。トイレに入ると、俺は胸の深奥がぐらついた。そこには岡田がいた。もっと言えば、岡田の他には誰もいなかった。トイレで、俺は岡田と二人きりだった。

 俺は岡田と間隔をあけて、便器に放尿した。俺は目線の端で岡田を捉えていた。岡田は端的に言って、カッコよかった。大人びたところがあるように見える。そんな岡田に俺はあこがれを抱いている。岡田は放尿をし、俺は放尿をしていた。

 岡田は俺の方を何度かちらりと見た。話しかけようかどうしようか迷っているみたいだった。俺は話しかけてほしくてたまらなかったが、丸無視して自分のアレを見るふりをした。

「去寺って毛、生えていないの?」

 岡田は俺の顔を見て何でもないように言った。「え?」俺は何だか恥ずかしくなって、顔が即座に真っ赤になった。

「なんで?」

「いや、見えちゃったからさ。そうか、ふうん。俺と一緒だな、ほら」

 そう言って岡田は岡田のアレを俺に見せた。確かに陰毛は生えていなかった。

「仲間だな」

 岡田はニッと笑った。そこには屈託がなかった。俺はその笑顔に胸がじわりと熱くなっていた。そして心臓の動悸が激しくなり、心が揺らいだ。

「じゃあ、またな」

 放尿を終えた岡田はそう言って、去っていった。俺はそこに立ち尽くし、何かの余韻に浸っていた。

 トイレを出て教室に戻ると、教室には野木さんを除いて誰もいなかった。彼女は「待ちくたびれたわ」と言って、俺の方へ歩み寄った。

 何だか彼女がいつもより可愛く見えた。それが不思議でならなかった。野木さんは言った。

「結局、あなたは一学期中には誰に話しかけることもできなかったのね。私はとても残念だわ。本当にやれやれって感じ。あなたどこまでシャイなの?」

 彼女は腰に手を当てて、俺と背の高さを張り合うようにして俺を見上げた。あくまで俺の方が身長は高かった。

「俺はシャイというわけではないと思う。ただ単純に自分もよく分かっていないのに、他人と接することに不安を覚えるタイプなんだと思う。俺には俺の世界があって、野木さんには野木さんの世界がある。それはきっと不可侵なのだろうけど、とても境界があいまいなんだ。だから俺たちは注意しないといけない。むやみにその世界を壊してしまえば、それは何もかもの終わりなんだ」

「あなたの言い方って、私嫌いだな。それって、傷つきたくないだけでしょう?」

「……そうかな。俺にはよくわからない」

「私はクラスが少しでもいい雰囲気になればいいと思っている。だからあなたに普通にしてほしい。それだけよ。休み時間に席に座って本を読み続けるような人は少なくとも普通じゃない。あなたはそういうアンダーグラウンドな行為をやめるべきであって、そうすればもっとみんなのあなたを見る目も少しは変わると思う」

「でもね、俺はそれを望んでいないの。みんなが俺をある程度奇異の目で見るのは当たり前で、それは俺の行為・行動に関わるところにはない。おれがどんなにぎこちなくなろうとも、あるボーダー・ラインは越えられない。なにしろ俺は……」

「見かけが外国人だから? 聞き飽きたわよ」

 彼女は俺の金色の髪を確かめるように触った。そのとき、俺は全身に電撃が走ったようなショックを受けた。そして俺の二つの乳首は鋭敏にその電撃を感じ取った。

「良い髪じゃない。私好きだよ、あなたの髪。きれいだもの」

 俺はじわじわと顔が熱く火照りだすのを感じていた。

「……顔、赤い。やっぱりあなたシャイよ」

 彼女は優越的な笑みを浮かべる。そして乱雑に俺の頭をかき撫でた。「うわっ」俺がそう言って目をつむると、その間に彼女は駆けだして、教室からいなくなった。

 四二人分の席がある教室で、俺は一人きりになった。

「『……』の話をするのを待っているのは、あなただけじゃないのよ」

 廊下で彼女の声が反響した。

 教室に取り残されたおれは呆然と、彼女の声あるいは反響音を反芻した。

 生ぬるい一学期が終わって間もない昼下がりのことだった。

 

