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お仕事が始まる。
働きたくないでござる……
僕の考える安仁屋修二という武芸者は、冷え固まった鉄の下に溶鉱炉のような熱を持つ、ある意味相反した性質を併せ持つ希有なる使い手だ。
冷えた鉄のごとき冷静さは状況を的確に判断し、内包された灼熱は攻撃の際に爆発のような力を生む。
普通の人ならばそれらを制御できずに感情に振り回されるのだが、安仁屋さんは完璧にコントロールしてみせる。
そこに天才性を見出すのは僕だけではないだろう。
その天才から一本取ることが至難であることは言うまでもない。
正眼に構えたまま、木刀の鋒を相手の水月に向けて前に出る。
今回、僕が遣う技に必要なのは太極拳において捨己従人と呼ばれる心構え。
己を捨て相手に身を任せるという、言うは安し行うは難しの代表格。
そして僕を迎え撃つべく大きく踏み込んでくる安仁屋さん。
すでに体を向かって右に開き、右の手刀で僕の木刀を叩き折る動作に入っている。
これに逆らわず、ただし方向を変えて自ら左下へと斬り下げる。
打点がずらされた打撃は有効打とはならず、僕の両手に軽い衝撃を与えるに留まった。
「さて、そこからどうする」
そんなことは折り込み済みとばかりに、安仁屋さんは鋒のなくなった空間へと入り込んでくる。
その動作と同時に当然のように飛んできた左膝を沈み込んで右肩口で受けつつ、その反動も利用して反時計回りに回転し、すくい上げるように安仁屋さんの腰部を狙う。
「はあっ!」
しかしそれは読まれていたか、安仁屋さんはそこで下がらずに逆に一歩前へ出る。
距離を潰された僕の木刀は、真剣であれば刃区と呼ばれる柄との境目の部分が安仁屋さんに力なく当たる。
そしてその詰めた一歩がただの一歩であるはずがない。
ずんと響く足元の震脚。
入ってきた体に添えられた左拳が僕の水月を抉らんと迫ってくる。
そこで僕は全身から気と力を抜いた。
驚いたように目を見開いた安仁屋さんだが、その動きは止まらない。
「ごふっ!?」
右胸に強い衝撃。
それはそうだ。
僕は何かをしたわけではなく、単に本当に全身から力を抜き、気を抜いた。
その結果重力に引かれて膝が曲がり、安仁屋さんの狙った水月よりやや上に命中したというわけだ。
無想の剣など今の僕の手の届く領域ではない。
それは濁りも曇りもなく世界を知り、ありのままに受け容れる剣禅とでも称すべきものだろう。
気の遠くなるほどの修練の果てにのみ手に入れられる境地。
お師さんに拾われてから十六年、そこから剣を振り始めて十四年。
そうやって過ごしてきた年月を短いなんて言うつもりはないけれど、その境地に至るにはそれでも足りない。
けれど、そこまでは至らずとも己を捨てることが出来るくらいの修練は積んできた。
僕はお師さんの剣を継いだのだ。
ならば、お師さんの目指した剣を僕が目指すのは道理。
捨己従人、それはここに成る。
そしてそれを反撃に応用したのがこの技、対鬼流『無息』だ。
致命傷とならない攻撃を見切って気と力を抜いた状態でわざと受け、直前まで気を読ませない状態から間髪入れず反撃することで、こちらの動きを読みづらくさせる技である。
不完全ながら相手の攻撃を受けてしまうこととから、あまり多用できる技ではない。
これは気を用いて動いた結果ではなかったから、安仁屋さんと言えども咄嗟にそれを読むことは出来ずに急所を外したというわけだ。
「くあっ!!」
ここからが勝負。
機械が再起動したかのように全身に意を漲らせ、倒れ込みながらも掬い上げるようにして安仁屋さんの首を狙う。
力は要らない。
速度だ。
速度だけが今必要だった。
ひゅん、と弧を描いた木刀が安仁屋さんの首筋へと吸い込まれていく。
しかし、それは驚異的な反応を示した安仁屋さんの左腕によって阻まれた。
斬りつける方を優先していた僕は、そのまま床に倒れ込む。
「ふむ。怖ろしい手並だ」
追撃はなく、木刀を受けた腕をしげしげと眺めながら安仁屋さんがつぶやいた。
まあ、追撃がなくともこの勝負は僕の負けだ。
無息はいわゆる肉を切らせて骨を断つ技。
骨を断てなかった時点で、ダメージを受けて体勢も崩した僕に勝ち目はない。
「安仁屋さんこそ。あれを防がれちゃうようじゃ、僕はまだまだだよ」
起き上がる。
右胸に受けた打撃は痣くらいにはなるかもしれないが、それだけだ。
「いや。これは真剣であれば俺は腕を持って行かれている。防いだとは言えん」
「でもその後で倒れた僕に致命傷は与えられたでしょ?」
「まあ、それはな」
気負いもなくうなずく安仁屋さん。
「だがおまえよりは長く武に生きている。その差でしかない」
手を差し伸べてくれたので、それをつかんで立ち上がる。
そこまで見た目はゴツくはないのに、まるで巨岩かなにかのように体重をかけてもびくともしない感じ。
改めて感心しながら立つと、安仁屋さんも僕を見て何やら感心している様子だった。
「いや、それだけ軽くてこの強さは、凄いと思ってな」
首を傾げるとそういう答えが返ってきた。
僕は同じ体格の女子の中ではかなり重い部類に属するが、それでも平均的な男子に比べれば軽いのは確かだ。
いや、筋肉は重いんです!!
