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月日は過ぎ、僕は十歳になっていた。
修行の日々は相変わらずだけれど、いろいろと変化はあった。
まずは学校に通うようになったこと。
村には学校はないので、三隅村の子供は隣町である山王町の学校まで通うことになる。
山王町は真也たちが住んでいる町なのだが、これが結構遠くて山道を十五キロほどの道のりを通わなければならない。
そんな距離を子供が歩けるはずもないので、当然ながらスクールバスが村まで来てくれる。
が、お師さんがここで無茶なことを言い出した。
「おめえは走れ」
「はい?」
「道なりに行くと遠回りじゃからな、直進していけばまあ二、三キロは縮まるじゃろ」
毎朝道無き道を十キロ以上走ってけとかいきなり何言い出してんですかこの人。
しかも帰りも走りじゃないですかやだー。
さらに三隅村は標高七百メートルの場所にあるので、山王町から帰るときは登りだ。
まさに行きは良い良い帰りは怖い。
いや、行きも良くない。
「なに、おめえは若いからすぐ慣れる。村からは下る一方じゃし、そっちにゃ熊はおらんからな」
「そういう問題なの!?」
無慈悲なお師さんの一言により僕は学校のある日は毎朝、山岳マラソンをする羽目になったのである。
ちなみに初日はたっぷり余裕を持って朝出かけたつもりだったが、たどり着いた後は授業どころではなかった。
しかし慣れとは恐ろしいものである。
今の僕は毎朝自分の弁当とお師さんの朝食を作ってから学校に行き、帰りは真也の道場に寄って稽古をして帰るほどの余裕がある。
我ながら体力できたなぁ……。
学校では中身は三十過ぎなんだから(というよりもう四十過ぎという事実には目を瞑る)小学校の授業くらい楽勝だぜ!と思っていたら、満点はなかなか取れないことに衝撃を受けた。
小学生ナメてましたごめんなさい。
さすがに初歩の算数なんかはケアレスミス以外の間違いはなかったけれど、漢字とか意外と忘れてるし、社会等に至ってはこんなの習ったっけとかいうど忘れっぷり。
相対的には好成績を収めながらも、自分としては小学校の勉強ができないとかプライド崩壊モノなので、真面目に授業を受ける日々を送っていた。
ちなみに制服とかは存在しない学校なので、それをいいことに僕はずっと例の稽古着のままだ。
まだ光恵さんが作ってくれているのだが、成長期でサイズ直しが頻繁に発生しているので、そろそろ自分でも作れるようにならなければ。
最初は同級生たちから物珍しそうに見られたりからかわれたりしたが、軽く受け流していたら何も言われなくなった。
次の変化として、稽古内容にも変化があった。
型を覚え、それをなぞり、意味を考え、組太刀で呼吸を読み、打ち込み稽古で実践する。
基本の稽古としてのそれらに変わりはないけれど、重大な違いがひとつ。
型を行う際に、真剣を使うようになったのだ。
「いいか伊織。物事を真剣に行う、というが、本身を扱う際にはそれだけの注意が必要じゃ」
本身とは真剣のことだ。
お師さんは僕の練習用にわざわざ用意してくれた二尺一寸の刀を僕に手渡し、自分もまた刀を腰に差した。
余談だけれど、太刀は刃を下にして腰につり下げる。
これを佩くと言う。
打刀は刃を上にして腰帯に差す。
これを差すという。
主に馬上で使う太刀と、徒歩で使う打刀の使用法の違いなんだそうだ。
「素人が扱っても畳表を巻いたものくらいなら簡単に斬れる。そのくらい日本刀は斬れるものじゃ。巻藁を斬るにはちと腕がいるがな」
お師さんはそう言って抜刀し、納刀してみせた。
「抜くとき、振るとき、納めるとき。本身を扱っているときはいずれの動作にも十分な注意を払う必要がある。ただ持っているときでも気を抜いてはいかん」
