第十話 社会の終りとボクサーブリーフ・ワンダーランド(前編)
そして俺は人称を「僕」に変えた。
僕はどういうわけか自殺未遂で、精神を病に侵されていると大して偉くもなさそうなお医者さんにお墨付きをもらって、学校も一年間休学になり、頭のぼんやりとする錠剤を飲むことと引き換えに、僕は晴れて複雑骨折した暇人となった。両親はこれと言って心配することもなく医療費を出すだけ出して、多忙を極めるお仕事の方に集中していった。暇すぎた僕は何を血迷ったか読書なんていう真面目くさった趣味に走り、『指輪物語』を二週間かけて読破してしまった。こたつにはいって顔と手だけを出して黙々と本を読み続けた二週間は、なかなかに充実していた。しかし今度の事件で僕は「全裸で自室の窓から庭に飛び降り自殺しようとした少年」という際どい肩書をもらっていて、新聞の地方版の話題になってしまうくらいのエキセントリックな人物になっていた。当然学校でも時の人になっていて、僕は少なからずショックを受けたものの、なんとなく事態を把握し始めていた僕は、「まあ仕方ないな」と頭をすっきりさせることに成功する。そんななか「大丈夫か?」とメールをくれた一人が佐伯ヒロだった。佐伯ヒロは僕の家を訪ねてきて、僕の部屋でせんべいをボリボリ食いながら、「なにか悩みでもあったのか?」と心配そうに尋ねてきた。
「そういうんじゃないんだよ」
僕は軽く笑ってそう言った。
「何も考えていなかったんだ。窓から飛び降りて見たくなって、ちょっと飛び降りてみたら複雑骨折して精神病患者扱いされていたんだ。こういうのって、たぶんよくあることだろ?」
「よくあることではないと思うけど、まあ、メンタルヘルスに問題がないんなら、別にいいや。元気みたいだしね」
佐伯ヒロはせんべいがよほど気に入ったのか、一人でお茶請けにあった十枚のせんべいを全て平らげて、帰って行った。あいつはせんべいを食べに来たのではないかと疑ったくらいだ。
休学の間に、岡田とも野木さんともかかわりを持つことはなかった。一切と言っていい。
それから僕は休学の間、思考する一匹の化物になった。
「僕はキャラクターなのだろうか」というところから始めたい。
ある日、畳の部屋でテレビを見ていた。九十年代で、テレビはまだブラウン管で、そこにいるのは僕一人きりだ。テレビにはタイトルも忘れ去られてしまったセル画のアニメーションが映っていて、僕はそのアニメーションを一人きりで見ている。
しかし僕は孤独ではない。僕は孤独を感じていない年齢だ。孤独を孤独だと知らない年齢だ。当時の僕の年齢を思い出すことはできないし、オレンジ色に包まれた畳の部屋が夕日の沈もうとしている時間帯であることを想起させるが、それが確かな記憶とは言えない。
言うなれば、僕はテレビを見ていて、アニメーションの物語も分からないままに、きっと動く絵を面白がっていただけなのかもしれない。あるいは、その逆なのかもしれない。
今、コーヒーの入ったマグカップを片手に、机に広がるデッサンの参考書を前にして、僕はその畳の部屋でテレビを見ている光景を、ひとつの世界だったと思うこともできるし、ただの想像の産物に過ぎず、いつかのどこかで捏造した夢や妄想だと考えることもできる。どちらにせよ、過去は過去だと僕はあえて言い切ろう。
「死ねばいいのに」
僕は呟いた。誰に対しての発言でもなく、それはもちろん自分に向けての発言でもない。口癖のようなものでもない。あえて意図的に発せられた。僕がかつて通っていた高校の生物の先生が好んで発言していたことを思い出したのだ。
生物の先生は「風変わり」を擬人化したような人で、当時こじらせていた僕を悪い方向へ感化させた犯人だ。しかし僕は生物の先生とこれといった繋がりを持たなかった。むしろ隔絶していたと思いたい。イラストを描くという生物の課題があったのだが、生物の先生は僕のイラストをこれ見よがしに、わざとらしく「どうですか、これ」とクラスメイト全員に聞こえるように言った。授業中のことだ。その真意は僕には分からないけれど、僕はそのことをうれしいと思った。どちらにせよ、過去は過去だと僕はあえて言い切ろう。
