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剣人  作者: はむ星
【幼年篇】
31/113

30

 気づけば、道場の中は暗くなっていた。

 どれだけ立ち尽くしていたのだろうか。

 日はすでにとっぷりと暮れていて、残照がわずかに西の空に残るのみ。

 気力なんてどこにもなかったけれど、夕食を作らないと。

 僕はのろのろと道場の外に出る。

 気持ちはぐちゃぐちゃだった。

 お師さんは逃げても良い、とは言っていたけれど、試練を課すということはその試練を乗り越えることを願っているということだ。

 その期待には応えたいと思うけれど、それはお師さんをこの手で殺すことを意味する。

 そんなことができるはずもなかった。


(お師さん……)


 なぜお師さんが急にこんなことを言い出したのかは、漠然とは分かっていた。

 お師さんは高名な剣人であり、これまでに買った怨みは多いだろうと思えたし、そうでなくても倒して名をあげようと狙われることも多いだろう。

 今日、そんな奴のひとりが来たという事実がある。

 お師さんは自分の体が利かなくなった以上、そういう状況が続くと判断したのだ。

 そうしてやって来る奴らに、今の僕では勝てないとも。


(殺さずに……試練を乗り越えるっていうのは、やっぱり虫が良いんだろうか)


 少し考えただけでも、それは無理だと思われた。

 試練そのものが殺す覚悟を持つためのものである以上、その覚悟を示さない限り試練が終わることはない。

 そして先ほどのお師さんの態度は本気だった。

 殺さずに、などという温い態度で試練に向かえば、お師さんは僕を斬り殺すだろう。

 試練の場に至れば半端は許されないからこそ、あらかじめ逃げても良いと言ったのだ。

 殺す覚悟を持った上で殺さない、ということができればお師さんを殺さずに試練を乗り越えられるだろうが、今の僕ではその境地に至れない。

 強制するのが嫌でお師さんは敢えて口にはしなかったようだったが、もし試練から逃げた場合、僕はもうこの家には居られなくなるだろう。

 お師さんを狙ってくる奴らに僕が勝てない以上、ここに置いておくことはお師さんにとって僕を見殺しにすることに等しいだろうから。

 結局のところ、僕の前には二つしか道はなかった。


 試練を受けるか、逃げるか。


 逃げればお師さんはがっかりするだろう。

 そうさせたくはないけれど、逃げないとお師さんか僕のどちらかが死ぬ。


 お師さんを殺したくない。

 僕も死にたくない。

 でも、失望させたくない。


 頭の中を同じ言葉がぐるぐると回っている。

 思考が前に進もうとしない。

 ふと、道場の隅にある神棚に目が行った。

 どの道場にも大抵、隅に神棚がある。

 ここも例外ではなく、僕も毎日塩と水を供えるくらいでさほど興味も持っていなかったのだが、今は何かに縋りたい気持ちだった。

 いつもは閉じている神棚の扉が、なぜかそのときは開いていて中にある神札が見えていた。


『八幡大菩薩』


 そういう文字が見えた。

 確か武家の守護神としての側面を持つ神様だったと記憶している。

 八幡大菩薩とも八幡神とも呼ばれるこの神様の由来は古く、平家物語で那須与一が舟の上の扇を射抜く際に唱えた神の名もこの神様のものだ。


(八……幡? いや、まさか……)


