最終話 社会の終りとボクサーブリーフ・ワンダーランド(後編)
僕はきっとオリジナルで在りたかっただけなのだろうと邪推する。過去がどんどんと川の流れに逆らえないのと同じで、僕は青春を取り戻すことはもうできないのだ。
スマートフォンの起床アラームで目を覚ます僕は、ベッドから起き上がり、伸びをして、パキポキとなる肩の音に若干の小気味よさを感じながらも、昔は鳴らなかったその肩の音に対して不愉快な気持ちになる。歳を重ね、肉体が老化していくことの実感をするにはまだ早いのかもしれないが、肩こりの意味が分かるようになったし、腰が痛くなることの意味が分かるようになった僕の肉体の衰えは、果たして僕の薄弱な精神にどう作用するのか、そんなことを考えずにはいられない。
欠伸をする。目から涙を流す。人生について考える。寝る前に淹れてそのままにしてあったインスタント・コーヒーを飲み干す。それは冷え切っていて、とてつもなく嫌な味がする。さっきまで岡田の夢を見ていたことを思い出す。良い夢だったとはいいがたい。僕は岡田とディープ・キスをしていた。
我々はお互いに中学生の頃のままの姿で、学校の制服を着ていてワイシャツのボタンは第二ボタンまで空いている。岡田はいつだってその下は裸で、ピンク色の乳首が透けて見えていて、僕はそれを見ないように懸命に努力しながら観察していた。岡田はうっとりとした目をしていて、僕とディープ・キスをしていた。絡み合う舌と舌。密着する鼻と鼻。見つめ合う目と目。そういう感じ。
結局のところ、僕は野木さんと付き合う過程こそ経験したけれど、本当のところでは、岡田とセックスがしたくてたまらなかったのだ。岡田の裸体を子細に観察し、弄び、触りまくりたかったのだ。しかし、僕には、いや、当時の「俺」にはそうすることが出来なかった。
何故か?
分からない、なんて甚だばかばかしい解答をするつもりは僕にはない。それは僕が「社会的に生きる」ことを最善としたからだろう。何も社会的であることが全てではない。様々な可能性があってしかるべきなのだ。もちろん何もかも最初から最後まで自己責任であることを覚悟のうえで。そして、僕は自己責任を忌避した。ゆえに今なお岡田とディープ・キスすることを夢に見る。
岡田に告白をすればよかったのか? 岡田に率直な気持ちを伝えればよかったのか?
いいや、答えは否だ。僕のこの気持ちが岡田にナチュラルに伝わることはない。というよりも、なかったというべきだろう。だからこそ、僕はここにこう記すよりほかにない。「全ては夢の中に」と。
暇を持て余していた午後、スマートフォンが振動する。僕はそれを手に取り、確認する。長文のメールだ。野木さんから、久しぶりにメールが来たのだ。野木さんは小説家を目指していて、僕に時折、小説を送り付けてくる。僕はそれを読み、批評する。野木さんはそれに満足する。我々の関係は至ってシンプルで、好意も悪意も何もない。そういう関係性を僕はどこかで求めていたのかもしれない。野木さんの小説をぜひ読んでもらいたい。
三日月が銀砂を散りばめたような星空に浮かんでいる。墨を零したように黒く静まり返った深い森には、人の手が加えられた形跡はなく、杉などの大樹が大地に太い根を張り、天空へと枝葉を伸ばしている。
この森のあちらこちらに点在して佇んでいる遺跡が、月光を浴びて白っぽくぼやけて見える。その一連の遺跡の建造物は石造りで、古びて階段が崩れかかっている塔や、枯れてしまった水路、ひび割れ露出した土から草が生い茂る石畳、高い建物の間にある細いトンネルといった、かつて人が居住していたことを想像させる、入り組んだ都市の構造を、今なお残している。
