60
遅くなりました……。
剣人は肉体的にはごく普通の人間と変わりない。
一刀のような人外としか思えない人物も存在するが、あれはあくまでも例外であり、戸根崎一華は例外の方には属していない。
その上、俵田を仕留めた際に脇腹をさらに痛めた気配があった。
集中することである程度の痛みは無視できようが、それも限度がある。
(もってあと一合、か)
脇腹は運動する際には必ず使用する部位であり、戦う際にそこに力を入れないなどという真似は出来ない。
痛みに耐えるだけならばもうしばらく可能だが、敵に抗しきれるだけの動きを保てるのはそれだけだ、と五剣としての思考が冷静に己の体の限界を悟る。
「そんな短刀で何が出来る」
小泉の言う通り、短刀で大刀の攻撃を捌くのは非常に難度が高い。
質量の違いは威力と速度の差を生み、リーチの違いは攻撃範囲の差を生む。
短刀が勝るのはその短所ゆえの取り回しの良さであり、それを活かすためには懐に入り込む必要がある。
しかし一華の表情は揺るがない。
「そう思うなら掛かってきたら?」
「応!」
踏み込んでくる小泉。
それは確かに五剣たる一華から見ても速くはあった。
が、身体能力に頼ったものであり、鋭さに欠けていた。
老境に至っても稽古を欠かしていなかった新良木とは異なり、明らかにブランクを感じさせる。
そんな動きを見切れない一華ではない。
(ここ!)
痛みすら意識の彼方へと追いやり、己を研ぎ澄ます。
ひらりと舞うように交差する刹那に、一華は小泉の刀を得意の流理で受け流す。
得物が変われども術理は変わらない。
そして受け流すことが流理の基本であれば、そこから相手の力を利用することこそが真髄。
誰にも真似出来ぬ、今代童子切のみが為し得る技。
「石火」
受け、流し、そして崩し、さらに反撃するという四つの動作を一呼吸で行う技の名前こそが、それ。
いかに剣鬼と化していようとも、鍛錬の足りない小泉ごときに回避できる技ではない。
身を翻した一華の手の短刀が、吸い込まれるように小泉の延髄へと突き立った。
「が、か……」
頸椎を断たれ、がくがくと身を震わせる小泉。
常人ならば即死しているはずが、鬼人としての生命力ゆえか、それともその生き汚さか、なかなか倒れようとしない。
「おのれ……おのれ童子切ィィ!」
先の石火に全精力を注ぎ込み、もはや一合の力も残っていない一華ではあるが、それは戦う力が無いだけであって、瀕死の小泉に捕まるほど消耗はしていない。
交差の後は短刀すらも手放して、用心深く距離を取っている一華を睨む小泉。
しかしそこで、楓の間の障子がすっと音も無く開いた。
「あの……この音は一体?」
顔を出したのは剣人会に勤めている女中の格好をした女性だった。
少し離れたところで目にも止まらぬ戦いを繰り広げている三日月と新良木や、首筋から短刀を生やして流血している小泉を見て、その目を丸くする。
「逃げなさい!」
何という間の悪さか、と内心で舌打ちしながらも一華は叫ぶ。
いつもならば彼女を護ることも出来るが、今はもう動けない。
しかしそれは追い詰められた小泉にとっては、まさに恵みとも言うべきものだった。
「そこを動くな、女ァ!」
剣人会の所属とは言え、女中をしているような者は戦いとは無縁であることが多い。
戦えるならば剣人として活動しているからだ。
そして、そのような者が刀を手にした血塗れの男が迫りながら恫喝してくるのに、耐えられるはずもない。
腰を抜かしてへたりこむ彼女に刀を突き付けた小泉が、勝ち誇った笑みを浮かべて一華を振り返る。
「くく、く、最後にこっちに運が向いたようだったな、童子切。確かにおまえは強い。だが最後に勝つのはこちらだということだ。この女を死なせたくなければ、動くなよ」
「本当に小さい男」
「何とでも言え。おい女。俺の首の短刀を抜け。下らんことをしたら叩き斬るぞ」
刺さっている短刀さえ抜けば、鬼人の回復力で怪我は癒える。
今はそのダメージで自分で抜くのは難しいが、女を脅す力くらいは残っている。
傷が癒えたら、今度こそ童子切を屈服させれば良い。
そう考えていた小泉は、いまだに女が短刀を抜こうとしていないのに気付いた。
「おい、早く――」
そう言いかけたときに、首筋に力が加わったことに気付く。
