15
私にはひとりの兄と二人の姉がいた。
血が繋がっているのは姉さんひとりだったけれど、幼い頃は本当に兄や姉のように思っていた。
それが変わっていったのはいつ頃からだっただろうか。
道場で汗を拭く真也兄に男を感じたときからだろうか。
真也兄と剣について熱く語る伊織姉の姿に嫉妬を覚えたときからだろうか。
いずれにせよ、茨木神奈はすでに真也兄を兄としては見ていないし、伊織姉を姉として見ていない。
勝手な話だ。
優しい彼らは何も変わっていないというのに、自分の都合だけでそうなっただけなのだから。
それでも自分の気持ちに嘘はつけなかったのだ。
「神奈、次の仕事だよ」
物思いに耽っていた私に、氷上が声を掛けてきた。
ここは氷上のセーフティハウスのひとつ。
今ここにいるのは氷上と、氷上と常に一緒にいる観沙という女性、そして私の三人だけだ。
観沙は伊織姉に重傷を負わされたが、鬼人の回復力で今は普通に動けるくらいまでにはなっている。
ただ、戦闘を行えるほどになるには、それでもあと一日二日は掛かるそうだ。
観沙は鬼人となった今の私から見ても十分強い。
その観沙にほとんど何もさせずに完封した伊織姉は、やはり私にとって最大の障害と言えそうだ。
まあ、それは置いておくとして。
「また?」
先日も何ら関係のない人を、スポンサーとやらの意向で叩きのめす羽目になった。
強い相手だということだったので、自分の戦闘力の確認も兼ねてそれを引き受けたのだが、いくら強くとも善良な一般人を病院送りにするのはあまり気分が良いものではない。
そこは鬼人になっても感性に変化がないということで、ある意味では喜ばしいことではある。
「そう、またスポンサーの意向ってやつさ。金がないってのは世知辛いよねぇ」
そのスポンサーとやらと最初の依頼のときに会うことになったのだが、こちらをじろじろと嫌らしい目で見てきて非常に気持ち悪い男だった。
氷上がやんわりと男にあまり見ないよう言わなかったら、我慢しきれずに殴るくらいはしていたかもしれない。
それに気を遣ったのか、今度は氷上が単独でスポンサーに会ってきたようだった。
「それで、どんな仕事」
「これがまた最高に下衆い仕事でねぇ。女をひとり攫って来いってさ。婚約者だから問題ないんだって」
「自分でやればいいのに」
「できれば世話はないんだろうねぇ。昨日の男が最大の障害だったらしいけど、本人もそれなりに強いんだってさ」
昨日の男は確かに弱くなかった。
今の私は力だけでも人の領域にはなく、力自慢の男だろうと片手でねじ伏せられる。
そんな私の打ち込みを数度に渡って耐え、彼我の力量差を冷静に見極めて逃げるチャンスを窺っていた。
まあ、逃げ出せるような隙は与えずに結局打ち倒したわけだが。
「気が乗らない」
鬼人となっても私だって女だ。
力尽くで女をどうこうしようという奴の手助けなんかしたくはない。
それが目的に適うことなら話は別というあたり、私も大概救えないけれど。
「まあ、そういうだろうと思ってね。それならこういうのはどうだい?」
そう言って囁いた氷上の顔は、まるでファウストに対するメフィストフェレスのそれ。
でももう戻れないし、戻るつもりもない。
私は迷わず氷上の提案にうなずいた。
例えそれが、悪魔に魂を売り渡すことと同じなのだとしても。
* * *
「後手に回ったか」
遠藤先輩を捜して走り回った結果、遠藤先輩が下校中に黒塗りの車に乗せられているのを見たという生徒がいたのだ。
今日に限って早めに下校していた理由は、家の方ではなく病院側へと歩いていたようなので、安達先輩の見舞いのためだろう。
その生徒の話によれば、遠藤先輩は車に乗せられるときにぐったりとしていて、さらにそこには神奈らしい小柄な女の子がいたと言う。
悔しげにつぶやく砂城だが、まだ打つ手がないわけではない。
「心当たりを聞いてくる」
「なに。どこだ、それは」
「平池高校に池田の弟がいるはず。彼に話を聞いてみる。連れて行った場所を知っているかも」
「そうか、今里のいる高校か!」
悟志から聞いている話では、弟である池田信道は中学でのトラウマも癒え、今は悟志と同じ剣道部に所属しているはずだ。
ブランクで腕を落として、今は悟志が主将のようだけど。
