挿話『神奈の思い出』
神奈と伊織のお話です。
本当は一話前に挟む予定だったのですが……。
第一印象は良いものではなかった。
なにせいつもは澄ましている姉の清奈が、悔しげに「あの人には負けません」と言っていたのだから。
大好きな姉をいじめる人に良い印象を抱けるはずもない。
第二印象は、綺麗な人だな、というものだった。
初めて会ったとき、その人は笑顔で私に片手を差し出して、清奈の妹に会えて嬉しい、と言ってくれた。
その笑顔がとても綺麗で、見惚れていたのを覚えている。
いつも一緒というわけではなかったけれど、たまにこちらに出稽古に来たり、あちらの道場にこちらが出向いたりと長く続く交流のうちに、私はその人を二人目の姉のように思うようになっていた。
ただし、彼女には変なところも多かった。
* * *
「神奈を泣かせたのは誰?」
それは私が八歳の頃で、彼女が十歳の時の話だ。
鴻野道場の庭は結構広く、子供の遊び場としてもってこいなため近所の子供たちが勝手に入り込んで遊んでいることも多かった。
家の主である春樹叔父さんがそれを黙認しているのだから、子供たちが遠慮するはずもない。
私も稽古の時間まで混ざって遊んでいることも多かったのだが、その日はよくある些細なことで男の子と言い合いになって、腹を立てた男の子が私の持っていたおままごと用の人形を庭の小さな池に投げ込んでしまったのだ。
それで私が泣いていたときに、稽古のためにこちらに来ていた彼女がその声を聞きつけて駆けつけたのだ。
ひと目で状況を把握した彼女は、躊躇わず池に飛び込んで人形を拾って私に手渡すと、びしょ濡れになったのを毛筋の先ほどにも気に留めずに先ほどの一言を発したのだ。
「……」
相手が年上だからか、だんまりを決め込んでいる男の子。
「神奈に聞けばすぐ分かるけど、いまのうちに名乗り出た方がいいよ」
そう言われて怖くなったのか、それをやった男の子がおずおずと手を上げて名乗り出る。
「お、オレがやった……」
「そっか。悪いと思ってる?」
「う、うん」
「じゃあ、神奈に謝って」
彼女に促されて、男の子は私にきちんと謝ってくれた。
人形が水浸しになったからあんまり納得は行かなかったけれど、彼女に許してあげて、とお願いされたので不満はあったけれどうなずいた。
彼女は謝った男の子には、それ以上何も言うことはなく、その後も他の子に接するのと同じように接していた。
それだけならよくある光景だったのだと思う。
次の週、私にとっては厄月だったのかまた別の男の子に人形を池に放り込まれてしまった。
せっかく乾いたのにまたか、と悲しくなって泣いていたらまた彼女が現れた。
彼女は前回と同じくさっさと池に入って人形を回収し、やはり同じく私を泣かせたのは誰かと皆に尋ねた。
異なったのは、誰も名乗り出なかったことだ。
「神奈に聞けばすぐ分かることだよ?」
念を押すような彼女の言葉にも、犯人は名乗り出ようとしなかった。
ため息をついた彼女は、そこでようやく私の方を見て犯人は誰か、と聞いてきた。
「あの子」
私が指差したのは、ここに遊びに来る中でもリーダー格で、年齢の割には体格が良くて年上の彼女よりも大きい男の子だった。
いつもはそういうことをする子ではなかったんだけれど、いきなり私から人形を取り上げて池の中に放り込んだのだ。
「証拠がねえだろ」
「そうだね」
そっぽを向いてそんなことを言う男の子に不穏な笑みを浮かべた彼女が近づいていく。
男の子のすぐ近くに立った彼女は、その場で屈むといきなり彼の腰を抱え込むとすっくと立ち上がった。
もちろん、男の子はそのまま持ち上げられる。
自分より大きな男の子を抱え上げているのに、彼女はしっかりと腰を落として安定した姿勢を保っていた。
「な、何しやがる!?」
慌てた男の子が暴れるが、彼女はそれをものともせずにそのまま池の側まで歩み寄ったかと思うと、彼をおもむろに池に放り込んだ。
盛大な水飛沫が上がる中、それを避けようともせずに立っていた彼女は、彼が池から這い上がってくるなり満面の笑みを浮かべてこう言った。
「さて、僕が君を投げ込んだことも証拠がないんだけど、どうする?」
逆上して彼女につかみかかった男の子は簡単に押さえ込まれてまた池の中に放り込まれ、そこでようやく文字通り頭が冷えたのか、人形を投げ込んだことを認めて私に謝った。
