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予定外に早くできましたので、投稿します。
黒峰伊織という娘は非常に変わっている。
何が面白かったのか、首も据わらない乳飲み子のうちから、剣の稽古を泣きもせずに熱心に見ていた。
剣士にとって見るという行為は非常に大切なことであるが、真の意味で理解している者は少ない。
伊織がそれをどこまで理解しているかは分からない。
だが体が動くようになった途端、わずか二歳にして剣の理合という概念を理解し、実践にまで移してみせたのにはさすがに驚いた。
早熟すぎる才能というのは、往々にして本人にとってはあまり良いものではない。
剣における成功体験、すなわち勝利による自信というものは必要不可欠なものではある。
が、これには必ずと言って良いほどついて回る毒がある。
即ち、驕り。
兎と亀の昔話はこれを戒める寓話として広く語られてきた。
負けを知り悔しさを知った者。
経験を積み視野を広く持つに至った者。
彼らは無意識のうちに自戒し、兎のように驕りに取り憑かれることはない。
しかし幼い心にはこの毒は容易く回る。
幼いがゆえに毒を抜くのも容易いが、その処方を間違えればそれは後々まで長く心に残留する。
直弟子である鴻野の息子である真也が分かりやすい例だろう。
自分の弟子ながらその処方は的確だった。
今後、真也は伊織の良き好敵手となってくれるであろうことは想像に難くない。
そのこと自体は諸手を挙げて歓迎すべきことだったが、伊織の現状を変えるほどのことではない。
それでも問題が発生していないというのが、伊織の異常な点だ。
男の知る限り、伊織は真也に今まで一度も負けていない。
大人にはもちろん勝てないが、そもそも体格に筋力、経験も異なる相手だということは幼子だろうと理解できる。
そんな相手に負けたところで自尊心が傷つくことはなく、後には同格の相手に勝ったという事実だけが残る。
それなのに伊織には驕ったところが欠片も見当たらない。
そういう性質なのかも知れないが、剣術への打ち込みようを見るにそれほど恬淡とした性格とも思えない。
そもそも初めて真也と戦ってからの伊織は、毎回打ち込み稽古で圧勝しているにも関わらず、次も負けまいと稽古を欠かすことがないのだ。
つまり自戒しているのである。
五歳の子供が、だ。
ここまでの話でも変わっていると断ずるに不足があるとは思わないが、さらにその思いを強くする事件があった。
村唯一の狩人である陣助が仕留め損なった月ノ輪熊が縄張りから逃走し、裏山で遊んでいた子供たちを襲撃したのだ。
裏山は山とは名ばかりで丘と言っていいほど標高が低い。
人里近く木も密ではないことから、せいぜい狸や栗鼠程度しか住んではいない。
幼子にとっては格好の遊び場であるのだ。
その裏山で伊織を含む村の幼い子供ら三人が木苺摘みをしていたところ、熊に襲われた。
普通は熊がいたとしても人の気配に気づけば距離を取るものだ。
しかしこの熊は陣助の銃によって片目を潰されていただけでなく、後で調べてみたところ脳髄にまで弾丸が食い込んでいたらしい。
それによって判断が狂ったのか、傷つけられた恨みなのかは不明ながら、熊は執拗に子供たちを狙ったと聞いた。
そんな狂熊に幼い子供が襲われれば辿る道は普通ひとつしかないが、ここで伊織の特異性が浮き彫りとなった。
まず、伊織は熊の襲撃を察知して自分が囮となって残り二人を逃がしたと言う。
熊の襲撃を察知したのは普段の稽古が物を言ったからであろうし、囮となったのは自分であれば熊から逃げられる可能性がまだあると思ったからだと思われる。
そこまでは勇気ある子供であればやるかもしれない。
しかし熊は狂気とも言える執念で人間を攻撃してきた。
後で伊織本人から聞いた話と男自身が目撃した光景をまとめたところ、熊との対峙において伊織は五回は死んでもおかしくなかった。
まず熊の突進を躱したときだ。
動物というものはおおむね人間よりも運動性能が遙かに高い。
奴らの攻撃を躱すには十分に余裕をもって行わなければ間に合わないのだが、伊織はこれを回避。
二度目は熊が伊織の登った木を殴り倒したときだ。
自分のしがみついている木が倒れようとしているときにそれを離して別の木に飛び移るという行為は、難易度そのものは場合によるが、よほど思い切りが良くないとできない。
三度目は熊が伊織のいる木に登ってきたときだ。
周囲に飛び移れる木がないという追い詰められた状況で、別の枝に飛び移って熊を回避するという発想の転換は大人でも難しい。
さらに伊織は熊が木から飛び降りにくいよう高さまで変えている。
四度目は実際に生命の危機に晒された、左腕に噛みつかれたときだ。
熊に噛みつかれた時点で死というものはすぐ傍まで迫っており、戦術などというものは頭から消え失せる。
