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第一話 最終回の余波

 俺の大好きな漫画の連載がひとつ終わった。

 それは誰が見てもあっけない終わり方だった。俺はその終わり方について異論を唱えた分厚い手紙を二通ほどその漫画の作者に送ったが、返事が返ってくることはなかったし、何が起こるというわけでもなかった。

 俺は別にその俺の好きな漫画について言いたいわけでもなければ、熱い漫画論を展開させたいわけでもない。ただその漫画が終わってしまったという事実を端的に述べたいだけだ。是もなければ非もない。非もなければ是もない。

 ただ俺が思うに、その漫画が終わったことで落胆した少年が俺の他に絶対にいなかったとは言い難い。俺がその漫画の最後の一ページを読み終えた時のあの切ない気持ちを、俺の他に存在あるいは実存している少年が、同じように味わっていたとして、それは、途方もないことのように感じる。それだけだ。

 俺は「どうして俺は生きているのだろう」と思った。その漫画は俺を熱く肯定してくれていたような気がする。しかしその支えはもうどこにもない。俺はひとつの支えを失った。

読み返せばいいかもしれない。改めて最初のページからめくり直せばいいのかもしれない。しかし、そこにはもう何も生きてはいないだろう。ただ過去が去来するだけだ。おれにとって「二度目」は得てしてそういうものだった。

 図書室で、席に座ってハード・カバーの本を読んでいた時、俺は突如として女の子に声をかけられた。

「ねえ。例の漫画、終わっちゃったね」

 彼女は俺の隣の席にさり気なく腰かけた。彼女は俺とあの漫画について話がしたいようだった。俺は眼を見張った。いつもどおり彼女には女の子特有の何かが欠けていた。その何かは俺には分からなかった。ただそう思っているだけだ。だから俺はあくまで、彼女に対して警戒心を解かなかった。いぶかしい表情を浮かべ、上唇を突き出していた。

「私、けっこうあの漫画好きだったの。だから最終回って聞いたとき、『終わらせないでください』ってファンレターをすぐに送ったのよ。でも駄目だった。きっともうずっと前に決まっていたことなのよね。わかっていたけど、悲しかったな」

「野木さんは、あの漫画のどこが好きだったの?」

 俺はほんの少しだけ、彼女のあの漫画に対する思いについて興味があった。彼女は年齢よりも幼い表情を浮かべていて、楽しそうに見えた。俺はその笑顔に何か不吉なものを感じた。というのも、俺は楽しそうにしている女の子があまり得意ではなかったのだ。

「あのね、……」

 彼女はそう言うと、俺の耳に口を寄せて、小声で俺の質問に答えた。耳がこそばゆかったし、彼女の匂いが俺を不気味なほどにリラックスさせた。彼女のさらさらとした長い髪が、グロテスクな色合いを保っていた。白いワイシャツの下に透けて見えるフリルのついたピンク色のブラジャーが限りなくセクシーだった。俺は彼女が言ったことの全てを聞き流していた。

去寺(さりてら)くんは、あの漫画のどんなところが好きだったの?」

 彼女は俺がさも話を聞いていたかのように物事を進めた。彼女はきっと俺が彼女の肉体に貪欲な好奇心をむき出しにしていたことをまるでわかっちゃいない。

 俺は彼女に自分がどうしてあの漫画が好きなのかをいちいち説明しているような余裕はなかった。だから俺は「さあね」と言った。すると彼女は不服そうに口をとがらせて、抗議した。

「『さあね』じゃ、わからないよ」

「……」

 図書室の開け放たれた窓から夏のにおいがする七月初旬の風が吹き込んできた。そこに意味はない。ワイシャツの中に風が入り、俺の乳首は鋭敏にその風を感じ取った。

 風は俺の金色のやわらかい髪をなびかせ、彼女の黒色のさらりとした髪をなびかせた。

 俺の髪はボサボサになり、彼女の髪はボサボサになった。俺はその髪を直そうとせず、彼女はその髪を適度に直した。

「髪、ボサボサだよ」

 そう言って彼女は俺の視界の少し上を指さした。

「うん」

 俺は軽くうなずいた。俺はそれでも髪を直そうとはしなかった。頭がその方向には回らなかったためだ。彼女は俺を見つめていた。俺をジャンガリアン・ハムスターとでも思っていそうな目つき・表情をしていた。

