20
湿気を含んだ風が肌を撫でるように吹きすぎていく。
寒さの厳しい季節でなくて助かったけれど、明け方は冷え込むかもしれない。
物陰に潜む僕たちは、息を殺して真っ暗なグラウンドの様子を窺っていた。
「伊織、ちゃん」
小声の呼びかけにそちらを向く。
有塚美紀という名の剣人である彼女は、いまだに僕の名前を呼ぶのに抵抗が少しあるようだ。
僕としても彼女にちゃん付けで呼ばれるのはいささかくすぐったかったりする。
「本当に、私、手出ししなくていいの?」
「うん、危ないから、ぎりぎりまでしなくていいよ、美紀さん。敵に援軍とかあった場合に僕に教えてくれればいいから」
正直、関係のない彼女を付き合わせているだけでも罪悪感があるくらいなのだ。
状況も危険があることも洗いざらい説明した上で本人の同意を得て手伝って貰っていることには違いないが、ここで最初から戦わせるとかちょっと僕の胃の方が保たない。
相手の中で一番弱いと思われる氷上でも、正面切って戦った場合、美紀よりは遙かに強いのだ。
最低限自衛のできる人が一歩引いた場所から全体の状況を眺めて教えてくれるというだけで僕の行動に余裕が出るわけだし、ここは戦うのは僕ひとりの方がいい。
ちなみに彼女の名前の呼び方は意識して変えた。
今では彼女の方が年上ということもある。
今、僕たちは神奈たちが来るのを待ち構えていた。
背後には人っ子ひとりいなくなり、照明が完全に落ちている夜の日之出高校の校舎。
見慣れているはずの校舎でも、夜となればまた印象が変わるものだな、と思う。
正確な時刻も分からなければ、ここに来るかどうかも定かではない。
それでもここで待ち続けているのは、僕たちの立てた作戦ゆえだった。
* * *
「ふーむ……可能性はあるとは思うが、何故そう思ったんだ?」
神奈たちが日之出高校のグラウンドからヘリに乗るかもしれない、という僕の推測を聞いた真也がそう疑問を呈する。
それに対し僕は地図を指し示しながら説明していく。
「まず、大典太の存在。砂城先輩が動きを捉えきれていないってことは、大典太自身が隠密行動に長けてるってことだと思う。そういう人が必ず現れる場所があるなら、普通はそこで網を張るよね」
「ああ。確かに必ず一度はここを訪れるよな。氷上がそういう風に誘導したわけだし」
神奈による凶行は防いだものの、結局池田兄が行方不明となったことで、大典太は僕たちを確認する必要ができた。
氷上がそれを知っていたなら、大典太が日之出高校に姿を現すことは容易に推測が付くことだ。
「だから日之出高校を見張れる場所にいたのは間違いない。問題は今でもいるのか、だけど」
日之出高校の一点に左手の人差し指を当てたまま、僕は右手の人差し指をトレストタワー池田の場所へと当てる。
「この二点の間にはヘリが降りられる場所はない。それと、トレストタワー平池から日之出高校までの距離で円を描いて」
右手を支点に左手をコンパスのように回す。
「その範囲内にも、その近くにもまだヘリが降りられる場所はない」
「ふむ」
「そして、大典太はトレストタワー付近で目撃されているから、大典太の動向を見張れてヘリの発着ができる一番近い場所、となるとここになる」
ヘリ自体は航続距離も速度もあるので遠かろうが問題ないだろうが、大典太の動向を見張るには近くにいる必要がある。
「成る程な。確かにあり得る話だ。向こうにしてみれば俺たちの動向を逐一確認する必要はないが、大典太の動向だけは把握しておく必要があるわけだ。直前で逃げられてはかなわんだろうしな」
「そうか。では第一候補はここだな」
「うん」
「となると、第二候補は自動的に平池高校のグラウンドになるな」
ここから走って十分ほどである平池高校は、ヘリにしてみれば誤差範囲なので可能性としては十分にあり得る。
「第三候補はどうなる?」
「それはやっぱり、徒歩の警戒かな。どうしても排除できない可能性だと思う」
ヘリポートなどという意味ありげな指示をしておいて、歩きでやってくるという可能性はやはり排除できない。
ヘリコプターを動かすとやはり目立つことには間違いないからだ。
「では、どう配置する?」
他の候補には剣人会から人を派遣してもらうとして、この三つの候補には僕たち三人が張り込むことになる。
