12
旅行しつつ書くのは厳しいものがありますね……。
「退いてくれないかな?」
「あなたが傍観者でいるのならば退くのもやぶさかではありませんが、そうではないのでしょう?」
一体何本持っているのか、投げナイフをこれ見よがしに取り出しながら、観沙が言う。
彼女の厄介なところは、僕が少しでも無視しようものなら他へとナイフを投げる構えを見せているところだ。
そのせいで僕は観沙から一瞬たりとも気を逸らすことができないでいた。
「その若さでそこまでの力量に至るとは、あのとき無理にでも殺しておいた方が良かったでしょうか」
構えを取った観沙から感じる威圧感は、安仁屋さんまでとは言わないが、初めて戦った鬼人と同程度には強い。
確かに最初に会ったときの僕ではこの人に及ばない。
正面からならお師さんが来るまでくらいは生き延びられたと思うが、この人の得手は今までの行動を見る限り物陰からの奇襲。
もし最初に相手が僕を殺す気だったのであれば、気づきもせずに殺されてしまっていただろう。
だが、そうはならなかった。
今の僕はこの人を相手取っても十二分に戦える。
お師さんの命を賭けた教えが、僕にそれだけのことを可能にしてくれた。
「貴女は強い。けれど、僕の方が強い」
自分に暗示を掛けるように言い放ち、観沙に向けて闘気を叩きつける。
勝負とはたゆたう波のようなもの。
実力に勝っていようとも油断をすれば敗北するように、気力もまた重要な要素となる。
己を鼓舞すると同時に相手を威圧し、勝利の糸を手繰り寄せるのもまた兵法。
焦りも侮りも禁物だが、早く勝負を付けなければ不味い。
さっきから嫌な予感がするのだ。
お師さんと安仁屋さんが戦った、あの日のような。
「言ってくれますね。では、それが間違いであることを証明してみせましょう」
彼女はいまだにナイフ以外の手を見せていないが、鬼人である以上は何か隠し球があるはずだ。
理想はその隠し球を使わせずに勝つこと。
全力を持って押し切るのならば、それも不可能ではないはずだ。
出し惜しみするつもりはなかった。
深く、悟られぬよう呼吸して、集中という名の水の中深くへと沈んでいく。
視界が閉じていくような感覚と引き替えに、いままでぼんやりと把握していた周囲の空間の知覚がクリアになっていく。
砂城の方は膠着状態、真也たちは神奈に押されているのが分かる。
そして、目の前の観沙は気配が妙に広がっている感じがあった。
(これは……)
ノーモーションで投げられたナイフを回避し、下段というよりも足元へ刀の鋒を置いたまま、僕は観沙目掛けて地面を蹴る。
僕の広がった感覚が、清奈が真也を庇って倒れたことを知覚するが動きは止まらない。
むしろ、一刀にてケリを着けるべく加速する。
「な……っ!?」
影から飛び出てきたナイフを足の前に添えられていた刀の鋒が弾いた。
急所を狙ってくるだろうと正中線を防ぐようにしていたが、その軌道はとてつもなく正確に水月を狙ったものだった。
威力も十分で、当たれば致命傷は免れない。
反動を利用してそのまま反転し、勢いを付けた刃で観沙を袈裟斬りに斬り倒す。
大毅流『龍落』。
「くはっ!?」
肩口から深く斬られた観沙は堪らず地面に倒れ伏す。
いかに頑丈な鬼人とはいえ、しばらくは起き上がることもできない深手のはずだ。
「な……ぜ……!」
観沙の気配は彼女の視界にある影すべてから薄く発せられていた。
それは僕の影からも発せられていたため、影を使って何かをする能力だろうと踏んだのだが、果たしてナイフを投げてきたときに反対の手で自分の影目掛けてナイフを投げるのが見えた。
影を介してナイフを投げてくるなど非常識も甚だしいが、鬼人の能力に文句を言っても始まらない。
何より、今はそれどころではない。
「観沙!?」
砂城を振り切ってこちらへと走ってくる氷上を無視して、僕は清奈を抱えた真也の元へ走る。
悲鳴を上げっぱなしの神奈を放置するわけにも行かないが、清奈は急がないとこれ以上出血したら命に関わる。
「真也、神奈をお願い! 砂城先輩は剣人会の救護班を!」
青い顔で清奈を抱えていた真也は弾かれたようにうなずいて立ち上がり、氷上を追撃しようとしていた砂城もそれを断念してすぐさま携帯を取り出した。
僕は道衣を脱いで折り畳み、清奈を傷のある右脇を上にして寝かせると、道衣を傷に押し当てて押さえる。
もっと清潔な布があれば良かったのだが、今はとにかく止血が先だ。
