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アクセス数は落ち着いてきました。
ブックマーク数がかなり増えたので嬉しいですね。
ありがとうございます。
老いとは人から様々なものを奪い去る。
代わりに老いは人にそれに伴う経験というものをもたらし、それは余裕を生みだし心の豊かさを育む。
それは理想と言える歳の取り方だろう。
ただし、そんな歳の取り方を出来る者ばかりではないのは確かだ。
次第に皺の寄っていく肌に幻滅し、鍛えても日々衰えていく体に落胆し、学んでも覚えることのできない現状に苛立つ。
若い頃に能力の高かった者ほど、その落差に耐え難い屈辱を覚える。
そうなると若さというものに嫉妬し、若かりし頃ばかりを思い前に進むことが出来なくなる。
新良木賢造という男はそうした者のひとりだった。
(まさに枯れ木よな)
皺が寄り水分の失われた己の腕を見るたびに、新良木はそう思う。
昔は刃風鋭く刀を振るっていた腕だが、今や長年連れ添った愛刀すらもこの手には重すぎる。
名門新良木家の長男という恵まれた立場。
容色優れた母親から受け継いだ整った容貌。
そして剣人のサラブレッドとしての周囲の期待に十二分に応えられる天稟。
すべてを生まれ持った新良木に思い通りにならなかったことなどなく、その人生で挫折したのは覚えている限りはただの一度に過ぎない。
そんな彼であっても、万民に等しく降りかかる老いというものだけはどうにもならなかった。
まだしも、歳を取って剣技の円熟味が増している時期は良かった。
だが、今やその卓越した技術を以てしても、若い剣人の力と勢いには勝てない。
(何故、人は老いねばならんのか)
新良木はいつしか老いを憎むようになった。
そうなってからは目の前で自分と同じように歳を重ねていく妻すらも、疎ましく感じるようになった。
子も独立している今や夫婦関係は冷え切っている。
離縁していないのはお互いに体裁を保つためだけに過ぎない。
その諸々への反動か、歳を取ってから新良木は若い十代の娘を抱くことを好んだ。
金さえ出せばそれは可能だったからだ。
だが最近ではそれらの娘を見ても、この枯れ木のような体は欲を覚えることがほとんどなくなった。
この間の査問会においても、一昔前の新良木であれば放っておかないほどの好みの娘たちがいたが、今や新良木の中の男はぴくりとも反応しなかった。
それを己の変化として良しとする者もいようが、新良木はそんな恬淡とした自分を望んでなどいなかった。
だからこの話に食いついた。
最初に聞いたときはさすがに半信半疑だった。
鬼人は歳経てからも若々しい外見を保つ者がいるというのは、ある程度鬼人について知っているベテランの剣人の間では常識と言っても良い。
黄昏会の元締めたる熊埜御堂連華についての知識があれば、彼女が何十年もの間、その容姿にまったく変わりが無いことを事実として知るからだ。
それは当然、通常の人間としてはあり得ないことであり、連華が人間離れした化物であるという証左だ。
その化物として蔑んでいたはずの連華を、羨むようになったのはいつ頃からだったろうか。
以前からデモン、そしてDSというドラッグについて報告は受けていた。
その時には別にどうという感想も覚えなかったことを記憶している。
鬼人が一般人を眷属化する厄介な薬を生み出したのだ、というごくごく一般的な剣人としての認識を抱いたのみだった。
ところが、それは鬼人化した剣人が出た、という話を聞いた瞬間に一変した。
自分も鬼人となれば、連華のように若さを得ることが叶うのではないか。
そして新良木はすぐさま黄昏会へと繋ぎをつけ、連華と面会するに至ったのだ。
新良木ほどの地位ともなれば、黄昏会への伝手を持つ人物とのパイプはいくらでもあった。
それを邪魔するものがあるとすれば、己の剣人としての尊厳ということになるだろう。
だが剣人としての禁忌など、老いへの憎しみとその希望の前には塵芥に等しかった。
ゆっくりと杯を傾けながら、そのときのことを思い出す。
* * *
連華が指定してきた料亭の一室は庭に面した障子が開け放たれて、盗み聞きは難しいよう気を遣っているようだった。
それ自体は一応のポーズに過ぎないとしても、計算された庭園の景色が一望できるのは悪いことではない。
「剣人会の重鎮中の重鎮が、うちに用とは珍しいこともあったもんやなぁ」