「言うまでもないが、体格、体重は強さに直結する。五十キロの者と百キロの者がお互いに体当たりすれば、五十キロの者が負ける道理だ。勝つのであればそこに術理が必要となる。つまり、おまえの強さは術理をそれだけ納めている証拠と言える」
僕が誰とも知れない相手に言い訳をしている間にも、安仁屋さんの解説は進む。
「剣は体格、体重差を埋めるものではあるが、鬼人、剣人相手ではそれはアドバンテージとはならないことは言うまでもない。精進しているようだな、伊織」
最後の一言が何よりも嬉しく、思わず破顔した僕に安仁屋さんも軽く笑みを浮かべてくれた。
「さて、今日の稽古はこれで終わりとするが……ひとつ、教えておこう」
僕たちひとりひとりの顔を見ながら、安仁屋さんは口を開く。
「鬼人の互助組織である黄昏会は知っているな?」
僕を除く全員が即座にうなずき、僕も記憶を掘り返しながらうなずく。
この間のおっかないお姉さん、熊埜御堂連華が元締めをやっている組織だったはず。
「やつらが最近、動きを活発化させている。元々、あまり積極的に動く組織ではなかったはずなのに、な」
「最近……?」
「そうだ。それこそ、おまえたちが最後に氷上と戦ったあたりから、だ」
あの日に僕は連華と初めて戦った。
正直、現状では一太刀も浴びせられないであろうほどに、連華は強い。
お師さんや一刀さん、そして安仁屋さんほどの腕がなければ勝ち目がないだろう。
そしてあのときに連華があの場にいたということから、彼女と氷上の間に何か関係があったのだということは想像に難くない。
「黄昏会の目的って、何?」
「鬼人の住みやすい世の構築。それを謳っている」
「そうなると、剣人会とは犬猿の仲と言ってもいいですね」
清奈の言う通り、黄昏会が鬼人が住みやすい世を求めるのであれば、鬼人のことは基本的に滅ぼすスタンスの剣人会とは相容れない。
その黄昏会が行動を活発にしはじめたというのであれば、その目的が何であれ、まずは剣人会の排除に動くのではないだろうか。
僕がその推測を口にすると、皆が同意するようにうなずいてくれた。
「そして、俺の推測ではこの神奈の査問会こそが、黄昏会による剣人会解体の第一手だと考える」
それを受けての安仁屋さんの言葉は、その場にいる剣人すべてにとってショッキングなものだった。
「それはどういう――!?」
「まず、剣人会が彼ら自身の目論見通り神奈を排除できたと仮定しよう。その場合、同じ剣人であっても鬼人となってしまえば排除するという前例が出来たことになる」
本人を前に淡々と話を進めていく安仁屋さん。
少し心配になって神奈を見ると、唇を噛み締めて清奈の手をぎゅっと握ってはいるものの、案外冷静に話を聞いていた。
ここで神奈を外して話を聞けば安心ではあるが、それは彼女を信頼していないことの表れでもある。
安仁屋さんがそこまで考えたのかは分からないが、春樹さんが考えなかったはずがない。
その春樹さんが神奈をこの場に留めておいた以上、すべてをオープンにしていく考えなのだろう。
「逆に排除に失敗した場合は簡単だ。ゆくゆくは剣人会の存続そのものに疑義が呈示されることとなる」
「待ってくれ。なぜそれだけで存続そのものに問題が出てくるんだ?」
「それは単純な話だ。例外なく鬼人を排除してきた組織に、例外が出来たわけだ。元が剣人だから、という理由ではあるかもしれない。だが理知的な鬼人は排除すべきなのか? 生まれてこのかたひとりの人間も殺していない鬼人は? 一度生じてしまったものは必ず膨張する。そして例外が膨らみきったときに、剣人会の存続意義は消失する」
「……それには長い時がかかりませんか?」
「そのままであればかかるだろう。だがそれは連華には関係がないし、奴が無為にそれを眺めているだけとは思えない。必ず手出しをして、その流れを加速させるだろう」