デッサンの意味とか方法が、僕には分からない。それなのに、僕は今デッサンをしようとしている。クロッキーでも模写でもなく、僕はデッサンをしようとしている。美術を専門的に学んだ経験もなければ、絵画の造詣が深い訳でもない僕が、何故僕という存在が今になってデッサンをしたいなんて、狂ったような発想をしたのか。きっと漫画家になりたいからだ。
突然だが、僕は漫画家になりたい。僕は物語が作りたい。僕は世界が知りたい。「井の中の蛙大海を知らず」なんて言葉がある。僕には分からない。どこが「井の中」でどこが「大海」なのかが分からない。「蛙」が自我なのは、なんとなく分かるけれど。井の中があるから大海があるのか、それとも大海があるから井の中があるのか、なんて話をするつもりはない。僕が今やりたいのは、コーヒーをブラックで飲むこととデッサンをすることだ。意味なんてない。
コーヒーをブラックで飲むと、とても苦い。苦いのは嫌いだが、嫌いなことをしたりされたりすると、僕は生きているのを実感する。とても恐い。これを読んでいるあなたが、こちら側(強いて言えば、僕の部屋)に来るのを、やめてほしいくらいだ。
スマートフォンが充電されている。すぐわきにある。僕はそれを手に取って、友達と連絡を取ろうとするが、この深夜帯のしかも午前三時にわざわざ起きていてくれているばかりか、僕と話をしようとしてくれる人なんているのだろうか、なんて考える。そんなことはとても無駄な行為だ。やりたいことをやればいい。もちろん、赦される範囲で。僕は会話を必要としていたから。
「起きている?」と電話をかける。
しばらくの無言のあとに、「寝ていた」と眠たげな声が聞こえた。「毎日、こんな奇妙な時間に電話をかけるような馬鹿な真似はやめてくれないか? 気持ち悪いからさ」
「僕はさ、そういうこと、つまり奇妙だとか気持ち悪さだとかを前提として、僕を形容しているのかもしれない。僕は例えば夜に一人きりで部屋にいる。それはよくあることだ。電気をつけて、電気代を親に払ってもらいながら。そういうことに関してはちっとも申し訳なさなんて感じない。まあ、ウソだよ。何がって? 僕の話していることは大概ウソなのかもしれないと、最近自分でも思い出したところだよ」
「あのさ、そういう風に脈絡もないことを一人で俺に向かってベラベラと喋っていられるうちが華だとね、俺なんかは思うわけ。言っている意味、分かる?」
「孤独ってこと?」
「日本語が下手だよね、お前。バカと思われるよ。マジな話」
「僕はバカだよ」
「そうだね」と眠たげな声が言った。「明日は学校、来るのか? そろそろ出席日数足りなくなるよな。大丈夫?」
「出席日数で僕の人生に傷痕が残る。そういうのって、なんか怒りを通り越して哀しい。というより、僕は休学中だ。お前、そのこと本気で分かっている?」
「そうだね」と眠たげな声が言った。「生活リズムを整えた方がいい。夜は寝て、昼間に活動する。そういう努力から始めた方がいい。生きている以上は。それでさ、そろそろ切っていい?」
「ああ、ありがとう。わざわざ夜中に電話して悪かったね」
「寂しかったっていうのは、分かるけどね。俺はお前の親友でも恋人でもないからな」
そして電話は切れた。僕はスマートフォンを充電器に差し込むのも忘れて、ベッドの上に放り投げ、そのまま、マグカップの中に残ったコーヒーを飲みほした。とても、とても不味かった。生きているという実感と、真逆の心地の同居。あれ、僕は何を言っているのだろう?
デッサンをしようかとも思ったけれど、そういえば僕はデッサンの方法を知らないのだったという現実に気付き、打ちのめされ、自殺を図ろうかとベランダの方に向かいかけたが、存外、そこまで深刻な状況ではないことに気が付いた。行って帰ってきた。簡単な話だ。ショート・ケーキの苺を残しておくようなものだ。あれ、僕は何を言っているのだろう?