 姉ちゃんが上辺だけの友達と海に行くことになった。アダルト・ビデオに出てきそうな過激な水着を着て、姉ちゃんが鏡の前に立っていた姿を思い出し、胸が熱くなる。

 俺はその日を過ごすにあたって、その日を特別な日にすることを決めた。そうすることで自分の価値観が変えられるような気がしたからだ。その日の俺は午前七時ぴったりに目覚めると、パジャマを脱いで風呂場に行き熱いシャワーを浴びた。

 バスタオルで丁寧に身体を拭くと、ボクサーブリーフを履き、キッチンに行った。トーストを二枚焼き、フライパンで焼いた目玉焼きをのせた。トマトとレタスのサラダを作り、ドレッシングをかけた。うすいインスタント・コーヒーも作った。それらをリビングへもっていき、テーブルに並べた。

「いただきます」

 誰もいない家で、おれ一人だけが「いただきます」と言っていることに、何かしらの異質な雰囲気があった。しかし俺はここで「いただきます」と言わないわけにはいかなかった。俺にはそうする義務があるような気がした。義務。

 俺はテレビもラジオもつけずに、黙々と朝ご飯を食べた。半熟の目玉焼き。カリカリのトーストの耳。水気のあるサラダ。仄かな苦みのあるインスタント・コーヒー。

窓から差し込む朝日にある種の神秘性を感じ取った。暖かく、明るかった。不明瞭で、幻想的だった。それでも俺は朝日を信じていた。それは意味のある行為のように思えた。

 食事を終えると、食器をキッチンの流し台に運び、そして念入りに洗った。洗いながら、今日一日のプランを立てた。まず俺にとって何が必要なのかを考え、俺がそれをすることは現実的に可能なのかを考えた。

 上手く考えをまとめようとすると、その考えは野兎が野原を駆けまわるように俺の決定を取り留めのないものにする。俺はそれを追いかける。その丸くてチャーミングな尻尾を捕まえたかと思えば、その尻尾はアクセサリーであったことが分かる。取れてしまうのだ。俺にとっての思考することは、その尻尾がアクセサリーの野兎と野原で駆けまわるようなものだった。その野兎は俊敏で、広い野原をどこまでも逃げていく。

「図書館に行こう」

 俺は意思を揺るがないものにするために、頭で考えてから、自分の口で発声した。夏休みの宿題が残っているし、借りた本を返したいし、新たに本を借りたいとも思っていた。だから、俺は図書館に行きたかった。そして俺は図書館へ行くための準備を始めた。

 クローゼットからショート・パンツを取り出した。そのショート・パンツは暖色のチェック柄だ。俺はそのショート・パンツをどうしても履かなければいけないような気がした。それはある種の運命だった。だから俺はそのショート・パンツに合わせて格好を決めることにした。

 ボクサーブリーフ一枚から衣服を身に着けた俺は、ふと見慣れた天井をながめ、天井にへばりついている電灯をながめ、その電灯の中に閉じ込められて死んでいる名前の分からない小さな黒い虫たちをつぶさに眺めた。俺は何だか改めて孤独を実感した。その虫たちは寄り集まって身を寄せ合うようにして死んでいた。

 姉ちゃんからもらったトミー・ヒルフィガーのショルダー・バッグに荷物を詰めた。借りていた本十冊と数学の夏休みの宿題だ。俺は数学が得意だった。だから何よりも先に数学の宿題をやるべきだと思った。感覚の問題だ。

 俺はトミー・ヒルフィガーのショルダー・バッグを肩にかけると、玄関から外に出た。玄関のドアの鍵をかけて、自転車にまたがった。何の変哲もない、ごく普通のシルバーの自転車だった。俺はその自転車に五年乗り続けていて愛着があったが、カゴがひしゃげていて見栄えがとても悪いうえに、振動で耳障りな金属音が鳴った。

