2
「しかしこの子は変わってるな」
いつものように稽古を見ていたある日、僕は門人たちに囲まれていた。
門人たちはお師さんよりは若いが大体において三十歳以上の人たちのようで、このあたりで農家をやっている人がほとんどらしい。
彼らもお師さんが拾った子供というものに興味があるらしい。
「そうだな。泣きもしないで剣術をじっと見てる子なんて、見たこともない」
まあ、確かに僕を普通の赤ん坊と比べたらおかしいだろう。
だって精神年齢だけで言えばあなたたちと同じくらいなんだし。
「とは言っても、ぬいぐるみを離さないあたりは女の子だな」
……そう、なぜか僕は光恵さんが与えてくれた茶色いポメラニアンのぬいぐるみをいたく気に入って、いつも抱っこしている。
なんでだろう。
小さいからなのか、あるいは女の子になったからなのか、それともこの魅惑のふわもこがいけないのか。
ポメラニアンのぬいぐるみなので内心ではポメと名付けていた。
安易?
こういうのはわかりやすいのが重要なのだ。
「でもこのくらいの子供だと、すぐにぬいぐるみをべとべとにしたりするけど、それもないみたいだ」
「さすがは先生が拾ってきた赤ん坊だなあ。将来は剣豪になるんじゃないか?」
「馬鹿野郎、女の子だって言ってんだろ」
「いいじゃないか。女だからって剣豪になっちゃいけないって決まりはない」
門人たちは互いに仲が良いようで会話が弾む。
輪に加わってないのはお師さんくらいのものだ。
「おめえら、余裕じゃな。今から素振り千本いっとくか? あ?」
いつもしかめっつらのような顔を、さらに渋柿でも食ったかのようにしかめたお師さんが地の底から唸るような声をあげるが、慣れているようでまったく動じない彼ら。
なかなか良い胆力と性格をしていると思う。
「そんなことより先生、名前は付けてあげたんですか?」
「名前……じゃと?」
ぜんっぜん考えてなかったらしく、まるで音を立てて固まったかのように動きを止めるお師さん。
「ちゃんと考えてあげなきゃかわいそうっすよ。拾った者の責任として、良い名を付けてやってあげてくださいよ」
「ったく。なんでこんなボロ道場の前なんぞに捨てて行きやがったんじゃか……」
「そりゃあ他の家もボロいからですよ」
その言葉に道場内に笑いが弾けたが、それ、笑っていいところなんだろうか……。
そんな門人たちをよそにぶつぶつぼやいているお師さんだったが、これで案外と面倒見は良いのだ。
光恵さんも毎日来れるわけではない。
そういう日は光恵さんに習ったのか、おぼつかない手つきながら結構甲斐甲斐しく僕の世話を焼く。
もちろん、苦虫を噛み潰したようなしかめっつらだけは変わらないのだが。
ある日、お師さんは唐突に硯と筆と紙を取り出して半日ほどもそれとにらめっこをしていたが、やがて硯に墨を溶き始めた。
そして見事な字でこう、書き上げた。
『命名 黒峰伊織』
名前の由来について門人に聞かれたお師さんはこう答えた。
「剣術使いの養子になるんじゃ。儂が武蔵とはさすがにいかんが、こいつにはその養子くらいには成ってもらわんとな」
つまり、宮本武蔵の養子と言われる宮本伊織になぞらえて名付けたらしかった。
男の名前にも女の名前にも取れるもので、僕としても呼ばれてもあまり違和感がなさそうで気に入った。
僕はそうやってお師さんの家で育てられていった。
* * *
元が三十歳だった僕は、当然のことではあるけれど普通の赤ん坊よりも意味のある言葉を話し始めるのがずっと早かった。
お師さんや光恵さんは驚いたようだったが、僕の普段の様子から早熟な子なのだろうと思ってくれたようだ。
言葉を喋れるようにはなっても、そこからしばらくは体を動かす練習(つまりはハイハイ)からだった。