危険思想の持主、ジョンの話をしたい。僕は彼と話がしたかった。何が危険かというと、ジョンは僕の知らない世界で生きている。この場合の世界というのは、つまり趣味ということ。説明するまでもないけれど。生きていると、誤解だらけのタイムトラベラーになっている可能性だってある。僕はそういうことをジョンから習った。要するにジョンはタイムトラベラーを自称している。
タイムトラベラー。時間を行ったり来たり出来る人のことだと僕は思っていたけれど、ジョンを見ていると案外そういうわけでもないことに気付かされる。まあ、別に僕がタイムトラベラーのことについて、きちんと理解する必要はない。それはジョンの問題であり、僕の問題ではない。ジョンはジョンで好きに生きればいいし、それを思想と呼ぶことだってできる。タイムトラベラー思想。俗っぽく言えば、僕はジョンがある種の変人だとわかっていればいい。ちなみにジョンはあだ名で、日本人だ。
僕はジョンに会いたい。でも、ジョンは今、遠いところにいる。というよりは、遠いところに行ってしまった。彼はもう帰ってこない。たぶん。それがジョンの持つタイムトラベラー思想の真相だ。しかし時折、僕はジョンと話している気分になる。まあ、気分だけれど。生きている以上は、人間と話す。コンビニで「温めますか」と聞かれれば、返事をするのと同じ理屈だ。理屈という意味が正解だと良いけれど。ともかく、僕がタイムトラベラーのジョンと話したって、何もおかしなことはないと思う。
ベランダに出た。飛び降りるためじゃない。ベランダという単語を聞くと、「飛び降りるの?」と囁かれているような気持になる。家族はたぶん熟睡している中で、僕は起きていて、星の見えない寒空の下で、月を探している。あ、この言い方ってちょっとポエティック。ま、別にベランダに出たところで、何があるわけでもない。冷たくなっているフェンスのへりに寄りかかって、住宅街の静寂を見守る。見守る? ちょっと何様だろう、なんて自分でも思う。要するに僕はたぶん見ているだけだ。守ってはいない。誰も、何も。守りたいという意識について話すことはやめよう。意識なんて大仰な言葉を持ち出すものではないし、守りたいなんて発想は、普遍的な優しさであって、身の破滅かもしれないしね。それでも僕は僕を守らなければならない時があると思う。僕が僕である以上は。それなのに、僕は僕が分からない。僕は誰だ? 僕は。
寒さに体が小刻みに震え出す。ああ、寒いってこういうことか、と発達したロボットのようなことを考えてみる。例えば、僕が屁をすれば人間であることの証明だと言い切れるだろうか? 精巧な屁である、という可能性。卓越した技術による産物である、という可能性。いや、そもそも、「人間とは何か」なんて哲学をこの僕が考えることにどんな意味が?
この夜が僕は好きだと思う。僕は「夜が好きなキャラクター」になった。うれしいな。もうそろそろ眠ろうか、なんて考え始めたところで、僕は明日の宿題をしていないことを思い出す。課題。僕はその課題をきっと終えられる。そして幸せな明日を過ごす。幸せ? 何を言っているの? 君は誰?
エアコンの室外機に腰かけて、物思いに耽るのはもうやめにしよう。部屋に入り、宿題に取り組もう。学校に行こう。突然、そんなことを思った。引きこもりでもないけれど、社会不適合者なんて自分から言い切るつもりもないけれど。社会不適合? 何それ、美味しいの?