剣人は刀と切っても切れない関係のため、止血についてはよく学ぶという話だが、僕もお師さんから止血については厳しく叩き込まれている。
右手で直接圧迫で止血しつつ、止血帯として使うために左手で帯を外して抜き取る。
「貸せ!」
携帯での連絡を終えたらしい砂城が、僕に自分の上着を被せた後でその帯を奪い取るようにして巻いていく。
「清奈、しっかり!」
みるみるうちに血に染まっていく道衣を押さえ、呼びかける。
止血帯を巻き終えた砂城が、不意に刀を抜いて立ち上がった。
「逃がすと思っているのか」
見ると、観沙を抱き抱えた氷上がじり、と後ろに下がろうとしているところだった。
「逃げるとも。観沙もこの有様だ。黒峰伊織という剣人の力を見誤ったのは痛かったけど、彼女は今、手が塞がっているし、何より目的は達した」
そして氷上は神奈の方へと確信ありげに顔を向けた。
その神奈は今は悲鳴をあげるのをやめており、その表情には何かを悟ったような色が浮かんでいた。
「分かっているね、神奈?」
「……分かった。でも手伝うのは逃げるのだけ」
「それでいい。後で例の場所で」
短いやり取りの後、氷上は観沙を抱えて踵を返す。
「逃がさん!」
追撃を掛けようとした砂城の前に、それまで真也の隣にいたはずの神奈が突如として現れる。
いや、そのように見えただけで神奈は普通に動いただけだ。
その移動速度が人の域にない、というだけで。
「ぬっ!? 退け!」
峰を返した刀で神奈を押し退けようとした砂城が、次の瞬間にぐらりと体のバランスを崩し、地面へと崩れ落ちる。
同じく峰を返した刀で、神奈が砂城の首筋を打ち据えたのが、かろうじて知覚することができた。
さっきまでの神奈は身体能力任せに斬り掛かってきていたが、今の神奈はその身体能力に剣人としての修練を上乗せしているように見える。
打たれた砂城には、神奈が何をしたのか見えなかったのではないだろうか。
それほどに神奈の動きは速かった。
「神奈、どういうつもりだ!?」
真也が詰め寄ると、神奈は眉根を寄せて困ったような笑みを浮かべた。
「ごめんね、真也兄。私、もう戻れないみたい」
「戻れないって、どういうことだ。清奈はどうする。なぜ鬼人の手助けをする!?」
「私ね、姉さんを姉さんだと分かってて、斬った。刀を止めることもできたけど、止めなかった。斬ってから改めてショックを受けたのは本当だけど、あのときにそうだったことも本当」
「なぜだ……」
呆然となる真也に対し、困ったような笑みを浮かべたまま神奈は言葉を紡ぐ。
「真也さんが欲しかったから。ううん、過去形じゃない。欲しいから。姉さんがいなくなれば、真也さんがひとつ私に近くなる。そう思った」
「神奈、おまえ」
「ひどい妹だよね。姉さんは私を本気で心配してくれてるのに。でも、今は助かって欲しいとも思う。だから、今は氷上さんの逃げる手助けしかしない」
「なぜ氷上に手を貸す」
「それは」
少し逡巡した神奈は、その決定的な言葉を口にした。
「私が鬼人になったから」
「!?」
「アントさんが私に飲ませた薬ってデモン?だっけ。あれと同じだったみたい。私が強くなりたいと望んで、アントさんはあの薬をくれた」
穏やかな顔でそう告白する神奈は、先ほど見せた強さとは裏腹にまるで消えてしまいそうな儚さだった。
確かに鬼人の血であるデモンを飲むと、鬼人のような力を発揮するようになるが、適性がなければ鬼人になることはできなかったはずだ。
神奈にはその適性があったということなのだろうか。
「強さを望んだのにはいくつか理由があるけど、一番大きいのはやっぱり、真也兄が強い人を認めているから。そして、さっき姉さんを斬ったことで私は自分が鬼人となったことを悟った。本当は斬りたかったのは姉さんではなくて」
穏やかな顔で語っていた神奈は、そこで敵を見るかのような目で僕を見た。
「伊織姉だったんだけど」
「……なんで僕を敵視するの、神奈」
そう問いかけると、神奈は視線を和らげて少し申し訳なさそうな顔になった。
「伊織姉は悪くない。でも、真也兄が一番気に掛けてる女性だから。私が真也兄を手に入れるには、姉さん、そして伊織姉が一番邪魔だった」
「神奈、俺は今まで伊織も、清奈も、おまえもそんな風には見たことはない」
「知ってる。真也兄はそういう人だって。でも、伊織姉のことを一番意識しているのは本当でしょ? それが女としてか、剣士としてかはともかく」
そして再び敵愾心の炎を燃やした目に戻った神奈は、慟哭のようにそれを口にした。