 俺はその何の変哲もないいつもの自転車に乗って、何の変哲もないいつもの街並みを走りすぎていった。その感覚はある種の「無常」に近いものがあった。俺にとって現代は「無常」に近いもので満ち満ちていた。この時代を俺にはどうすることもできなかった。

 この市はきわめて平凡でさしあたり特色のない、畑と住宅街が交互に(あるいは連綿と)連なる、退屈とも言えばそれまでの中流的な場所だった。俺はこの町で育ち、この町で死ぬのだろう。そう確信している自分がいることを、俺は恐ろしく思っていた。俺にとっての人生とはそういうものだった。始まりと終わりが決まっている。それも宿命的に。

 俺の最後は既に決まっていた。殺されるのだ。それも生きている最後の最後まで信用していた、愛する人に。その愛する人を的確に言い当てることなどできはしない。全ては妄想だ。しかしある種の真実味をもって、俺は言い逃れの出来ない運命を背負っているように思う。決まったレールがあり、そのレールに沿って俺は進行していく。俺は殺される。その後は知らない。

 図書館に着いた時には、すでに午前十一時十四分になっていた。俺が朝起きてからもう四時間と少しが経過している。俺は行き場のない焦りを覚えた。そして猛烈に死にたくなった。もし仮に今自分が学校にいるのならば、屋上まで階段を全速力で走りぬけて、飛び降り自殺をしてしまいたい気分だった。でもこれはあくまでそう言う気分だっただけだ。俺が本当に飛び降り自殺をするわけがなかった。俺は高いところが苦手なのだ、色々な意味で。

 そして俺はカウンターで図書を返し、図書館のなかでもお気に入りの図書閲覧席(大きなテーブルとゆったりと腰かけられる椅子がある)に座って、夏休みの宿題の三分の一を片づけることにした。俺は確かに数学が好きだし、数学が得意な方ではあるが、問題を解くのにはある程度の時間を要した。要領がいいわけではなかった。だから数学のテストでも時間切れになってしまうことが多々あった。それは仕方のないことだと半ばあきらめていた。俺にはテストでよりよい点数を取ることは、とても難しいことだった。理由は分からないが勉強をしても絶対に、いつだって平均以下の点数を取った。勉強の仕方が悪いのかもしれないと思った時期もある。勉強の仕方を工夫した。勉強する時間を増やした。それでもいい方に結果はシフトしなかった。おれは馬鹿だ。そういう結論に至るのは決して難しいことではなかった。

 俺はより孤独を実感する。理由は分からない。それはセンシティブに俺の心をえぐり、俺の核と呼べる部分を世間に晒そうとしているみたいだった。それも馬鹿であるがゆえに。だから俺は基本的に人と口をきくことをためらうのかもしれない。俺はそう思った。

 トミー・ヒルフィガーのショルダー・バッグを俺は肩にかけたままにしていた。それとショート・パンツを身に着けることで俺はパーフェクトでいられた。あとはいらなかった。ただモラルに反するのはいやなのだ。俺はそういうところは真面目だった。

 俺は問題を解き続けた。そこにはカタルシスがあった。読書では得られない快感だ。俺はそれを確認するように味わった。その瞬間を愉しむためだけに、俺は問題を解き続けていた。しかしある時、俺はつまずいてしまう。全くと言っていいほど解答への道がみえなくなる。岩壁に閉ざされるあるいは霧に包まれてしまう。そういった時、俺は絶望的な気持ちになる。世界の終りを目前に控えた娼婦のような気持ちになる。だから俺は出来る限り、出来合いの解答を横にひらいておいておく。ズルかもしれない。しかしこれは仕方のないことなのだ。解けない問題があれば、それを理解しなければいけない。理解するためには解答がなければいけない。そして解答を生み出せないのなら、もらうしかない。そういうことだ。

