31 幼年期の終わり
次話で幼年篇は終わりです。
痛いほどに静かだった。
風ひとつなく、虫の声もなく、凍てつくような冷たい空気がそこに在るだけ。
僕は道場に置いていた刀を手に取り、目釘の緩みやカタつきがないかを確認する。
その間、お師さんは何も言わず腕を組んで座っているのみ。
お師さんの傍らには稽古に使用する二尺四寸の黒塗鞘の刀があり、鬼姫を使用するつもりはないようだった。
確かに、鬼姫を使われると得物の強度で勝てなくなる。
あくまでも五分の勝負がお師さんの望みのようだ。
刀に問題がないことを確認して僕が立ち上がると、お師さんも呼応するように腰を上げた。
「準備はできたようじゃな」
刀を抜き放ち、鞘は道場の隅に置くお師さん。
「まずは礼を言う、伊織。儂の我侭じゃというのに、逃げずに受けてくれたこと、嬉しく思う」
お師さんは僕の前まで歩いてくると、頭を下げた。
「じゃが、それと試練は別じゃ。おめえが力及ばぬならば、斬って捨てられると心得よ」
すう、と八相に構えたお師さんから殺気が滲み出る。
先ほどまでの穏やかさはそこには微塵もない。
お師さんは十分に本気だ。
「構えよ」
声に応じ、僕は正眼に構える。
事ここに至って、僕は不思議と落ち着いている自分に少し驚く。
「お師さん」
一言だけ、言っておきたかった。
これが最後の会話になるかもしれなかったから。
「育ててくれて、ありがとう。僕、お師さんに拾われて幸せだったよ」
その言葉にお師さんがうなずいた気がした。
それを合図に、道場内の空気が張り詰める。
(先手必勝……!)
お師さんと僕のどちらが格上かなど問うまでもない。
挑戦者は常に先手あるのみ。
そう考えて突っ掛けようとした僕に、まるで合わせるかのように振り下ろされる袈裟斬り。
慌てて足を止めて体を左に開きながら刀を振り上げ、振り下ろそうとしたときには鼻先に突きが迫っている。
のけぞって躱すも、そのまま刃が下に振り下ろされる。
これは、呼吸が読み切られている……!?
「くうっ!?」
踏ん張らずにそのまま倒れ、刃の進路上から体を捻ってどうにかずらす。
床を転がって距離を空けて立ち上がるも、今の短い攻防ですでに息が乱れ始めた。
「よく躱した」
対するお師さんには息の乱れはない。
僕と違って無理な動きを一切していないのだ。
(これは、『無明』……!)
対鬼流『無明』。
玉響と並ぶ奥義のひとつであり、相手の動きを先読みし、かつ呼吸をも読むことでその技の出掛かりを最適な技で潰す返し技だ。
決まれば一太刀で決着が付くほどの技であり、決まらなかったとしても今の僕のように相手に大幅な消耗を強いる。
玉響を完璧に使いこなす実力が必要な技である上、玉響ができれば使えるというものでもない。
僕も教えては貰っているが、これを実戦で使いこなす自信はない技だ。
(やっぱり、お師さんは凄い)
身が震える。
それは恐怖か、歓喜か。
自分でも分からないまま、それでも前に出る。
呼吸を読み切られている以上、普通の攻撃は通用しない。
「えあっ!!」
気合一閃、打って出た僕はぎりぎりまでお師さんの小手を本気で狙い、そこから敢えて刀へと狙いを変更する。
使う技は対鬼流『鎧通』。
相手の動きを読んでまったく同じ箇所に連続で三回以上の攻撃を加えるこの技は、本来は鬼人の強固な皮膚を貫くためのもの。
それは刀を破壊するとまでは行かなくとも、取り落とすくらいの効果はあるはずだ。
「むっ!」
フェイントが功を奏したか、お師さんの反応が一瞬遅れる。
この攻防は先手を取った!
一撃、二撃、僕の刀の鋒がお師さんの刀の鍔に近い平地の同じ部位を捉え、鋼の刃にわずかに傷が入る。
だがお師さんは刀を手放さない。
ここを先途とばかりに三撃目を突きこむが、お師さんは体勢を崩しつつもそれを自らの刀を絡めるようにして受ける。
(まさか、この体勢から……!?)
何をするかを読んだにも関わらず、まさか体勢を崩しながらやるとは思っていなかった僕はそれへの対応が遅れる。
お師さんは突きを自らの刀で逸しつつ、その威力を利用して崩れた体勢のまま体を回転させる。
これは変形の『岩颪』……!
