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ぎりぎり間に合いました。
建物の中は入った途端に分かるほどに、異臭が充満していた。
自然と顔が歪むのを自覚しながら、薄暗い廊下を進む。
牢とは言うが、建物の造りは普通の鉄筋コンクリートの建物と変わらないように見える。
その代わり、扉はちょっとやそっとでは破れなさそうな鉄製の頑丈なものが付いているようだし、窓の類いは無さそうだ。
元々は捕らえた鬼人を幽閉するための建物だという話だが、最近ではデモンによる被害者を一時収容するのに使っていたと聞いている。
それも一段落した後は、あまり使われていないらしい。
(気配は……この奥か)
ほとんど動かないところを見ると、長老の誰かがここにいるということは無さそうだ。
他に気配も感じられないので遠慮無しに走ってそこへと向かう。
気配が感じられた部屋は、他と同じように分厚い鉄の扉があったので、先ほどと同じように桜花でラッチごと錠前を叩き斬って扉を開く。
異臭がさらにきつくなる。
「……君、は」
一糸纏わぬ裸身を隠そうともせず、手足を投げ出すようにしてぐったりと壁に寄りかかって蹲っていたのは、薄野さんだった。
その傍らには同じく裸で意識無く横たわっている三枝さんと、見知らぬ女性がひとり。
三人とも手酷く暴行を受けた形跡があり、大幅に体力を消耗しているのが見て取れた。
特に知らない女性の消耗が激しいようだ。
彼女たちの惨状に、こみ上げてくる怒りを飲み下す。
僕が怒るよりも優先すべきことが、今はある。
「助けに来たよ、薄野さん。……遅くなって、ごめん」
彼女たちの着ていた服は、無残な切れ端となって周囲に散乱していた。
もはや本来の機能は果たせない。
僕は持っていた鞄に忍ばせていたバスタオルを取り出して、彼女たちに羽織らせる。
余分を持ってきていて助かった。
「……いや。慎重に、と一華様に言われたのに、あまりの事態に深入りしすぎた私と、文子の勇み足だ」
こんな目に遭いながらもそんなことが言える薄野さんは、随分と強い人のようだ。
こちらに責任が無いとは言え、僕たちがもたらした情報を探ってこうなったわけだから、恨み言のひとつや二つは言われる覚悟があったんだけど。
薄野さんは喋りながら思考がだんだんとはっきりしてきたのか、急に目を見開いた。
「そういえば、私たちが捕まったということは、一華様はどうなったのだ!?」
「長老部に呼び出しを受けて、今ここに来てる」
「っ、こうしてはいられない……!」
慌てて立ち上がろうとしてふらつく薄野さん。
その彼女を支えて、僕は状況を説明する。
「大丈夫。一刀さんが行ったから」
「……あの男か。不本意だが、今の私よりは頼りになる、か」
「うん。僕たちが今やるべきことは、ここから脱出することだよ。立てる?」
「体力は厳しいが、ゆっくりならば問題ない。だが、出来るのか?」
薄野さんの表情には薄い恐怖の色が張り付いていた。
「あの若返った長老共は化物揃いだ。文子はもちろん、私ですら大した抵抗も出来ないまま捕らえられた。君が強いことは知っているが、あれを打ち倒すには一華様ほどの力が必要だ。自信が無いなら悪いことは言わない。私たちを置いて逃げるんだ。……私たちと同じ目に遭う前に」
「三人とも見捨てろってこと? このままここにいたら死ぬってことは分かってるよね」
衰弱している見知らぬ女性を示すと、薄野さんは顔を曇らせた。
そもそも、捕らえられてさほど時間の経っていない薄野さんと三枝さんがここまで消耗しているという事実は、彼女たちが物のように扱われているという証明に他ならない。
命の考慮が為されていない異常、長く囚われていれば確実に彼女たちの命は無いのだ。
「それと、僕は一華さんと一刀さんに認められてここに来てる。あいつらに確実に勝てるとは言わないけど、遅れを取るつもりもないよ」
そう言って倒れている二人を掛けておいたバスタオルでくるみ、両肩に掛けるようにして抱え上げる。
「ついてきて。ここからは自重無しで行く」
意識の無い人間を抱え上げるのは、それが小柄な女性でも普通はかなり苦労する。
