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状況はとても悪いが、木に攻撃してこないなら今は好都合だ。
いつも光恵さんに持たされているハンカチを取り出して、傷のすぐ上をできるだけキツく縛る。
熊に勝つ方法が無い以上、持久戦となるのは必然。
体の小さい僕が血をこれ以上失うわけにはいかなかった。
血止めをして周囲を確認すると、有利な点と不利な点がすぐに判明した。
まず有利な点はこの木は先程の木と較べてだいぶ太いことだ。
熊の攻撃を受けたとしても、そう簡単には折れないだろう。
そして不利な点は現時点で跳び移れる範囲に他の木が無いこと。
倒れる方向によってはさっきのように飛び移ることができるかもしれないが、運に左右される。
そして、この場合まずいのは。
『フー、フー』
下を見ると熊はさっきと同じく前足を木の幹に掛けていた。
そして。
今度は爪を木の皮に食い込ませながら登り始めた。
(やばい……)
木を倒してくれればまだ他の木に飛び移れるかもしれなかったが、こうやって登って来られると今の僕に逃げ場はない。
『いいか、どんな状況でもこれで詰みってことはそうそう無え。そう思ったってことは諦めたってことと同じだ』
お師さんとの竹刀による打ち込み稽古で、僕がお師さんの竹刀をどうしても避けらなくて不貞腐れたときにそう言われた。
『どんだけ細い可能性であっても、そいつがある以上はそれをやれ。常に、常に。日常でそうし続けることで、死地に在ったときに閃きが宿る』
お師さんの指導を受けて三年。
不出来な僕ではあるけれど、小さな実がひとつ、僕の中に成ったのかもしれない。
活路が見えた。
僕はその活路に向けて、熊が同じ高さに到達する前にさらに上へと登ってひとつの枝を選んで乗り移る。
跳び移れる木がないのはさっきまでと変わらないが、この枝から跳び移れる他の枝はあることは確認済みだ。
(問題は、熊がこちらに近づくほど僕のいる枝がしなって下がることだ)
かといって熊がこちらに近づく前に別に枝に跳び移っても、熊がそのままそちらの枝に来るだけで意味がない。
細い枝に誘い込むことに成功すれば、熊がその枝の上で方向転換するのは難しいだろうと思えた。
タイミング良く別の枝に跳び移ることができれば、熊が手間取っている隙に木を降りて逃げることも可能かもしれない。
高さを上げたのは、熊が枝から飛び降りられないようにするためだった。
考えるうちにも熊は僕のいる枝の高さまで登ってきて、早くも枝に移ろうとしている。
獣の荒い息が間近に迫ってくるのは心臓にとても良くない。
(見極めるんだ。跳び移る一瞬を)
熊が枝に乗った。
たわみ始める枝の上で、僕は熊と目が合った。
見ようによってはつぶらとも言えるその黒い目。
だが残った右目に宿る光に、背筋に冷たいものが流れた。
この熊は僕を生かす気がまったくない。
どこに逃げてもどこまでも執拗に追ってきて僕を殺すだろう。
それは目の傷を負わされたせいなのか、それとも別の理由があるのか。
でも今はそれを考えている時ではなかった。
熊が枝の半ばまで達したときに、僕は枝を蹴って宙へ飛び出した。
『グフ……!』
熊は慌てたように僕の方へ前足を突き出そうとしたが、木がその動きと僕の跳び移りで大きく揺れたためにバランスを崩しかけて慌てて引っ込める。
枝の跳び移りに成功した僕は間髪を入れずに枝の上を走り、幹を伝って地面へと降りる。
樹上を見ると、熊はまだ方向転換に手こずって枝の上だ。
(よし……!)
それを確認した僕は村の方角へと走り出す。
うまく行けばこのまま逃げ切れるという期待を抱いて。
『グォアアアアア!!』
身の竦むような叫びが後ろから響き、地面に何かが叩きつけられるような音が続いた。
(………!)
予測していた中で一番やって欲しくない行動を、熊がしたことを悟る。
木から飛び降りたのだ。
五歳児の僕では無理な高さであっても、熊の頑健さがあれば飛び降りることができる。
とはいえ通常の熊であればやらない行動だろう。
三メートル超えの高さは熊にだってダメージがないはずがない。
でもあの熊はそれをやった。
それが執念なのか何なのかは分からないが、人間への敵意ゆえだということだけは分かる。
つまりこのまま僕が首尾よく村まで逃げおおせたとしてもこの熊は諦めない可能性が高いし、そもそも熊が最短で地面に降り立った以上は村まで逃げ切れる可能性は限りなく低くなった。
(……そうだ、ロープがある)
腰に巻いた十メートルのロープの存在を僕は思い出した。
裏山にもいくつか行ってはいけない場所があり、そのうちのひとつに崖になっている場所があった。
ロープを使えば僕はそこを降りられるが、熊は今度こそは飛び降りられないだろう。
(よし……!)