そして神奈たちがどこに現れるとしても、外した場所にいる場合はできるだけ急いで当たりの場所へと急行する必要があるのだ。
「ここが伊織、俺は平池高校、紅矢はトレストタワー平池、でどうだろう」
「まあ、順当か」
腕を組んで地図を覗き込んでいた砂城がうなずく。
「俺ならバイクがあるから外したとしてもここまで十分程度でたどり着ける。鴻野がいかに貧乏とはいえ自転車くらいはあるからここに来るまでさほど時間は掛からんだろうし、逆だったとしても黒峰の足ならば問題ない」
「問題はトレストタワー、もしくはこの三カ所以外が本命だったとき、だね」
徒歩を警戒する場合、どうしてもトレストタワー平池の前で待ち構える必要があるが、これには複数の問題があった。
「その場合、残り二人がどうやって駆けつけるか。それとトレストタワーだった場合はその場にいるであろう大典太への対処をどうするか、だな」
「砂城先輩には春樹さんに付いていって貰えばいいと思う。元々大典太に対処してもらう予定なんだし」
「そうだな。では俺と伊織がどうやってトレストタワーに行くかだ」
「それに関しては美紀さんに頼むよ」
「美紀? 誰だ」
「この間言った協力してくれる友人。成人してるし車も持ってるらしいから、僕と一緒にここで待機して貰って、ついでに真也も拾って行けばいいと思う。この三カ所以外だった場合もこれなら対処できるし」
「いつの間にそんな人と知り合ったんだ……?」
「この間」
詳細な説明を求めるような真也の視線は黙殺。
だって説明できないからね。
「まあ、問題は解決したようだな。では、そういう手筈で行くとしよう」
* * *
「来た……!」
明け方近く。
冷え込み対策に毛布を羽織ったのは良かったけれど、それによってもたらされた眠気はかなりの強敵だった。
それと格闘しつつそれまで以上に周囲を警戒していると、闇夜に慣れた目に学校の塀の上に人影が飛び上がってきたのが見えた。
その数は四つ。
想定よりひとり多い。
いるかもしれないと想定していた別の鬼人だろうか。
「美紀さん、二人に連絡をお願い」
美紀に携帯を預け、僕はことさらに姿を晒してグラウンドへと歩き出す。
その間にも現れた四人の姿を確認する。
「伊織姉……?」
困惑したような神奈の横には、苦虫を噛み潰したような顔をした氷上と観沙、そして見知らぬ黒いコートの男がもうひとりいた。
かすかに漂う血臭は、この男からのものか。
「やれやれ。今頃は血眼でトレストタワーの中を捜索してるかと思ったんだけどな。その前に潰しに来たか」
「狙いは分かってたからね」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔の神奈が僕を見るが、それは僕が答えるべきことではない。
氷上に目を向けると、彼は観念したかのように肩をすくめて口を開いた。
「君たちの想像通りだよ。ただ、ひとつ言っておくと爆破はただの保険だよ。僕としてもせっかく出来た有能な仲間を失うことは本意ではないし、出来得ることなら」
それまでの飄々とした態度は、まるでベールを剥ぎ取ったかのように消え失せ、純粋な殺意が露わになる。
「大典太はこの手で直に殺したいから、ね」
「大典太……?」
大典太については何も知らされていなかったのか事態について行けずに困惑している神奈に、氷上は済まなそうに笑いかける。
それは今までの氷上の印象とそぐわない表情で、返って彼の本心であるように見えた。
「済まないね、神奈。後でちゃんと説明するよ。でも、その前に。君にとってはある意味チャンスだろう? この状況」
氷上が言っていることは他でもない。
相手は四人、僕はひとり。
純粋な戦力差の話だ。
「ヘリが来るまであと十分。その前にケリを付けよう」
「分かった」
抜刀しつつ前に出てくる神奈。
前の刀ではなく、新しく調達したもののようだ。
「根岸さんは待機しててくれ。本番を前に怪我をしてはいけないからね」
根岸と呼ばれた黒コートの男は無言でうなずいて一歩下がった。
どうやら大典太の関係でここにいるようだが、ここで手出ししてこないのはありがたい。
とはいえ鬼人三人を相手に僕ひとりという状況は依然として厳しいことに変わりはない。
