21
鋭く斬り込んでくる神奈を迎え撃つ。
蜘蛛斬は桐生流の多彩な変化技のひとつで、最初の一太刀からして狙っている右脛のやや後ろから斬り込んでいるため、右足をそのまま下げてもふくらはぎを斬られる。
かといって左後ろに下がれるほどにタイミングは甘くなく、刀で受ければ返す刀で唐竹割りが来る。
受けに回れば休む暇もなく追い立てられ、やがては仕留められる。
だが、稽古で散々に清奈に決められて嫌というほど知っている技だ。
「はっ!」
呼気を吐いて右足を上げて刀を透かす。
神奈はそのまま斬り返して左足を狙ってくるが、もちろんその変化も知っている。
息を吐いたのは一瞬で動くためであって、足を上げたのもその動作のひとつ。
刀が通り過ぎた瞬間に、僕は残った左足で地面を蹴って前に出る。
「く……っ!?」
体ごとぶつかって神奈の肩口を狙った僕の突きを、神奈が身をよじって回避する。
刀というものは物打ちと呼ばれる、鋒から一尺ほどの部分でないと本来の斬撃の威力は出ない。
もし神奈の刀が僕に当たったとしても、皮膚が切れる程度で重篤なダメージはないと判断しての行動だ。
僕がやったのは、突きが成立してもしなくても構わない回避を兼ねた動き。
恐るべき反射神経で突きを外した神奈だったが、体当たりは回避できずにまともに当たって体勢を崩す。
その隙に僕は氷上へと突っ掛ける――と見せかけて。
「安人様!」
それをカバーするようにナイフを投擲してきた観沙へと急激に進路を変える。
一対三では当然厳しい。
その中でも近づかずに相手を攻撃する手段を複数持っている観沙が一番厄介だと判断して、僕は彼女を真っ先に排除すべく間合いを詰める。
「……!?」
反応できずに目を見開く観沙に刀を振り下ろす寸前、僕は右へと跳ぶ。
一瞬前まで僕のいた空間を刀が斬り裂いた。
体勢を建て直した神奈が追いついてきたのだが、想定より二呼吸ほど早い。
攻撃を諦めて離脱しなければ、背中を斬られていただろう。
そのまま追撃してこようとした神奈だが、僕が桜花の鋒を後ろに向けたのを見て踏みとどまった。
神奈との間合いを空けながら後ろに向けた鋒を支点にして振り向き、再び彼女と相対する。
「……楽には行かない、か」
元々、剣鬼と化した神奈は一対一であったとしても容易な相手ではない。
それを一対三で、しかも彼女を殺すことなく無力化するなんて、正直言ってかなりの無茶振りであることは否めない。
ひとつ僕に有利な点があるとすれば、今が夜であることと、時間を稼げば援軍が来るためここで勝つ必要はないことだ。
鬼人であっても無条件で夜目が利くわけではなさそうなのは、三人の動きを見ていれば分かる。
僕だって夜目が利くわけじゃないけれど、暗闇で動くことには慣れているし、玉響によって相手の動きは見えている。
「そもそも三人掛かりを凌いでいるのがおかしいんだけどね」
辟易したように言う氷上だが、剣術というものは一対多だって想定している。
不利なことには違いないが、お師さんであれば勝っているだろう状況で、対鬼流を継いだ僕が無様を晒すわけには行かない。
勝てはしなくても、真也たちが来るまでは凌ぎ続けてみせる。
そう決意したときだった。
肌が粟立ち、己の注意力が最大レベルまで研ぎ澄まされるのを感じた。
放たれた殺気に、否、その殺気が放たれる直前の気配に反応して体が動く。
本能的に危険を察した体が集中を深め、玉響による最大加速をも使って僕は突進した。
「な……っ!?」
金属と金属が噛み合う耳障りな音。
一瞬で神奈の後ろに回り込んだ僕が、振り下ろされた刀を受け止めた音だ。
鍔迫り合いをして刀を傷めるのを嫌ったか、相手はすぐさま刀を引いたがその殺気はいささかも衰えない。
「……どういうつもりだ、小娘」
神奈を狙った一撃を防いだ僕に、『大典太』金本敦はそう言い放った。
「むしろ、そっちがどういうつもりなのか聞きたいけど」
「愚問。裏切り者は粛正あるのみ。この『大典太』の名に賭けて」
どうやってここにたどり着いたのか。
今、ここに一番いて欲しくない人物が現れたことに僕は動揺を隠せない。
「証拠は?」
「異なことを。たった今、貴様を鬼人と協力して始末しようとしていたではないか。助けようとしたものを、邪魔しよって」