 窓から差し込む陽光が館内に差し込み、日当たりのいい場所とそうでない場所で、光と影のコントラストを生み出していた。緑色のかたくて厚い葉っぱをもつ植木は日陰になっていて、眩しい金髪でブルー・グレイの眼をもつ俺は日当たりのいいところにいた。そういう意味では、世界は残酷なように思えなくもなかった。

 突如として図書館内に、スピッツの『チェリー』オルゴール・アレンジが響き、そして消えた。サビの部分が流れたかと思ったら、幻聴ででもあったかのように聞こえなくなった。しかしそれは俺の幻聴でも聞き間違いでもなかった。近くにいた幾人かの中年の人や若いお姉さんが、集中して取り組んでいた物事からいったん意識を切り離し、顔をあげた。

 それは図書館内にいる何者かが原因だった。しかし誰も何も言わなかった。

「こいつが犯人だ」

「全部こいつのせいだ」

「血祭りにあげろ」

 そんなことを言うような人間はどこにもいなかった。そして誰もが何もなかったかのように、自分の世界に戻っていった。俺は内心苛立っていたが、それは自分の器みたいなものの小ささを実感させられて嫌だった。

 今日の目標である、宿題の三分の一がもう少しで終わる。そうなった時、俺は初めて自分が解いてきた夏休みの宿題のページを確認した。結構な厚みがあった。俺はそこに充実感を覚えた。やり遂げている実感があった。そういう経験は俺をいい方向へと導いてくれるような気がした。とても面倒な過程をたどることになるにせよ。

 そして俺は肩を叩かれた。二度。

 俺は振り向き、そして内心狂喜した。顔はいたって平静だ。いや、もしかしたら少し明るい顔になっていたかもしれない。

 つまり、そこにいたのは、岡田だった。

 岡田はノースリーブでカジュアルな格好をしていて、マンハッタン・ポーテージのメッセンジャー・バッグを肩から下げていた。ノースリーブは大きく肩がむき出しになっていて、乳首が見えそうで見えなかった。彼は始業式の時と比べて、茶色く日焼けしていた。色の黒い岡田にはワイルドさが加味されているような気がした。岡田は言った。

「よう、去寺。お前も宿題?」彼は俺に対して気兼ねがなさそうだった。

「そうだよ」俺は用心深く、軽くうなずいた。

「へえ」そう言いながら、彼は俺の隣の席の椅子を引いて、そこに腰かけた。岡田は俺に顔を近づけた。そういう癖があるのかもしれない。他人とコミュニケーションを取る際に、その相手に顔を近づける癖が。

岡田のさわやかな顔が俺の眼前にあった。岡田はとても自然に俺に顔を近づけている。俺はどぎまぎした。無意識に呼吸の回数が多くなり、その呼吸は深く長いものだった。岡田の顔を凝視し、子細に観察している自分に気づく。岡田の短めの髪の毛はかたそうだ。触ったら、どんな感じがするのだろう。俺はそう考えている自分を律した。ばかばかしい。ああ、そうだ。俺は岡田にあこがれている。

「どのくらい終ったの? というか何もってきた?」

 岡田は俺の数学の宿題を勝手に手に取って、ペラペラとページをめくった。「それは、俺のものだろ」とかいう気分にはならず、むしろもっと俺に興味・関心を持ってほしいとさえ思った。岡田の行動の全てが肯定的に捉えられるような気がしたのだ。たとえば岡田が煙草を吸っていて、それを俺に勧めてきたら、俺はきっとその煙草を受け取ってしまうような気がする。

 岡田は言った。

「もしかして朝から来ている?」

「うん」俺は軽くうなずいた。

「エライね」岡田は少し大仰に驚いて見せてそう言った。岡田のその表情は、少し子供じみていて、大人びた雰囲気にギャップが見られたが、どういうわけかよく似合っていた。そして岡田は軽く笑った。