この遺跡の中央には、錆び付いた鐘を吊るし続けている鐘楼がある。朽ち果てた鐘楼は積み上げられた石がぼろぼろと崩れている個所もあるうえに、鮮やかな緑のツタやつる性の植物が壁や鐘に張り付くようにして 上へ上へと伸びている。その鐘は大きく銅でできているが、赤銅に輝いていた過去は栄光であり、今やすっかり錆び付いて見る影もない。
遺跡の中でも高い部類に入る建造物の苔むした露台の縁に腰かけている少年がいた。素足をぶらぶらとさせていて、森を吹き渡る夜の風を気持ちよさそうに、受け止めていた。柔らかな髪が、さらさらと揺れ、なびく。
少年の名はユキという。しっかりとした骨格でありながら、細く痩せた体つきをしている。暖色でチェック柄の擦り切れて粗末なズボンを穿いているほかは、何も身に着けていない。左胸に直接、五芒星の焼き印が押され、首には太い金属のリングが付けられている。
「雨上がりの匂いだ」
ユキはそれを懐かしいにおいだと思った。
夕方まで、今日は雨が降っていた。土砂降りの雨だった。それが夕方になった途端に、ピタリとやんで、真っ赤な夕日が雲間から姿を見せた。森の枝葉の隙間から、夕暮れの淡い光線が降り注ぐ。空気中の塵や埃をきらきらと反射していた。ユキが森の中を遺跡へと向かって歩いていた時のことだった。それはユキには冒険の始まりに相応しいと思えた。
物音がした。軽快に石畳を素足で踏みしめて歩いている音と鼻唄が雪の耳に聞こえてくる。その鼻唄は酔っ払いのものとは違っていて、小粋で洗練され、よいメロディーとなるように計算されたものだった。ユキはその音色に耳を澄ませていたが、唐突に辺りは森閑とした。代わりに「よう、ユキ」という、ふてぶてしい呼びかけが露台の下方から聞こえてきた。ユキはそう呼びかけてきた人物が誰かを知っている。
ユキと同じような体格をした、そのわりに大人びた深い声色の、その少年の名はラビと言った。ユキと同じように左胸には五芒星の焼き印があり、首には太い金属のリングをしている
「遅かったな」
ユキとラビは待ち合わせて、この遺跡に来ていた。
「お前が早過ぎるんだ」
そうして、露台にいるユキと石畳にいるラビは軽く笑い合って、しばしお互いを見やった。
「今、そっち行くよ」
ああ」
そうして建物に入るラビを目で追ったユキは、これから始まることを考えた。
「なあ」と、建物内の階段を上りながら、だしぬけにラビが声を出す。その声は吹き抜けの建物を反響して、露台にまで届く。
「なに?」とユキ。
「お前にとっての、おれって何?」
ユキは少し考えた。
「友達」
ラビはユキが露ほどもそう思っていないことを知っていた。
「バカにしやがって」
「バカにしてないよ」
ラビの階段を駆けてくる音がユキにははっきりと聞こえる。夜空を見上げていた由紀は階段の方を向くと、そこにはラビが息を切らして立っていた。
「本当に――本当に、行っちゃうのか? 一人で。みんなをおいて」
「ラビだって行きたいだろ?」
「そんなの、当たり前だ。王都に行くのは、おれの夢だ」
「そしておれの夢でもある」とユキはいやらしく言い、「主様は言った。夢の王都に行けるのは一人だけ。おれたちは殺し合いをして、その一人を決めなければならない」
「ああ」
「おれが勝つ」とユキ。
「いいや、勝つのはおれだ」とラビ。
微笑みさえ浮かべて朗らかに言いあう二人には、これから殺し合いをする気配なんて、微塵も感じられなかった。しかし心の中では互いに睨み合い、どちらがこの殺し合いの主導権を握ることが出来るか、図りあっていた。
