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お陰様でブックマークが100を越えました。
ありがとうございます。
道場から朝の光に照らされて見える山々の山頂には雪化粧がされ、その景色の中で吐く息は白い。
お師さんの体調は一進一退で、介助が必要なのは相変わらず。
むしろ、冬になってから少し悪くなっているような気もする。
老いたりとはいえ引き締まった筋肉に覆われていたその体も、今や衰えが見え始めていた。
鴻野道場にも変化があった。
あの後も道場を休みがちだった神奈が、ついに顔を見せなくなってしまったのだ。
清奈に聞いた話では、放課後は同年代の友達と遊んでいるということだった。
家にはきちんと帰っているようなのでそこは安心したけれど、僕だけじゃなく道場のみんなも心配していた。
注意をしてみても反発されるだけなので、しばらくは様子を見るしかない、と言っていた清奈は寂しそうだった。
(ついこの間まで……みんなが元気で揃っていて、未来に何の不安もないような気がしていたのにな)
もちろん、そんなのが錯覚だということは知っていた。
前世の僕が死んだときだって、その直前まで幸せの絶頂で、自分がその日死ぬことになるなんてこれっぽっちも思っちゃいなかった。
先に何があるのかなんて、神ならぬ身には分かりはしない。
けれど、感傷的にはなってもその変化に押し潰されるわけにはいかないのだ。
明日は明日の風が吹く。
だから、毎日の稽古は欠かさない。
それがどんな風だったとしても、心身を鍛えていれば対処できる可能性があるのだから。
今朝も最近の日課である朝食前の型稽古を行う。
最近は稽古時には髪はポニーテールにまとめるようにしていた。
清奈がそっちの方がいいと言ってくれたこともあるし、動きやすいということもある。
汗を掻いたときにうなじが蒸れないのも良い。
それはともあれ、型とは先人の遺した智恵の結晶だ。
意味について角度を変えながら考え、行うことで、常に新しい発見がある。
透き通るような冷たい空気と薄明かりの中輝く刃に、身を引き締めながら入念に型を行う。
真面目にやれば、冬の早朝と言えども汗をかく。
稽古を終えて、タオルで汗を拭く。
(ん?)
最近では玉響をかなり維持できるようになってきており、その広さも目を開けていても家の敷地内くらいは把握できるようになっていた。
先読みに関しては精度は上がっていてもまだまだイメージ化には至っていないが、周囲を把握する感覚についてはだいぶ慣れてきたと思う。
その感覚に誰かが触れた。
村の人かとも思ったが、それにしては周囲を窺っている様子があって挙動不審だ。
それに村の人なら入ってきたときに大体は声を掛けてくる。
念のため、木刀を手に道場を出る。
足元が玉砂利なのでどうしても音が鳴るが、なるべく音を立てないようにして母屋の方へと回ると、玄関口を窺っている見知らぬ男がいた。
「何かご用かな」
「うわぉあ!?」
声を掛けると、漫画のように飛び上がってこちらを見る男。
年齢は三十代後半くらいだろうか。
顔に結構大きな古傷がある。
「ちっ、ガキかよ。脅かしやがって」
腹を立てたのか、僕を見た男は顔をしかめて盛大に舌打ちをした。
僕が脅かしたわけじゃなくて、そっちが勝手に驚いたんだけどな。
まあそれは置いといて、男の人相は傷を除いてもあまりよろしくない。
お師さんの友人という感じでもないな、これは。
「……いや、ああ、こいつがそうか。成る程成る程」
舐め回すように僕を見てにやりと笑った男は、ゆっくりと歩いて近づいてきた。
視線が粘着質でかなり気持ち悪い。
まだ相手が何者かも分からないので、それを顔に出さないように苦心する。
「なあお嬢ちゃん、ここは黒峰平蔵さんのお宅で間違いないんだろ?」
「そうだけど、あなたは?」
「平蔵さんの古い知り合いさ。近くまで来たからちょっと寄ってみたんだがちょっと早く着きすぎてね」
少なくとも僕が感知できる範囲に車とかは来ていない。
いくら感知範囲が敷地内とは言っても、近くに来たなら音くらいは捉えられる。
普通この村に来るのなら車か何かで来るだろうし、お師さんに会いに来たのなら、この家の前に駐車スペースくらいいくらでもある。