「去寺ってけっこう真面目そうだからなぁ」 

 俺はそこに疑問をもった。

「どうして? どこが?」

「いつも本読んでいるから。休み時間も友達とも喋らないし、弁当食いながら本読んでいるときもあるよね。あれってそういうキャラクターつくっているの?」

「キャラ?」

「うん。なんか面白いよね、去寺って。だから一学期の時からずっと話してみたいなぁと思っていたわけ」

「ふうん。一学期の時はコンビニで会ったのと、始業式の日のトイレで会ったかな」

「そうだね。コンビニの時は少し話したかったけど、去寺はもう買い物終っていたみたいだから」

「ああ、気にしなくてもよかったのに」

 俺がそう言い終えると、岡田はふっと表情を緩めて、心から微笑んだ。

「去寺って話してみると意外と普通だね。もっと変な奴かと思って、戦々恐々だったよ」

「え?」

「学校でもこういう感じでみんなと話せばいいのに」

「……俺のこと?」

「お前以外に誰がいるんだよ」岡田は吹き出しそうな顔になって、そう言った。

 俺は内心困っていた。俺は自分が他人からどう見られているのかなんて考えたこともなかったからだ。

 自分は自分であり、他人は他人である。そしてその間には限りない境界があって、その境界は中立的に維持されている。その境界は何人(なんぴと)たりとも犯すことはできないし、そう、それはたとえば岡田にさえも破られることのない絶対的な心の壁とも言えた。そのはずだった。

 俺の胸の鼓動は早まっていた。もうすぐ死ぬみたいな勢いで。もうどうすることもできない。俺は岡田の眼を見ていた。岡田も俺の眼を見ていた。俺の今までが黙殺されようとしていた。俺がいて、岡田がいた。岡田がいて、俺がいた。図書館内は異様なほどに静かで、そこは昼休みの教室とは大違いだった。

「これ言うと嫌がられるかなと思ったけど、お前の髪って無茶苦茶きれいだよね。触ってもいい?」

 俺が了承する前に、岡田は手を伸ばして俺の金色の髪を撫でるように触っていた。俺は肛門から頭頂にかけて一直線にしびれるような快感を覚えた。それは野木さんの時の比ではなかった。そして荒々しく呼吸をしすぎたことによって、一瞬眩暈(めまい)がした。俺は金色の髪を触られている間、とろけるような気持ちでいた。俺という存在が液体となって、内から外へ溶けだしていってしまいそうな気分だった。

 岡田が手を俺の頭から放しても、余韻がしばらく残った。

「柔らかいし、いいなぁ。俺なんて髪かたいから、いじりようがなくて」

「……だから短くしているの?」

「そう。幼稚園の時からこの髪型。二か月に一回床屋で切るの」

「へえ」俺は軽くうなずいた。

「でも似合っているよ。少なくとも俺はそう思う」

「少なくとも俺はそう思う」

 彼は俺の言ったことを反復した。そしてこう言った。

「変人ではないかもしれないけど、あまり普通でもないね。というより中学生らしくない」

「中学生らしくない」俺も彼の真似をして、彼の言ったことを反復してみた。

「そう。話し方がなんていうか、文学的だよね。本の読み過ぎだよ。もっと人と喋った方がいいと思うよ」

「でも俺、友達いないから」

 俺はボソリと言った。すると岡田は驚くべきことを言った。俺はその言葉をきっと死ぬまで忘れないだろう。ここが、ファンタジーの出発点だ。彼はこう言ったのだ。

「え? 俺とお前は、友達だろ」

 その言葉に俺は果てしなく救われるような想いになった。俺は自分を孤独だと考えた。そしていつの日か俺は、自分が孤独でなくてはいけないような気分になっていた。それはルールであり、縛りだった。自分と他人との間にあったボーダー・ラインはその時、跡形もなく霧散したのだと思う。少なくとも俺と岡田の間には、光の架け橋のようなものが渡されていた。同時に、俺は死んだ。俺だと思っていた俺が死んだ。俺にとってかけがえのない宝になっていたのに。しかし、その宝には使い道がなかったのかもしれないが。

「うん」俺は軽くうなずいた。そして下手な笑顔をつくった。

 岡田も笑顔になった。太陽のようにあたたかい笑顔だった。

 そして夏休みは明けた。


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