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剣人  作者: はむ星
青年篇
35/113

2

 女子トイレの洗面台で水を流しっぱなしにしながら、僕は手で唇をごしごしとこすっていた。


(うああ気持ち悪い。なめくじでも押し当てられた方がよっぽどマシだ……ってそれもイヤだけど比較対象としてそのくらいっていうかうああああ)


 鳥肌が治まらない。

 今の僕は女だから女の子に欲情したりはしないけど、だからといって男と恋愛したいわけではない。

 別に男性恐怖症でも潔癖症でもないから日常的に触れ合う分には何とも思わないけれど、いわゆるデリケートな部分を男に触れられるのは普通に御免被るのだ。

 しかも転生してからのファーストキスの相手がアレとかあり得ない。


 思い出すだに腹が立つ!

 ぐあー!


 僕が普通に乙女心持ってる女の子だったら斬殺モノだぞこれ。

 気持ちは治まらないけど、あまりこすると肌に良くないし、どれだけこすってもたぶん気持ち悪さは取れない。

 仕方なく適当なところで切り上げて、僕はハンドタオルで顔を拭いて外に出る。

 まだ道着なので制服に着替える必要もある。

 更衣室の水道で顔を洗えば良かったが、あまりの気持ち悪さにとにかく目についた最初のトイレに飛び込んだのだ。


「伊織!」


 僕を見つけて走り寄ってきた真也に思わず棘を含んだ視線を向けるが、なんというか全身で萎れてるし、済まないという気持ちをこれ以上ないほどに表していたので、毒気を抜かれて立ち止まる。


「なに」


 声が物凄く尖っていたのはさすがにコントロールできなかった。

 なにせ鳥肌もまだ治まってないのだ。


「済まん。あいつがあんなことをするとはさすがに思ってなかった。だが責任は俺にある」


 深々と頭を下げる真也。

 登校して来始めた生徒たちが、怪訝な顔をして通り過ぎていく。


「……まあ、いいよ。真也の責任でもないし」


 息を吐いて肩をすくめる。

 連れてきた責任とかはあるかもしれないけれど、ここで真也に当たっても仕方ない。

 明確に悪いのはあの赤毛バカなんだし。


「いや。やっぱり、あいつと伊織を会わせるべきじゃなかった」


 頭を下げっぱなしの真也。

 いや、そろそろ周囲の目が痛いので顔を上げて欲しい……。


「と、とりあえず顔上げてくれないかな」

「分かった」


 素直に上げてくれたので入学初日から悪目立ちすることは回避された。

 すでに何人かには目撃されてるけど、早朝でまだ少ないから許容範囲だと思いたい。


「それで、何なのアレ」


 名前は覚えてるけれど呼んでやるつもりは毛頭ない。

 アレとかソレとかバカで十分だ。

 まだホームルームまでには時間があるので赤毛バカについて聞いておく。


「さっき言った通り剣人だ」


 真也は廊下の隅に移動して声を潜めながら言う。

 いかに剣人会の息が掛かっている学校と言っても、関係ない生徒の方が大多数なのだ。


「俺が剣人に成ってから、一緒に戦っている相棒でもある」


 成る程。

 真也の相棒が務まるとなると、剣の腕はかなり良いんだろう。

 さっきの身のこなしも僕が気を抜いていたとは言え、対応できなかったわけだし。

 ああ、思い出すと怒りが。


「……続けていいか?」

「あ、うん」

「あんな性格だが剣人としては腕には信頼が置けるし、ああ見えて目配りもできる奴だ。考えも現実的で地に足が着いている」


 あれ、割とべた褒め?