体がむずむずしてまったくじっとしていられない。
動けるようになった赤ん坊が落ち着きがないのはこのせいかと納得したが、こうやって筋力と体力を養っていくらしい。
僕としてはこれも体を鍛えるチャンスだと思ってとにかく全力で動いた。
一日、一日と日を重ねるごとに僕の体は少しずつ思い通りに動くようになり、体力、そして筋力も備わってくるのが分かった。
たまにふつうの赤ん坊のように段差から転げ落ちて痛い目に遭ったりもしたけれど。
ここでの暮らしが二年目になろうという頃には、大体のところは自分の思い通りに動く体になっていた。
「おしさん、ぼく、けんじゅつ、やりたい」
ある日、僕は剣術道場の稽古を終えたお師さんに言った。
自分で家の好きなところへ行けるようになっても、稽古の見学は欠かさず続けていたのだ。
ちなみに頭でははっきりと言葉が分かっていても、まだまだ未発達な口ははっきりと発音ができず、剣術と発音するのに結構な注意を要した。
なお『おしさん』は『お師さん』なのだが、光恵さんもお師さんも『おじさん』の舌足らずな発音だと思っているらしい。
聞かれたら訂正しようとは思っているが、特に問題もないのでそれまではそのままにしておこうと思う。
ともあれ、僕がそう言い出したのは自分の体が剣術をやれるくらいになったと判断したからだ。
しかしお師さんはもはやトレードマークみたいになっている苦虫を噛み潰したような顔をした。
「馬鹿言うな。早すぎる。大体、木刀はおろか棒きれもまだ振れんじゃろうが」
「やる」
子供の気まぐれだと思ったのか、お師さんは仕方ないとばかりに棒きれを投げて寄越した。
いちおう僕の体格に合わせて切り揃えてくれるのがお師さんのお師さんたるゆえんだ。
僕はその棒を手に、いままでさんざんイメージしてきた剣技をようやく試せる喜びに震えた。
まずは基本である正眼に構える。
イメージと違って、思ったところに切っ先が向かないし、お師さんとは違ってぴたりとは決まらない。
軽く振ってみると、これもまた棒に体が振り回されて尻もちをついた。
たかが棒きれと思っていたけれど、今の体にはその棒きれすらも結構な負担のようだった。
まあ、そんなのは当たり前でこれからの練習で向上していくものだろう。
それはそれとして、僕はこの二年毎日のように見てきた型を体でなぞってみる。
一の型、掌分。
大毅流の基本たるこの型は、正眼の構えから切っ先をやや上にあげて二歩前進し、そのまま体を左に開いて刀を右下に斬り下ろし、血振りをして納刀する。
動作の意味するところは、上段に構えた敵の右手首を上げた切っ先で押さえるようにして攻撃を封じつつ前進し、それでも相手が強引に刀を振り下ろしてくる可能性を考慮して体を左に開きつつ、そのまま右手首を切断して相手を戦闘不能にする、ということだ。
この技は基本だけあって、大毅流の中で派生がもっとも多い。
だからこそ僕はこの技を一番熱心に見て、考えてきた。
イメージはさんざんしてきたが、思っていた以上に体はその通りには動かない。
いきなり完璧にできるなんて思い上がってたわけではないけれど、もう少しまともに動けるかと思っていただけに少なからず落胆しながら振り向くと、お師さんがまるで親の敵でも見るような目でまじまじとこちらを見ていた。
少し、いやかなり怖い。
「おしさん……?」
「伊織……それは掌分か?」
「うん。おしさんのみておぼえた」
お師さんはごま塩のようなあごひげを右手でいじりながらしばらく唸っていたが、やがて頷いた。
「いいじゃろう。剣術を教えてやる」
「ほんと!?」
「ああ。ただし、おめえはまだ体ができとらん。剣を振っていいのは一日一時間までとする。それ以外は他のことをやるんじゃな」