それを難なく二人も抱え上げた僕に薄野さんは目を丸くしたが、反論せずについてきた。
「見張りがいるから、まずはそいつらを排除してくる」
行きしなに排除しておいても良かったのだが、それで助けている間に異常に気付かれないという保証も無かったため、気付かれないならそのままにしておいた方が良いと判断したのだ。
そもそも僕の侵入に気付けなかった時点で大した手練れではないが、中のことを知らずに見張りを押しつけられた可能性もあるため、あまり手荒にするわけにもいかない。
入り口付近に抱えていた二人を一端置いた僕は、わざと大きな音を立てて扉を開く。
「なっ!?」
「何者だ!」
悠長に誰何しているので間合いを詰めて背後に回り、首筋に打撃を与えて二人とも気絶させる。
鬼人としての力を得た僕が、あまり違和感も感じずにその力を発揮した状態で動けているのは、ハチのお陰だろうか。
ともあれ今は有り難い。
少し悪いとは思ったけど、気絶したうちのひとりから服を剥いで薄野さんに渡す。
「これを着たら行こう。見回りに遭遇したら僕が片付ける。その間、二人を見てて」
僕の動きを見て愕然とした顔をしている薄野さんに声を掛けると、はっとしたようにうなずいて手早く服を着る。
さすがにバスタオル一枚で動き回るのは抵抗があるだろうし。
「それで、ここからどうするんだ?」
「裏で三弥さんが待ってる。そこまで一緒に行くよ」
「三弥殿が……つくづく迷惑を掛けてしまったか」
「反省は後で。あなたたちが脱出しないと、一華さんに迷惑が掛かるよ」
「分かっている。行こう」
薄野さんが意識を保っていて三枝さんは気絶しているのは、基礎体力の違いもあるが、三枝さんの方が激しく抵抗したせいらしい。
「文子は男嫌いでな。私も好きなわけではないが、嫌悪感を我慢して反撃のために体力を温存するくらいは出来た。それでもこんな有様だが」
「こっちの人は?」
三枝さんは休めば意識を取り戻すだろうが、もうひとりの女性は衰弱が激しい。
「長老たちの身の回りの世話をしていた女中のひとりだったと思う。長老達の不審な行動に気付いたのか、それとも落ち度も無いのに連れ込まれたのかは分からない。私たちが連れて来られたときにはもうこんな状態だった」
「そっか……」
彼女の呼吸は随分と浅く、適切な処置をしなければ危ないかもしれない。
そう考えたときに、敷地内の空気が騒然となったのが知覚できた。
少し離れた場所から叫び声が聞こえてくる。
「見つかったか!?」
「いや……」
この方角にあるのは、一刀さんの向かった奥の院。
つまり彼が仕掛けたのだろう。
そちらに注意が向いている間に、こちらは三弥さんと合流しなければ。
「急いで。今のうちだよ!」
* * *
案内された楓の間は、本来極秘事項を話し合うための会議室である。
その性質上、他の建屋から少し離れた奥の院に設置されており、人を呼び出す場所としてはあまり適切ではない。
そんな場所に呼び出したということ自体が長老たちの後ろ暗さを示している、と五剣のひとり、童子切たる戸根崎一華は考える。
(まあ、そもそも表に出られないんでしょうけれど)
彼らが新良木の誘いに乗って紅仁散とやらで剣鬼と成って若返っているのならば、当然ながら剣人会の長老として人前に出られる姿ではない。
かといって一度手に入った権力を手放すような輩ではないことも明らか。
当然の帰結として、人前に出ずに裏から手を回すことになる。
(鬼が出るか蛇が出るか、なんて言うけど、これだけ鬼と蛇しかいないのが分かり切ってるのも珍しいわよね)
今から入ろうとしている会議室の、無駄に装飾を凝らした扉を眺めながらそんなことを思う。
案外と落ち着いているのは、近くに三日月がいると分かっているからだろうか。
(……あの男に借りを作るなんて業腹ではあるんだけど)
ここまで案内してきた中年の女中が、中へ入るよう促してくる。
良く見ると彼女の顔は随分とやつれているように見えた。
ここに案内してきたということは長老たちの息が掛かっているのだろうが、ひょっとしたら彼らに脅されているのかもしれない。
そうだとしても今は何か出来るわけでもない。