お師さんが刀を振ると、ピュンと空気を切り裂く小気味の良い音が響く。
「刀をなめるな。迂闊な扱いをすれば大怪我をすることになる。指なんざ簡単に落ちるからな」
「はい、お師さん」
「よし。順に教えていこう」
真剣を持つなんて前世を含めたって初めてで、もともと男の子(今は女の子だけれど)なりの憧れもあった。
それもあって実際に真剣を腰に差したときは感無量だったが、すぐにそれが本当に怖いものであることは理解した。
お師さんの言いつけもあって気は抜いてなんていないつもりなのに、いつの間にか手が切れてるのだ。
しかもいつ切ったかが分からず、気づいたら鞘が血まみれなんてこともあった。
真剣怖い……。
ある程度真剣の扱いにも慣れてきた頃に、お師さんは抜刀術も教えてくれた。
こればかりは木刀では練習ができないらしい。
「基本的に刀は両手で遣う。抜刀は片手に見えるが、こいつも例外じゃねえ」
お師さんの言葉に僕は首を傾げる。
太刀ならいざ知らず、打刀を両手で抜くことはないと思ったからだ。
「鞘だ。左手で鞘を引いて抜刀の速度と威力を増す」
ゆっくりと抜刀の動作を見せるお師さん。
柄頭を相手へと向け、右手で刀を抜き出し、同じくらい左手の鞘を引いていく。
そして刀の物打ちと呼ばれる、相手を斬るときに当てる部分が鞘から出たときに、左手の鞘をひねるようにして思い切り腰の後ろへと素早く引く。
同時に右手はそれまでやんわりと握っていた柄を強く握り込んで、刀を右へと振り抜く。
片手で刀を振った程度ではあり得ない速度で剣尖が空気を切り裂いた。
「分かるか?」
「……なんとなく」
右手だけで抜いた場合、刀には右手の力しか乗らない。
お師さんがやったことは、左手の力を鞘を通して刀に伝えたということだと思う。
とても乱暴に言ってしまえば、鞘を使って刀でデコピンしたような、と言えば伝わるだろうか。
確かに両手を使っている。
もちろん、手の力だけではなく体重、刀の速度などの様々な要素が絡むのだろう。
そこは練習して体得するしかない。
「大毅流では抜刀術そのものはあまり重視しておらん。じゃが、こいつは真剣に慣れるにはもってこいでな」
確かに抜刀、納刀を繰り返すこれは、真剣に慣れるにはちょうどいい稽古だった。
納刀時に間違えて自分の掌を刺して何回も流血沙汰となったけれど……。
なにせ、納刀は手元を見ないで行う。
もたもたと手元を見ていたら、死んだフリをしていた敵にばっさりやられかねないからだ。
納刀時には斬った相手を見て残心しておく必要があるのだ。
修行以外の変化もある。
今は黒峰家の家事全般は僕が担っていた。
お師さんには面倒を見てもらっている上に剣術まで教わっているのだから、このくらいはしたいと思って光恵さんにいろいろ教えてくれるようお願いしたのだ。
光恵さんはまさにパーフェクト主婦だった。
料理上手で、栄養にも配慮したレパートリーも豊富。
手際よく洗濯するコツから皺の寄らない干し方。
家をどういう順番で掃除すれば手早く、清潔に保っていけるのか。
そんなのは序の口で、四季折々に食卓に載せられる野草の見分け方から、洗濯した後に手を荒らさないケアの仕方までと様々なことを教わった。
おかげで最近では学校の行き帰りに野草を取ってきたり、帰ってから掃除洗濯をしても稽古の時間を捻出したりできるようになった。
生活力が上がっちゃってまあ。
それと、体も順調に成長している。
背丈も伸びて今はサトシと同じくらいあるし、髪も光恵さんに伸ばすよう勧められて今は後ろ髪は肩胛骨のあたりまで伸びている。
二次性徴も始まった。
女の子のそれは知識としては少しは知っていたけれど、自分が体験する羽目になるとは夢にも思っていなかったな……。
まだそれほど大したことはないのだが、最近ちょっと稽古のときに胸が物理的に痛くて困ることがある。