誰か別の人の車に便乗するという手もあるけれど、この早朝では難しいだろう。
自転車や徒歩で来たということも考えられるけれど、ここに来るまでは山道でゆっくり来たとしてもある程度息は上がるはずだがそういう気配もない。
この家は村の入り口にあるから、わざわざ息を整えて入ってきたというのも考えにくい。
つまりこの人は静かな早朝に音も聞こえないほど遠くに車を停めてからここに来て、こっそりと敷地内に入るようにしてお師さんに会いに来たということになる。
いくらなんでもそれを信じるのは難しい。
「悪いんだが平蔵さんが起きるまで、そっちの道場で結構なんで待たせて貰えないかな?」
ここまでの男の所作や気配からは、手練の雰囲気はない。
ただ、顔に負っている古傷はこれは刀傷だ。
僕の推測が当たっているとすれば、この男を母屋に通すことだけは避けなければならない。
(とはいえ……)
なぜ道場でいいなどと言い出したのか。
そう考えたときに、男の視線が練習を終えて上気している僕の首元や道衣の胸元などに集中していることに気づく。
……。
もの凄い鳥肌が立った。
思わず体がびくんと震えて、男が不審な目を向けたくらいだ。
僕が猫だったら毛を逆立てて二倍くらいに膨れあがっていただろう。
ここにいるのが僕だけなら恥も外聞も無く逃げ出すんだけれど、当然お師さんを残して逃げるわけには行かない。
気持ち悪さを押し殺して男の言葉にうなずき、道場へと先導する。
その際もねっとりした視線がうなじに当たって鳥肌が治まらない。
「ところでよ」
道場の入り口をくぐったときに男が声を掛けてくる。
それと同時にこっちに飛びかかってきたことなど先刻承知。
前に身を投げ出して道場に飛び込んで、転がりながら木刀を手放して型稽古に使用していた本身を手に取る。
その際にぶるりと体をひとつ震わせて、まるで体にへばりついたかのように思えた視線の感覚を振り払う。
「ちい……! 気づいていたのかよ」
「気づかれない方がおかしいって思わない?」
抜刀して鞘を道場の隅に投げ捨てて構える。
「お師さんを狙ってきたんだろうけど、なんで僕の方を?」
いやまあ、先ほどからの視線を考えれば、こいつが何を考えているかはさすがに僕でも分かっているんだけど。
「そりゃ、弱っているとはいえ相手は先代五剣のひとりだ。不確定要素は先に排除しておきてえし」
相変わらずぬらりとした粘着質な視線が肌にへばりつく。
せっかくさっき振り払ったのに、また鳥肌が立つ。
「それにせっかくお嬢ちゃんみたいなのがいて、誰もいねえ道場なんておあつらえ向きの場所なんだ。俺も楽しみてえし、あんたの心が折れるまで嬲ってから人質にすりゃあ、俺にこの傷を付けてくれたあのジジイだって苦しみながら死んでくれるだろう? 一石二鳥って奴だ」
顔の傷を撫でながら、欲望を剥き出しにした笑みを浮かべる男。
分かってはいたんだけれど、その笑みのあまりの醜さに少なからず衝撃を受ける。
外道とはこういう顔をするのか。
「ひひっ、いい顔だ……!」
思わず顔をしかめたのを見て、男は喜悦に歪んだ笑みを浮かべて襲い掛かってくる。
その腕や顔が急速に灰色の剛毛に覆われていく。
やはり推測通り、鬼人だったようだ。
顔の傷はお師さんが付けたとのことだから、襲ってきた理由は怨恨だろうか。
木刀ではなく本身を手にしたのは正解だった。
まるで特撮映画の人狼のような姿になった男は、僕の刀を落とそうと横蹴りを放ってくる。
舐めているのかその動きはひどく緩慢で、安仁屋さんとは比べるべくもない。
その場で身を沈めて蹴りをやり過ごし、そのまま伸び上がるように切り上げる。
大毅流、氷鏡返し。
灰色の剛毛はそれなりの硬度を持つようだったが、それでも三年前の鬼人の皮膚を鉄とすれば木材がいいところだ。
刃は抵抗すら感じずに、その右足を腿の半ばから斬り飛ばす。
「ギィヤアアアッ!?」
悲鳴を上げるのは良いとして隙だらけなので、宙に舞った足を刀で突き刺しそのまま手の届かない隅へと放り棄てる。
これで、この男は再生能力でも持っていない限りは機動力が削がれたままだ。
足がくっつけられるのかどうかも分からないけれど、それを敢えて試させることもない。
