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剣人  作者: はむ星
【幼年篇】
5/113

4

 さらに時は飛ぶように過ぎた。


 僕は五歳になって背も結構伸びて、稽古の時間も一日三時間にまで伸びていたが、やっぱり他の時間はよく遊んでまだまだ体を作るのが重要な日課となっていた。

 春樹さんと真也はその後もたびたび道場に来て、一緒に稽古をした。

 真也は最初の驕った様子が鳴りを潜めていて、来るたびに強くなっているのが実感できた。

 僕も負けじと稽古に励むことになったので、大人二人の目論見は実に成功を収めたと言えるだろう。


「おーい、イオリ、遊ぼうぜ!」


 その日の稽古を終えて水浴びをしていたときに、サトシが遊びに来たようだった。


「うん、ちょっと待ってて」


 ちなみに僕は普段着も稽古着を着ている。

 着慣れてしまったし、動きやすい上に汚れることが前提で作ってある服だからだ。

 女の子そのものの格好をするのも、まだちょっと、いやかなり、抵抗あることだし。

 さっさと着替えて外に出ると、サトシと一緒にマイもいた。


「今日は木苺採りに裏山行くぜ!」


 三隅村には小さな子どもは僕とサトシとマイの三人だけのようで、僕とこの二人はほとんど毎日一緒に遊ぶ仲になっていた。

 遊ぶのは裏山までは良いとされていたが、それ以上奥に行ってはいけないと光恵さんとお師さんに念を押されていた。

 なんでも熊が生息している上に、猟の区域でもあるらしい。

 このへんはサトシとマイも親にきつく言い含められているようで、それを破る気配はなかった。


「ほら、そっち行ってみようぜ!」


 サトシが元気一杯に落ち葉の敷き詰められた獣道を走っていく。


「待ってよ、サトシおにーちゃん! 行こ、イオリちゃん」

「うん」


 サトシの後を追って僕とマイも走っていく。

 足の速さで言えば鍛えている僕が一番速いけれど、サトシはとにかく元気で真っ先にいろんなところへ突撃していく。


「サトシ、速すぎだよ。マイがついて行けない」

「おせーよマイ! はやく来いよ!」

「だからサトシおにーちゃんが速すぎるんだってば」


 初夏のこの季節に裏山に入る時は木苺をたくさん集めて、食べたり光恵おばさんにジャムにしてもらったりしているのだが、最近は採りすぎて結構奥まで入らないと実が成っていない。

 お陰でサトシが張り切って密生している場所を探しているわけだが、僕はともかくマイはそれについていくのは一苦労だ。

 木苺を採る以上はもちろん手ぶらではなく、カゴとその下に敷くふきんくらいは持ってきている。

 それと、僕はお師さんの言いつけで裏山に入るときは必ず細い十メートルくらいあるロープを腰に巻いて持ってきていた。

 お師さん曰く、ちょっとした窪みに落ちて出られなくなったときや、誰かが足をくじいて動けなくなった場合におぶるときなどに使うものなのだそうだ。

 もちろん使えないと意味がないので、僕はお師さんからある程度のロープワークを学んでいた。


 サトシくらいの年頃の男の子、それも元気いっぱいな子供が他人に合わせるなどというまどろっこしいことをするはずもなく、必然的に僕がカゴを持ってマイに合わせて歩くことになっていた。


「すげーぞ、こっちたくさんある!」


 僕とマイが追いついた時には、サトシはたくさんの木苺を両手一杯に採っていた。

 黄色の、少し力を込めると粒ごとにばらけてしまうくらいの果実は、酸味がほとんどなくて子供には食べやすい。

 確かクマイチゴとか言うんだったか。


「おまえらもどんどん取れよ! 母ちゃんにジャムにしてもらうんだ」


 サトシは両手一杯のそれを僕の持っていたカゴに放り込むと、藪をかき分けてぐいぐい進みながら手当たり次第に木苺を採っていく。

 僕とマイも手分けして採っていたが、ふと僕の視界に妙なものが入った。


(あれは……)