真也と清奈の問いに、安仁屋さんは立て板に水といった風情で答えていく。
時間が掛かっても連華には関係ない、というのは彼女の年齢に関係があるんだろうか。
……お師さんのことを坊や呼ばわりしてたし。
「それじゃ、排除に成功した場合はどうなんだ?」
「その場合は前例が出来たこと自体が問題となる、だろうな」
確証はないのか、やや歯切れ悪く返答する安仁屋さん。
「……どういうこと?」
「氷上が何をしていたかは覚えているな?」
氷上は己の戦力となる者を求めて、DSという薬を使い、人を鬼人へと変えていた。
そして、それは。
「理解したようだな。俺は十中八九、連華は氷上のノウハウを手に入れていると考えている。つまり、神奈のような者は今後も増えていく。そして剣人会はそれを許さないという前例を作った。それがどうなるかなど火を見るよりも明らかだ」
場合によっては剣人会は自壊しかねない、ということだ。
「なお不味いのは身内ですらも許さないという前例であることだ。身内である剣人ですらも鬼人となれば問答無用で粛正するのであれば、一般人であろうと容赦すべき論理はそこにはない。連華がそこに付け込まないはずがない」
「……割と詰んでない?」
僕の疑問に安仁屋さんは無情に首肯する。
要するに剣人会よりもあの連華が一枚も二枚も上手ということか。
「ただし、連華は恐らく神奈が粛正される前提で動いている。その思惑を外してやれば、対応する時間はあるだろう」
「成る程」
DSのノウハウを連華が持っているとすれば、確かに神奈が処断される方が事を進めやすいだろう。
しかしそうなると懸念がひとつ。
「そうなるよう、連華が剣人会に何か細工してる可能性ってないかな?」
「直接的なものはないと思うが、間接的に誘導しているということはあるかもしれない」
あまり嬉しくない話だが、そこは確認しておかないと足元を掬われかねない。
「後で金本に現状を聞いてみるよ。何か分かるかもしれない」
春樹さんがそう言ってくれたので、お任せすることにする。
慈斎さんや一刀さんには聞けば答えてくれるだろうけれど、現状ではリスクが高いしお二人に迷惑が掛かる可能性もある。
その点金本さんであればマークが薄いと思われる。
本来なら最大の敵になっていたくらいの人なんだし。
「俺も鬼人であるからあまりおおっぴらにおまえたちに接触するわけにもいかんが、何か分かればどうにかして連絡しよう」
そう言ってくれる安仁屋さんだったが、僕にはそれが不思議に思えた。
なのでその疑問をストレートにぶつけてみる。
「なぜ安仁屋さんは僕たちに協力を?」
「そんなに難しい話ではない」
安仁屋さんは腕組みしながら僕に視線を投げた。
「ひとつはおまえへの借りを返すこと」
お師さんを傷つけたことを負い目に感じているのだろうか。
しかしそれを聞くのは僕には憚られた。
「もうひとつは気に入った武人に肩入れをしているというだけの理由だ。俺には鬼人も剣人も関係ない」
確かに安仁屋さんには鬼人らしくない点が多々ある。
鬼人というより武人と言う方がしっくり来るのだ。
肩入れしている相手とはやはり一刀さんだろうか。
いつか自分もそう言って貰えるくらいにはなりたいと思う。
「あとひとつはおまけだが、連華があまり好きではないということもあるな」
あまりにも淡々と言われたので、それが冗談なのか本気なのか今ひとつ判別が付かなかった。
安仁屋さんは笑いを取ることだけは無理な気がする。
いや、本人もそういうことをする気はないだろうけれど。
キャラじゃないし。
少し気落ちしているように見えるのは気のせいのはず。
「査問会まであと二日。出来る限りの証拠は集めたし、ぎりぎりまで腕も高めたわけだ。君たちはベストを尽くした。あとは僕たち大人が頑張る番だ」
春樹さんがそう言って笑った。
「良く頑張ったね、四人とも。あとは任せて、それまでゆっくり休んでくれ」