夢を見ているような気分だった。
「お帰り」と僕は言った。誰に言ったのかは、ここでは問題にはしない。午後九時を過ぎてコンビニに行く僕に対してその知り合いの人は仕事を終えて帰ってきたところで、僕は労わりと尊敬の念を込めて、「お帰り」と言い「今日は寒いね」と言った。
その人は笑顔の素敵な人だと僕は思っていた。たとえその笑顔が真実ではなかったとしても、たとえその笑顔に悪意があったとしても。しかしその人は帰路を歩く最中、笑っていなかった。年がら年中、へらへらと笑っている人がいるとすれば、よほどお気楽な方だと僕は思わずにはいられないけれど、その人が笑っていないことに僕は奇妙な感覚、違和感を覚えた。そして「今日は寒いね」と言った僕に対するその人の返事の曖昧さに、僕は驚愕したことを明記しておきたい。
そんな夢を見たのかもしれないと、僕は一週間を過ぎた頃には思えるようになるだろう。いずれは忘却しているだろう。全ては過去にしかない。その翌日の早朝、僕は卵を肛門から排出した。産卵と言うべきか。ウミガメの卵のような、つまり卓球のピンポン玉程度の大きさの白い殻の卵だ。眠気を抱えたままの朦朧とした意識の中、まず下腹部に鈍痛を感じ、異物が詰め込まれているような違和感があった。下腹部の鈍痛が継続して僕を苦しめた。体調不良による下痢かと初めこそ考えて、トイレで用を足そうとしても何も出てこない。次第に尋常ではない生命の脈動のようなものを体内に感じ始める。生命の脈動。僕の語彙力ではそう告解することしかできない。そして、その生命の脈動は、紛れもなく僕のものではなかった。もう一つの生命が僕の中にいた。つまりそれが肛門から産卵された僕の卵であるわけだが、とにかくその時の僕は、訳の分からない痛みに苦しむよりほかになかった。下腹部の痛みはやがてじわじわと広がっていき、全身が急速に冷蔵庫の中に閉じ込められたかのように冷やされていくような感覚、次いでネジをきりきりとピストン運動の要領でねじ込むような激しい頭痛が僕を責め立てた。「僕は死ぬのか?」という自問自答。「何かの通過儀礼か?」という意味の分からない世界観の構築。
僕は毛布と羽毛布団を被り、ベッドの中で胎児のように丸くなりうずくまって、痛みが引くのを待った。その痛みに終わりが来るのを願い続けた。それがある種の死だとしても。しかし、僕は痛みを感じることにより生きていることを知ったのだと今では思える。あれは痛かった。本当に痛かった。きっとあの痛みをどんな辞書に載った言語で、言葉で表現しようとも伝わらない。だが、僕はそれをなんだかんだ乗り越えた、なんて月並みな物言いをするようで申し訳ないけれど、実際のところそう言うことになり、僕は今でも食べようと思えば、こってりとした豚骨ラーメンを食べに行くことだってできる。かくして、僕は肛門から何かが排出されるのを感じ、その排出されたものは卵だった。別に僕は不思議な話をしたいわけじゃない。いわゆる産卵が、「不思議だね」と言って、軽く笑って終わりにできるような問題ではないことは、きっとみんな知っている。そして僕は、産卵をした。
「どうしよう?」と、まあ、これが僕の本心だけど。
僕の産んだその卵は石のような殻で、握ってみてもとても硬くて、仄かに僕の体温が残っているほかにはさして何の変哲もない(こんな言い方は元も子もないというか、変な話だけれど)、普通の卵のように思えた。問題というか異常があるとすれば、卵というものを僕が産んでしまったという事象だな、と一人、早朝にベッドの上で胡坐をかいて納得した僕。
と、いうような夢を見た。
僕は歩いている。学校へ行くために、家から最寄りの駅に向かっている。復学の手続きをするためだ。卵の夢の謎について考えることにはもう飽きていた。もしかしたら、誰もが卵を産むのかもしれないとさえ考えた。必然。みんな密かに卵を産んでいて、それは異常なことだとなんとなく分かるから、なんとなく隠し持って、そのままにしている。そんな日常。
「おはよう」と僕は女の子に声をかけた。女の子は曖昧に笑った。彼女は僕のことを人間と思っていない、と時折思うし、きっとそうなのだろうけれど、彼女は僕と会話をしてくれる。彼女から見たら、僕が自分の人間ではない現実を知らないことにしているわけだ。
「今日は早いね。いつも遅刻するのに」
「二分や三分で遅刻なんて。僕は知り合いを一時間以上待ち合わせの公園で待ったことがあるよ。それに比べれば、大きなことじゃないと思うけど。まあ、でも、ごめんね、沖浦」
