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「鋭!」
「応!」
そろそろ夏の息吹が漂い始めた道場で、張り詰めた掛け声と共に木刀同士が当たる音が響いた。
正直、この場から逃げ出したいくらいの剣気が充満している。
でも、ここは退けない。
僕は汗ばむ掌で木刀を握り直して、目の前の一刀さんを見据えた――。
* * *
「剣人会からの呼び出し……?」
それは、僕と清奈が退院して少し経った頃にもたらされた報せだった。
なお真也と砂城は僕たちよりは怪我が軽かったため、もっと早くに退院していた。
僕はと言えば動けるようになるのはともかく、リハビリに時間を取られたのだ。
無理をしたら元も子も無いのでじわじわと進めていくしかなくて、その間稽古ができないのがとてもまどろっこしかった。
イメージトレーニングだけは欠かさなかったけれど、それでうっかり体を動かしてしまって同室の清奈に何回叱られたことか。
「ああ。神奈のことが漏れたらしくてね。いつもなら僕が対処するんだけれど、今回は事が事だ。君たちにも話しておいた方が良いと思ってね」
春樹さんは僕と真也、清奈と神奈を前にそう言って腕を組んだ。
多分、春樹さんが片付けてそれでおしまいなのであれば、彼はひとりでそれをして何食わぬ顔でいるのだろう。
けれど今回ばかりはそうは行かない。
剣人が鬼人になったなどと言う話は前代未聞のことであり、普通の剣人の立場からすればこれ以上の醜聞はない。
最悪のケースとして春樹さんが処断されることすら考えられる上、一期一振たる彼の腕をもってしても、剣人会から逃げ切ることは難しいだろう。
「ただ、状況はそう悪くはない。五剣のうち二人までが敵に回らないでくれるからね」
金本は約束を守り、今回は春樹さんの側に立ってくれるらしい。
万が一剣人会が春樹さんの敵に回ったとしても、彼個人は不干渉を貫くことを確約したそうだ。
そしてもうひとりである一刀さんは、剣鬼である神奈と手合わせをすることを条件に、何と味方してくれるのだと言う。
自分が面白ければそれでいいんだろうか、あの人。
「五剣筆頭の一刀くんが味方してくれるなら、うるさいお偉方も何とか黙らせることができると思う。ただ、そのためにいくつかクリアしなくちゃいけない条件がある」
「それは?」
「まずは神奈が剣鬼になったプロセスの判明」
神奈が剣鬼となる際に、必ずクリアしなければならなかったはずの条件として「己の衝動を発散する」というものがあったはずである。
この際に大抵の鬼人は破壊衝動によって殺人を犯す。
もし神奈が同じく人を殺していた場合、申し開きが難しくなる。
神奈自身はそのときは夢の中にでもいたような感じになっていて、覚えていないのだと言う。
DSにそういう効能があったのかもしれない。
「そうなると、ダークシードの残党に聞いてみるしかないか」
「ああ、確かに知ってるかも」
「それともうひとつ。一刀くんに対して己の実力を証明すること」
「実力の証明、ですか?」
清奈が首を傾げる。
「ああ。万が一のときに神奈を一対一でも完封できる実力を持つ者が側にいれば、どうあろうと対処できる、という論法になる。一刀くんのお墨付きなら説得力が増すというわけでね」
ああ、だから一刀さんは神奈との立ち会いを求めたのか。
単に自分の戦闘欲求に従ったわけではないようだった。
いや、悪い人じゃないんだけど己に正直というか我が道を征くというか、そんな印象が強いのだ。
「神奈はそれでいいの?」
「うん。迷惑掛けてるし」
あれ以来神奈は約束通り、真面目に道場に来ている。
実力が急激に上がったので他の鴻野道場の門人たちはびっくりしているという話を聞いているが、神奈としては複雑なようで、返って稽古に励んでいるようだ。
「となると、あとは俺たち次第、か」
春樹さんが神奈を抑えられるのは確実だが、僕と真也、清奈に関しては要採点、といったところか。
今、鴻野道場で神奈の相手をしているのはもっぱら真也だと言う。
地力では真也が勝っているから、あとは神奈の速度についていければ真也も安定して勝てるようになるはず。
今のところは負け越しで、ようやく動きについて行けるようになったところらしい。
「僕もまだまだなまってるから、はやく勘を取り戻さないと」
「私もですね。伊織さん、後で一緒に稽古をしましょう。姉である私が神奈に勝てれば、より説得力が増すでしょうし」
「うん」
姉妹だと一緒にいることが多いから、確かにその通りだろう。
速度と力で今の神奈に勝つのは通常の剣人にはまず無理だし、それは真也、清奈だけでなく僕だって同じことだ。
