表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
剣人  作者: はむ星
【幼年篇】
30/113

29

そろそろ幼年篇の終わりに差し掛かりました。

「はあっ、はあっ、下らねえ抵抗しやがって……!」


 男は荒い息をつきながら、目の前に倒れている意識のない少女に対して毒づいた。

 灰色の毛に覆われていて隠れているが、顔面は脂汗で濡れている。

 あと少し少女の抵抗が長引いていたら、苦痛に耐えかねて遠隔操作していた左手を離していたかもしれなかった。


「はあっ、ふう……武鬼にやられた死に損ないを楽に殺りに来ただけだってえのに、剣人でもねえ女になんだってこんな苦労してんだ、くそったれ」


 男は鬼人としての異能を悪用して楽に生きてきた。

 並の人間ではとても太刀打ちできない怪力、刃を通さない剛毛、多少傷ついたところで何ともない再生力、闇夜を楽々と見通す目。

 これらを駆使して人を襲い、己の欲望を満たしてきた。

 男の狡猾なところは、それでも人の目に触れぬようできる限りの注意を払い、もし見つかれば目撃者は皆殺しにしてでも口を封じ、それが難しいようなら即座に行方を眩まし、危うきには近づかないようにしていたところだ。


 そんな男も一度失敗をした。


 女を襲おうと仲間たちと襲撃をかけたときに、近くにいた男が強力な剣人だと気づかなかったのだ。

 仲間は全員斬殺され、男は彼らを盾にしてかろうじて逃げ切った。

 その時負わされた傷が顔の刀傷であり、その剣人こそが先代三日月こと黒峰平蔵だったのだ。

 傷は鬼人の驚異的な再生力をもってしても完全には治らなかった。

 だが男は平蔵に復讐しようなどとは露ほどにも思っていなかった。

 それは怨みを抱いていないからではなく、そんなことをすれば己が死ぬからだと分かっていたからに過ぎない。

 男は自分の強さに幻想など抱いてはいなかった。


 ところが先日、その先代三日月が武鬼という鬼人の間でも最強との噂の高い男と交戦の末、瀕死の重傷を負って剣人としての再起は不能になっているという噂を聞いた。

 その途端、長年見て見ぬ振りをしてきた怨みの念が、むくりと起き上がるのを感じた。

 勝てない相手に喧嘩は売らないが、楽に勝てるとあらばその怨みを晴らさない手はない。

 それに剣人ではないが養女らしい年頃の娘もいると聞き、平蔵の前でその娘を嬲ってやるのも一興だと考えてやってきたのである。


「まあ……苦労させられた分、たっぷり楽しませてもらうとするか」


 倒れた娘の袴からのぞく白い足を見て舌舐めずりすると、男は自分の足元までにじり寄ってきていた左手を拾い上げ、左肘の切断面とくっつける。

 程なく左腕がくっついたことを確認した男は、道場の隅に投げられた右足を見て顔をしかめる。


「腕は器用に動くからいいんだが、足はな……」


 いくら切り離された部位を動かせると言っても、物理法則を無視して動くわけではない。

 腕は指を器用に使って移動させられるようだったが、足はそうもいかないのだろう。

 それを拾いに行こうとした男の額から、いきなり刃が生えた。


「あ?」


 何が起こっているのか理解できなかったのか、呆けたような声を上げて振り向こうとする男。

 だが頭に食い込んだ刃はそれを許さなかった。

 ゆっくり、しかし断固として下に斬り進んだ刃は、やがて男の胸元にまで達する。

 男の鬼人としての生命力は、頭を両断された状態でなお振り向くことを可能とした。

 己の血に染まった視界に映ったのは、鬼のような形相で刀に全体重を掛けている平蔵の姿だった。


「なふぇ……」

「なぜも、くそも、あるか」


 舌もすでに左右に両断されて発音の怪しい男に、息を荒げて平蔵が言う。


「こんだけ騒ぎゃあ、死人でも目を覚ますわ、馬鹿め」


 その間にも鬼姫の刃はぎりぎりと進んでいく。


「ま、まへ、おへのまへら……!」

「こいつにも、そう言ったん、じゃろう」


 平蔵は倒れている伊織を一瞥して、男を睨めつけた。


「こいつはな、断じて、貴様程度の野郎が、手を出していい娘じゃあ、ねえんじゃ……!」

「や、やへお……!」