「そんな知り合い、私だったら要らないな」と彼女は突き放すように言い、歩を進めだした。駅に向かうのだ。僕は彼女、沖浦と学校に行く。幼馴染という奴だが、さっきも言った通り、僕は彼女に人間と思われていない。面と向かって言われたから、確実だ。
「あんた、人間じゃない」という感じで。
それがどういう意味なのか、どういう理由からなのか、どういう思想なのか、僕には分からない。哀しくもなかった。その考え方って、ちょっと面白いなと思ったくらいだ。人間の姿かたちをしている僕。食べ物を食べれば、まあ何でもいいけれど、トンカツを食べたら「やっぱりトンカツはカラシが効いていないと」なんて思うような僕なのに、僕は人間じゃないと思う彼女がいる。あれ、トンカツのくだりはちょっと何か、違うような気がする。
朝起きて夜眠る生活をしていたら人間か? 朝食と昼食、夕食を食べてそれに合わせるようにして排泄をしたら人間か? 読書や音楽や映画を楽しめたり悲しめたりしたら人間か? 勉強が、国語が、数学が、英語が、歴史が、物理が、化学が、それ以外にもたくさんの学問があるけれど、それらを少しでもかじれば、教養的レベルで知っていれば人間か? 体を動かすことを知っていれば人間か? 僕が僕であることを知っていれば人間か? 恐怖を知っていれば人間か? 快楽を知っていれば人間か? ヒトを愛せれば人間か? 「人間とは何か」と言えれば人間か? 僕はね、本当にくだらないと思う。「あんた、人間じゃない」? そういう言い方があるのだとすれば、僕は人間である必要性なんて毛ほどもないと思うけれど、あくまでこれは内緒の話だ。
沖浦はこっちをちらりと見た。ジャンガリアンハムスターを見るような目つきで。沖浦は可愛い顔をしているけれど、目はとてもきつい。
沖浦とは塾も一緒だった。三つの階級からなるクラスがあって、当時僕は真ん中のクラスにいたけれど、沖浦は上のクラスにいて、それがどうしようもないくらいに、とてつもなく悔しかったのは昔の話だ。僕は上のクラスに上がりたくて、上がりたくて、仕方がなかった。上のクラスに上がるためにはテストを受けて基準の点数を取る必要があるのだが、学友なんかは「別に適当に受けるから、上がらなくてもいいや」とうそぶき、それを真に受けた僕を差し置いて、遠くへ、つまり上のクラスへ行ってしまった。沖浦と同様に。
僕は定期テストのたびに提出されるように命じられる学校の課題もきちんとこなした。課題を終えた人がシールを貼る一覧表が科目ごとにあって、僕はその全部に貼ったし、誰よりも早くその赤いシールを貼った。それが頭の良いことの証明であると思っていたが、バカなことをしたと今は思っている。上のクラスに上がれないのならば、テストで点数が取れないのならば、何も意味なんてない世界だったのを知らなかった。
「君、頑張っているよね。みんなもそう言っているよ。君がすごいって」
塾の先生にそう言われた時、僕はじんわりと泣きそうになった。感涙? うれし泣き? やめてくれ、反吐が出る。バカなことばかり言うな、くそったれ共が。要するに、そういう思いに囚われた。僕は囚人だった。天才だって秀才だって、実のところどうだってよかった。どうでもよかった。塾の先生はいわゆるフォローをしたかったのかもしれないし、素直に褒めてみようと思ったのかもしれないし、現実を直視させようとしたのかもしれない。しかし、その時の塾の先生の思いを、小さな僕は未だ許せずにいる。それが何よりも、きっと哀しい。
僕は沖浦と手を繋いでみた。一次的接触の意味を噛みしめるようにして。沖浦は愛想を尽かす気もなく、遠慮がちに伸ばした僕の手を握った。他人。
僕にはきっと勇気がなくて、自己顕示欲を満たしたいなんていう全裸の心を、誰にも見せる気概がないと言ってしまうと、とても言葉にできていないけれど、それは言葉にしない正しさであり、日本語のいけないところだ。僕と沖浦は手を繋いで歩き続けた。手を繋いで駅に行き、電車に乗り、学校に着いた。学部の違う僕と沖浦は各々の学部棟へ向かうために、ある一定のところまで一緒に進み、別れた。でもきっと、ハートは同じように鼓動している。女の子が語尾にハートを付けるような話し方って、あれ、もう少しきちんと考えてやるべきだ。物事の恐ろしさを分かっていない人間の愚直さだ。