体勢を崩した状態で回転しているために狙いは正確ではないけれど、防ぐことを考えた場合にはこれは却ってマイナスだ。
本来なら胴を薙ぐように斬り込むはずだが、今お師さんはほとんど倒れながら斬りつけてきている。
後ろへ跳び退りながら、僕は左腿を守るように刀を下段へと叩きつけるように振る。
ガギィッ。
耳障りな音がして、刃と刃が噛んで砕けて小さな破片が飛び散る。
刀の遣い方としては下の下。
それでもこうして防がなかったら、大腿部に大きな傷を負って動けなくなっていた。
刀の傷みは五分。
そしてお師さんは無理な岩颪の余波で倒れ込む。
(勝機!)
踏み込む。
そして――僕は固まった。
今、僕の手にあるのは真剣だ。
そして今のお師さんは腕を斬られようが足を斬られようが、敗北を認めることはない。
勝つということはすなわち殺すこと。
それに思い至ったとき、僕はコンマ数秒、確かに動きを止めてしまった。
その隙をお師さんが見逃すはずもない。
左足を熱さが走り抜けた。
見ると、お師さんの刀が僕の左のふくらはぎを貫いている。
「馬鹿者が……」
ずるり、と僕の足から刀を抜きながらお師さんが立ち上がる。
この攻防で、僕は続けざまに三つのミスを犯した。
ひとつ目は攻撃のチャンスを見逃したこと。
二つ目は動きを止めてしまい、反撃を受けてしまったこと。
三つ目は攻撃を受けた後は最大の反撃のチャンスであるのに、それも見逃したこと。
「く……」
熱さを感じた部分から、じんじんとした痛みがじわじわと広がっていく。
左足は動かせなくはない。
刺し傷は深いが表面上の傷口は小さく、出血もさほどではない。
ただし、さほどではないとは言ってもそれは傷口の深さに比してという話であり、刺し貫かれた僕の左足からはそれなりの出血がある。
出血は体力を奪っていく上に足元に血だまりでもできれば足を取られるし、痛みは集中力を妨げる。
自分の不注意……否、不覚悟から一気に勝利が遠のいた。
覚悟さえあれば勝利していたところを、その不足によって逆に窮地を招いた。
馬鹿者と言われても仕方がなかった。
(覚悟……か。やっぱり、僕には……)
痛みは歯を食いしばれば耐えられる。
でも、お師さんを殺す覚悟なんてどうやっても決まる気がしない。
「……伊織」
正眼に構え、お師さんは僕にまるで諭すかのように言う。
「おめえが儂を殺さんのなら、儂がおめえを殺す。そいつは変わらん」
その口からつう、と血が流れ出す。
口を切ったとか、そういう出血量じゃない。
恐らく、強い咳の発作を意志の力だけで封じ込めて、それでもなお抑えられなかったものがあれだ。
あれは、お師さんの生命力だ。
それが流れ出してしまっている。
「じゃが、願わくば……この老骨を越えたおめえの姿を見せてくれ」
どれほどの気力をもって、お師さんはここに立っているのだろうか。
残り少ない生命を燃やしてここに立っているその姿、その思いは例えようもないほどに尊く、美しく僕の目に映った。
(ああ)
これを無駄にすることなんて許されない。
それはお師さんに対する侮辱であり、魂の冒涜に等しい。
頬を伝うものを感じながらも、それを振り払い、刀を構える。
足の痛みは激しくなっている。
心の痛みは今なお大きい。
それらをすべて感じながらも、そのすべてが今は些事だと断ずる。
今、僕が注視すべきもの。
それは目の前のお師さん、ただひとり。
「いえぇぇぇい!!」
裂帛の気合とともにお師さんが絶妙の間で肉薄する。
安仁屋さんとの戦いでも使った拍子技、『鬼門』。
だが今、僕の目にはお師さんの動きがひどくゆっくりした動きに映る。
(……そうか)
唐突に悟る。
これこそが僕の玉響における先読みのイメージ化なのだと。
初めて玉響を遣ったときは分からなかったが、確かに相手がスローモーションのように見えた覚えがある。
あれこそがそうだったのだ。
お師さんの玉響のように相手の動いた結果は見えない代わりに、動きを先読みしたときは僕が先んじて動くことができるのだ。
お師さんが突進してくるのに合わせて一歩下がる。
鬼門は相手の動きに合わせて変化する技だ。
果たして下がった僕に反応して、お師さんは突きを繰り出す。
受けることはできない。
今の僕の左足では、受けによる負荷に耐えられない。
痛みは無視できたとしても、傷ついた筋肉ではその重さを支えきれないからだ。
ならば躱すしか手はない。
本来なら反応できないほどの鋭さを持つその突きだが、今の僕にはそれが見えている。