正絹の和服を身に纏った連華は相変わらずの若さと美貌であり、それはますます新良木の羨望の念をかき立てる。
用件はとっくに知っているだろうにそれを韜晦する連華に、新良木は単刀直入に用件を告げた。
「DSについて知りたい」
「あらまぁ、間の悪いことやねぇ」
連華はDSの開発者である鬼人は大典太によって倒され、在庫も製薬のノウハウも彼が持っていたものだと語った。
「馬鹿な……」
絶望して膝を折る新良木に、連華は玉の転がるような笑い声を上げて言った。
「気ィの早いことやねぇ。そもそもの用はなんなん?」
DSが無いのならば用はない、そう言おうとした新良木は、意味ありげな笑みを浮かべた連華の顔を見て思い直した。
この女に剣人会は何度も煮え湯を飲まされてきた。
そんな奴が簡単に有用なものを手放すだろうか。
答えは否。
そうだとして唯々諾々と己の秘めたる願いを白日の元に晒す、それも仇敵たる鬼人の総元締めとも言える者の前で、ということには抵抗はある。
しかしそんなものはその願いが叶うかもしれないという希望の前では、障壁にすら成り得なかった。
「……若さが、欲しい」
嗄れ声で押し出されたその願いに、連華は首を傾げる。
「強欲やなぁ。かつては五剣がひとり『大典太』として在って、今や押しも押されぬ剣人会の重鎮中の重鎮。誰もが羨む人生を送りはってたんとちゃうん?」
「だからこそ、ではないか」
新良木は思う。
満たされてしまうから、次が欲しくなるのだと。
自らの手に無いものをこそ、人は欲するのではないかと。
強欲結構、それで欲しいものが手に入るのならばそれの何が悪い。
「成る程なぁ。そこまで得られてしまったからこそ、その次が欲しいんやな、あんたはん」
「そういうことだ。何かあるのだろう?」
「あるけどなぁ」
やはりころころと笑いながら、連華は新良木を窺うように見る。
「それで、見返りはなんなん?」
「すべて」
迷い無く言い切る新良木に、連華は目を丸くする。
「随分と思い切りはったなぁ。ええん? うち、鬼人やよ?」
「元より承知。それで我が願いが叶うならば、今持つもので惜しいものなどない」
「へえ」
薄く笑った連華は、意志を確認するかのように新良木の目を覗き込んで言った。
「ほな、命を懸けるつもりも、手を汚すつもりも、あるんやね?」
* * *
その後、連華は覚悟が固まったのなら、また連絡するようにと言って新良木と別れた。
剣鬼の査問会があることを予め知っていたような言い方であったが、そこはもはや新良木には重要なことではなかった。
彼の頭を占めていたのは、その方法に命を懸ける価値があるや否や。
そして、それは査問会において実際に剣鬼となった娘を見たときに決定的となった。
ただの小娘が、鬼人となったことで速度や力において五剣すらも凌駕するほどとなるという事実。
それは新良木に覚悟を決める十分な説得力をもたらしたのだ。
「覚悟が決まりはったようで何より」
ゆったりと扇で自らを扇ぐ連華は、新良木と同じく杯を傾けていた。
査問会が終わってすぐに、新良木は連華へ再び繋ぎを取った。
そうして今、前とは異なり黄昏会が活動の場のひとつとしている建物へと招かれていた。
無骨な鉄筋コンクリートのそれは、頑丈で目立たないが内装はそれなりのものだった。
「前も言った通り、DSは無いんよ。あるんはそれよりちょいと効果の強い『紅仁散』いうもんや」
そう言って連華が出してきたのは、薬包に入った赤い粉末。
「DSは一般人用やさかい、効き目がかなり弱めてあったんよ。何回かに分けて飲まなあかん代わりに、鬼人になる成功率を上げとったいうわけや」
「これは違う、と?」
「せや。効果が強い、言うたやろ? これはこの一服でええ」
それを手に取る新良木に、連華は意味有り気な笑みを向ける。
「ただし、DSも紅仁散も失敗したら死ぬことには変わりひん。そしてこれはDSとは違うて成功率はそんな高うない」
「……メリットは?」
「ふふ。DSも紅仁散も鬼人の血、言わばエッセンスを体内に取り込んで体に馴染ませることで鬼人となるわけや。鬼人としてどれだけ強うなれるかは、本人の強さもそうやけど、その血の元となった鬼人にもよるとは思わへん?」
「成る程。DSを精製していた鬼人よりも強力な鬼人のものだ、ということか」
良く出来ました、と言わんばかりにうなずく連華を余所に、食い入るように紅仁散の薬包を見つめる新良木。