少しでも時間稼ぎをしなければならないが、そこで僕はふと気付いたことを口にする。
「そういえば、何で神奈に手助けするの?」
氷上と観沙に向けた問いかけ。
彼ら二人も本命は大典太のはずであり、ここで怪我をすることは避けたいはずだ。
ついでに言えば、彼らにとって僕は言ってしまえばどうでも良い相手でもある。
「理由は二つ」
手を鉤爪状に変化させた氷上は、僕との間合いを計りながら疑問の答えを返す。
「彼女をこっちに引き込んだのは僕なんだから、そのくらいの義理はあるってこと。もうひとつは、君は放っておくと鬼人全体にとって危険な気がするからね」
「それはまた、随分と高い評価だね。それに変なところで義理堅いことで」
桜花を抜刀する。
冴え冴えとした光を放つ地金は、この状況でも僕に安心感を与えてくれる。
「神奈、賭けをしようか」
「賭け? 伊織姉が負けたら命はないけど」
「だからだよ。僕のチップは命。神奈が勝ったなら持って行けばいい。けど、僕が勝ったときには神奈の命はいらない」
「……伊織姉の望みは?」
刀を構えて神奈が問う。
その構えには前回よりも隙がない。
今まで本気で物事に当たったことがなかった子が、本気になった。
だからこそ、この短期間で腕も上げてきたのだろうが……それでも負けるわけには行かない。
清奈のために、真也のために、そして神奈自身のためにも。
「神奈が戻ってくること。それが望みだよ」
「鬼人なのに?」
「鬼人でもだよ」
「……分かった。私が負けたら、それでいい」
条件はクリア。
後は、僕が勝てばいいだけだ。
「負ける気はないけど、ね!」
放たれた言葉と同時に神奈が肉薄する。
まるで音に聞く縮地のような、一瞬の動き。
僕に同じ動きは出来ない――が、それでも視えている。
すでにここにいる僕以外の五人はすべて玉響による知覚範囲に収めている。
「ふっ!」
息を吐き、右足を一歩引いて刀を下げながら神奈の斬り下ろしを体捌きのみで回避。
自分と観沙の間に神奈を挟むように位置しつつ、影から飛び出してきた観沙の投げてきたナイフを下段に構えた桜花で弾く。
さらに氷鏡返しの要領で神奈の腕を狙うが、これは神奈が追撃を諦めて素早く下がったことと氷上が牽制を掛けてきたので断念。
「ほう」
「化物……」
後ろで見ていた根岸が感心したような声を上げ、間合いを取った神奈が憎々しげに、というよりも悔しげにつぶやく。
お褒め頂いて恐悦至極ではあるが、僕の方もいっぱいいっぱいで余裕なんてどこにもない。
基本的に神奈が近接、観沙が遠距離、氷上が補助という形のようだ。
細かい連携こそ取っていないようだが、即席にしては結構息が合っている。
「鬼人三人を相手にして凌ぐ、か。分かっていたけれど君は危険だ。このまま放置すれば五剣に匹敵する脅威になるだろう」
「ひとつ間違いがあるよ」
三人を相手に言葉を発するだけでも危険を伴うが、この間違いだけは正しておかなければならない。
「僕は鬼人を敵にはしていない。見過ごせないことをしている人たちを敵にしているだけだ」
「へえ……剣人なのに?」
「剣人なだけ。鬼人がみんな人を害するわけじゃない。安仁屋さんがそうだったように。なら、手を携えられる可能性だってある。だから僕は神奈を諦めない」
「ふうん。けど、それを剣人会が認めるかな?」
「そんなことは知らない。でも剣人会が神奈を害するっていうなら、僕は剣人会とだって戦う」
僕の言葉に神奈は一瞬動きを止め、そして氷上はおかしくてたまらないと言うように笑い出した。
「それ、本気かい!? 剣人が、剣人会と戦う? 先代三日月だって敵対まではしなかったのに」
「本気だよ。その覚悟がなきゃ、神奈を助けられない」
隙だらけでお腹を抱えて笑っていた氷上は、ようやく笑い止むと僕と神奈に向けて笑顔を浮かべた。
「ねえ神奈。さっきの賭けの条件、ひとつ変えてもいいかな?」
「何を」
「君が勝った場合は彼女の命じゃなくて、彼女自身を貰おうよ。具体的には、彼女にもDSを飲んで貰う」
「分かった。ただし」
僕から見て右に踏み込んだ神奈が左下段の構えから刃風鋭く僕の右脛を狙ってくる。
これは桐生流『蜘蛛斬』……!
「そのときに伊織姉が生きていたなら、ね!」