「ただ気配りはしようとしないし、他人にシビアで自己中心的でもある。俺としては相棒でもあるし、一目置いてもいるからおまえに紹介したけど、あんなことをするとは……」


 そんなこともなかった。

 つまり有能だけど人格に問題有りといった感じのようだ。

 ともあれ僕の要望を真也に伝えておくことにする。


「とにかく、僕はあいつの顔も見たくないから近づけないようにして欲しい」

「分かった。できるだけ俺も努力する。……あいつももうあんなことはしないとは思うが、とにかく伊織はあいつに近づかないようにしてくれ」


 そこで絶対に近づけないとか言えないのが真也だ。

 四六時中僕やアレに貼り付いているのは物理的に不可能だし、真也にだって都合というものはある。

 絶対に、というのが保証できない以上、それを口にすることはないのだ。

 それはそれで好感が持てる。


「ん。じゃあこの話はこれでおしまい。真也はあとは気にしなくていいから」

「……ありがとう」


 そう言った真也がまだ何か言いたそうにしていたので、僕は首を傾げる。


「他に用があるの?」

「あ、ああ。自分の恥を晒すようなことなんだが……」


 多少歯切れ悪く、目を伏せながら切り出した真也は、意を決したように目を上げた。


「俺の剣は最近、伸び悩んでいる。おまえに追いつけてすらいないのに不甲斐ない話だが、どうすれば良いのか分からないんだ」

「壁が破れないってこと?」

「壁、か。そうかも知れない。砂城には視野が狭すぎると指摘された」


 ヤな奴の名前が出たので反射的に眉を寄せてしまうが、確かに真也には真面目すぎる嫌いがある。

 壁という比喩を持ち出したのでそれで例えると、壁を越えるには色んな手段がある。

 登って乗り越えるのが一般的だと思うけれど、横に回って回避したり正面から破壊してぶち抜いたり、何なら地面を掘ってトンネルを作って抜けることだってできる。

 どの手段を使おうが、壁を越えた先の景色は同じなのだ。

 だったら、手段を問わずとにかく越えてしまえば良い。

 壁によっては横に回れなかったり、破壊するには硬すぎたりするかもしれないから、多様な手段を試すのは必要だ。

 でも真也は真面目なので登って乗り越える手段しか・・考えられない。

 それでは高すぎる壁を前にしたときに乗り越えられないかもしれない。

 赤毛バカの指摘はそこにあるんだろう。

 真也の評の目配りが利くというのは嘘ではなさそうだ。

 だが奴は許さん。


「どこが伸び悩んでると思うの?」

「全体的にだが……特に最近は先読みについて、伊織にはまったく及んでいないと感じる。どれだけ剣を振っても、当たらないのでは意味がない」


 真也の剣が僕に当たらないのは玉響を遣っているせいだけど、玉響は春樹さんにすら開示されていない奥義だ。

 対鬼流の正統継承者は僕なので、その気になれば玉響を真也に教えること自体はできる。

 だが真也は春樹さんの教え子だ。

 春樹さんにも真也を育てるための予定というものがあるし、僕が勝手に技を教えるわけには行かない。

 そもそも真也の師である春樹さんは玉響を使えないが、今の僕より遥かに強い。

 別に玉響は無敵の奥義というわけじゃないのだ。

 ただ、真也には僕のライバルでいて欲しいというのも偽らざる気持ちだ。

 その真也が恥を忍んでまで僕に助力を求めてきたのだから、それに応えずして何がライバルだろうか。

 僕にあって真也にないものが何なのか考える。

 玉響は結果であって、その根本にあるものが差なんだと思う。

 そこまで考えたときに、僕は赤毛バカの指摘がもっと深いものだったことに気づいて思いっきり顔をしかめた。


「どうした?」

「うーん……アレの指摘なんだけど」


 僕が顔をしかめた原因が分かって、怪訝そうだった真也が納得したような顔になる。