やっと言うことを聞く気になったか、と安堵しつつも、短刀を押し込むような真似をした場合には即座に斬り捨てられるようにと筋肉を緊張させる。
「ぐげっ」
蛙が潰れるような妙な声がしたかと思うと、目の前の童子切が急に横倒しになった。
何が起こったのか、と周囲を覗おうとした小泉だったが、まるで何かに押さえ付けられているかのように、体が言うことを聞かない。
(何が……)
「大丈夫? 一華さん。ちょっと酷い有様だけど」
混乱する小泉の側で、童子切でも女中でもない女の声がした。
そしてその声の呼び掛けに、横倒しになっている童子切が、そのまま歩いて近づいてくる。
そこでようやく、小泉は横倒しになっているのが自分であることに気付いた。
「ありがとう、黒峰さん。助かったわ」
「ううん、この人に案内してもらったから、スムーズにここに来れたんだ」
小泉の視界に、童子切が黒峰と呼んだ少女の姿が映る。
どうやったのかは知らないが、こいつが自分を横倒しにしたのだろう。
だが今、見えているということは自分から離れているということだ。
(油断したな、馬鹿め)
そして起き上がろうとした小泉だったが、体はやはり言うことを聞かない。
焦る小泉の視線が、そちらを見た一華と合う。
「首だけになってもまだ生きているのね。長くは保たないんでしょうけど」
(な……)
愕然とした表情は一華にも良く見えたらしく、憐れむような目を向けられた。
「気付いていなかったのね。あなたが女中から目を離したときに、黒峰さんが短刀を握ってそのままあなたの首を斬り落としたのに」
信じられない。
が、そうするとさっきの蛙の潰れたような声は自身の物だったというのか。
その証拠とでも言うかのように、体は相変わらず言うことを聞かず、何より意識が遠ざかっていく。
(せっかく若返ったのに、ここで死ぬのか)
「若返ったんだから、それだけを大事に生きれば良かったのにね」
ああ、そうか、と遠ざかる意識の中、聞こえた一華の言葉に小泉は思う。
老いるまで積上げたものによって得られた地位、そしてそこから若返って得られた力。
この二つに酔って、まるで幼児のような万能感に浸り、己の思うままにならぬものなどないとばかりに行動した結果がこれなのだと。
遠からず、剣人会は長老のほとんどを失い、その力を大きく削がれるだろう。
それは求められるままに紅仁散を与えてきた、熊埜御堂連華の意図するところなのだろう。
だがそれに気付こうとしなかったばかりか、自らの足を食う蛸であるかのごとく、欲望のままに己の組織を食い荒らした長老たちの罪は重い。
まさに死に行くその時にしかそれに気付けないとは、なんと滑稽なことか。
己の所業を後悔する時間も与えられぬまま、小泉の意識はこの世から消え去った。
* * *
一刀さんと新良木が目まぐるしく位置を入れ替えながら斬り結ぶ。
まるで目の前で小型の台風でも暴れているかのようなその速度は、剣鬼となった僕の目から見ても速いものであり、同じ剣鬼である新良木はともかく、一刀さんがどうやってこれについて行っているのかさっぱり分からない。
「ここまで案内してくれてありがとう」
鬼人牢から助け出した三人を三弥さんに預けた後、再突入した僕を奥の院の楓の間まで案内してくれた女中さんに、お礼を言う。
「早くここから離れた方がいいよ。出来れば剣人会から出ておいた方がいいかも」
「は、はい」
何も知らなかった彼女は単純に僕を来客だと思い、ここまで案内してくれたのだ。
危険に晒すのは忍びない。
それにこの荒れ狂う小型台風の有様を見れば、今の剣人会がおかしいことも嫌でも理解できるだろうし。
「一華さんも出来れば離れた方がいいと思うけど」
そそくさと楓の間を後にする女中さんを見送り、僕は一華さんにも声を掛けるが、彼女は首を横に振った。
「こうなった以上、私は貴女か三日月の側にいる方が安全でしょう? 二人が負ければ諸共になるけど、そうはならないって思ってるし、もしそうなったとしても恨みはしないわ」
「分かった」
五剣たる者がそう言う以上、僕に言えることは無い。
逃げないにしても、服の胸元が破れてしまっているから上着くらいは掛けてあげたいのだが、僕は上着を持っていないし、長老たちが着ていた血塗れになっている羽織はさすがにどうかと思うのでどうしようもない。