 神棚の扉をいつも通りに閉め、祈る。

 どうしたら良いか分からない。

 それでもひとつの己に課した誓いを思い出した。

 生きて、必ず助けなければならない人のことを。

 試練を受けるにせよ受けないにせよ、僕は死ぬわけには行かない。


 けれど、試練を受けるか、逃げるか。

 結局、話はそこに戻ってくる。

 僕は泣きそうな気持ちになりながら母屋の玄関をくぐる。


「伊織」


 暗い中、電気も付けずに居間に座っていたらしいお師さんが僕に声を掛ける。

 顔をあげてそちらを見ると、お師さんは笑ったようだった。


「今夜は、うめえ飯を頼む」


 ……それで、分かってしまった。

 お師さんはもう、すべての覚悟を決めている。

 そしてその上で、僕の勝利を疑っていないことを。

 逃げられない。

 この試練からは、逃げてはいけない。


「うん、分かった」


 いまだ整理のつかない気持ちを振り払うようにうなずき、僕は居間の電気を点けてから台所に立つ。

 鍋に沸かしたお湯に、光恵さんからお裾分けで頂いた鯉の切り身を鱗をつけたままぶつ切りにしたものをくぐらせる。

 一度湯を捨てて今度はお湯に味噌と酒で味を調えたものを沸騰させ、その切り身を少しずつ入れていく。

 灰汁取りをする間に大根やネギなどの野菜を洗って切り、豆腐も準備。

 灰汁が出てこなくなったら野菜を投入。

 そこから羽釜で白米を炊き、火加減を見る傍らもう一品作る。

 七輪に火を熾し、これも村の猟師さんからの頂き物である鴨の腿肉を一口大に切って竹串に刺したものに、醤油を酒で溶いたものを塗って炙る。

 鴨肉を炙りながらも、鍋に豆腐を入れて一煮立ち。

 その頃には米が炊きあがる良い香りが台所に立ちこめる。


「……できた」


 器に盛りつけ、居間で待つお師さんの元へ配膳する。


「おお、鴨の串焼きに鯉こくか。ご馳走じゃな」


 相好を崩すお師さん。

 ポットにお湯を入れてお茶の準備もしてから、僕もちゃぶ台についた。


「いただきます」


 二人して手を合わせてから、箸を付ける。

 うん、鯉こくは鯉の出汁が良く出て野菜に染みこんでいるし、鴨は良く乗った油がほどよい焼き加減で活性化されていて、味が濃い。

 素材の良さが大きいけれど、会心の出来と言っていいんじゃないだろうか。

 体を壊してから小食になっていたお師さんも、ゆっくりながらいつもより多く食べてくれている。

 しばらく、食器と箸の触れる音だけが居間に響いた。


「美味かった」


 お師さんが口を開いたのは、食後のお茶を飲んでいるときだった。

 そしてそのまま杖を持たずに席を立つ。


「伊織よ。道場で待つ。覚悟が定まったなら、来るが良い」


 まるでその体からは青い炎が吹き出しているかのように、闘気に満ちていた。

 母屋を出て行くお師さんの体が倍ほどにも膨れあがったように感じた。


(覚悟……)


 今のお師さんは、体が衰えていることなど微塵も感じさせないほどの気に満ちている。

 あれなら安仁屋さんと戦う以前にも劣らぬ動きをしてみせるだろう。

 そんなお師さんに、僕が勝てるのか。

 負ければ死ぬ。

 試練の間、お師さんは僕が死のうと手を緩めることはない。

 それでも僕はなお戦いを挑めるのか。

 そして何より。

 僕が勝ってしまえば、お師さんは死ぬ。

 それに、耐えられるのか。


 食器を片付け、十年以上を過ごしてきた自分の部屋へと入る。

 文机の上に置いてある犬のぬいぐるみのポメを撫でる。

 小さい頃のお気に入りだったけれど、この頃は滅多と触ることもなくなっていた。

 ポメを見ると、お師さんが僕を拾ったばかりの頃を思い出す。

 不器用ながら一生懸命赤ん坊の僕の世話をしてくれたお師さん。

 その顔から、厄介者を拾ってしまったという表情が浮かばなくなったのはいつの頃からだったろうか。

 分かっていなかった型の意味を理解したとき、打ち込み稽古でお師さんから一本を取ったとき、いつも苦虫を噛み潰したような顔の中で、目だけが優しい光を帯びていた。


 戦う覚悟は決められる。

 死ぬ覚悟も持っている。

 けれど。

 殺す覚悟だけはどうしても、定められなかった。


「……ぐ」


 押し殺したような声が口から漏れる。

 嗚咽を噛み殺したのだということを、それでようやく理解した。

 無意識のうちにずっと撫でていたポメから手を離す。

 小さい頃はふわふわだったその毛並みも、長い間手垢にまみれては洗うことを繰り返したおかげでごわごわになっていた。


「行かないと」


 覚悟は定まっていない。

 でも、逃げるという選択肢はもう僕にはないのだ。

 この十三年、僕は道場へ向かうのが楽しみではあっても嫌だと思ったことは一度もなかった。

 今、初めて重い足取りで道場へと歩きだす。

 刀は道場に置きっぱなしだったから、手ぶらだ。

 道場には、お師さんが点けたのであろう灯りがついていた。

 立ち止まり、道場の入り口を見上げる。

 入り口は開けっ放しで、中では蝋燭の灯りに照らされたお師さんが、道場の床に正座をして目を瞑ったまま腕組みしていた。


(ここをくぐってしまったら……)


 道場の内と外を隔てる境界線。

 たった一歩ので踏み越えられるその距離が、今は果てしなく遠い気がした。

 そう、たかが一歩。

 それを踏み出したら、もう、今までの日常は帰ってくることはない。

 それが歯の根が合わなくなるほどに恐ろしい。

 思わず自分を掻き抱くようにして、目をぎゅっと瞑る。

 そうすることで、今の現実が実は夢なのだと、目を開いたときに違う現実が目の前にありはしないのかとでも言うように。

 もちろん、そんなことになるはずもない。


「ぐ……」


 ――今のは僕の声じゃない。

 目を開くと、道場の中のお師さんが前屈みになって口から血を流しているのが見えた。


「お師さん!?」

「入んな!!」


 慌てて駆け寄ろうとした僕を、お師さんの声が押し留めた。


「覚悟が決まってねえなら……入るな。儂は、対鬼流継承者、黒峰平蔵としてここにおる。武人としてここに在る」


 それはつまり、戦うためにこそここにいるということ。

 労ってもらうためにそこにいるわけではないという断固とした意志が、その声には感じられた。

 お師さんは懐から取り出した懐紙で口の血を拭う。


「おめえの覚悟が決まるまで、ここで待つ」


 再び背筋を伸ばし、正座に戻るお師さん。

 そうしているだけでつらいはずだ。

 そうでなければ、なんで血なんか吐くものか。

 だというのにお師さんは僕を急かすことすらなく、ただ待っている。

 それなのに、覚悟を決められない。

 逃げるわけにはいかないと決めたのに、自分の煮え切らなさに気が狂ってしまいそうだ。

 今、刀を持っていたら無茶苦茶に叫んで、自分の心臓に突き立ててしまいたくなる衝動に顔が歪む。


「なあ、伊織」


 そんな僕を見兼ねたのか、お師さんはまるで茶の間にいるかのように気楽な声を掛けてきた。


「儂はな、運が良い」


 運が良い?