 男は懇願するような目を向けるが、平蔵はいささかも手を緩める気配はなかった。

 逃れようとする男だがもがくたびに刃が食い込むため、その動きは弱々しいものだった。

 やがて刃が心臓まで達し、男の体が痙攣を始める。


「ぎ、ぎぎ……!」


 鬼姫が心臓の半ばを断ち切ったときに、男の痙攣が止まった。

 男の体が、さらさらと崩れて消えていく。


「はあっ、はあっ」


 鬼姫を道場の床に突き立て、片膝をついてそれに寄りかかるようにして、平蔵は荒い息をつく。

 たった一太刀。

 それだけの動作が、今の平蔵の体に大きな負担を掛けていた。

 しばらくそのままの姿勢で息を整え、しばらくしてから寄りかかっていた鬼姫を自らの体の鞘へと納める。


「やはり……こうなったか」


 意識のない伊織を見やり、平蔵はひとりごちる。

 剣人として長く生きてきた平蔵は、いくつもの怨みをその身に受けてきた。

 どれほどの怨みが己が身に寄せられているのやら、見当も付かないほどだ。

 それは鬼人だけではない。

 怨みにより己が滅ぶとしても、それは武の世界に身を置いたときから覚悟をしている。

 しかし、伊織はそれを是とせず復讐者に立ち向かうことは分かり切っていた。

 その結果が目の前のこれだ。


 伊織は決して甘い方ではない。

 必要とあらば相手を傷つけることは躊躇わないし、年齢に不相応な沈着さも併せ持つ。

 それでも相手を殺すとなると話は変わる。

 鬼人だろうが何だろうが、人を殺す、というのは容易いことではない。

 今回、伊織が殺す覚悟で相手に立ち向かっていれば、鬼人に倒されることはなかっただろう。

 相手を殺すという選択肢を取ることができなかったゆえに隙を突かれ、敗北した。

 人を殺すということは、当然ながら褒められるようなことではない。

 が、剣というものの本質は人を殺すことにある。

 剣は武器として人とともに在り、槍のように狩猟に使われることもなく、ただ人を相手に振るわれてきた。

 活人剣とはその人を殺すという剣の本質を裏返したものであり、それはそれでひとつの真理に到達したものだろう。

 しかし対鬼流は鬼を殺すという、ただそれだけのために練られてきた流派である。

 その歴史は血に塗れており、ときには遣い手そのものを呑み込むことすらあった。

 対鬼流を受け継ぐというのであれば、伊織はそれを避けて通ることなどできはしないのだ。


「取るべき道は、ひとつじゃな。こやつにはさぞかし恨まれることになろうが……」


 意識を失っている伊織に活を入れるために歩みよりながら、平蔵は愛弟子との別れを決意した。


*   *   *


 意識を取り戻すと、道場の床に座り込んだお師さんが目の前で咳き込んでいた。


「お、お師さん!?」


 慌てて立ち上がってお師さんの背中をさすると、それを乱暴に振り払われた。


「お師さん……?」

「触んな。伊織、おめえ自分がどうなったのか、分かってるのか」


 言われて思い出す。

 僕は鬼人と戦って、そして、負けた。


「思い出したようじゃな。儂が来なければ、おめえはあの鬼人に乱暴された挙句に殺されとったところじゃ。おめえより数段劣る相手にな」

「……はい」


 うなだれる。

 慢心していたつもりはなかったけれど、それでもああなったのはどこかに油断があったからだ。

 熊のときや前の鬼人のときは、もともとそのときの僕が勝てる相手ではなかった。

 その相手と己の能力の及ぶ限界まで戦い、それでも足りない部分をお師さんが補ってくれたのだ。

 今回は違う。

 勝てるはずの相手に僕は負け、お師さんにその尻ぬぐいをさせてしまった。

 失敗は反省して次に活かせば良いが、お師さんに助けられなければ、僕に次はなかった。


「なぜ、負けたと思う」

「……それは、僕が油断を」

「違う」


 言いかけた僕を遮ってお師さんは首を横に振る。


「おめえが負けたのは必然じゃ」

「必然……!?」


 どういうことだろうか。

 あの鬼人は油断さえなければ決して勝てない相手じゃなかった。


「そうじゃ。今回だけで言うなら奴の手を知っていれば勝てたかもしれん。じゃが、次にまた知らん手を持つ奴と戦うことになったらどうなる? そこを切り抜けたとしても次は?」