 とある木の、大人くらいの高さについた真新しい傷。

 熊は自分がここに来たというアピールをするために木の皮を剥ぐことがあるが、その跡をクマ剥ぎと呼ぶ。


 あれはそれではないだろうか。


 ふと思い出す。

 今朝がたお師さんと光恵さんが、猟師さんが仕留め損なった熊がいるという話をしていたことを。

 手負いなので早めに見つけ出して駆除しないと危険だとも言っていた。


「サトシ!」


 サトシを呼び止めようと声を上げたが、サトシはうるさそうに一度振り返っただけでどんどん先へ進んでいく。


「待ってサトシ! ここ危ない!」


 マイを連れているせいでサトシに追いつけない。

 かと言って危険かもしれないのにマイを置いていくのは論外だった。


「サトシってば!」


 マイの手を引きながらようやくサトシに追いついたのは、そこからさらに百メートルは進んだ時だった。


「うるせえな。裏山なんだからクマがいるわけねえだろ。それより見ろよ、ここもたくさんあるぜ!」


 漂う獣臭。


「サトシ!」


 振り返ったサトシの手をつかんで僕は体ごと思いっきり引っ張った。

 今までサトシの頭があった場所を、黒い毛むくじゃらの太い腕が通過した。


『ブッフォァ』


 そのままサトシの腕を自分の後ろへと投げ出すように引っ張って、マイも後ろへと突き飛ばす。


「サトシ、マイをつれてにげて!」


 そう、僕の目の前には体長一メートルは越そうかという熊が立っていた。


*   *   *


 熊は気が立っているようだった。


 ひと目で分かることだったが、左目が潰れていてそこから流れ出た血で首まわりの毛が固まっている。

 お師さんたちが言っていた手負いの熊で間違いないだろう。

 その熊は後足で立ち上がって威嚇するように僕を見ている。

 この状態からすぐには攻撃はしてこないはず。

 僕は視線を逸らさないようにしてじりじりと下がる。

 足元の枯れ葉が擦れる音さえ、熊を刺激しやしないかと耳障りに感じる。


 正直、とんでもなく怖い。


 前世でも熊なんて動物園くらいでしか見たことがないし、こんな至近距離で見るのだって初めてだ。

 なおかつ、相手は手負いで怒ってるときた。

 ゆっくりと下がる僕の足に、何か柔らかいものが当たった。

 何かは分かってた。

 サトシとマイが逃げた足音なんか聞こえなかったからだ。


「サトシ、マイ。立って。ゆっくり」


 熊を刺激しないよう、息だけで呼びかける。

 おそらく二人とも腰を抜かして座り込んでたんだろう。

 こんな至近距離で大きな熊なんかと出逢えば当たり前だ。

 大声で叫んで熊を刺激しないだけでも立派と言えた。


「ゆっくりだよ。立ったら、すこしずつ下がって」


 熊は時折『ブフー、ブフー』と威嚇するように唸りながら僕から目を逸らさない。

 ここで目を逸らすと途端に襲ってくる、と村にいる猟師さんが話していた。

 後ろでサトシとマイがおそるおそる立ち上がった気配がした。


「ゆっくり、ゆっくり下がって」


 呼びかけが震える。

 中身がとうに三十路を過ぎていようが、怖いものは怖いのだ。

 でも、パニックになってしまえば刺激された熊が僕たちに襲い掛かってくるのは間違いない。


(せめて、サトシとマイを逃がせれば……)

「うわああああああああああああ!!!」

「まって、まってよサトシおにーちゃあああん!!」


 耐えきれなくなったのか、サトシが大声で喚き散らしながら走り出して、それにつられてマイも走り出した。


(しまった……!)


 当然、いきなりの大声は熊を十分に刺激した。

 興奮したように唸った熊は、前足を降ろして走り出そうとしている。


 その視線は僕ではなく――


 そう見て取った僕は反射的に持っていた木苺のカゴを熊に投げつけた。

 狙い通りに熊の目の近くに当たったカゴから、木苺が散乱する。


『グゥフ……』


 それは明らかな熊に対する敵対行動。

 熊は二人を追うのをやめて、僕へと標的を定めたようだった。


(落ち着け……)


 がくがくと震えそうになる足を意志の力で押さえ込みながら、僕はお師さんとの日々の稽古を思い出す。


 相手と対峙した際においてもっとも重要なことは、相手の『起こり』を見落とさないこと。

 起こりは様々な予兆として現れる。

 例えば目線、例えば重心の位置、例えば筋肉の微細な動き。

 それに構えや相手のクセなどの情報を加味して動きを予測することで、まるで心を読んだかのような先読みをすることが可能なのだとお師さんは言った。

 たとえ相手に勝てないのだとしても、相手の攻撃が当たりさえしなければ負けることはない、と。

 そしてそれは人間相手だけとは限らない、とも。


 僕が素手でこの熊に勝つことなど、逆立ちどころか成人したって不可能だ。

 ならば勝たなくていい。

 要は負けなければいいのだ。

 この場合の負けないための条件は、僕が死なないこと。

 熊が根負けして立ち去るか、誰か助けが来るまで逃げ回ればいい。

 真也との組太刀による稽古で、起こりを見る目はこの二年鍛えてきている。


(と言っても、それも難度の高い話だけど)


 何と言っても今の僕は五歳児で、なおかつ相手は人ではなく熊。

 元気だけは一杯だけど体力も無ければ筋力もなく、熊の一撃を掠るようにでも貰ってしまえば、そこからは次の攻撃を躱すことすら困難だろう。


『ゴァ!!』


 唸り声を上げた熊が重心を後ろに掛けたのが見えた。

 後ろに重心が行ったのだから、前足による攻撃が来る。

 転がるように飛び退って前足の攻撃を回避。

 ここは獣道の上以外の足場があまり良くないが、場所を移動しようにも速度は人間より熊の方が遥かに上だ。

 素早く周囲を確認する。

 ここはある程度の高さの木々がそれなりの密度で生えているが、その下は五歳児の背丈くらいはある藪に覆われている。

 足元でもある獣道は枯れ葉に覆われていて滑りやすく、前方には熊、後方には逃げるサトシとマイ。

 前にはもちろん進めないし、後ろにもあまり下がるわけにはいかない。

 そして左右に逃げ込めば藪で視界が塞がれるし、その足元がどうなっているかもよく分からない。

 できるだけこの場で避け続けるしかない。


(落ち着け……起こりを見逃すな……!)