そして躱すだけでも駄目だ。
足をやられた以上、勝負どころはここしかない。
この思いを、覚悟を、無駄にするのであれば、僕はお師さんに二度と顔向けができない。
自然に手が鋒をお師さんへと向ける。
(これが、覚悟)
心の底に煮えたぎった溶岩のような熱を抱えたまま、表層は鉄のように冷えて硬くなっていた。
後で噴き出して己を焼くのだとしても、今はその熱を奥底に押し込める。
左足の痛みは無視する。
この程度の痛みは、この心の灼熱に比べれば心地よいほどだった。
今この瞬間だけ動ければそれで良い。
「あぁぁぁああ!!」
知らず叫び、迫る鋒を躱して体ごとぶつかるように突きを繰り出す。
右肩に熱が走り、そして手には刃が肉を切り裂く鈍い感覚。
どん、と体と体がぶつかり合って、我に返る。
お師さんの刀は僕の肩を、そして僕の刀はお師さんの胸を、貫いていた。
「よう、やった」
胸に僕の刀が刺さったお師さんは、朱に染まった口を笑みの形にした。
倒れようとするお師さんの頭を無意識のうちに抱え、僕はそのまま尻餅をつくように床にへたりこむ。
それと同時に完全に躱し切れずに僕の右肩に刺さっていたお師さんの刀が、音を立てて床に転がった。
頭は真っ白だった。
何が起こったのか、分かってすらいなかった。
いや、理解したくなかったのかも知れない。
ごぼ、と血を吐く膝の上のお師さんの顔を見て、現実を理解する。
「伊織よ、おめえの玉響、見えたんじゃな」
声が出せずに、僕は必死でうなずく。
「やはり、おめえは儂が見込んだ通りじゃった……。鬼門を見切ったおめえの動き、儂には見えなんだ」
口からは血を吐いて、胸には刀が刺さったままで、どう見ても苦しそうなのにお師さんの声は満足そうだった。
「おめえには儂の我侭に付き合わせて、悪かったと思っておる。じゃが……儂はこれで本望じゃ。武人として、これ以上ない死に方じゃと、断言できる」
「お師、さん……」
ようやく出せた声は、ひどく歪んだもので。
それを聞いたお師さんは苦笑を浮かべた。
「これからはおめえが五十四代、対鬼流正統継承者じゃ。じゃが、望まぬならば継がずとも良い。儂の剣を継ぐ者がいる、それだけで、儂は満足しておる」
「継ぐ、よ。お師さんに教えてもらった剣は、僕にとっても、宝物、だから」
顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっているだろう。
先ほど決めた覚悟はとっくにヒビだらけだった。
お師さんは頷いて、僕のそのぐちゃぐちゃの顔に手を添えた。
「おめえにそんな顔は、させたくはなかった。儂の力不足ゆえじゃ。許せよ」
「そんなこと、ない」
お師さんの息が荒くなってきた。
僕は歪む視界の中、首を横に振る。
「なあ、伊織よ。おめえがいなければ、儂は剣を誰に継がせることもなく、恐らくは修二に討たれ、孤独に死んでいったじゃろう。それに比べると、この結末は望外のこと、じゃ」
息はどんどん短くなっていき、目の焦点が合わなくなってくる。
「儂が死んだ後のことは、書斎の遺書に、したためてある。それを読んで、あとは光恵に、頼れ。村には、残るな。おめえのことは、春樹に頼んで、ある」
「お師さん……」
焦点の合わない目で僕を見上げたお師さんは、震える手を伸ばして、僕の頭に乗せた。
「ありがとうなあ、伊織」
見栄も何もない、透明な笑み。
その笑みを浮かべたまま、ぱたり、とその手が床に落ちた。
「お師さん? お師さん……!?」
その手をつかんで握る。
急速にその手から温度が失われていく。
「あ、あああ……」
それだけではなかった。
お師さんの体がぼんやりとした光に包まれ、そしてその光は端の方から消えていく。
光が消えた場所にはお師さんの体もなく、中央に光が集まり、端はどんどんと消えていく。
中央の光が強くなり、やがて完全に収束したとき、そこにあったのは一振りの剥き身の刀だった。
お師さんの姿はもう、どこにもなかった。
「う、あ」
もう、会えない。
苦虫を噛み潰したような顔も、その声を聞くことも、あの節くれだった手で頭を撫でてもらうことも、二度と。
その姿を偲ぶ縁すら、もう、なかった。
あのとき、それを覚悟した。
けれど。
「あ、あ………あああああああああっ!!」
その事実が突きつけられたときに、覚悟の鎧は脆くもひび割れ、底から噴き出した灼熱の溶岩が僕の心を灼いていった。
誰もいない道場に、ただ僕の慟哭だけが響く。
それが、僕の二度目の人生の幼年期の終わりだった。