生理はまだ来ていないけれど、そのうち来るようになるんだろう。
そのときはパーフェクト主婦光恵さんに泣きつかなければ。
* * *
「それじゃ、今日は皆でバーベキューですね?」
鴻野道場での稽古の休み時間。
清奈が僕と真也ともう一人の少女を見て言った。
「姉さん、念押し過ぎ。伊織姉と食事するのそんなに楽しみだった?」
表情少なく、しかし割とトゲのある口調でそう言ったのは、清奈の二つ下の妹の神奈だ。
彼女も鴻野道場に清奈と一緒に通っており、一緒に稽古をしている。
剣の腕は残念ながら清奈には及ばない。
いつも大人しい娘なのだが、なぜか姉には割と容赦がない。
ちなみに清奈と僕、それとここにはいないけれど麻衣は同級生だった。
真也とサトシは僕たちより二つ上の学年なので、来年からは中学生だ。
「そそ、そんなことありません!」
うん、そんなに力いっぱい否定されると割と傷つく。
学校に通うようになってから、僕は帰りには鴻野道場に寄って稽古をして帰るようになっていた。
鴻野道場は実はメインで教えているのは大毅流ではなく、桐生流という流派だそうだ。
桐生流は明治の頃に大毅流から派生した流派で、大毅流に比べると間合いを重視する流派だ。
この頃に大毅流からは多数の流派が派生したらしい。
大毅流はどちらかというと呼吸を読むことを重視しており、桐生流に比べれば間合いには頓着しない。
この特徴とはその流派の技によるもので、その間合いに在れば一撃必殺といっていい技を持つ流派は、間合いに非常にシビアになる。
桐生流はこのタイプで、型にはまるととても強い。
清奈と打ち込み稽古をしたときに、彼女が得意とする技の間合いに入ると僕だろうと真也だろうとかなりの確率で一本取られる。
逆に言えばその間合いに入らないと力を発揮できないという弱点が桐生流にはあるのだが、手練れの桐生流の剣士ともなると、異なる間合いを持つ技をいくつも持つことでその弱点を消してしまう。
清奈はその域には達していないけれど、持っている技はきちんと自分の物にしているので稽古中は気が抜けない。
せっかくなので僕も桐生流の技を少し教えてもらったけれど、これがなかなか難しい。
きちんと使いこなせる清奈はやはり凄いと思う。
真也は大毅流が性に合ってるとかでそちらを主に稽古しているが、清奈をはじめとする神奈ら他の門人は桐生流をやっている。
師範である春樹さんは大毅流も桐生流も修めているので、どちらであっても教えることができるというわけだ。
いつもは食事の用意もあるから稽古が終わると速攻で帰るのだが、今日はお師さんは所用で出かけていて珍しく帰りが遅い。
ということを昨日何の気無しに言ったら、清奈が春樹さんに掛け合ってあっという間に道場の庭でバーベキューをする段取りを整えてしまった。
秋になって涼しくなってきていることもあって、外で食事をするには最高のコンディションでもある。
参加者は道場の門人たち。
小学生は僕と清奈と神奈、そして真也と見知った顔ばかりだし、気のおけない食事会になりそうだと僕も楽しみにしていた。
「よし、じゃあそろそろ仕舞にして準備を始めようか」
春樹さんが手を叩いて門人たちを集める。
鴻野道場の門人はうちと違って結構多い。
社会人が主みたいだけれど、高校生や中学生も数人いるようだった。
小学生は僕たちだけである。
終了の礼をして、僕たちは庭へと移動する。
庭を挟んで向かいが春樹さんの家で、道場の敷地はかなり広い。
「それじゃ年長組はコンロを用意して炭の火を熾す。年少組は野菜を洗って、あとはお肉と一緒に切って串に刺して」
春樹さんの号令一下、手分けして作業を開始する。
女の子は僕と清奈と神奈の三人だけなので、春樹さんは男女別には分けなかったのだろう。
「なんか人数差がひどくねえ?」
