27
時は少し遡る。
払暁の薄闇の中、肉と肉のぶつかる音が響いた。
「……この程度か」
包帯を巻いた右腕を使うことすらせずに、左手一本で相手を下した安仁屋修二は、失望の色も露わにそうつぶやく。
ろくに抗うこともできずに敗北した男は、血を吐いて安仁屋の足元に倒れていた。
「それで、こんな雑魚をけしかけてどうするつもりだったんだ、氷上」
安仁屋が視線を向けた物陰から、幼い顔つきの男がスーツ姿の女性を伴って拍手をしながら現れた。
「いやいや、けしかけるって人聞きが悪いなあ。こいつがどうしても武鬼の座が欲しいっていうから、後腐れのないように居場所を教えただけだよ」
「ふん。俺が負傷してる可能性が高いことくらいは分かっていただろうに」
「そんなの武鬼にとってはなんら意味のないことだよね。実際、結果がそう示している」
「まあいい。俺の質問に答えろ、氷上」
張り詰める気配に、氷上は両手を上げて戦意がないことを示す。
「やっぱりごまかしは効かないね。理由は簡単、あなたと会話するきっかけ作り、さ。ただ話しかけても無視されたかもしれないし」
「……小賢しい奴は回りくどいな。で、何の用だ」
「それも分かってるでしょ? 先代三日月はどうなったか、さ」
「生きている」
その言葉にぴくりと眉を動かす氷上。
「へえ……どういう心変わりだい? あなたにとって、彼は不倶戴天の敵のはずだったけど」
「それは今でも変わりはない。奴はもう剣人としては再起不能だ」
「なぜ殺さなかったのかな?」
「それをおまえに言うつもりはない。ただ」
一呼吸置いて安仁屋は氷上を視線で射抜いた。
「奴に手を出すな。それは俺への宣戦と見做す」
「それは承服しかねる……と言いたいところだけど」
膨れ上がる殺気に気づかない振りをしながら、氷上はあくまでも口調を崩さない。
「ご本人に手を出さなければいい、っていう話であれば飲もう。どうかな」
「周囲には手を出す、ということか」
氷上の返答は人を食ったような笑み。
殺気が霧散して、安仁屋はうなずいた。
「おまえが何を企んでいても俺には興味のないことだ。その条件でいいだろう」
「話が早くて助かるよ」
「用はもうないな」
そう言って安仁屋は男と戦うために地面に落としていた荷物を拾い上げた。
そのまま立ち去っていく安仁屋の背を見送る氷上の横で、観沙が内心で胸を撫で下ろす。
武鬼とまで呼ばれる男の殺気は、腕利きの鬼人と言えどもあまり心臓に良いものではない。
早めに目の前からいなくなってくれるに越したことはなかった。
「……少々計算は狂いましたが、大枠に支障はないかと。被験体についても目星はすでに付けております。あとは追い込みを掛けていかなければなりませんが」
「そうだね。……ねえ観沙」
「なんでしょうか、安人様」
「ここまでは楽しくやってきた。ここから先はそうも行かなくなってくる。降りるんなら今のうちだけど?」
氷上の視線に、何を今更とばかりに観沙は肩をすくめた。
「目的は同じと、出会ったあの日にお伝えしたはずです」
「そっか。本当、いい女だねえ、観沙は。抱かせてくれればもっといいんだけど」
「それもお断りしたはずです」
「つれないねえ」
くく、と笑う氷上。
にやりと笑うその顔は、軽薄に見えて何らかの覚悟を秘めた者のそれ。
「それじゃ、計画を進めよう」
* * *
月下に白刃が燦めく。
夜、無人のはずの庭園内で複数の人影が目まぐるしく入り乱れていた。
人影の数は五人。
二人と三人に分かれて争っているようだった。
「そっちに行ったぞ、神奈!」
「は、はい!」
真剣を手にした袴姿の少女が、集団戦から離脱してきたひとりの男の前に立ちふさがる。