よほど場慣れしていない限り、大の大人だろうとそこからできるのは力任せの対応しかない。
大人の力があれば、素手であってもそこから熊の鼻を殴るなりして脱出することも不可能ではない。
とはいえ、痛みにただ泣き叫ぶだけであったとしても、別にそいつを臆病だなどと謗るつもりは毛頭ない。
そんな状況で五歳児に危地を脱するだけの何かができるものだろうか。
だが伊織はそれをやった。
確固たる意志と、確かな着眼点と、思い切りの良さによって。
最後は男自身も目撃した、熊の最後の捨て身の攻撃のときだ。
熊に手を噛まれて振り回されるという、死んでも不思議ではない状況の中。
機転を利かせ、ロープを使って熊の手の届かない崖下へと逃れたというだけでも瞠目に値する。
だというのにそこから油断をせず、熊の捨て身の落下攻撃をも宙に飛んで躱した。
それだけでなく熊に引っかけていたロープを利用して自らを落下する熊に引き寄せ、熊の体をクッションにして落下の衝撃から身を守るに至っては、これを五歳児の機転と言うには無理がありすぎた。
死ぬかもしれなかった五回。
これはこの状況に遭遇したのが大の大人であったとしても回数は変わらない。
それを五歳児に過ぎない伊織が生き残ったのだ。
黒峰伊織には確実に何かがある。
それは覚悟と呼んでも差し支えのない何かであることが、それを目撃した男には感じられた。
五歳児が一体なんの覚悟を決めているのか、という疑問はあった。
しかし明確なことがひとつだけあった。
剣を伝えるにあたって男が重視するものに、弟子の資質というものがある。
それは才能ではなく、気質でもなく、その弟子の本質。
善か悪かを見るのではない。
その本質が己と近しいかどうかを見るのだ。
まったく一緒である必要はどこにもないが、かけ離れた本質、相反する本質ではいけない。
例えば師の本質が善であるならば、悪の本質を持つ弟子に奥義は伝えることができないからだ。
形だけならば伝えることも可能だが、真の意味で伝えることが不可能なのである。
なぜならば奥義とは剣の本質そのものであり、剣の本質とはその剣士の本質と不可分なものなのだから。
今まで見てきた事柄から、黒峰伊織は善人に分類されるだろう。
一見大人しそうに見えるが、実際にはかなりの負けず嫌い。
そして今回分かったことは、何らかの覚悟を持ち、そのためにはどこまで諦めない不撓の精神を持つ。
その覚悟のために剣術を必死で磨いているように感じるが、そこに悲壮感はなく、むしろひどく楽しげに見える。
覚悟のために始めた剣術を楽しんでいる不撓不屈の負けず嫌い。
それが黒峰伊織という人物である。
つまるところ、男は黒峰伊織に自分と同じ剣術馬鹿の素質を見たのだ。
それは男にとって、今まで誰にも伝えたことのない奥義を伝えることを検討するに値することと思えた。
しかし、そこで男は躊躇する。
* * *
その男は非常に変わっていた。
食べ物に執着せず、寝ることにも頓着せず、衣服は着の身着のまま。
恋は眼中になく、愛に興味がなく、その目が輝くのはただひとつ。
男は剣一筋に生きてきた。
剣に生きる者の血筋に生まれ、幼い頃から生死の賭かった戦いに明け暮れた。
それを喜びこそすれ、不満や疑問に思うことなどなかった。
がむしゃらに剣を振り、強い者がいると聞けば戦いに赴いた。
あるときは勝利して慢心し、あるときは敗北して伸びた天狗の鼻を叩き折られた。
男が普通でなかったのは、そこで負けっぱなしではいなかったことだろう。
命ある限り必ず再戦を挑み、勝利してきた。
そのせいで死にかかったことは何度もあったが、どうにか生き延び続けた。
ある日、男は偶然出会った剣士に腕試しを挑み、完膚なきまでに敗北した。
相手の力量の底は見えず、普通の剣士であればあまりの差に再び挑もうなどという料簡は起こさないほどの完敗だった。
しかし男はいつものように再戦を挑み、敗北した。
さらに当然のように再々戦を挑み、敗北した。
何度挑んでも勝ち筋が見えないなどということは男にとって初めての出来事だった。
しかし相手にとっても、何度も挑んでくる奴は初めてだったらしい。
『何度も来るなんて変わった人だねぇ。けど、何も考えていない今のあなたの剣じゃ私には勝てないよ』
飄々とした言葉に含まれた、呆れたような、それでいて面白がっているかのような響き。
華やかな外見を持つ彼女は三日月と呼ばれていた。
変人扱いされた男はその後も戦いに身を投じ続けて腕をめきめきと上げていった。
しかしながら三日月に勝つことは一度もできていなかった。
負けるたびに笑顔で『考えて』と言われ、いつしかただがむしゃらに剣を振ることはなくなっていった。
勝ち筋はまだまだ見えてこなかったが、三日月と戦うたびに己の腕が上がっている実感は確実にあった。
男にとって楽しい、活気に満ちた日々。