それにも関わらず僕だけが神奈に勝てる理由は、先読みの精度と玉響の存在に尽きる。
先読みについては二人はまだコツをつかんでいないのであって、経験については僕にだって劣らない。
少しコツをつかめば急速に伸びていくはずだ。
玉響については対鬼流の奥義であるため軽々には伝えられないのだが、伝えられたとしても二人に合っているとは限らない。
二人がそれぞれ、これさえ出せば勝負を決められるという自分に合った技を身に付ける必要があるだろう。
「真也も清奈も、今試していることがあるからね。それがうまく行けば結構いい線行くと思うよ」
「そうなの?」
春樹さんの言葉を聞いて二人に尋ねると、揃って不敵な笑みを浮かべてうなずいてくれた。
清奈は単に病院で寝てただけではなくて、その間にどうすれば神奈に対抗できるかずっと頭を捻っていたらしい。
さすがは清奈。
ただ、技があっても先読みができなければ神奈についていくことは難しい。
そこに関しては僕も力添えできるはずだ。
「神奈は技よりも先に、自分の力を上手く使えるようにならないとね」
「ん」
確かに剣鬼となった神奈は速度も力も凄まじいものがあるが、まだまだ荒削りで自分の力に振り回されている感がある。
だからこそ僕が勝てたとも言えるのだが、その神奈を強くすると彼女を押さえなければならない役目の僕たちもそれ以上に強くなる必要が出てくる。
しかし最終的に神奈を守れるのは彼女自身であるので、そこは僕たちが頑張るしかない。
「さて。そんじゃそろそろいいか?」
道場にのっそりと入ってきたのは一刀さんだった。
ぜんぜん気配無かったんですけど……。
「やあ、一刀くん。わざわざご足労済まないね」
「いんや。なかなか楽しそうだしな。構わないぜ」
木刀を抱えるように持った一刀さんは、獲物を見つけた肉食獣のような笑みを浮かべて僕たちを見た。
「全員の現時点での実力を見せて貰おうか。伸び代も考慮するから遠慮はいらねえ」
遠慮とかじゃなくて心の準備ができてないわけだけど、まあそれも言い訳と言えるか。
敵はいつ襲ってくるか分からないのだ。
「それじゃ、僕から」
「おっと。嬢ちゃんは最後な。順番は俺から指定させてもらう」
あれ。
気合いを入れたのに最後に回されてしまった。
「まずは神奈だっけか。剣鬼のお嬢ちゃんからだ。次に清奈。んで真也の順で行こうか」
道場の真ん中に進み出ながら軽く肩を回す一刀さん。
「木刀を持ってひとりずつかかってきな」
* * *
「さて、大体分かったな」
涼しい顔をしている一刀さんとは対照的に、真也、清奈、神奈の三人は道場の床にへたりこんで荒い息を吐いていた。
「まず神奈、おまえはバラバラすぎ」
トップスピードの神奈にも難なくついていき、あまつさえ力で競り勝ってたんですがこの人。
本当に人間なんだろうか。
「心技体のうち体のみが突出してしまってる。技がついていってねえし、心も置き去りだ。言っとくがここで言う心ってのは抽象的なもんじゃねえ」
木刀でトントンと肩を叩きながら一刀さんは言う。
「人間の体ってのは不思議なモンで、心が追いつかねえことをすると、途端にパフォーマンスが出なくなる。分かりやすいように言えば、焦ってる奴と落ち着いてる奴、どっちが強いかなんて言うまでもねえだろ?」
一刀さんの言っていることは正しい。
神奈は自分のスピードに技がついていかず、動きに落ち着きがない。
型ひとつを取ってみても、その動きを思い出し、そして次の動きが何かを考えながら動いているうちは、その動きに余裕はない。
思考するまでもなくその型が出せるようになってこそ、型の意味を考え、その意味に沿った動きをすることが出来、完成度が増していく。
ひとつのことを直せば次、そしてまた次とそれに終わりなどない。
武術において反復練習による習熟はとても大事なことなのだ。
腕の善し悪しはもちろん影響するとしても、自分のパフォーマンスの最善を出そうと思うのならば、これは無視して良いものではない。
「おまえは自分の動きについていけてない。まずは基礎だ。今のおまえの性能に見合ったレベルまで基礎を高めろ」
「は、はい」
一番最初に一刀さんと戦ったというのに、神奈はまだ息が上がったまま整っていない。
どれだけ動かされたんだろうか。
「次は清奈だな。おまえは三人の中で一番実力が足りてねえ。今のままじゃ神奈には勝てねえな」
ざっくりと言われて清奈は唇を噛む。
「だがバランスは一番取れてるし、小さくまとまってるわけでもねえ。正味の話、足りてねえのは実力だけだ。あとは稽古次第だな」