一華は腹を据えて扉を開けた。
「遅かったな、童子切」
途端に、一華の全身がざわりと粟立つ。
中に居たのは三人。
いずれも見覚えの無い二十代から三十代の男であり、そして全員にどこか見覚えがあった。
以前であれば歯牙にも掛けなかったはずの相手だが、五剣として磨き抜かれた一華の危険察知能力は、三人ともが警戒すべき相手だと告げていた。
その中で声を掛けてきた男を、一華は見据える。
「あなた……俵田ね?」
「様を付けんか。不敬者が」
不機嫌そうに頬肉を震わせるその様は、老人の姿のときと変わらない。
「まあ良い。呼び出した意味は分かっておろうな?」
「意味? 人質を取るなんて真似をしないと、怖くて女ひとり呼び出せない下衆どもが、目の前にいる男たちってことなら分かっているけれど」
「貴様……!」
若返ろうとも沸点の低さは相変わらずのようで、簡単に一華の挑発に乗る俵田。
「まあ落ち着け俵田」
後ろに居た小柄な男が、嫌らしい笑みを浮かべながら俵田を宥める。
一華の記憶では、小泉とかいう強者にへつらい、旨い汁を吸うことしか考えていない寄生虫のような男だ。
「おまえが五剣であるという事実を過小評価するつもりはない、ということだ。それとも人質などどうなっても良いとばかりに暴れてみるかね?」
「……真矢と文子は無事なの?」
「さて、それはおまえの態度次第だ」
完璧なまでに悪役のテンプレートの手順を踏んでいる相手にうんざりしながらも、一華は質問を繰り返す。
「私は、今、この時点で真矢と文子が無事なのか聞いたの。耳がついていないの? それとも言葉が理解できない? もっと分かりやすく聞いてあげましょうか?」
もはや相手を馬鹿にした態度を隠そうともしない一華に、案の定俵田が爆発する。
「黙って聞いておればいい気になりよって! あの生意気な二人ならたっぷりと仕置きしてやったわ!」
「……何ですって?」
一華からひやりとした空気が流れ出す。
小泉ともうひとりの方はそれを感じ取って顔をしかめたが、当の俵田本人はそれにまるで気付いていない様子でまくし立てる。
「上が上なら下も下だ。こちらが下手に出て協力を要請してみれば、拒否したばかりか儂に唾を吐きかけおったのだぞ、あの小娘どもは!」
「……」
「まあ、今はそんな元気も無かろうがなあ。ああ、命はあるぞ。まだ、な」
言外に一華が抵抗すれば彼女たちの命は無い、と言いながら、二人に対して行った仕打ちを思い出して溜飲が下がったのか、俵田は優越感に満ちた笑みを浮かべる。
それがとても癇に障り、一華は怒りを溜めるように押し黙る。
「妙なことを考えるなよ、童子切。おまえがここで抵抗すれば二人の命は無い。これで一報するだけで良いのだ」
黙りこくった一華が暴れ出す可能性を考えたのか、小泉が牽制するように携帯電話を見せる。
「それに、抵抗したとしても我々の方がおまえより強い。それが三人揃っているのだ。逃げても良いが、その場合も二人の命は諦めて貰おうか」
「……要求は?」
低い声、据わった視線で一華は三人へと問う。
「簡単だ。我々の仲間になれ」
「私にも剣鬼になれと?」
「望むならば。だが、こちら側につくだけでも良い。それだけで二人を帰すことを約束しよう。悪くない条件だと思うが」
「そうね……」
その一華の言葉を聞いた三人の笑みが深くなる。
「そうして、そちらについた証として私はそっちの豚との婚姻を結ばされて、剣華隊は解体。あとはあなたたちが好き勝手に好みの娘たちを分配する、という流れかしら」
「な、なっ」
狼狽する長老たちを、蔑み果てた目で見ながら一華はため息をつく。
今までも何度も失望させられてきた老人たちだが、これはもう救いようもない。
「本当、下らない男たち。私は未来永劫あなたの物なんかにならないし、これ以上私の部下たちを好きにもさせない」
宣言し、抜刀する。
一刀の気配は感じられないが、あの男が本気で気配を消したのなら、一華ですらも感知できるはずもない。
だが、あの男が側にいると言ったのだ。
気配を感じずともいることを一華は確信していた。
「楽には死なせない。私の部下に手を出したこと、地獄の底で後悔なさい」