「先に行く。後から追いついてきて」
「平池高校までそんなに距離はない。問題なく付いていけるぞ」
「いや伊織に付いていくのは無理だからな、紅矢」
男どものやり取りを無視して僕は走り出す。
砂城らしい気配が少しの間粘ってついてきているようだったが、すぐに遅れだして探知範囲外へと出て行った。
歩道を歩いている人にぶつからないよう、周囲の気配を探りながら先読みして避けていく。
やがて日之出高校とは異なる、やや古びた校舎が見えてきた。
その校門からは下校中の生徒たちが笑いさざめきながら歩いていたが、一直線に駆けてくる僕を見て一様にぎょっとした顔になる。
内心で謝りつつそのまま校門を突破。
日本の学校が体育館と校舎の外見をほぼ必ず変えることに感謝しつつ、体育館と思われる建物へと走り込む。
中に剣道の防具を着けた集団がいることを確認して、息を吸って声を張り上げる。
「悟志、いる!?」
鍛えられた横隔膜は伊達ではない。
僕の大声に体育館内にいた全員が一斉にこっちを見た。
非常な迷惑行為だが、急いでいる今、背に腹は代えられない。
慌てたようにこっちへ走ってくる、剣道の防具を身につけた二人は悟志と麻衣か。
「どうした、伊織!?」
てっきり騒がせたことを怒られるかと思ったら、悟志も麻衣も真剣な表情で心配したように僕を見ている。
僕の様子から、緊急かつ真面目な話だと汲み取ってくれたようだ。
こういうとき、幼馴染は助かる。
「うん、池田先輩、いる? 彼に大至急の用事があるんだけど」
「池田? ああ、いるぜ。ちょっと待ってろ」
悟志が剣道部のいる方へと走っていく間に、僕は息を整える。
体育館内がざわついて、僕たちの方へと向けられる視線が多いことに気づいた麻衣が、僕を体育館の隅っこへと誘導する。
「何があったの、伊織」
「ちょっと、池田先輩のお兄さん絡みで」
麻衣の質問にうなずいてそう言うと、麻衣が剣道の面の奥で少し納得したような顔をした。
「ああ、詳しくは知らないけど、池田先輩、最近ちょっと悩んでいる感じだったのよね」
「待たせた。池田、伊織が用があるんだそうだ。伊織、俺たちは外した方がいいか?」
悟志は気配りもできる男になっていた。
これは麻衣がますますべた惚れだろうなと思いつつ、それにうなずく。
僕としては聞かれてもまったく構わないけれど、池田先輩にとってはあまり聞かれたい内容ではないだろう。
「分かった。また今度、稽古のときに差し支えない範囲で聞かせてくれ」
「うん」
悟志と麻衣が剣道部の方へ戻ると、後には池田先輩が残った。
以前にデモン服用者の西木たちに腕を折られて剣道ができないほどに心に傷を負ったらしいが、しっかりと回復したらしい。
多少不安そうな顔をしているのは、僕に一度勝負を吹っ掛けたことがある過去のせいだろうか。
結局、その勝負は彼が西木たちにやられたことで無しにはなっているんだけど。
「僕に用だそうだが……」
「ええ。あなたのお兄さんについて聞かせて欲しいんだけど」
「兄について、か」
不安げな表情は苦々しげなものに変化した。
あまり仲が良いわけではなさそうだ。
「今度は何をしたんだ、あの人は」
「女の子を攫った」
「!?」
あからさまな動揺。
とても演技とは思えないそれは、池田先輩が兄のやらかしたことと何ら関係がないことの証左と言って良さそうだった。
「何を……やっているんだ……」
そこで嘘だ、とか言われないあたりが池田先輩の兄への評価を物語っていた。
「それで質問なんだけど、お兄さんがそういうときに使いそうな場所に心当たりないかな」
「……」
黙り込む池田先輩だが、それは心当たりを全力で探っているためのようだ。
しばらくして、池田先輩は口を開いた。
「兄が『安全な隠れ家』と言っていた家がある。家というか、ビルのフロアなんだが」
「どこ?」
「案内しよう。兄が何かしでかすというなら、弟である僕が止めなければ」
「危険だけど。あのときよりも」
その言葉にあからさまに怯んだ池田先輩だが、首をひとつ横に振って覚悟を決めた目で僕を見た。
「それでも、身内の不始末に知らないフリはできない」
以前にこの人に会ったときは正直好感が持てない感じだったけれど、今の彼には肩入れしても良いと思えた。