そんな日常は唐突に終わりを告げた。
三日月が死んだのだ。
『三日月が死んだだと!? 馬鹿な、あいつの業前で遅れを取るはずはない!!』
仲間たちの叫びを余所に、男は戻ってきたという三日月の亡骸と対面した。
亡骸の状態はひどいものだった。
美しかった顔は皮を剥がれて面影すら残っていなかった。
衣服は激しく乱れ、何が行われたのかは言わずとも知れた。
四肢はそのすべてがあらぬ方向を向いていた。
最期はわずかな抵抗すら不可能だったのだろうと思われた。
亡骸の状態から一対一の戦いではなかったのだろう。
それを卑怯と謗るつもりはなかったが、男にとってその喪失感は耐え難いものだった。
それからの男は三日月の仇を追い求める毎日を送った。
いつ死んでもおかしくないほどに戦いに身を投じ続けた。
まるで戦いこそがその喪失感を埋めるものだとでも言うように。
だが男は分かっていた。
自分は復讐心に駆られて戦っているのだと。
勝ちたかった相手はもういない。
彼の勝つことを許さない場所へと永遠に旅立ったのだ。
男は憎んだ。
自分からそれを奪い取った者を。
守れなかった自分を。
絶対に許せなかった。
復讐に駆られて戦う者は、いずれ復讐の的となる運命から逃れることはできない。
戦い続けた男はやがてその復讐を成し遂げたが、それは甘美な果実などではなかった。
仇を討つことに凝り固まっていた男は、仇の周囲のことなど考えずに己の復讐に巻き込んだ。
そして男は仇とその妻であるひとりの女を斬殺。
後には仇のひとり息子である、罪もない少年が遺された。
復讐は連鎖する。
仇を討ち果たした男は、今度は己こそが仇と狙われる立場となったのだ。
その場で少年を斬ってしまえば後腐れはなかったかもしれなかった。
だが仇を討って我を取り戻した男に、それはできなかった。
そして男は苦い後悔を抱いたまま、逃げるように第一線を退くことを決めたのだ。
それでも剣は捨てられなかった。
仇を討ち、取り返しのつかない事態に至って、男はようやく自分の本心に気づいた。
戦うことが好きなのではない。。
ただひたすらに己が剣を高める。
それこそが自分の望みだったのだと。
この村で村人を相手に剣を教え、農作業を手伝った。
それによっていくばくかの礼金を貰い、それを糧に生活をする。
いままでの生き方と比べてなんとぬるま湯に浸かったような日々であるか。
しかし男はそれを是とした。
剣と共に生きていることに疑いはなかったからだ。
今まで積み上げた経験を分類し、体系化した。
本も読み、先人の知恵に己の知識を足した上で、再咀嚼、再構築していった。
それは激動の日々ではなく今のような落ち着いた暮らしの中でこそ可能なことだった。
村人たちに剣を教えることは、その実践でもあった。
三日月が良く口にした、考えろ、という口癖はやがて男の口癖ともなった。
まさに晴耕雨読を体現した穏やかに過ぎていく日々こそが、男の剣を熟成させたのだ。
あの少年はあれから仇討ちに二度、やってきた。
男はそれを尋常に受けて二度とも退けた。
いずれも大した怪我もさせずに打ち負かせたが、二度目は見違えるように腕をあげていたことが分かった。
次に彼が来たときこそは自分が死ぬときかも知れない、と男は思っている。
それならそれで構わなかった。
強敵と相対した死線にあってこそ、己が剣の高みへと至るというものだ。
男はそう考えていた。
数年後に、いまさら心残りが出てくることなど露ほども知らずに。
* * *
人間、六十年以上も生きていれば、ただ生きていたとて何がしかのしがらみは存在する。
剣一筋に生きてきた男には、それ以上のものがあるというだけの話だ。
奥義とはその剣士の本質。
本質を受け取るということ、その意味は大きい。
受け渡し方を間違えれば、相手の人生を破滅させてしまうほどに。
古来より奥義、秘伝書を巡った武芸者の悲劇と破滅は枚挙にいとまがない。
普通の流派ですらそうなのだ。
だからこそ、良く考えなければならなかった。
男がこのまま死ねばその奥義は失われることになる。
それならばそれで良い。
それが人ひとりの人生より尊いものだなどとは、男は考えていなかった。
男にとってそれはかけがえのない人生そのもの。
しかし他人にとってはそうではない。
そういう割り切りはできていた。
元々、己がひとり、高みに至れば良いと考えていたのだから。
ただ、もしも。
もしも、誰かにそれを伝えることができれば、それは望外の幸せだと夢想する。
(ま、いずれにせよまだ早い話じゃな)
五歳で熊と戦い、生き延びた者など男の人生を振り返っても唯一無二だった。
この経験を糧に、どれほどの高みに登ることができるのか。
それを見届けてからでも遅くはない。
現状では変わった男が変わった娘を気に入った。
それだけのことだった。
次の更新にはまた少しお時間を頂きます。