息の乱れも気にせずに走る。
獣道ですらない足元はデコボコで、雑草と落ち葉と小石だらけで滑りやすくて走りにくい上につまずきやすい。
けれど速さが勝負だ。
どうしても熊が来る前に崖にたどり着いて近くの木か何かにロープを結ぶ必要があった。
と、ずるりと左足が滑って僕はその場に転倒する。
「ぐ……っ!?」
見ると左足の出血がひどくなっていて、その流れ出た血を踏んで滑ったようだった。
一応の血止めはしたものの、走ることで出血がひどくなったんだろう。
傷が熱を持ってきているのが自覚できたが、今は構っていられなかった。
だが左足が滑る状態では、この足元の悪さも手伝って全速力が出せない。
崖はもう少しだというのに、背後から枝の折れる音が急速に迫ってきた。
(ダメだ、間に合わない)
崖には先に着けるだろうが、ロープを結んでいる暇はどこにもない。
(どうする? どうする!?)
崖はすぐそこ、そして背後の熊も呼吸音すら聞こえてくるほどに近い。
考えている暇はもうない。
崖を背にして振り返ると、追いついてきた熊が減速しながらこちらを窺っていた。
さすがに崖を目掛けて落ちるほどの速度で突っ込んでくる気はなかったらしい。
……まだ、チャンスはある。
(起こりを見逃すな)
熊は崖に落ちるような踏み込みはしてこないだろう。
ということは、まだ速度が遅くて回避しやすいということだ。
僕は熊のすぐ後ろにある細い木を見る。
あの太さならロープはすぐ結べるし、崖からも三メートルほどでロープの長さにも余裕がある。
崖の高さは九メートルほどだから二メートル強ほど足りない計算だがそのくらいならぎりぎり飛び降りられるし、主眼は熊から逃げることだから最悪ロープから降りられなくても構わない。
問題は熊をここからやり過ごして木までたどり着けるか、だ。
態勢を崩すわけにはいかない。
崩せば木にたどり着いても素早くロープを結ぶことが不可能になる。
そのためには熊をぎりぎりまで引きつけて最小の動きで躱す必要がある上、左足の負傷にも気を配る必要がある。
(落ち着いてやろう。きっとできる)
熊の動きはここまででかなり見ることができた。
油断は禁物だが、やってやれないことはないだろう。
呼吸を整えて熊と対峙する。
熊の攻撃は今まで見た限りでは前足による攻撃と、体当たり。
場所的に体当たりはない。
体当たりをしてきたなら僕は避けるだけで、労せずして熊を崖下へ落とすことができる。
熊にそこまで見境がなかったなら、僕に追いついたときに速度を落として睨み合いなんてしていないはずだ。
よって残る攻撃は前足による攻撃と、今のところ見せていない噛みつき。
前足による攻撃は避けられるが、噛みつきには要注意だ。
じりじりと間合いを計っていたが、覚悟を決めてじわりと熊への間合いを詰める。
『グフ、グフ……』
熊と僕の間に緊張した空気が流れる。
そのとき。
「おい、伊織ー! どこじゃあ!」
遠くから、お師さんが僕を捜す声が聞こえてきた。
わずかにそちらに気を取られた僕のそれは、責められるほどの油断とは言えないものの、結果として決定的な隙となった。
気づいた時に僕の目の前にあったのは、声も立てずに一息に間合いを潰した熊の大きく開かれた顎だった。
完全に反応が遅れた。
まるで血に濡れているかのように真っ赤な熊のそれが狙っているのは僕の――首。
咄嗟に左腕でカバーするのが精一杯だった。
「い、ぎぃああああああっ!?」
左腕がまるで燃え上がったかのような灼熱感。
万力で押しつぶされるような、刃のない鉈を力の限り叩きつけられたような、それでも足りない形容詞。
熊は容赦なく僕の腕を咥えて頭を左右に振る。
ごきりと骨の折れた音が体の中に響いた。
口が無様に叫び声をあげて涎を垂れ流す。
目からはぐしゃぐしゃに涙が溢れている。
失禁もしたようだった。
当たり前だ、このままじゃ僕は死ぬ。
『……に、げて』
前世の死に際、彼女が言った言葉が走馬灯のように浮かんだ。
僕が死んだら彼女はあのまま殺されるんだろう。
それはそれこそ死んだって嫌だ。
絶対に負けるわけにはいかない。
まだ自由になる右腕に力を入れる。
『伊織。絶体絶命という言葉は知っておるか? 覚えておくがいい。そういう時は必ずやれることがある。こと、剣客同士の戦いではとどめの瞬間こそが逆転の好機なのじゃからな』
お師さんの言葉は常に正しい。
そうだ。
僕の目と鼻の先には熊の弱点でもある鼻がある。
しかし全体重を乗せて殴ったところで僕の非力さ、体重の軽さでは効果がないかもしれない。
けれど、お手本なら眼の前にある。
僕は右手で熊の左頬の毛を遠慮も何もなく鷲掴みにした。
左腕は熊が離さないのだから、これで僕は熊の頭を抱え込んだことになる!