 俺はたまらない気持ちになった。

「あのさ、俺に何か用でもあるの?」

 彼女は俺が不機嫌である理由がよく分からないようだった。彼女は眉根を軽く寄せて、両手のひらを軽く合わせた。俺は彼女を少なからず困らせていた。とはいえ俺にはこれといった罪悪感はなく、彼女が困っている理由も今一つよく分からなかった。

「去寺くんって、どうしていつも本ばかり読んでいるの?」

「……漫画も読むよ。漫画の方が好き」

 俺はハード・カバーの本をちらりと見た。

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

 (しおり)は半分と少しの位置に挟まっていた。読みかけだ。その本は市の図書館から借りたもので、よく日焼けしていて、ほどよく古紙の香りがした。

 表紙は色あせていて、本屋さんに売っていたものとはえらく様相が異なっている。だが、中身は全く変わらない。ただし物語の感じ方は少しばかり違ってくるかもしれない。それがちょっとした問題ではあった。

 彼女はむずがゆそうだった。彼女のプロジェクトした何もかもが思い通りにいっていなさそうだった。 彼女は何がしたいのだろう?

「どうかしたの?」

「私はね、去寺くん。あなたにもっと馴染んでほしいの」

「馴染む? 何に?」

「クラスに。学校に」

「どうして?」

「あなたがいるせいでクラスの空気がとても悪いものになっているってわかっていないの?」

「もちろんわかっているけれど、だからといって俺に何ができるっていうの? 学校に来るなとでも言いに来たのなら、あいにくだけど、俺はそんな無様な醜態を晒すつもりはないぜ」

 俺は少しおどけた。彼女をほんの少しでも馬鹿にすることができたら俺のプロジェクトは大成功だった。彼女はプライドを傷つけられたように上唇をかみしめた。

「じゃあ、あれか。放課後に図書室にいる俺によく話しかけてくるのは、野木さんのためでもなく俺のためでもなく、みんなのためってことか?」

「……そうよ」

 彼女は少し返事に窮した。俺はその意味を理解するのにもう少しかかるわけだけど、当時の俺はその言葉をそのまま受け取った。俺は半分苛立たしく、半分ばかばかしい気持ちになった。

「なあ、野木さん。俺の見てくれを見ればわかると思うけど、俺は絶対にみんなとはうまくやれない運命にあると思うんだ」

 俺は自分の金色の髪の毛を無造作に掴んだ。

「こんな派手な金色の髪をしているし、眼だってブルー・グレイで色素が薄い。肌なんて海で焼こうとしても赤くなるだけで、すぐに元の病人みたいな色に戻っちゃう。俺の姿は丸きりの外国人なんだよ、父親ゆずりの。こんな目立って浮いている俺と誰が付き合ってくれる?」

「でも去寺くんが英語話せないことはみんな知っているよ。それに英語の点数この前見ちゃったけど、あまり高くないよね。もっと言うと、生粋の日本育ちで外国にはどこにも行ったことないでしょ? 去寺くんって中身は丸きりの日本人だと思うよ」

「……」

 図書室は静かだった。俺と彼女の声以外は何も聞こえなかった。風も吹かない。本も倒れない。ドアも開かない。時間が俺と彼女をおいてどこかへいってしまったみたいだった。

 彼女はゆっくりと言葉を選ぶようにして、口をあけた。

「別に去寺くんに親友をつくれとは言わないから、お願いだからクラスメイトが話しかけたら無視しないで言葉のキャッチボールをしてほしい。そうすれば陰でうだうだとくだらないことを言われることも少しはなくなるし、きっと去寺くん自身にも気持ちの変化が訪れると思うの」

「無視しているわけじゃない。俺じゃないと思ってしまうだけだよ。『俺に話しかけてくるわけがない』ってね」

「そうだろうね。だけどみんなは無視していると思っているみたいだから」

「それはそういうふうに思っちゃう方が悪いとは考えないの?」

「そうね、何を言っても多勢に無勢だとは考えないの?」

「そういう言い方ってないと思うな。いや本当に」

 野木さんは少しうんざりしてきたようだった。おれは少し楽しくなってきたところだった。

「俺は別に友達がつくれないわけじゃなくて、つくりたくないだけなんだ。俺はこの十四年間生きてきた中で、友達をつくって良い思いをしたことがただの一度もない。みんなに合わせるのも苦手だし、世界を自分と他人で区切ってしまった方が絶対に気楽だ。だから俺はみんなと仲良くしたくない」