 こんな風に体を壊して、今も僕のせいで苦しい思いをしているのに。


「知っての通り、儂には子がおらん。それで構わんと思っとったし、対鬼流は不完全ながら春樹に伝えたから未練もなかった」


 春樹さんは鬼留流きりゅうりゅうの継承者だから、雑音になるとして奥義までは伝えなかったのだとお師さんは言う。


「それでおめえを拾ったときには、厄介なもん拾っちまったと思ったもんじゃったが……おめえを育てていくうちに、儂に欲が出た。おめえに、儂の剣士としてのすべてを継がせることができるのではないか、とな」


 つい先ほど血を吐いたとは思えないほど穏やかに、お師さんは笑みを浮かべる。


「たまさか拾った娘は、期待に応えるどころか常に先を行きよった。何度驚かされたことか」


 泣きそうだった。

 なんで今、そういうことを話すのか。


「じゃが、おめえに儂のすべてを継がせたいというのは、儂の我侭に過ぎん」


 お師さんはそう言うと、深いため息をついた。


「剣士とは業の深い生き物じゃ。おめえの幸せを願う気持ちは真にありながら……それでも、儂は儂のすべてをおめえに託したい気持ちを抑えられなんだ。儂が見ることは叶わずとも、おめえは必ず儂の届かなかった領域へと到達する。そのことに思いを馳せると、年甲斐もなく心が躍る」


 僕が、お師さんでも届かなかった領域へ?

 自分ではとてもそうは思えないが、お師さんは確信を持った口調だった。


「そんな後継を見出せたこと。修二とのこと。それにこの歳になって娘と暮らす日々が楽しめたこと。親父というには儂はちと歳を食い過ぎておるが、子がおればこういう気持ちだったのじゃろう」


 それが本心なのかどうかは、その穏やかな目を見れば十分に伝わってきた。


「伊織、おめえを拾ったことは間違いなく儂にとって運の良いことじゃったよ。おめえにとってそれが運の良いことだったのかは分からんが」

「僕、も」


 嗚咽をこらえるのに必死で声にならない。

 僕だって、お師さんに拾って貰えたのは望外の幸運だった。

 死にそうだったところを拾って貰い、育ててくれただけでも感謝すべきところを、剣術までもを授けてくれた上、こうして目を掛けてまで貰っている。

 貰ってばかりで、何も返せていない。

 声を出せない僕に、お師さんはまるで分かっているとでも言うようにうなずいた。


「剣士としては儂を継いで欲しい。じゃが儂個人、おめえの親代わりとしての黒峰平蔵は、おめえが幸せならそれで良いとも思っておる」

「お師、さん……」

「そこを踏み越えるか否かは、伊織、おめえが決めることだ。どちらを選ぼうとも儂は受入れる」


 今まで聞いたこともないほどにお師さんの口調は優しく、僕はついそれに甘えてしまいたくなる衝動に駆られる。

 でも、分かっていた。

 分からないような振りをしながら、最初から僕は気づいていた。

 お師さんはもう、長くない。

 そんなことは一言も口にしないけれど、だからこそ気づいた。

 安仁屋さんとの戦いで衰弱した体に、長年の戦いの爪痕が負債のようにのしかかり、蝕んでいっている。

 お師さん自身の驚異的な節制と努力によって、この一年、均衡状態が保たれてきたに過ぎない。

 それは長く続くものではなく、あとは衰えていくのみなのだろう。

 だからお師さんは今のうちに、まだかろうじて動く体に血を吐くほどに鞭打ってまで、僕に試練を与えようとしている。


 ああ、そうだ。

 お師さんに何も返せていない僕は、ここで返さなきゃならない。

 これだって貰うことのひとつの気もするけれど、お師さんが自分の我侭だとまで言ったのだ。

 なら、その我侭を叶えたい。

 しなければならないことではなく、僕が、してあげたいこと。

 義務でもなく、同情でもなく、僕個人の意志として。

 それが僕にどんな痛みを与えるものだとしても、僕が僕として成すべきことだ。


 覚悟が決まったなんて、まだとても言えない。

 家族を、親を斬る覚悟なんて、きっと最後の最後まで固まりはしないだろう。

 でも、それでも。

 前に進まなければならない。

 その覚悟だけは定まった。


 顔を上げ、僕は――道場内への一歩を、踏み出した。

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