「うん!」
嬉しくて舞い上がりそうだった。
ようやく、強くなるための一歩を踏み出せるのだ。
「まずは剣の持ち方からじゃな。基本中の基本じゃあるが、重要なことに違いはない。おめえのそれは剣道の持ち方じゃな」
剣道は竹刀の動きを重視して、手と手の間を空けて柄を持つ。
だが斬撃の威力を重視する流派では、手と手はほぼくっつけるようにして持つのだそうだ。
どちらが正しいとかではなく、何を重視するかの違いだ、とお師さんは言った。
「剣の持ち方一つ、歩き方一つにも考え方がある。とにかく、よく考えろ」
よく考えろ、とはお師さんはことあるごとに口にする言葉だ。
考えて技を理解すれば応用が効く、と。
以前の僕は、武術とは何も考えずに練習を重ねて強くなるものだと思っていたが、その考えは本当に浅かったようだ。
一通り僕の剣の持ち方を直したお師さんは、次に刀を抜いて自ら正眼の構えを取った。
「次は構えじゃ。よく見ちゃいるようだがまだまだなってねえ。いいか、構えってのは別に格好つけるためにあるもんじゃねえ。
剣尖と目付による相手への威嚇。
次の動作への最適な体の置きかた。
構えを取った時の心の置きかた。
その集大成を構えと言う。
構えを取るときは常にそこを考えろ。特におめえはまだまだ子供でしかも女だ。足りん力と体格は技術と気迫で補うしかねえ。基本中の基本である構えをおろそかにするな」
「やっぱり、ちからはつよいほうがいいの?」
「あたりめえじゃ。力があればあるほど基本的な技の強さは上がっていくし、体がでかけりゃそれだけ有利に決まっとる。じゃが最近の剣術遣いは技術を重視しがちじゃな。理由は分かるか」
「うーん……?」
「刀があるからじゃ」
お師さんが構えた刀は刃が窓から入る夕焼けの光を反射して光っていた。
鏡のような照り返しではなく、鍛え上げられ、磨り上げられた鋼のみが持つ独特の輝き。
「刀ってなぁよく切れる。たとえ振るう奴に力が無くても、じゃ」
「……あ!」
合点が行った僕に、お師さんは頷いた。
「そうじゃ。今の世の中、鎧なんて着込んでる奴なんぞそうそういねえ。だから刀さえ当てれば勝つ。そう考える剣術遣い、特に素肌剣術の流派は力を重視しなくなる。当てる技さえあれば良い、とな」
お師さんは流れるような動作で刀を鞘に納めた。
ちなみに素肌剣術ではないものに介者剣術というのがあり、そちらは甲冑を着けて行うことを想定したものなんだそうだ。
「ある意味で真理とは言える。ただの一刀で相手を斬り伏せられるんなら、じゃ。しかし、そいつが難しいからこそ色んな技がある。そんな中で斬撃同士のぶつかり合いや、鍔迫り合いでどっちが勝つかって言ったら単純な話じゃろ」
「うん、ちからのつよいほうがかつ」
「じゃからおめえも女だからって鍛錬は怠るな。男の方が力が強くなるのはあたりめえじゃが、おめえだって鍛えればそこらの男くらいの力は持てる。鍛えた男に力で負けるのは仕方ねえ話じゃが、それでもおめえにある程度の力があるのとないのとでは全然話が違う。それにそもそもの話をすりゃあ、力がある程度なきゃ刀が持てん」
二歳児に真面目にこんな話をするお師さんは、傍から見れば変人だろうが僕にはありがたかった。
「心技体すべてが揃ってこそ、と言うとただのお題目に聞こえるかもしれねえが、こと剣術に関してはそれは勝つための心構えじゃ。一つしかなけりゃ、その一つで負けてる時に勝ち目がない。じゃが三つ揃えときゃあ、全部で負けない限り勝ち目がある。基本じゃが、基本じゃからこそ忘れやすい。しっかり覚えておけ」
「うん」
「しかし」
お師さんは僕を見て、その強面に珍しく苦笑を浮かべた。
「儂ぁ二歳児に何を言ってんじゃろうな……」