「真也って、先読みするときに相手が剣を遣う前提で読んでないかな」

「う……」


 思い当たる節があるのか、絶句する真也。


「練習相手は道場のみんなだから、自然と剣術遣いを前提にしてしまうのは分かるんだけど、それだけだと読みの幅が狭くなるんじゃないかな」


 真也がすでに剣人として活動し始めているのは知っているけれど、まだ鬼人との本格的な戦いは経験していないとも聞いている。

 デモン服用者とは戦っているみたいだけど、格下との戦いで先読みが鍛えられるわけもない。

 そうほいほいと鬼人がいても困る話ではあるけど、僕の先読みが剣術遣い前提になっていないのは、都合二回の鬼人との戦闘経験に依るところが大きい。


「視野を広く持て、というのはそういう指摘も含むんだと思う。……もっと丁寧に説明すればいいと思うんだけど」

「いや」


 首を横に振った真也の目は、解決の手がかりを得た興奮に輝いていた。


「俺が不甲斐ないせいで伊織を煩わせただけだ。あいつは十分にヒントをくれていた」


 あの赤毛バカに対する僕の評価は地の底だが、真也の評価はかなり高いようだ。


「ありがとう、伊織。何か道が見えた気がする」

「あ、うん。どういたしまして」


 また深々と頭を下げる真也。

 やめるんだ、さっきより人増えてるのに。


「と、とにかく、今日の稽古から意識を切り替えてみるといいんじゃないかな」

「ああ」


 顔を上げた真也にほっとしつつ周囲を窺うと、登校時刻ピーク真っ只中で多数の登校中の生徒さんたちの注目の的になっていた。

 手遅れだった。


「そ、それじゃ僕は着替えあるからっ!」

「あ、ああ。また後でな」


 視線に気づいていない真也を置いて、僕は脱兎のごとくその場を後にした。


*   *   *


 初日は入学式とホームルーム、それと各種確認事項で終わりだった。

 部活紹介とかは明日らしい。

 まあ、部活をする気は相変わらずないんだけど。

 高校からは知らない人も一気に多くなっているんだけれど、クラス分けの中に清奈が一緒にいたのは嬉しいことだった。

 ただ、清奈も剣人専用の女子寮に入ることになっているので、残念ながら登校は僕とは別だ。


「伊織さんは高校でも部活動はするつもりはないんですよね?」


 清奈が改めて確認するように僕に言ってきたので、それにうなずく。


「うん。前からそう言ってたと思うけど、何でまた?」

「ええ……ちょっと厄介そうなのがいまして」

「厄介?」

「剣道部の副将で、一般の人なんですけれど……って、噂をすれば影です」


 中学のときも入学初日に剣道部主将と諍いがあったわけだけど、高校でもなんだろうか。

 清奈が示した方向を見ると、ショートカットの、ボーイッシュというにはちょっと艶のあるクールな美人が立っていた。

 男子にも女子にも人気がありそうな感じだ。


「こんにちは」


 声も容姿に違わず落ち着いていて綺麗な声だった。

 剣道部副主将というだけあって、見たところずいぶんと鍛えているみたいだけれど、筋肉質ではなくしなやかなカモシカのような印象を受ける。


「こんにちは。私たちにご用でしょうか、先輩」


 清奈がよそ行きの声で応対する。


遠藤えんどう理華りかよ。あなたは茨木清奈さんで、そっちの子は黒峰伊織さんでしょう?」


 あれ、名前まで知られてる。

 何でだろう。


「強いと噂の剣道部や剣術道場の子はチェックしてるのよ」


 疑問が顔に出ていたのか、遠藤先輩はそう言って笑った。

 百合が花開いたかのような笑顔に、通りがかった新入生たちが(男女問わず)見惚れながら通り過ぎていく。


「鴻野道場は公式試合に出てこないからなかなか情報が集めにくいんだけど、ほら、幸い所属している同級生がいるでしょ。彼から色々聞いているの。本当は彼にも剣道部に入って欲しかったんだけど」