「駄目」

「野木さんにとやかく言われる筋合いはないよ」

「我を貫き通すこと以上に苦しいことはないと思う。さっさと自分を折り曲げてしまった方が、物事はずっと安直に運ぶのに。去寺くんのこれからのためにもなるのよ。私は去寺くんの笑っている顔が見たいの。そんな仏頂面じゃなくて」

「野木さんは先生か?」

「違う! 違うけど……」

「なに?」

「まあ、いいわ。でも『自分』のことだけじゃなくてあなたの言う『他人』のこともきちんと考えて。そうしてから全てを決めるの。お願いだから。それじゃあね」

「『……』の話題はこんなくだらないことを話すための前ふりでしかなかったの?」

 あの漫画の話題を切り出す。俺はあの漫画に対する他人の感想に興味があった。

「去寺くんがあまりにも非友好的だから、冷めちゃった。もしそのことについて話したいのなら、今度そっちから話しかけてきてくれる?」

「嫌だよ」

 俺は顔をしかめた。そして目にかかっていた前髪をかきあげた。彼女は俺が前髪をかきあげたところを、じっとりと見た末に、こう言った。

「髪短くしたら?」

「短く?」

「そう。バリカンで刈り上げて、薄く梳くのよ。きっと似合うと思う」

「……嫌だよ」

 俺は顔をしかめた。

 彼女が図書室からいなくなってしまった後に、俺はしばらくドアの方を見つめ、そして自分の前髪をつまんで見つめた。

 頭を刈り上げたことなんて一度だってなかった。幼少のころから髪を切る場所はいつだって美容院だった。母親と同じところだ。店名は忘れた。

 俺は別に髪型にこだわりをもっているわけではなかったが、一定以上の長さはキープしたかった。物思いにふけっているときに、髪の毛の先をつまんで、いじくるのが好きだからだ。

 俺は他人に自分の外見を変えるように指摘されたのは初めてだった。そして他人に(しかも女子に)言われたことを意識している自分を実感したのも、覚えている限り初めての体験だった。

 俺は世間的にいう思春期を生きている。十四歳だから、当たり前だ。しかし十四歳であるという現実を受け入れることに抵抗をもっている自分がいることを俺は知っていた。「自分」と「他人」が同じように思考する生き物だと認めるくらいに難しいテーマだった。

 そして俺は本を読み続けた。司書の大人が職員室からドアの鍵を閉めにやってくるころ、俺は物語に食い入るように、文章に視線をすべらせていた。

「もう終わりです」

 大人はそう言った。

 気がつくと図書室は窓から差し込む夕陽に満たされていた。紅の天空は容赦なく俺の眼をくらませた。大人は無感動に、俺が本をコールマンのリュック・サックにしまう様子を眺めていた。

 俺も大人も、図書も本棚も、カウンターも天井も、どれもこれもが懐古的なオレンジに染まっていた。

「すみません」と俺は大人を待たせたことを一応謝った。

「いいえ」と大人は愛想よく、そう言った。

 俺は図書室を出て、薄暗い校舎を歩いて、下駄箱から外に出た。

 校庭では野球部の連中が部活動に励んでいた。俺には彼らの気持ちがちっともわからなかった。ああやって協調性だとかチームワークだとかを掲げてスポーツに打ち込むことに驚嘆する。別に彼らがそういったことを意識しているかどうかが問題なのではない。彼らがそういったことを少なからず体現していることが大きな問題なのだ。

 叫び声をあげる野球部員たちをしばらく遠目に観察して、俺は帰宅した。

 あの漫画が最終回になったことは、歴史的事実だ。しかし俺はそれを受けいれられないでいる。世の中にはもっと劇的で革新的なことで満ち満ちているだろうが、俺にとっては何よりも「あの漫画が終わった」という事実が大変な革命だった。