僕は学校で個別の授業を受けた。お試し授業だ。クルトガのシャープペンシルと赤いサラサクリップのボールペンを使って、配布された内容のないプリントにしっかり書き物もした。内容のないなんて言うと、アレだけど、僕が言いたいのは、僕の知りたい情報が一つも書かれていないということが言いたいだけだ。たぶん教授は時間をかけて一生懸命そのプリントを作ってくださったのだろうし、僕はそのプリントを使って一生懸命勉強するのだと思う。そういうことをつまらないと思うのも、楽しいと思うのも、みんなの自由だ。
一角獣の抹殺について考えてみよう。例えば、僕には漫画家になりたいという夢があったけれど、それはまさしく一角獣のようなものではないか。幻獣。僕は、僕たちは生きていく過程で一角獣をじっくりと抹殺していく羽目になる。分かりやすい例えではないことは承知の上で、僕はあえて一角獣の話を持ち出した。一角獣が好きだからではない。一角獣なんて、ちっとも興味がない。一角獣の一角の質感だとか毛並みだとかを想像するのは、まあ少しは楽しいことなのかもしれないけれど、結局のところ、いずれは飽きて、楽しくなくなるのではないか。少なくとも、飽きっぽいというか諦めの良い僕にしてみれば、容量の悪さに関しては一級品だ。それに比べて、今はもういなくなってしまったジョンは一角獣が大好きだったことになる。そろそろ一角獣の話はやめにしよう。少し無理がある気がしなくもないし、僕は今、とても哀しい。きっと今朝、一角獣の悪夢を見たからだ。
その悪夢では、僕は深い森の中枢にいた。一角獣は「どいつもこいつも死んじまえ」と叫びながら、怪我を負った足を引きずりながら血みどろで泉に向かって歩いていた。
森の中で大木や草花に囲まれて清らかな水で満たされていると思われる泉の真ん中にはちょっとした孤島のようなものがあって、そこは淡い黄緑の下草で覆われ、一輪の青い花が咲いている。ジョンはその光景をどこかからひっそりと見ているけれど、何もしない。僕は深い森の中枢で、一角獣を感じ取っている。
一角獣は泉に向けて、一歩また一歩と進んでいく。終わりのない殺意を一角獣は抱いている。一角獣は足を怪我している。そのしなやかな細い足を怪我している。どうして怪我をしているのか、たとえ深い森の中枢にいたとしても、僕は知らない。泉に辿り着いた一角獣は安堵した気持ちを押し殺すようにして、森との同調を図る。無駄な行為だ。森は一角獣を受け入れない。幻獣であること。それは何? それは意味? それは……?
泉に足を入れる一角獣は、足を癒そうとしている。清らかな透明の水に一角獣の赤黒い血がゆったりと広がっていく。ジョンはその光景から目を反らせない。僕はその光景を、中枢から感じ取ることしかできない。一角獣はこの深い森の中で、初めて笑う。その笑い方は、憎悪を根源としていた。一角獣は幸福の意味が分かっていないのかもしれない、と僕は深い森の中枢で感じ取る。ジョンにしてみれば、そんなことはどうだっていいのだけれど。ジョンにしてみれば、一角獣はある意味での道具でしかないのだけれど。
一角獣は心臓の動悸がおかしくなっているのを感じる。自分が死ぬ可能性について考える。血は泉に流れ続ける。赤黒く、とても美しささえ感じられるような、あるいはグロテスクとも言えるような。深い森の中枢で、僕は無責任であり続けていた。一角獣には悪いけれど、理不尽さの渦中で、一角獣は悶え苦しむ。唐突に、一角獣は孤島の青い花に気が付く。その青い花は一輪しかなく、一角獣はその青い花を口に入れ、咀嚼し、呑み込み、消化することで、自分の生命が回復するようなある種の可能性について希望を抱く。一角獣は生きたかった。その生きざまを、僕とジョンはそれぞれのところで、見守っている。僕は深い森の中枢で、ジョンは僕の知らないどこかで。
一角獣は青い花を希求した。そのためには、泉を泳いで、あの孤島に行かなければいけない。あの孤島に赴かなければいけない。それなのに、一角獣は足を怪我していて、まともに泳ぐことすらままならない。一角獣は決意した。
「やってやる」
一角獣はゆっくりと、足を気遣うようにして泳ぎ出した。そして、ある一定のところで、一角獣は溺死した。僕は目を覚まし、目元からどういうわけか涙が流れていて、その意味について考え、僕の見た悪夢を、鮮明とはいかずとも思い出した。僕は何を見たのだろう? その悪夢について考えることは、つまり悪夢を見直すことなのであり、恐怖なのだった。僕は一角獣が水中でもがきながら、水中で何を思ったのか、口から泡をまき散らしながら、何を発しようとしたのか知っている。