「私が伊織姉に勝つには、何かに縋らなくちゃ無理だった。好きな人が、自分が剣の腕でも、容姿でも、性格でも勝てない相手を気に掛けている絶望なんて、伊織姉には分からない。それに、もし伊織姉が居なくなったとしても、次は姉さんがいる。私より強くて、私と同じように真也兄のことが好きな姉さんが」
神奈の叫びは僕の胸に突き刺さった。
前世の僕は何も持っていなかった。
そうして生きてきてひとつのものを得たときに死んだのだが、それが得られるまで神奈のようなことを思ったことだってある。
僕は良くも悪くも適当だったのでそれほど思い詰めはしなかったが、神奈のように真面目な娘はそうは行かなかったのだろう。
砂城による力のなさの指摘に端を発し、それが真也への思慕の情と結びついて、僕と清奈を上回らなければならないと思い詰めるまでに至った。
そうしてそこを氷上に付け込まれたのだろう。
でも、それでも僕には疑問があった。
「神奈。なぜ鬼人になったら氷上に手を貸さないといけないの」
「……伊織姉らしい質問だけど、剣人と鬼人は不倶戴天の敵同士。当然剣人の側にはもういられないし、他の鬼人にとっても元剣人の私は敵。私の味方はあの人しかいないってこと」
「僕は神奈の味方だよ。きっと、清奈も、真也も」
その言葉に神奈は数秒、呆然とした表情を浮かべた後に首を横に振った。
「伊織姉はそうかもしれないけど、他の人はそうじゃない。私は姉さんを斬った。もう、許されない。何より、私にとって伊織姉は敵」
「神奈……」
神奈に敵と言い切られたのは、僕にとっても結構なショックだった。
けれど知らなかったこととはいえ、神奈を追いつめた原因の一端が僕の存在である以上、僕は神奈に対して何らかの責任を取らなければならない。
だが、それはどうしたら良いのだろう。
答えなど持っているはずもなく、そして時間は容赦なく過ぎていく。
「神奈、俺は」
何かを言い掛けた真也を、神奈は刀を『鞘』に入れる動作で遮った。
「今日は退くけど、次は真也兄、あなたを貰うから。そしてそれを邪魔するなら、伊織姉も、姉さんも、今度こそ殺す。それが嫌なら、真也兄、大人しく私のものになって」
神奈は、もはやそう決めた者の目で真也を見た。
息を呑む真也に構わず、神奈は踵を返した。
「一週間後に、また来る。……姉さんを、お願い」
このままでは神奈も、清奈も、真也だって救われない。
けれど、僕も真也も、掛ける言葉が見当たらなくて。
そのまま身を翻した神奈は、いつか見たお師さんをも上回る速度で走り去っていった。
「かん、な……」
朦朧とした意識で清奈が神奈を呼ぶように名前を口にしたときに、路地の向こうに白いバンが止まるのが見えた。
どうやら砂城が呼んだ剣人会の救護班が来てくれたようだった。
さっきからずっと止血をしていたお陰か、どうにか清奈の出血は止まっていた。
その清奈を救護班の人に預ける。
「清奈を、お願いします」
その言葉に力強くうなずいてくれた班員たちのバンが発車していくのを見送った後、僕と真也は倒れている砂城の前で、彼が意識を取り戻すのを待ちながら話していた。
バタバタしていたので砂城の上着を羽織っただけの姿だったのを、顔を赤くした真也に指摘されて羞恥に悶絶したりはしたけれど。
いまは袖を通して前も止めたので問題はない。
砂城の上着だってのが気に入らないけれど、貸してくれたことには感謝しよう。
「神奈が、あんな風に思い詰めていたなんてな……俺のせいだ。気づいてやれなかった」
自嘲するように言う真也にデコピンをかます。
手加減抜きで。
「いってぇ!? おい、何するんだよ!?」
「真也のせいでもあるけど、僕と清奈と神奈のせいでもあるんだよ。もっと言えば茨木のご両親と春樹さんにだって責任はあるんだし」
「いや、でも」
「確かに僕たち四人の責任は一番重いよ。そんでもって、神奈は誰にも教えてくれなかった責任があるし、僕たち三人には気づいてあげられなかった責任がある」
僕はこの責任から逃れるつもりなんてない。
そして確信しているけれど、真也も清奈も逃げるはずがないのだ。
「神奈は鬼人……いや、剣人で鬼人なんだから、剣鬼とでも言えばいいのかな。とにかく、それになってしまった。それはもう変えられない事実。その上で真也。真也はどうしたい?」
「俺は……神奈を、助けたい」
「だったら、助けよう。剣人会が何を言おうと、僕も神奈を助けたい」
予想通りの答えを返す真也に、僕は我が意を得たりとばかりにうなずいた。