 畳みかけるようなお師さんの問いかけに、僕は答えられなかった。

 実際に今回負けている以上、そこで必ず勝てると断言できるはずもない。


「おめえはまだ心がなまくらなのよ」

「心が、なまくら……」

「おめえには自分が敗れて死ぬ覚悟は十分にある。その上で必ず生き延びようとするのがおめえの強さでもあるわけじゃしな。じゃが、決定的に足りんものがある」


 お師さんはそこで大きく息をついた。

 今のお師さんは、長く喋るだけでも消耗していくはずだ。

 それを押してでも伝えるべきものがあるのだと理解して、僕はそれを細大漏らさず聞きとろうと集中する。


「己の勝利のために相手を殺す覚悟じゃ」


 眼光鋭く喝破するお師さんに、僕は息を呑んだ。


「おめえは相手に剣を向けることに躊躇いはない。じゃが、そもそも相手を殺すことは念頭にないはずじゃ。違うか?」

「……確かに、僕は相手が間違って死ぬことのないよう考えて戦ったことはあるけれど、相手に殺意を抱いて戦ったことは一度もない……と思う」


 けれど、それは。


「至極まっとうなことじゃよ、それは」


 僕の抱いた思いを見透かしたように、お師さんはうなずいた。


「おめえの精神こころが健康である証拠でもある。対峙する相手にいちいち殺意を抱いておれば、後には屍山血河しか残るまいて」


 心当たりがあるのだろう、お師さんはほろ苦い顔をしてため息をついた。

 でも、それではお師さんが先ほど言った言葉と矛盾する気がする。

 それを口にするとお師さんは首を横に振った。


「良いか、伊織。殺意と殺す覚悟はまったく別のものじゃ」

「別の、もの」

「殺意とは己の欲じゃ。相手を殺したいと願う感情そのものと言って良い。じゃが殺す覚悟ではない」


 なんとなく、お師さんの言っていることが分かってきた気がする。

 お師さんはそんな僕の瞳の色を見ながら言葉を続けた。


「殺す覚悟とは、殺す相手への責任を取る覚悟じゃ。相手にも家族がいるやもしれん。相手を殺すことでそれらも死ぬやもしれんし、復讐に現れる可能性だとてある。儂がこうなったように」


 そう語るお師さんの声に自嘲の色はない。


「それらをすべて呑み込むことで、初めて己に殺す覚悟が宿る」


 それは……とても重い覚悟だ。

 お師さんは刀を振るうときに、そこまで考えていたのか。


「覚悟を決めた上で殺さんことを選ぶのならば、それはそれで構わん。必要なのは覚悟と、それに付随する気構えじゃからな」


 確かに、その覚悟さえ持っているならば自然と戦いに対する姿勢が糺され、すべてに対する気構えが変わるだろう。

 僕にそれが足りないというのは、すとんと胸に落ちる気がした。


「伊織よ。己の死を覚悟するということは、己の結末をありのままに受け入れることであり、そうすることで己が心を鉄と成すことに他ならん。じゃが、それだけでは刃とは成らんのじゃ」


 そこで咳き込んだお師さんは、駆け寄ろうとした僕を手で制しながら口を拭って話を続けた。


「殺す覚悟とは敵の人生を背負う覚悟に他ならん。己を受け入れ、敵を受け入れる」


 そこでお師さんは息を吸い、噛んで含めるようにゆっくりとそれをことに乗せた。


「そうすることで、心は火入れ・・・され、真剣・・となる」


 強い光を宿したお師さんの目が僕を正面から圧倒する。

 知らず、ぶるりと震えた。

 まるで魂が揺さぶられたような気がした。

 それこそは、僕に足りないもの。


「じゃが、それは簡単に覚悟できるものではない。それは分かっておるな」

「……はい」


 確かにそれが僕に足りないということは分かる。

 お師さんや安仁屋さんといった人たちが、それを確かに持っているということも分かる。

 けれど、それはどうやって持つものなのだろうか。


「伊織。おめえにひとつ、試練を与える」


 そのお師さんの声はやたらとかしこまっていて。

 僕は心が少しざわつくのを自覚する。


「試練?」

「そうじゃ。じゃが、この試練からは逃げても良い」

「え?」


 逃げたら試練にならないんじゃないだろうか。

 真意を計りかねて首を傾げた。

 ざわつきは胸騒ぎと言って良いほどに大きくなっていく。

 試練とは、何かを乗り越えるために課されるものだ。

 僕の今の課題は――。


「もちろん、逃げれば試練は失敗ということにはなる。が、儂は……いや、何者もおめえにこれを強制はできん」


 お師さんは何を言っているのだろう。

 いや、薄々は僕も理解している。

 でも、まさか。

 そんな僕の思いを余所に、お師さんの口からは決定的な一言が放たれた。


「じゃが、逃げぬならおめえは今夜死ぬ。儂を殺さん限りな」


 それはお師さんが僕を殺しに来るということか。

 死にたくなければお師さんを殺せということなのか。

 

 そう、僕の今の課題は――殺す覚悟を持つこと。

 そういう、ことなのだ。


「今夜、道場で待つ。――分かったな」


 道場の入り口に落としていた杖を拾い、それに寄り掛かるようにして立ち去っていくお師さん。

 僕はその背を見送りながら、完全に言葉を失って立ち尽くしていた――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