吐き捨てるように言う金本。
彼がひとりで現れたのは、僕たちと同じように手勢を分けたせいだろう。
つまり時間が経てば彼の方も戦力が充実するということだ。
事情を分かっていない神奈はともかく、他の鬼人三人は金本を確認した瞬間に、こちらが息苦しくなるほどの鬼気と殺気を発した。
特に、今まで傍観していた根岸と呼ばれた鬼人は、金本を見て喜悦の表情を浮かべていた。
「金本敦……!」
「根岸……!? 丁度良い。まとめて根斬りにしてくれる」
根岸という鬼人を知っていたのか、それまで冷静そのものだった金本の構えに力みが混じる。
冷静でいられない因縁があるのだろうか。
「ほざけ。それはこちらの台詞だ。我が積年の恨み、ここで晴らさせてもらう」
「恨みだと? 我が妹を殺した貴様が言うのか、それを!」
冷静さをかなぐり捨てて金本が憤怒の叫びを上げ、それに呼応するかのように根岸もまた叫ぶ。
「それをさせたのは貴様だ、敦ィ! 貴様さえいなければ、俺は。それにこいつらも!」
両手を広げた根岸の横に、氷上と観沙が立つ。
「貴様さえいなければ、私と安人様はこんなところには居なかった……!」
「そうだ。おまえは僕の家族、兄貴を、何もしていなかった、ただ静かに暮らしていた人たちを鬼人だというだけで、殺した!」
常に己をつかませないような言動をしていた氷上が、感情を剥き出しにして叫んでいるのは以外なものを感じたが、だからこそそれが彼の本当なのだろうと思えた。
それに、確かにこの金本という男ならそういうことをやりかねない雰囲気がある。
「鬼人は滅する。それにいささかの呵責もない」
そしてそれを証明するかのように、先ほどまでの憤怒を感じさせない、冷え切った鉄のような表情で金本は氷上たちに応じる。
が、その鉄の仮面はすぐさま灼熱する。
「そうだ。根岸、貴様が我が家族を食い殺したあの日からだ!」
冷徹さは剣士として培ってきたもの、激情はそれでも抑えられない人としての叫びか。
「貴様らも滅する。鬼人はひとり残らず。それを邪魔する者もだ」
その言葉は氷上たちだけでなく、神奈にも、そして僕にも向けられていた。
ひとりであろうとそれを成し遂げられるという揺るぎない自信と、鬼人はすべて滅すべしという狂信がその言葉を裏打ちする。
「黒峰伊織。こいつは放っておけば神奈を殺すよ」
氷上が金本から目を逸らすことなく僕に言う。
そう言ってくることは予想していたし、それが事実であることも分かっている。
ただ、だからと言って即座に氷上たちに味方することもできない。
それは金本が剣人で氷上が鬼人であるからではなく、金本が倒されれば次は僕の番だという単純な事実。
僕が神奈を諦めない以上、それは確定的な話だ。
ならば、僕のここでの最適解は何か。
「そうだね。でも、僕も神奈もあなたたちの因縁には関係ない。だから」
やることは変わらない。
僕のすべきは、皆が到着するまでの時間稼ぎ。
博打ではあったが、僕は金本に無防備に背を向け、神奈と対峙する。
他の三人と戦ってる間、僕が神奈を抑えることは金本にとってもプラスだ。
多少の損得勘定が働けば、金本がこの時だけに限って僕を見逃すだろうことは計算できた。
背中を向けた僕を斬らなかったということは、鬼人三人と戦っている間は僕が神奈を抑えている限り、金本は神奈にも僕にも手を出さないということだ。
その間に真也と砂城、そして春樹さんが到着すればこちらにも望みが出てくる。
金本の手勢も集まってくるだろうが、初動が早かった分こちらの方が速いはず。
ひりつくような殺気の充満する空間に背を向け、僕は神奈に向けて気を吐いた。
「神奈、君の相手は僕だ」
* * *
根岸剛廉は鬼人の家系に生まれた。
その家系の鬼人は人を食うことで力を増していく呪われた業を背負っていた。
能力を発揮した鬼人は己の望みに関わらず食人衝動に囚われ、定期的に人を食う鬼と成り果てる。
しかし根岸は成人してもその衝動を覚えなかった。
父親である鬼人はそれを殊の外喜び、根岸に鬼人としてではなく普通の人間として生きていくようにと伝えた。
それでも鬼人の血筋であることは変わらないので、剣人には関わらぬように、ときつく念を押しはしたが。