「まあ、いいさ」と言って、ユキは穿いていたズボンを脱いで、全裸になった。ラビも同じようにズボンを脱いで、全裸になった。突如、少年たちは衣服とともに理性を捨て去ったように見えた。彼らの目は爛々と輝きだして、風の唸り、森のざわめき、星々の煌めき、そういったものを一身に受け止め、ひどく緩やかに時の流れを感じるようになっている。そして彼らは殺し合う前の最後の同胞の証として、貪るように互いを愛撫し合った。会館に身を打ちふるわせていくうちに、本来あるべき獣としての自覚を取り戻していく。乱れる二人の少年を鷹揚に見下ろす三日月に雲がかかる。薄暗い夜の世界の到来に、少年たちは気が付かない。積み重ねてきた太古の歴史そのものである遺跡で、本能のままに発せられる喘ぎ声や嬌声、よだれのはねる音などが反響する。
愛撫はやがて狂気的な暴力に、快感はやがて衝動的な殺意へと変わっていく。ラビが動く。抱いていたユキの背に血のにじむほどに爪を立てた。全裸のラビは到底、人間と呼べるものの目をしていなかった。しかし、それは全裸のユキも同じことだ。とはいえ、ラビのその行動はユキを傍にかき抱こうとしている強い思いの表れのようにも見えた。ユキはそんなラビを突き放す。ラビの睾丸を思い切り蹴りつけたユキは、ラビを露台のへりまで蹴り飛ばした。そして駆けだしたユキは犬のような吠え声をあげて、勢いよく露台の塀に飛び上がり、そのまま兵を駆け抜け距離を詰め、相手のふところに向けて、右脚を突き出して飛び蹴りの姿勢を形作ったままにラビのもとへ飛んだ。
睾丸の痛みからわきあがる吐き気を抑えて、ラビはユキの右脚を即座に左手で掴んだ。力任せに埃っぽい床に引きずりおろし、ユキの腹部に全体重をかけて馬乗りになる。頭を空いていた手で守ったユキは、背中と尻を強く打ち、数秒間息が出来なくなったものの、掴まれていない方の脚で闇雲にラビの背部を蹴りつけようとする。しかし、それはうまく当たらない。薄弱な膝蹴りが良いところで、効果がない。ラビは抑えていたユキの右脚を放し、ユキの顔を、ひたすらに、とにかく、これでもかと素早く殴りつける。ユキはその攻撃を抑えようとするが、凄まじい力で放たれる殴打は、たとえ両の手が自由でも防げるものではなかった。しばらくこの一方的な攻撃が続いた。ユキがばたばたともがくことをやめないのが余計に哀れを誘った。ユキの端正な顔は今では酷い有様だった。鼻は折れ、瞼は腫れあがり、数本の歯が欠けたり折れたりしている。痣だらけで、殴られた衝撃で肌が裂けている個所もあった。次第に力を失っていくユキに対して、ラビの残忍な暴力性は高まり続けていた。ユキのもがくその手に段々と力が入らなくなっていく。と言うよりは力を入れなくなっていく。痛みを拒絶することよりも痛みを受け入れることに思考が方向転換していく。ユキの中で新しい気持ちが開花していく。気が付けば、ユキは殴られることに快感を覚えていた。馬乗りになっているラビは、そのユキの違和感を敏感に察知した。その違和感にラビがほんの一瞬とはいえ、気を裂いたことが仇となった。数瞬で状況は一変した。残された力を振り絞り、腹筋を使って上半身を起こしたユキは、渾身の力でラビの首を絞めた。ラビはどうにか逃れようとするが、ユキは決してラビの首を絞め続けているその右手と左手を放そうとはしなかった。音なのか声なのかよく分からないものを喉から漏らして白目をむき、ラビは死んだ。ラビの糞尿が漏れ、ユキの白い腹を汚した。ユキは動かず、ラビの首を絞めたまま、硬直していた。
ここに出てくる「ユキ」と「ラビ」のメタファーが分かる人は少ない。しかし岡田なら、きっと何もかも分かってしまうのだろう、と僕は今朝見た夢を思い出しながら、自室に一人きり、ボクサーブリーフの恰好でそう思うのだ。