一刀さんの見立ては僕の見立てと大体同じだ。
清奈はそのまま強くなっていけば、必ず神奈と対等に戦えるようになる。
「問題はおまえだな、真也」
「問題……?」
一刀さんとの戦いを見ていて、僕も気付いた。
今の真也には大きな欠点がある。
「おまえ、特定の状況になると動きが一瞬遅れる癖があるな。そしてそれは、おまえが大毅流と桐生流の二つを修めているのが原因だ」
「どういうことですか」
「簡単だ。おまえはいつも動きが遅れるわけじゃない。大毅流と桐生流のどちらの技でも対応が可能な状況で、動作が遅れる」
つまり、無意識のうちに二択が生じると、どちらを選ぶかを迷って遅れが生じているのだ。
「別に複数の流派を学ぶのは悪いことじゃねえ。むしろプラスに働くことの方が多いが、今のおまえに限ってはマイナスだ」
「どう、したら……」
呆然となる真也に、一刀さんはこともなげに言い放った。
「研究しろ」
「研究……?」
あまり場にそぐわない一刀さんのその言葉を、真也はおうむ返しにする。
「いいか、同じ状況で選択肢が二つあるのは悪いことじゃない。むしろ良いことだ。だが、迷うってことは最適化されていないってことだ」
「最適化?」
「つまり、技の理解が足りないんだよ、おまえ。その時々の状況に於いてどちらが有利なのか。そいつは技をとことん理解して場数を踏む他ねえ」
一刀さんがそこまで言うと、真也の顔に理解の色が広がった。
「だから、技の研究をしろ、と。そういうことか」
「そういうこった。そこさえどうにかすりゃ、今のおまえでも神奈相手に五本中一本は取れるだろ」
床に座り込んでいる三人を見回してひとつうなずくと、一刀さんは視線を上げた。
「次はメインディッシュだな」
何か僕相手のときだけ気合いが違うような。
木刀を手に一刀さんの前に歩み出ると、途端に熱風のように剣気が吹き付けてきた。
「おまえとは本気でやるって決めててな。だから最後に回させてもらった」
八双から剣尖を僕の方へと寝かせるように構えつつ、僕にも構えるように促す一刀さん。
僕はいつも通りの正眼に構える。
「さあて。俺を失望させてくれるなよっ!」
吼えると同時に、僕と一刀さんはぶつかり合った。
「鋭!」
「応!」
先手必勝とばかりに突きに行った僕だったが、一刀さんはそれを真正面から強烈に打ち落としてきた。
お師さんに刀は絶対に手放すなという仕込みを受けていなければ放してしまっていたかもしれないほどの衝撃。
思わず痺れそうになる手の感覚を確かめるように木刀を握り直す。
「ようし、第一段階はクリアだ」
一体何段階あることやら。
そう思う間もなく、一刀さんの姿が目の前から掻き消える。
玉響による把握で一瞬にして背後に回られたことは分かったが、一体どういう動きだ。
僕が玉響の先読みによる加速を使ったら、こんな速度なんだろうか。
「おおら!」
背後から来た袈裟斬りを後転して躱しつつ、一刀さんの足へ木刀を叩きつける。
だがそれは空を切って、お返しだとでも言うように空中から脳天目掛けて木刀が降ってくる。
かろうじてそれを受けるも、足を引っ込めるようにしか跳ばなかった一刀さんはその時にはすでに着地。
強力に押されて力で劣る僕は大きく後退する。
「さあどうする!」
どうするも何も、このままでは道場の壁に押しつけられてそのまま押し切られる。
僕は木刀を逸らして力を受け流すが、それを待ち構えていた一刀さんは木刀は流すに任せて体当たりを掛けてきた。
体格が違うのでまともに受ければ僕はひとたまりもないが、手にした木刀の鋒はいまだに一刀さんの木刀と絡み合っていても、手元は自由。
柄頭を叩きつけるようにして体当たりを柄で受け止める。
肩口を木刀で受け止められたようなものなのでかなり痛いはずなのだが、一刀さんはそれでも止まらない。
「面白ェ! そうこなくちゃなぁ!」
次いでほぼ同時に飛んできた蹴りと横薙ぎを後ろに跳んで躱す。
けれど僕は違和感を感じていた。
一刀さんの一連の攻撃は確かにしのぐのに精一杯であり、僕は有効な反撃はひとつも出来ていない。
とはいえ、僕がしのげる程度のものが五剣筆頭とまで言われる人の実力なのだろうか。
否、これが本気とはとても思えない。
その僕の疑問を感じ取ったのか、一刀さんの笑みが一層深くなった。
「いいな。やはりおまえは良い。察しの通りだ」
「……そう言うってことは」
「それも察しの通りだ」
僕と一刀さんのやり取りに、真也たち三人は顔を見合わせ、春樹さんは顔色を青くする。
そして目の前の一刀さんは、その構えを正眼へと変化させていた。
「行くぜ。死んでくれるなよ、伊織」