「あああああああああああああああああ!!!」
僕は目の前の熊の鼻に力の限りに噛み付いた。
口腔内に鉄の味とエグみのあるしょっぱさが広がった。
『ガァァアアアアアアア!?』
想定外の攻撃に悲鳴をあげる熊の口から左腕を取り戻す。
痛い、が、まだ指はどうにか動く。
左腕は取り返したが僕はまだ危地を脱したわけじゃなかった。
勝機は今しかない。
痛みを堪えて左手の指にロープを持たせ、そこを支点にして開いたままの熊の下顎に素早くロープを引っ掛けてくるりと一巻き。
熊の口から垂れたロープの両端を無事な右手に巻きつけ、僕は躊躇せず崖下へと飛び降りた。
『グァ!?』
軽いとは言っても人一人の体重がいきなり顎にかかった熊は、驚いて崖の上で踏ん張った。
ロープを輪っかにして引っ掛けたのは、その両端を持つことである程度輪っかを締め付けることができるだろうと考えてのことだ。
結んでいる暇はどこにもなかった。
ただし、そのせいで僕はロープの半分以下しか使うことができず、崖の中程に宙吊りとなる。
きちんと結べていない上に熊の牙にロープがいつまで耐えられるかも分からないので、すぐさま手近な岩の突起にロープを持ったまましがみつく。
右腕だけでは長くは耐えられないが、そう長く頑張る必要がないことは分かっていた。
「伊織、そこか!!」
そこにお師さんが人間離れした速さで走ってきた。
僕の悲鳴や叫びを聞きつけたんだろう。
まるでフィルムの早回しのような速度だったが、それでもこっちに来るまでにもう少し時間がかかる。
まだ、終わっていない。
この熊ならやりそうなことがひとつ、残っていた。
だから僕はロープを手放していなかった。
『………』
こちらへ走ってくるお師さんに気づいた熊は、その残った片目で僕を見た。
(……来る!)
『ウォオオオオオオオオオオ!!!!』
魂を凍りつかせるような叫び声を上げた熊は、崖に宙吊りとなっている僕目掛けてその身を躍らせた。
「伊織ーーーー!!」
お師さんの叫びは今の僕には聞こえていなかった。
ただ、熊の動きに集中していた。
幸いしがみついている岩は頑丈で、僕がどう体重をかけても崩れることはなさそうだ。
そして落ちてくる熊は左目が潰れている。
僕は一回だけ反動を付けて右腕の力だけで右へと跳んだ。
熊の左前足が空中の僕の肩を掠めていく。
致命の一撃は躱した。
だがこのまま岩だらけの崖下に落ちればやっぱり僕は死ぬ。
だから右腕に巻きつけたままのロープを引っ張った。
『ゴフ……』
熊の下顎に巻き付いたままのロープは、僕の落下軌道を熊の上へと導いた。
どしゃ。
硬いものに柔らかいものが叩きつけられる音がして、全身を衝撃が襲った。
(……生きてる、な)
うまく行くかどうかなんて賭けだった。
熊の攻撃を空中で躱して、ロープで熊を下敷きにできるよう落下を調節するなんて。
下を見ると、熊の黒い毛皮があった。
口から血を吐き出してぴくりとも動かない。
九メートルほどを落下したんだから、生きてはいないだろう。
「いたっ、いたい……」
熊の半分の距離で熊をクッションにして着地したと言っても、僕も五メートル近く落下したわけだ。
体の節々が痛むし、何より左腕が火が点いたように痛みだした。
「~~~~っ!!」
涙目になりながら熊から降りて崖を見上げる。
お師さんがそこにいるはずだった。
しかし緊張の糸が緩んだのか、思わず気が遠くなりそうになって首を横に振る。
『グフ……』
「!?」
聞こえるはずのないものが聞こえて、気のせいかと慌てて振り返る。
気のせいではなかった。
口を自らの鮮血に染めた熊が、ぎこちなく、それでもゆっくりとその身を起こしているところだった。
(うそ……だろ……)
よろよろと後ろに下がるが、すぐ崖に突き当たってしまう。
熊は定まらない視線ながら僕の方を向いてゆっくりと近寄ってくる。
手札はもう無いし、何より体力が限界だ。
これ以上は戦えない。
理性も本能もそう叫んでいる。
それでも、負けるわけにはいかなかった。
足元の石を拾ったその時。
斬。
上から降ってきた人影がいとも容易いことのように、熊の首を斬り飛ばした。
その手に握られた日本刀は、たったいま熊の頭を斬ったことなど知らぬげに陽の光の下で白銀に輝いていた。
「お師さん……」
「伊織。よう、生きててくれた」
その声を最後に、僕は気を失った。
一段落です。
次の更新には少しお時間を頂きます。