その際に、彼女はそれだけでは済ませなかった。
「なんでこういうことしたの?」
彼女にそう尋ねられた男の子は、決まり悪そうに目を逸し、口を尖らせながら小さい声で言った。
「神奈がうるせえんだもん」
「うるさいのと人形を池に投げるのと何の関係があるの」
「だって……」
ごにょごにょと口の中で何か言ってる男の子だったが、彼女の追求は厳しくついには本音を言わされていた。
「俺だって人形くらい取れるのに!」
「つまりこないだのことで神奈が僕のことばっかり褒めるのが気に入らなくて人形投げたと」
つまり男の子は私のことが好きで、その私が彼女のことばかり褒めるのと嫉妬に駆られたのと、彼女への嫌がらせで人形を投げたらしい。
実に稚拙で今見れば微笑ましいと言ってもいいくらいの理由ではあったが、彼女は実に手厳しかった。
「馬鹿なの?」
「馬鹿じゃない!」
「じゃあ何で神奈の人形投げたの? そんなことしても神奈は君のこと好きになるどころか嫌いになるけど」
「うっ……」
さすがに好かれる行動ではないことくらいの自覚はあったらしい。
「それに、見つけたのが僕でまだ良かったね」
「え」
「清奈に見つかってたら、問答無用でぼこぼこに殴り倒されてるよ、君」
うん、我が姉はそういうことをする。
楚々とした見た目に騙される人が多いのだが、あれは正しい意味での脳筋なのだ。
「ねえ、人に好かれたいならそういうことしちゃダメだよ」
「え……?」
「自分のやりたいことだけに気を取られてると、他の人の気持ちが分からなくなる。今、君が好きな人に嫌われるような行動をしたように」
「う……」
この子はちょくちょく私にちょっかいを掛けてきて、私の方は大嫌いな子だったのだが、まさか自分のことが好きだからとは知らなくて茫然としたものだ。
男の子は好きな子ほど意地悪をしたくなるとか聞くけど、それを地で行かれてもこっちはぜんぜん嬉しくない。
「その人のことが好きなら、その人の気持ちを最優先に考えてあげないと、ダメじゃないかな。それでもうまく行くとは限らないんだけど」
今思えば十歳の娘の言うような言葉じゃないと思う。
でも、彼女はそういうことを平然と言う娘だった。
「で、でも」
「でもは無し。悪いことしたんだから、謝ったら?」
「わ、分かったよ。……ごめん、神奈」
人形は彼女が洗ってくれると言ったし、私は謝罪を受け容れた。
その場はそれで収まったと思っていたのだが、続きがあった。
彼の母親が稽古中に道場に怒鳴り込んできたのだ。
かの男の子の名誉のために言っておくと、彼がびしょ濡れになった理由を言っただけで瞬間沸騰したらしく、告げ口をしたとかそういう類ではなかったらしい。
可哀想に、証拠のためなのか彼は着替えもさせてもらえず、目のつり上がった母親の後ろでびしょ濡れのまま右往左往していた。
「この道場ではどういう教育をしているんですか!」
「はあ」
気のない返事をする春樹叔父さんに、まだ若い母親は落ち着いていればそれなりに整っているであろう容貌を歪めてがなり立てる。
「うちの息子を池に放り込んだそうじゃないですか。怪我をしたら、病気をしたらどうしてくれるんですか!!」
「水は定期的に入れ換えてますし、うちの子供も遊ぶので怪我するようなものは退けてありますよ」
「そういう問題じゃないでしょう! そもそも池の側に子供だけを放置してるあなたがたにも問題があるのでは!?」
「奥さん、それを言ったら子供だけで遊ばせているあなたにも問題があることになりますよ」
柔らかい物言いだけれど、叔父さんの言葉には明確な棘が生えていた。
こんなこと言われれば当たり前だけど。
「私のせいだって言いたいんですか!? 自分たちのことは棚に上げて!」
だんだんと支離滅裂になりつつある母親の言い分に、いい加減叔父さんもげっそりして来始めたときに、彼女が前に出た。
「棚に上げてるのはそっちじゃ?」
「子供は引っ込んでなさい!!」
ここぞとばかりに怒鳴りつけた母親だったが、いかんせんそんなものを怖がる彼女ではなく涼しい顔のままだ。
彼女の道場にはもっと怖ろしいお爺さんがいるわけだし。
「逆に言うけど、子供の喧嘩に大人が出ない。みっともないよ」