 あの漫画の最後の一ページを見た時、確実に俺の世界で何かが爆発した。それは揺るがない事実だ。

 あの漫画の終りは多かれ少なかれ俺の終わりを意味していた。だから俺はあの漫画の最後の一ページを見た時に、一度終わっている。それも揺るがない事実だ。

 爆発は幾度となく続き、暴発に暴発を重ね、俺の中にあった歴史的建造物(パルテノン神殿や姫路城など)をことごとく粉砕し、俺の中に生きていたシーラカンスやプテラノドンなどをあっけなく肉片にした。

 俺は終わり、そして終わったままだ。俺は始まらない。始まろうともしない。難しい時代を生きてしまったがゆえの(さが)だった。

 俺は何もしない。俺は現代風の日本人的な部分がきわめて多い外国人だった(国籍は日本におかれていない)。そして俺はロンリーウルフだった。尖っているくせに一人では本を読むことしかできない能無しだった。

 端的に言ってしまえば、俺は世の中の悲嘆的な要素をまとめて抱えて生まれてきたような、そういう人間なのだと思う。だからと言って、俺が風呂に入らないわけではない。

 俺はわきの下を洗うし、洗顔だってする。他のあらゆる部分も丹念に洗う。シャンプーを使い、リンスを使い、石けんを使う。シャワーを浴びて物事を考えるなんて日常茶飯事だ。俺はあくまで自分が人間であることを信じて疑わず、自分を客観的に見ることができた。それがたとえどんなに十四歳的な見方だったとしても、誰も構いはしないだろう。

 問題は、俺がいかに自分を「自分」だと認識するかだ。もちろん世界の全てを可視化することはできない。俺はわかっている。

 俺は風呂場から脱衣所に出て、バスタオルで身体を拭いた。鏡にうつる自分の姿は、少し幼くうつって見えた。

 俺は金色の髪に目をやった。濡れた髪の毛は心なしか精彩を欠いて見えた。バスタオルで頭を無茶苦茶にかき乱した。金色の髪は湿ってはいるが、やわらかさを取り戻した。

 鏡にうつる金髪の少年の肉体はやせ細っていた。肋骨(ろっこつ)が浮き出している。ただし筋肉がそれなりについているため、みすぼらしい見栄えになるのを回避していた。

 俺はアレが平均よりも小さいことが悩みだった。定規で測ってみたことがあって平均より三センチも小さかった。

 俺はしばらくまじまじと自分の裸体を眺めた。満足のいくまで眺めると俺はボクサーブリーフを履いた。

 俺は何かを身に着けるという行為があまり好きではなかった。というのも俺は衣服を身に着けるのが得意ではなかったのだ。すでに窮屈な世界をこれ以上窮屈にする必要はない。裸で生まれたのだから、裸でいたって何も戸惑うことはない。ただし俺はアレに劣等感を持っていたから、ボクサーブリーフを履く。 それだけだ。

「姉ちゃん。ご飯作ってよ」

 俺はドアをノックする。「どうぞ」と声がする。透明感のある声だ。

 彼女はジャージ姿だった。窓を全開にして、学習机に向かっている。彼女は家で勉強はしない。だから彼女が学習机に向かうことは極めてまれだった。

「何しているの?」

「……」

 彼女は絶対に二回質問をしないと質問に答えない。

「何しているの?」

「うん。絵を描いているの」

「ふうん」

「……ちょうどよかった。アンディ、そこで全裸になってポーズとってくれない?」

「また?」

 俺は少し嫌な顔をした。彼女はイーゼルを準備して、そこにスケッチ・ブックを立てかけた。

「ヌード・デッサンをするから、早くそこで全裸になりなさい」

 今度の彼女の声には、若干の年上的な響きが含まれていた。俺は別に断る理由も思い浮かばなかったし、彼女の「お願い」を断ると夕ご飯を作ってくれないことを知っているため、俺は大人しくボクサーブリーフをするりと脱いだ。俺はボクサーブリーフをわきに放った。

「どんなポーズ?」

 彼女は俺に成人男性がポーズをとっている写真集のあるページを見せた。

「それがあるなら、俺要らないよね?」

「少年と成人男性の体つきって全然違うの。あなたにはわからないだろうけど、私にとってはとても重要な問題なのよ。それに全裸であることも私にとっては芸術的に必要なアドヴァンテージだから」