「てめぇ……!」
ようやく我に返って歯ぎしりをした男は、手を床につけて這うような姿勢を取る。
片足がない以上、そうやって機動力を補うつもりなのだろう。
さすが鬼人と言うべきか、失った足からの出血はすでに止まっているようだ。
「うおおおっ!!」
玉砕覚悟のように体全体で突っ込んでくる。
その方向は足を放り投げた先で、狙いは丸わかりだ。
僕が突進を避けるならそのまま、もしくは防御するならそれを回避して足を回収しようという目論見だろうが、ならば迎え撃てばいい。
刀を下段にして刃を相手の方へ向け、一歩踏み込む。
「おあっ!?」
僕が一歩踏み込んだことで間合いが狂い、慌ててのけぞって方向を変えながら刃を躱す男。
体勢を崩した男に僕は体を回転させて上段から斬りつける。
大毅流、龍落し。
男の左手の肘から先が床に落ちた。
この男がお師さんを狙ってきた以上、僕に容赦する気はない。
「ひ、ひいいっ!?」
男は残った右手と左足を使って転がるように僕から間合いを取る。
正直、この男は安仁屋さんはおろか以前の鬼人と比べるまでもなく弱い。
この程度の腕で、なぜお師さんから逃げ切れたのか疑問に思えるほどだ。
鋒を突き付けながら、男の前に立つ。
「わ、悪かった。俺が悪かった」
戦意がないことを示すように、男は床にへたり込んだまま、左手と肘から先がない右腕を上げる。
「もう戦えねえよ。この通りだ」
「見逃すわけには行かないけど」
こいつが何を言おうと、ここで逃がす選択肢はあり得ない。
口だけなら何とでも言えるし、逃したら僕が家にいないときにまたやって来てお師さんを襲われる可能性だってある。
いかに弱っているとはいえ、この程度の相手にお師さんが黙ってやられるとは思えないけれど、それでも今の体では不覚を取るかもしれないし、無理をさせるつもりもない。
「ど、どうするつもりだ……?」
「そうだね、とりあえず縛り上げて……剣人会に引き渡す、かな」
人の常識ではあり得ないほどの力を持つ鬼人ではあるが、片手片足では十全な力は発揮できないのは明らかだ。
普通に縛り上げても鬼人は縄とかはちぎってしまいそうではあるけれど、この男程度の力なら大丈夫だろうと思われた。
「わ、分かった。……なんて言うわけねえだろっ!」
左手と右足をバネにして体を跳ね上げて躍りかかってくる男。
予測していた僕はそれを迎え撃とうとして――動きが止まる。
「あ……っ!?」
首筋に何かが絡みついてきて、それが強い力で喉を絞め上げてくる。
これは、斬り落とした左手……!
「ひゃははっ、引っかかったなあっ!」
そのまま浴びせてきた左足の蹴りは、どうにか刀で受ける。
刃が脛に中程まで食い込み、男はまた悲鳴をあげて墜落した。
僕の喉に食い込んだ指はその一瞬だけ力を緩めたが、それでも僕の力で振り解けるほどではなかった。
「か……は……」
油断した。
まさか、斬り落とした方の部位が自在に動くとは思ってもいなかった。
刀を手放すわけにもいかず、右手だけで男の手を引き剥がそうとするが、力では圧倒的な差があるようでぴくりともしない。
「ひ、ひひひ。俺のようなタイプは知らなかったようだな」
男の言葉を聞いている暇はない。
気道を圧迫されていて呼吸ができないこともあるが、それよりもこのままだと落ちる。
男の左手はうなじの側から僕の首をつかんでいるようだ。
ならば。
僕は自分の左手で刀を逆手に持ち、手首があると思われる場所へと鋒を突き込む。
一歩間違えば自分の首を刺す行為だが、もはや僕にとって刀は体の一部に等しい。
「ぎぃっ!?」
狙い違わず独立して動いている左手を刺し貫くと、男が痛みに声を上げた。
男の意志の通りに遠隔でも動くというのなら、感覚が繋がっているはず。
その推測は間違っていなかった。
しかし男もここで手を離すと敗北が待っていることを理解しているのか、その毛に覆われた顔を苦痛に歪めながらも力を緩めない。
(まずい……!)
意識が遠ざかっていくのを感じ、突き込んだ刀を抉るように捻る。
男がさらなる痛みに悲鳴を上げるが、左手の力は緩むどころがますます強くなっていく。
意識が闇に落ちる寸前、からん、と刀が床に落ちる乾いた音がした。