ただ、本当に危険であることは間違いない。
今から乗り込む先には、神奈や氷上がいる可能性もあるし、その場合に僕が彼を守れるとは断言できない。
だからもう一度だけ念を押す。
「今回、僕や真也に余裕はない。自分の身は自分で守ってもらうけど、それでいいかな」
「構わない」
きっぱりとうなずいたので案内してもらうことに決める。
そろそろ真也たちも追いついてくる頃だ。
身振りで悟志を呼んで池田先輩を借りていくことを伝える。
「分かった。伊織はなんだかんだ言って面倒見いいから、足を引っ張るんじゃねえぞ、池田。基本的に伊織の言うこと聞いてりゃ問題ねえはずだ」
「あ、ああ」
「ありがとう、悟志。部活の邪魔してごめん」
「いいよ。また今度、道場で稽古のときにでも話してくれ」
少なくない注目を浴びつつ、竹刀袋に木刀を入れた池田先輩を伴って体育館を出る。
校門を見やると、ちょうど真也と砂城が走り込んでくるところだった。
「真也!」
手を振ると二人が駆け寄ってきた。
二人ともあまり息を乱していないところを見ると、真也がちゃんとペース配分をしたのだろう。
「首尾はどうだ?」
真也の問いに僕はうなずいてみせる。
「池田先輩が案内してくれるって」
「馬鹿な。危険が予想される場へ赴くのに足手纏いはいらんぞ」
「そのへんは言質取ったから」
僕と砂城のやり取りに池田先輩は改めて顔を引きつらせていたが、前言を翻す気はなさそうだ。
「久しぶりだな、池田」
「ああ。その節は迷惑を掛けた、鴻野。今回も兄が迷惑を掛けているようで申し訳ない」
「……いや、協力してくれるんだろ。なら、それでチャラということでいいんじゃないか」
確か中学時代は池田先輩は真也にライバル意識丸出しだったんだっけ。
そんな相手が素直に謝ってきたことに真也も一瞬戸惑ったようだったが、良い方向に変わったらしいと思ったのか、すぐに笑顔を浮かべた。
一度鼻っ柱を折られたのは、池田先輩にとって良い方向に作用したんだろう。
「そうか、ありがとう」
「では早速案内してもらおうか」
空気を読まずに砂城が池田先輩を急かす。
とはいえ、急ぎなのは確かだ。
遅れれば遅れるほど、氷上が何をしでかすか分からない。
そしてそれを実行するのは神奈になる可能性が高いのだ。
「分かった」
うなずいた池田先輩は歩いて行くのかと思いきや、通りがかったタクシーをつかまえた。
「金は俺が出す。心配しないでいい」
僕たちにタクシーに乗り込むよう促してから、自分は助手席へと乗り込む池田先輩。
真也に続いて乗り込んだ僕だったが、そこではたと気づく。
果たして真ん中に座った僕の隣に、にこにこ笑顔の砂城が座ってタクシーの扉が閉まるのが見えた。
「なに、不可抗力というやつだろう、これは」
「……」
油断した。
車に乗るのなんて久しぶりだったからなぁ……。
ともあれ今更暴れるわけにもいかず、鳥肌が立った二の腕を撫でながらじっとしておく。
「どちらまで」
道着姿が二人と制服姿が二人という珍しい組み合わせに多少の興味をその目に浮かべつつ、タクシーの運転手が事務的に聞いてくる。
道着姿は僕と池田先輩だが、池田先輩は部活中に無理に連れ出したので剣道着のままなのである。
「トレストタワー平池までお願いします」
「ああ、あれね。はいはい」
名称だけで分かったということは結構有名な建物なんだろうか。
疑問に思ったのが分かったのか、池田先輩は振り向いて説明してくれた。
「平池市で一番高いビルなんだ。あまり趣味は良くないんだがね……」
「ああ、あれのことか」
砂城には心当たりがあるらしい。
トレストってTALLESTだったりするんだろうか。
そんなことを考えながらタクシーで走ること十分ほど。
視界に市内では珍しい高層ビルが見えてきた。
タクシーはやがてその前で止まり、僕たちを降ろして走り去った。
「ここの最上階だ。ただ、普通には行けなかったと思う」
「だろうな。まあ、どうにかするしかない」
「ふん、確かに近くで見ても趣味が良くないな」
ビルを見上げて、僕たちは改めて気合を入れ直した。
ご感想ありがとうございます。
確かにご指摘の通りですね。
後付にはなってしまいますが、一段落したらその辺りを補完するエピソードを幕間という形で書きたいと思います。