 自然と早くなる呼吸を、意識的にゆっくりにする。


『いいか、息ってのはそいつの精神状態をも表すもんだが、それだけじゃねえ。息に精神が引きずられるということでもある』


 お師さんの言葉が脳裏に蘇る。

 この体が若くて覚えが良いのか、それとも言葉に説得力が伴っているのか、とにかくお師さんの言葉は僕の中にしっかりと根付いていた。


『落ち着かにゃならんときは無理にでも息を落ち着かせろ。そうすりゃ頭も冷えてくる。調息って言葉は伊達じゃねえんだ』


 その教えに従い、大きく息を吸い、吐いて息を整える。

 熊は前足で攻撃した後は四つん這いになり、少し迷った後に重心を前に、そして後足に力を込めた。


(突進!)


 狙いを見破った僕は、左目が潰れている熊の死角となる右へ横っ飛びに藪の中へ突っ込む。

 十分に先読みして躊躇せず行動したにも関わらず、左手すれすれを熊の大質量が通り過ぎた。


 その何の迷いもない熊の行動には僕への殺意がありありと感じられた。


 じっとりと滲み出す不快な汗と、むせ返るような緑の匂いを意識的に無視してすぐさま次の行動に移る。

 背丈と同じくらい高い藪の中では僕は熊の位置が分からない。

 でもこうなった時のこともちゃんと考えてあった。

 急いで側にあった木によじ登る。

 熊が木に登れることはもちろん知っている。

 でも、ここは木がある程度密集している場所だ。

 熊が僕を追って登ってくれば、隣の木に飛び移ればいい。

 僕は軽いし、一メートル程度の幅であれば飛び移れるという自信があった。


 サトシの秘密基地における日々の訓練のお陰で、素早く熊の届かない位置まで登りきる僕。

 熊はすぐさま僕の位置を探り当てて僕のいる木の真下へとやってきた。

 その残った右目は血走っていて、まるで血に飢えているかのように思えた。

 それでも熊がこっちに来たことに少しほっとする。

 あのままサトシとマイを追いかけていかれたら、僕も木から降りて熊を追いかけなければいけなかったからだ。


『ゴフォォォ』


 威嚇の声をあげながら、熊は木に前足を掛けて立ち上がる。


(登ってくるか……!)


 そう思ったときにそのまま前足が振りかぶられ、僕の登っている木に叩き付けられた。


「うわぁっ!?」


 さして太くもない木はそれで思いっきり揺さぶられる。

 慌てて幹にしがみついて振り落とされることは免れたが、熊は続けて前足を木に叩きつけている。

 このままだとさほど太くもない木は衝撃に耐えかねて折れてしまうだろう。


「ううっ!?」


 だが隣の木に飛び移ろうにも足元が定まらない。


(まずい、まずい、まずい!)


 落ちてしまえば僕は熊の餌食だ。

 本当に食べるのかどうかは分からないけれど、命はまず無いだろう。

 無様にも体がすくんで生命線である木に必死にしがみつく。

 度重なる暴虐に耐えかねたのか、ついにその生命線はメリメリと音をたてて傾き始めた。


(落ちる……!)


 横に流れる景色。

 だがそれががくんと止まった。

 枯れてでもいない限り、繊維の複雑な集合体である生木はかなりのしなりを持つ。

 熊の力に耐えきれず折れはしたものの、そのしなりが横倒しになることを一瞬遅らせたのだ。

 そんな理由には思い至る余裕すらなく、僕は無我夢中で目に止まった近くの別の木の細枝へと跳んで両手で掴んだ。


 ぐんとしなった細い枝は、しかし折れることなくぶら下がった僕の体重を支えた。

 足に何か熱い感触があったが、委細構わずがむしゃらに枝を伝って登る。

 太い枝へとたどり着いた僕が足を掛けて体を引き上げようとしたときに、いきなり左足が滑った。


「!?」


 落ちたらもちろん命が無い。

 残った右足で必死に枝にしがみついてどうにか上体を引き上げる。

 見れば、袴の左足部分が引き裂かれて血まみれになっていた。

 さっき細い枝を登っているときに、立ち上がったのかジャンプしたのかは知らないが、届く範囲にあった熊の爪が掠ったのだろう。

 幸い傷は骨には届いていないようだが、結構深く抉れている。

 意外なことに痛みはさほどなかった。

 たぶんアドレナリンがどばどば出ているのだろう。


(熊は……)


 下を見ると熊は自分に届かないところまで登った僕を見上げて牙を剥いて威嚇しているのが見えた。


 まだ、終わりは見えなかった。

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