ジャガイモをがしがしと洗いながら真也がぼやく。
年少組に分類されたのは中学生の三人と小学生四人組だったのだが、火を熾す方が楽しそうに見えたのか、中学生たちは年長組の方に行ってしまった。
よって残ったのは僕たち四人だけである。
「大丈夫。真也はジャガイモ優先でどんどん洗って。亀の子たわし使っていいから泥落としはしっかり」
「おう」
「神奈はタマネギ剥いてくれる?」
「はい」
「清奈は串打ちね。こっち終わったらみんなで手伝うから」
「わかりました。任せてください」
人数が人数だから量が多いけれど、慣れた作業だ。
先に切るだけで済むお肉を、ぱぱっと一口大に切り分けて胡椒を振っておく。
次に真也が洗って積み上げていく野菜を片付ける。
ジャガイモは皮を付けたまま輪切りにして、芽だけ手早く落とす。
カボチャやタマネギ、他の野菜も適当な厚みを残して切り分け、串打ちする清奈に回していく。
「はい、切るの終わり」
年長組が四つあるバーベキューコンロに火を熾し終わったくらいには、残す作業は串打ちのみとなっていた。
その串打ちも清奈が頑張っているので半分は終わっている。
「あれ、もう切り終わったの?」
さすがに火を扱うので責任者として年長組を見ていた春樹さんが、戻ってくるなりそうつぶやいた。
「伊織が全部やった。俺、野菜洗ってただけ」
「私、タマネギ剥いてただけ」
串打ちを手伝いながら真也と神奈が言う。
「洗い終わったら切るの手伝うつもりだったんだけど、終わったときにはもう残ってなかった」
どことなく憮然としながら串に肉を刺す真也に、春樹さんが苦笑する。
「凄いね、まるで主婦みたいだ」
「光恵さんに習ったから」
「ああ……あの人は凄いよね」
僕の家事スピードは光恵さんの足下にも及ばない。
お師さんが剣の達人であるならば、光恵さんはまさに家事の達人なのだ。
春樹さんもうちの道場に来たときに、光恵さんの食事の支度の様子を見たことがあるので、ご納得頂けたようだった。
「それでも小学生でこれは凄いな」
「伊織ちゃん、うちにお嫁に来ない?」
「おまえ……それは犯罪だぞ」
「本気にすんなよ!!」
「どうだかな……俺はそのときが来れば容赦なく通報する」
「そんなときは永遠にこねえよ!?」
漫才のようなやり取りに笑いが弾けた。
ここの門人たちも仲が良い。
とはいえ社会人が小学生に嫁て。
ちゃんと彼女作れよ。
「むむむ……私も光恵さんに弟子入りするべきでしょうか」
串打ちを終えて腕組みして唸ってる清奈。
「それよりも家のお手伝いすればいいと思うけど」
正直、こういうのは慣れだ。
最初を光恵さんに手ほどきしてもらうのはとても有用だけれど、習っただけでは家事の腕は上達しない。
「……そうできたらいいんですが」
「何か問題があるの?」
最初こそ僕を敵視していた清奈だが、この数年、一緒に稽古をするうちにとても仲良くなった。
真也のことを慕っているようで、最初に僕を敵視していたのは僕に真也を取られると思い込んだからのようだった。
つまり、とてもまっすぐで良い娘なのだ。
そんな娘が何か問題を抱えているなら、力になってあげたかった。
「その、うちでは家事とかやるなんてとんでもない、とお母さまが」
……前も思ったけれど、この娘、良いとこの娘さんなんではなかろうか。
「そんな暇があったら強くなれ、と……」
「……ええっと?」
続く言葉の意味がとっさに理解できなかった僕が水面の金魚のように口をぱくぱくさせていると、春樹さんが苦笑しながら口を挟んだ。
「姉は割と高名な剣術家でね、清奈に後を継いで貰いたいんだと思うよ。でも、それは娘に掛ける言葉としてはどうなんだろうねえ……」
なんと言って良いやら分からず、僕は口を閉ざすのだった。
勘違いして真也を伊織と同級生としていましたので修正しました。