根岸本人もそれを受け容れ、裕福な家ではなかったのでバイトで自ら学費を稼ぐ苦学生として大学に通った。
そのときに出会ったひとりの女性が、根岸の運命を決定付けた。
「私、強いんですよ?」
複数の男に絡まれていた女性を、ぼこぼこにされながら救った根岸に彼女は笑いながらそう言った。
それが事実であることは数日後、懲りずに彼女に絡んだ男たちが問答無用で叩きのめされていたことで証明された。
自らの格好悪さに赤面しつつ謝った根岸に、それでも彼女はこう言った。
「私は強いですけれど、根岸さんは格好良かったですよ」
彼らが惹かれ合うのにさほど時間は必要なく、程なく二人は恋人同士の関係に発展した。
それは根岸の人生において最も幸福な記憶。
彼女の名前は金本久美と言った。
久美には敦という名の兄がおり、豪放磊落を体現したかのような性格の敦と万事に控えめで大人しい性格の根岸は水と油に見えながら、なぜか気が合った。
こうと決めた場合に譲らないところが同じだったからかもしれない。
彼らは三人で良く遊びに行き、根岸の卒業と同時に久美と結婚することを、敦も認めていた。
そんなささやかな、どこにでもある幸せ。
それが崩れ去ったのはとある夜のことだった。
その日は根岸が久美にプロポーズをして、承諾の返事を貰った日だった。
兄である敦が根岸を誘い、男だけで夜に祝いの酒盛りをしていた。
敦は普段ならば絶対に言わなかったのだろうが、その日は泥酔していて判断力も失われていたのだろう。
「なあ、根岸。うちはな、少し変わった家系なんだ」
そう言って敦が何もなかったはずの手に持ったのは抜き身の日本刀だった。
普通の人が見れば刀は本物と思っても、手品か何かで取り出したのだと思っただろう。
しかしそれが何かを知っていた根岸の酔いは、一発で吹き飛んだ。
根岸の顔色を見て、さすがに酔っていた敦もまずいと思ったのか、刀を引っ込めて忘れてくれと根岸に言った。
だが、忘れられるはずもない。
鬼人の血を引く自分と、剣人の家系である久美。
それでも久美を諦めるには、根岸は彼女を愛し過ぎていた。
(久美自身が剣人でなければ)
そうであれば万難を排して彼女を家から連れ出し、どこか誰も知らないところで二人、幸せに暮らそう。
決心して金本家へ出向き、久美に剣人かどうかを尋ねた根岸を待っていたのは、残酷な答えだった。
「なぜ……知っているんですか? 兄さんが? ……そうですか。ごめんなさい、私も剣人なんです」
そのときに根岸を襲った絶望は、まるで己の魂の色を塗り替えるかのようだった。
否、実際に塗り替えてしまったのだ。
絶望という重石が根岸の人としての心を押し潰して破壊し、そしてそこから噴き出したのは幼少の頃からずっと押し込められ、表に出てくることのなかった鬼人としての衝動。
その衝動は荒れ狂い、根岸に残っていた一片の人間性を津波のようにあっという間に押し流してしまった。
我を取り戻した根岸が目の前に見たのは、赤く染まった家と、己の最愛の人の首だけとなった亡骸。
家にいたはずの彼女の両親も、弟も、誰もおらず、何者かが荒れ狂った家の中に遺された血痕は到底人ひとりのものでは足りず。
それらを己がやったという自覚は、何よりもおぞましいことに飢えが満たされた感覚と、彼女の首を見たときになんて美味そうなんだと考えてしまった自分の思考によってもたらされた。
彼女の遺体を見たときに絶望ではなく、そんなことを考えてしまったことにこそ根岸は絶望した。
「はは、ははは……」
そのとき流していたのは涙だろうか、それとも。
人として生きてきたはずだった。
それがこんなにもあっけなく崩れ去るなんて。
それはただのきっかけだったのかもしれない。
いずれは根岸(自分)はそうなっていたのかもしれない。
しかし一度しかない根岸の人生において、イフというものの意味などあるはずもない。
根岸にとって己を人でなくした相手は、決まっていた。
逆恨みなのかもしれない。
だが、それでもそう思わないと発狂してしまいそうだった。
「金本敦……!」
あるいは自分はすでに狂ってしまっているのかもしれない。
自分でもそう思いつつ、根岸剛廉は闇に消えていった。
寒くなってきましたね。
読者の皆様におかれましては風邪など召されませぬよう。