「はあ!?」
子供にみっともないと指摘されて顔を引きつらせる母親。
だが、十歳の子供にみっともない呼ばわりされて大人しく引き下がれるくらいなら、最初からここには来ないだろう。
当然ながら引き下がるどころかますますいきり立つ始末。
「この道場では躾もされてないんですか!? 何ですか、大人に対してあの態度!」
「大人って言うのはヒステリックに自分の主張だけするような人のことじゃなくて、冷静な話し合いが出来る人のことじゃないかな」
彼女はこれを、さぱっと言い放った。
思い返しても良い度胸すぎると思う。
当人は一瞬何を言われたのか分からないような怪訝な顔をしたが、意味を理解した途端に夜叉のような表情になって手を振り上げた。
「ついでに言えば、図星突かれたからって暴力に訴えるのは大人って言わないと思うけど」
振り下ろされた頬への張り手を左手一本であっさりと止めながら、そう言い放つ彼女。
彼女は自らに降りかかる暴力へ無抵抗でいたことは一度もない。
それは私は話にしか聞いたことはないが、彼女が熊に襲われても生き延びた頃から変わらない事実。
今回も例外ではなかった。
「そして、僕は大人じゃないんで反撃してもいいのかな?」
殺気とまでは言えない。
けれど、暴力を振るうのにまるで躊躇をするとは思えない雰囲気を、十歳の娘が放っていた。
その目が放つ冷たい光に、知らず、息を呑んで後ずさる母親。
「伊織ちゃんもそこまで」
そこで出来る男である春樹叔父さんが割って入る。
「あなたも、今日はこのくらいでお引き取り願えませんか? そもそも、お子さんを濡れたままにしておくのは体に良くないと思いますよ」
「え、ええ……」
毒気を抜かれたのか、大人しく、というか茫然とうなずいて立ち去る母親。
息子の方は結局最後までうろたえているだけだったが、まあ無理もないだろう。
あの様子じゃ、彼の言うことなんてまったく聞いても貰えなかったんだろうし。
「あ。気にせず遊びに来てね」
そんな男の子に、彼女がそう声を掛けていた。
* * *
この話には後日談がある。
あの日以来彼女に惚れたらしい彼は、様々な手でアプローチを試みるも、まったく気づかない彼女の前にことごとく撃沈。
それでも頑張っていたのだが、彼の母親がご近所で大問題を起こして急遽遠くへ引っ越す羽目になった。
まああの性格では遠からず何かやるだろうとは思っていたけれど、近所の人を自分の思い込みだけで告発した挙句に、その相手が実は町内の有力者と分かって居心地が悪くなったらしい。
母親は自業自得だけれども、彼には罪のないことなので少しは同情していたのだが。
「神奈。これ、彼女に渡しといてくれないか」
そう言って渡されたのが玉虫の死骸。
思わず悲鳴を上げて放り投げると、彼は慌ててそれを拾い上げて傷ついたような顔をした。
「俺の宝物なのに」
いや、虫の死骸もらって喜ぶ女の子いないから。
彼女は数少ない例外のような気はしなくもないけれど、それを私に託されても困る。
箱か何かに入れてくれれば渡しておく、と言うと納得行かないような顔をしつつも、箱に入れて渡してくれた。
まあ、結果として彼女は玉虫を見て目を輝かせていたのだが、すでに引っ越しをした彼がそれを目にすることはなかった。
想いには最後まで気付いて貰えなかったことを併記しておく。
それはそれとして。
彼はもともと私のことが好きだったはずなのだ。
まあ、私は別に彼のことを何とも思ってないどころか明確に嫌いだったから、それについてはどうでもいいのだが。
このときはそのことについて何とも思っていなかった。
改めて、彼女は凄いな、と思っただけだ。
その凄さが私にとって重圧になりだしたのはいつ頃からだったろうか。
その重さゆえに私は剣鬼となり、彼女と戦うことになった。
でも、私は彼女の凄さを見誤っていた。
彼女は私が思っているより、もっともっと凄かったのだ。
剣鬼となって道を踏み外した私を引き戻し、日常へと連れ戻してしまうほどに。
ああ、やっぱり敵わないな、伊織姉には。
彼女といまだに張り合ってる姉さんも、本当に凄いと思う。
人を余りに凄いと思いすぎると、本当にその人には勝てなくなると言う。
私は一生、伊織姉には勝てそうに、ない。