「おまえの血か?」
「うちより強いお人のもんや。それ以上は教えられへんけどなぁ」
「なに……!?」
連華より強い鬼人、となると新良木にも思い当たる名前などほとんど無いと言って良い。
どうにか名前の挙がりそうな鬼人として武鬼がいるが、それにしては連華の言い方が引っかかる。
(……連華より地位が上の鬼人? そんな者は聞いたことがない)
「詮索はあかんえ? あんたはんが首尾よう鬼人になりはって、うちらの役に立ってくれはるんやったら、じきに紹介したるさかいなぁ」
鬼人となり、希望通りに若さを手に入れたときに、連華に従う必要があるのか。
新良木はその必要があると結論づける。
何故ならば連華は用心深い。
その証拠として黄昏会がいまだ存続し、剣人会にその活動の詳細をつかませていないことが挙げられる。
個々に失敗して剣人会に誅滅された者はいても、それが黄昏会そのものの打撃に至った事例は皆無だ。
そんな連華が簡単に自分に反逆できるほどの力を、昨日まで敵だった者に与えるはずがない。
もし彼女を裏切るのであれば、周到に、念入りに準備を整えた上でなければならないだろう。
それに長年黄昏会を見てきた新良木は、彼らの組織体系が非常に緩いものであることを知っている。
配下の鬼人は連華に逆らうことはないものの自由裁量の元に行動しており、同じ黄昏会の所属にも関わらず鬼人同士で対立していることすらあった。
自分の好きにやれるのであれば、敢えてわざわざ裏切る必要もない。
「分かった。楽しみにしていよう」
そういう新良木の考えを知ってか知らずか、連華は満足そうに微笑む。
「それはそうと、DSもそうやったけど、紅仁散も飲むと己の衝動が暴れ出して色々悪さをするんよ? あんたはん、自分の本性はどんなもんやと思う?」
「何故にそのようなことを聞く」
「せっかく剣人会の長老の協力者が出来るんに、いきなり居なくならはってもうちらも困るよって。あんたはんも誅伐対象にはなりとうないわな?」
確かにDSについての剣人会への報告にも、個人差はあるものの服用者は欲望のままに破壊や殺人、拷問や強姦といった暴力的な欲求を満たそうとする、と言う記述があったことを新良木は思い出す。
それらの欲求を満たさせないよう薬が切れるまで暴れさせることで、DSが抜けて人に戻る。
無理に押さえつけて暴れられないようにしてしまうと、そのまま死亡するということも報告にあった。
逆に言えば、それらの欲望を満たさない限り鬼人にはなれないということだ。
そして普通にそれらの欲望を満たせば、当たり前の話だが警察沙汰となり、そうなることを防ごうとする剣人会による誅伐対象となる。
それは新良木にとってはもちろん、連華にとっても好ましいことではない。
「余程やない限り、必要なモンはうちらで用意してもええんやけど」
まるで朝食を用意するかのような気楽さでそう申し出る連華に、新良木は疑いの目を向ける。
「急にサービスが良くなったな。私がそれらを満たす様を映像にでも撮って、弱味を握るつもりか」
「別に自前で用意しはる言うんなら、うちはそれで構へんのやけどねぇ」
新良木の言葉を否定はせずに、ただ微笑む連華。
少し考え、どうせ鬼人になるのだからと申し出を受けることにする。
「恐らくは女を襲い、人を斬る」
歳を取って性欲を覚えなくなったことに、新良木はかなりの不満を自覚している。
そしてやはり衰えていく剣技にも強いストレスを感じている。
それらを考えれば、やはりこういう結論になるだろう。
ひとり二人は自分でもそれらの贄を用意できるだろうが、何人必要になるかも分からず、足りずに鬼人に成れずに死亡するなどということがあっては本末転倒。
それくらいであれば、連華に弱味を握られようが確率の高い方を選ぶことは、新良木にしてみれば当然と言えた。
「さよか。ほな捕らえてある剣人が何人かおるさかい、そこから出そか」
何でも無いことのように、さらりと言い放たれる言葉。
昨日までの同胞を食らえと言われた新良木は、だが眉一つ動かさなかった。
否。
その口はゆっくりと三日月を形作り、深淵を思わせる黒い裂け目が、ぱっくりとその顔半分を覆った。
そう、昨日までの同胞をその手に掛けるという想像は、久しく覚えなかった強烈な興奮を新良木の老いた体にもたらしたのだ。
まさに醜悪と言って良いその表情を、連華は満足気に眺めていた。