 残念そうにため息をつきながら、遠藤先輩は僕たちを品定めするように見る。

 いや実際に品定めしてるんじゃないだろうか、これ。


「それで、勧誘ですか? 部活動紹介は明日だったはずですが」

「ええ。だから今日はあなたたちが噂通りなのかどうかを見定めに来たってわけ」


 清奈を見て微笑みを浮かべる遠藤先輩だが、僕を見たときには若干眉をひそめた。

 うん、まあそうさせてるのは分かってるんだけど。

 相手の力量を測るには、自分にも相応の力量と経験が要求される。

 そうじゃないとどこを見て判断すれば良いのかがそもそも分からないし、経験という比較対象がなければ対象がどの程度強いのかを測る物差しがない。

 これは逆にそのポイントが分かっていれば実力を隠すこともできるということを意味している。

 もちろん相手より高い力量が要求されるし、隠したとしてもある程度の力量を持つ相手に素人だと思わせることは難しい。

 素人が玄人の振りをするのはもちろん無理があるが、その逆に玄人が素人の振りをするのにも限界がある。

 武術であれ芸事であれ、苦労して身に染みつかせた動きというのはどうやっても滲み出るからだ。

 ゆえに相手も遣えるようだが力量が分からない、という具合にしか隠せないのが普通だ。


「茨木さんは噂通りみたいだけど……黒峰さんはよく分からないわね」


 僕が力量を隠しているのを悟った清奈の「ずるい!」と言わんばかりの表情は意図的にスルー。


「僕はどの道部活動をする気はないので」

「あら、それはもったいなくない? 鴻野道場が凄いのはあなたたちや鴻野くんを見ていればよく分かるけど、視野を広げてみるのも大切よ?」


 何か今朝聞いたような話がブーメランで戻ってきた。

 剣道をやることで僕の剣にプラスがないのかと言われると、もちろんそんなことはないのだけれど、僕はお師さんから受け継いだ対鬼流を一番にしている。

 腰掛けのように剣道をやるのは失礼な話だし、かといって対鬼流をないがしろにするつもりはさらさらない。

 それはともあれ、遠藤先輩はどこかの剣道部主将とは違ってこちらを敵対視するつもりはなさそうだ。

 その代わり何かと押しが強そうだけど。


「確かにそれは大切だけど、視野を広げるのは別に剣道じゃなくてもいいよね」

「ふふ、そうね。なかなか手強いようね、黒峰さん?」


 しまった、興味を持たれてしまった。

 でも清奈を人身御供に逃げるのも人としてどうか。

 清奈は逃さないと言わんばかりに僕の上着の裾をつかんでるし。


「それにしても……本当に変わった二人組ね。私としては是非剣道部に入って貰いたいけど、無理な勧誘は禁止されているから、心配しないで」

「変わってるって、どの辺が?」

「見る人が見れば分かるわ。その歳でうちの主将すら敵いそうにない子と、腕前をつかませないなんて真似ができる子。是非、一手お手合わせ願いたいところね」


 この人、清奈に剣の腕は敵わないにしてもかなり目が利くようだ。

 手合わせならむしろ僕も清奈も望むところなんだけれど、それに部活勧誘がセットが付いてくることを考えると迂闊なことは言えないしできない。

 清奈には剣人としての勤めがあるし、僕は僕でこれから大詰めなのだ。


「まあ、入る入らないは別にして、一度見学に来てくれないかしら。あなたたちみたいな可愛い子が来ると余計なのがたくさん来るのが面倒なんだけど、それでもあなたたちを逃すのは惜しいわ」


 またずいぶんと高評価で……。

 そう言うと遠藤先輩は用は済んだとばかりに颯爽と去って行った。

 あれほど颯爽と、という形容詞が似合う人は初めて見た気がする。


「困りましたね……。まあ、見学だけ行って断ればいいんですけど」

「そうだね、それが無難かな。……あ」

「どうしました?」

「確認するの忘れた……」


 あの赤毛バカが剣道部にいるのなら、僕は金輪際剣道部には近寄らないのだが、そこを確認するのを忘れてた。

 まさかアレが主将だったりはした日には、僕は剣道場で暴れだす自信がある。

 真也に早速確認しておかないと……。

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