「……よくわからない」

「だから言ったでしょ。あなたにはわからないって」

 俺は大人しく、その写真集に載っている通りの少し恥ずかしいポーズをとった。

「動かないでね」

 彼女は俺にそう言うと、鉛筆を動かし始めた。それはとても滑らかな動きだった。流麗で俊敏で、さりげなかった。

 静かだった。時折俺の腹が鳴るほかには物音なんてひとつとして起きなかった。腹が減っていた。夕ご飯はいつになるのだろう。風も吹かない。夜の闇が風を吸収してしまったみたいだ。

 俺と彼女は比較的お互いの多くを知っていた。彼女は俺が女の子からよくもらうラブ・レターを勝手に閲覧しては「最近の子供ってませているのね」なんて言う。俺はラブ・レターなんていうものにはこれっぽっちも興味がなかった。

 送り手は俺の外見を見て恋に落ちるような、他のクラスや他の学年の軽い女の子だった。俺と同じクラスになれば、あるいは俺にアプローチをかけていくうちに、俺への恋心は自然と立ち消えていくようだ。

 それ以外にも彼女は俺が一日に二回以上オナニーをすることを知っているし、SEKAI NO OWARIが好きなことも知っている。友達が一人もいないことも知っている。彼女はたぶん世界で最も俺を理解し手玉に取っている人間だ。

 俺は彼女がショタ専門の腐女子であることを知っているし、ミスター・チルドレンが好きなことを知っている。上辺だけの友達が三九五人いることを知っている。それでもきっと彼女には俺の知らない彼女があるように思う。それが彼女の性分だ。

「よし、完成」

 彼女は打ち震えるように言った。

「じゃあ夕ご飯作ってよ」俺はその恥ずかしいポーズをやめて、そう言った。

「そうね。続きは夕ご飯を食べてからにしましょう」

「……え。まだやるの?」

 彼女は俺の言葉を無視した。

 ケチャップたっぷりのオムライス。キュウリとレタスのシーザー・サラダ。そして熱くて苦いコーヒー。今日の夕ご飯だ。

「『……』が終わった時、どう思った?」

 俺はふと思いついたことを二度、質問した。

「私はあの漫画途中で飽きちゃっていたから、最終回だけ読んでも何の感慨もわかなかったな。私の中ではもう終わっていたのね、きっと」

「でもまさかこれっぽっちも感動しなかったということはないよね?」

「これっぽっちも感動しなかった」

 そして彼女はスプーンにのった真っ赤なチキンライスを頬張った。

 俺は唖然とした。彼女にあの漫画の質問をするのはこれが初めてだった。

「アンディはあの漫画が大好きだったし、私はあの漫画がどうでもよかった。それだけの話よ。感想は個人のものであって、集団のものではないからね」

 俺は少し寂しい気持ちになって「そうか」と言った。

「どうしていきなり、あの漫画の話を始めたの?」

「じつはね、……」

 俺は今日図書館であった出来事を話し始めた。彼女の表情は一貫して、落ち着いたものだった。

「その野木さんとやらは、リーダー・シップのある人みたいね」

「うん。学級委員だし」

「先に言っておくけど、私は別にあなたが一人ぼっちでいることに口を出すつもりはないの。それはあなたが好きでしていることだから。でもね、アンドリュー。あなたはあくまでクラスという集団の一員として学校に通っているのだから、野木さんの言い分は正しいし、野木さんの要求にある程度こたえてあげることは、あなたの義務だと思う。それがあなたにとってどんなに間違ったことでも」

「間違ってはいないと思う」

 俺は少し困った顔になった。彼女は穏やかにほほ笑んだ。俺の困った顔が好きなのだ。

「そうね。これはきっとアイデンティティーの問題なのかもしれない」

「アイデンティティー?」

「陰毛も生えていない少年に説明するような話題じゃない」

「……すぐ生えてくるよ」

 俺はゆっくりと抗議した。

「最終回の余波ね。波乱が始まる。これは何かの物語のプロローグなのかもしれない」

 彼女は楽しげにキュウリをフォークで突き刺した。

 いぶかしむ、俺。

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