「真矢と文子は助けてくれたんでしょう?」
「うん、今は三弥さんのところにいるよ。……無事に、とは行かなかったけど」
「それは仕方ないわ。けど、ありがとう。あとの二人のケアは私の役目」
自分のそういう目に遭いかけながら、そう言える一華さんは五剣であるかどうか関係無しに強い人だと思う。
そんなところが、剣華隊の皆に慕われているのだろう。
「それで、三日月に加勢はしないの?」
「出来ればしたいんだけどね」
一刀さんに普段の余裕が無いのは、無言で斬り結んでいることからも分かるのだが、この戦いに二人よりも技量の劣る僕が割って入るのはなかなかに難しい。
勝負の天秤はいまだたゆたっているが、その傾きは一刀さんに不利な方に傾いているように見えた。
僕が見たところ、技量は新良木が上、膂力と速度で一刀さんが勝る。
結果として五分なのだが、持久力において鬼人の体力を持つ新良木が、時間の経過と共に押してきているという感じだ。
それは良いとして剣鬼の新良木に膂力で勝っている一刀さんは、どういう体の造りをしているんだろうか。
神奈に力で勝っていたのは神奈が女の子で剣鬼としては比較的力が弱いからだと思っていたのだが、何か根本から間違っていた気がしてならない。
「チィ!」
舌打ちした一刀さんが大きく跳び退る。
それを追撃しようとした新良木だが、剣を抜いて一刀さんの横に並んだ僕を見て急停止した。
「おう、来てたのか伊織」
いつものようにのんびりとした口調の一刀さんは、新良木を油断無く見据えながら、左手に刺さった棘のようなものを抜いていく。
どうやら新良木が含み針を撃って、それを左手で防いだようだ。
「今までずっと含んでいたのかよ、この針。汚ねえなぁ」
「ふん、兵は詭道なり。卑怯などと言う方が笑止よ」
「言い直すぜ。ばっちいな」
人を喰った物言いの一刀さんに、さすがの新良木も妙な表情をして黙り込んだが、すぐに僕を見て口を再び開いた。
「おまえも来ていたのか。そうと知っていればこんな男の相手なぞせずに迎えに行ったものを」
「お断り」
人にいらないことしてくれたこいつと、余り喋りたくはない。
短く答えた僕に一華さんが納得したようにうなずいた。
「成る程ね。これは黒峰さんが嫌がるはずだわ」
「ふん、女など組み敷いてしまえば皆同じ、などと抜かす俵田よりはマシだと思うがな」
「比較級で言えば確かにマシかもしれないけど、底辺同士を比べられても黒峰さんも困るでしょうに」
辛辣なことを言う一華さんに鼻白んだ様子の新良木は、その一華さんと戦っていたはずの長老たちがいないことは把握しているようだった。
「おまえが無事ということは、俵田と小泉は死んだか。贄を与えた甲斐のない奴らよ。まあ、仕方あるまい」
「てめえの命日も今日になる予定だがな」
一刀さんが微妙に詰めた間合いを外しつつ、新良木は嘲笑う。
「先ほどまで押されていた男が、女の加勢を得たからと強気なことよな」
「おうよ。てめえと違ってモテるからな」
一刀さんの軽口に、新良木ではなく一華さんが反応する。
「モテてると勘違いしている男ほど、哀れなものはないわね」
「おい一華、助けに来た奴に対する言葉じゃねえだろ、それ」
命の懸かっている場面でもこんな軽いやり取りが出来るほど、この二人は修羅場慣れしているのだろう。
新良木に捕まらないよう位置取りしている一華さんと、いつでも飛び出せるようにしている一刀さん、そしてそれをフォローする僕。
この状況では逃げることは出来ないはずだし、戦うにしてももともと互角の一刀さんに僕が加わればかなりの不利が予想されるが、新良木は笑みを崩さない。
「そんで? 何でてめえは笑ってんだ? 意中の女に嫌われてる上にこの状況でよ」
「確かにこの場で勝つのは難しかろうな。だがここから逃げるのは訳が無いことだ」
「ほう?」
いささかプライドに関わったのか、肉食獣の笑みを浮かべた一刀さんがさらに新良木へと間合いを詰める。
それと同じだけ下がる新良木に対し、僕が出口を塞ぐように回り込む。
「簡単なことだ。私を今逃がせば、黄昏会へと逃げ込む、というだけの話だ」
そう言うと、新良木は僕の方に視線を向けて、その嫌らしい笑みを深くした。
「三日月はともかく、八幡神の御遣いであるおまえには興味のある話だろう。どうだ?」