「皆殺しだ」
一角獣はそう言おうとした。僕はその意味を知らない。知りたくもない。
ジョンは夢の中でどこかにいて、邂逅こそしなかったが、僕はジョンを感じていた。ジョンについて考えることは楽しいことだった。それは僕の母親について考えることが哀しいことと同じくらい、当たり前の感情だった。「さよなら」なんて何気ない言葉遣いで、ジョンはきっと僕のことを想ってくれている。それが僕のジョンに対する想いだ。
僕は悪夢の中で、一角獣を見殺しにした。果たしてその行為は罪深き所業だろうか。夢が夢だと割り切れたらどんなに良いだろう。ちょっと気持ち悪い。想像するだけで反吐が出そうだ。だから、こういう話はしたくないけれど、錠剤を呑むとどうしても饒舌になって、べらべらと良くないことをまくしたて、ありとあらゆる人に煙たがられ、最終的には自分という概念について考えだし、結局は僕という存在は世間の既成概念の産物に過ぎず、オリジナリティーだとかそういうことの無意味さというか空虚さというか、そういうものに寂しくなるけれど、それでも、そういうこと――つまり自我のようなもの(?)をぶっ蹴飛ばす主張(?)はとても大事だな、なんて最近気づいて、思わず夜間に一人で、インスタント・コーヒーの粉末を床にまき散らしながら「きゃっほう」って叫んだ。何が言いたいかというと、実にシンプルで、僕は大バカ者だという端的な(こういう言い方が気に食わない人がいるから、「どうしようもない」と言い換えることも可能だ)、ノンフィクションつまり現実だ。拡張現実じゃないよ?
ところで僕は休学している。自己学習にうんざり、辟易、ゲロ吐きそうになりながら、なんとかかんとかだけど、今思えば、休学なんてどうってことないのかもしれない。本当に恐いのは、何もない休学ではなく意義のある進学だ。そんな無責任なこと言うと、あとで先生に怒られそうな気がするけれど、まあ、それは置いておきましょう。あの人って、僕は未だによく分からない。というより、僕はたぶん自分以外の人間についてきちんと考えたことがないのだと思う。僕の周りにはいろいろな、それこそ多種多様な、さまざまな人間がいた。「ダイバーシティ!」と僕は夜道をイヤフォンから流れるジェイポップを聴きながら、言ってみた。夜中にコンビニに行って、コーヒーを買うのが、僕の趣味だった。歩くことが健康的だという固定観念に僕は支配されている奴隷なのだ。人々はみな何かしらの奴隷なのだ。例えば僕は今、ジェイポップを聴いて、ジェイポップの奴隷になっている。例えば、僕は小学校と中学校に通い、義務教育を受けた。よく知りもしない外部性なんていう経済学の専門用語をひけらかしたいばかりに、僕はあえて義務教育の奴隷になっていたと言おう。
ま、考え方次第だけどね。新しい扉を開く、なんていう表現があるように、大空を羽ばたきたい、なんていう表現があるように、僕らには幸福を志向あるいは思考する自由があるのではないかなあ、と思いたい。僕はね、どちらかというと悲観主義者だ。「僕は幸せになっちゃいけない。僕は不幸でないといけない。幸せを感じた後にやってくるだろう不幸に怯えることからの逃避。僕をいじめて。僕をいじめて。もっと、もっと、なんて」
いやね、別にマゾヒストってわけじゃないよ。考え方の問題さ。それは性的倒錯(?)。違うね。知りもしない単語を使って悦に入る中学生的ポエマーからの脱出をそろそろしたいけれど、僕にはやっぱり、物語なんていう大層なものが書けないのかもしれない。僕にはたぶん人間性のようなものが欠けている。そんな気がする。そんな気がしていたい。そもそもポエムって何? 詩とは違うわけ?
そろそろ、ジョンの話がしたい。物語が始まらない。たぶん『指輪物語』でももう少しテンポが良い。ジョン。やっとジョンが出てきたね。これでジョンの話が少しは出来る。錠剤を呑むっていうのは、こういうことだ。アルジャーノンになった気分だよ、全く。「死ねばいいのに」って生物の先生の口癖は僕の脳裏にこびり付いている。あの人って、そう言うことに関しては天才だ。例のあの人!
ジョンは柔らかい髪を持っていて、彼の髪を触るのが僕は好きだった。懐かしい日々。
「ジョン=岡田」であるようで、そうではないことを、僕は未だに、見ないふりをしている。