「ゴオォ!!」
意味を成さない言葉を叫び、男が神奈へと襲いかかる。
「くっ!」
前に一歩踏み出た神奈がそれを迎え撃つ。
「ギイッ!」
男が振るう右腕を刀で受ける神奈。
普通ならば右腕が飛んでいてもおかしくないところを、男の腕には切り傷ができた程度。
だが刃が肉に食い込んだ感触に神奈は動揺し、次の男の攻撃への対処が遅れる。
「きゃ……っ!」
かろうじて引き戻した刀が間に合う。
男が振り回した左腕を刀で受け止めるが、体勢不十分で勢いを殺せずに尻もちをつく。
「せっ!」
そこに神奈とは乱戦を挟んだ反対側で控えていた清奈が駆けつけ、その隙に男の足首を狙って斬りつける。
狙い違わずその刃は男の足の腱を断ち切った。
「ガアッ!」
どれだけ痛みを無視できても、仕組みとして動力が伝えられなければ体は動くことはない。
左足が利かなくなった男はバランスを崩して倒れ込む。
すると物陰から出てきた複数の人影が、倒れた男を押さえ込んで連れて行く。
「あ、ありがとう、姉さん」
「どういたしまして」
そう囁き合う間にも真也たちの戦いから視線を外さない姉妹だったが、そちらの戦いも趨勢が決まっていた。
やはり足の腱などを斬られた男たちが取り押さえられ、どこへともなく運ばれていく。
「清奈、神奈、大丈夫か?」
真也が持っていた刀をどこへともなく消して二人へ駆け寄る。
清奈と神奈も同じく刀を消していた。
「ええ、私は大丈夫です、真也さん。神奈、怪我は?」
「大丈夫」
神奈はどことなく気落ちしているように見えた。
「ふん、あの程度の雑魚を相手に遅れを取るようで、それで剣人が務まるのかよ」
「砂城!」
同じく刀を消していた赤毛の青年を睨んで声を荒げる真也。
だが砂城と呼ばれた、真也と同世代ほどの青年は動じる様子もなく口を開いた。
「思ったことを言ったまでだ。何が悪い? 適性のない奴は死ぬ。ならば死ぬ前に戦場を立ち去らせてやるのが親切というものだろうが」
「……っ」
口を真一文字に引き結んだ神奈が、その場から走り去る。
その目には涙が溢れているように見えた。
「神奈!」
一瞬、砂城を射るような目で睨んだ清奈が、慌てて神奈を追って身を翻す。
「くく、姉の方はなかなか良いな」
「おい、砂城」
「なんだ鴻野。取られたくないならおまえがさっさと口説け。……ああいや、おまえはなんと言ったか。剣人でない娘に夢中なのだったな」
「そういう話をしているんじゃない!」
怒鳴った真也は、今が夜であることを思い出したのか声量を下げる。
「神奈はまだまだ実戦に慣れていないんだ。そこにあんな言葉を投げつける奴があるか!」
「不慣れだろうがなんだろうが、相手は斟酌しないぞ、鴻野」
「う……」
砂城の言葉は確かに事実だ。
言葉に詰まった真也に、砂城は言葉を継いでいく。
「そもそも今夜の相手は鬼人ですらないまがい物だ。そんなものを相手にあの体たらくでは、この先もやってはいけまいよ」
そう言って砂城は真也に視線を向けた。
「鴻野、おまえは同い年で俺が認めるただひとりの剣人だ。だが才能のない者にかまけて腕を落とすようなら……」
「砂城」
真也の静かな声の内に何やら譲らぬような強い意思を感じ、砂城は口を閉じて片眉を上げる。
「おまえは強い。俺の知る限りでも同世代ではトップレベルだ。けど、一番じゃない」
「なに?」
「今さっきおまえが言った剣人ではない娘。あいつが、俺の知る中では最高の剣士だ」
「ほう。俺が剣人ではない者、しかも女に劣る……とでも?」
「そうだ」
剣呑な気配を纏った砂城に一歩も譲る気はないとばかりに真也はうなずく。
「そして俺はそんな奴と一緒に剣を振ってきた。清奈も、神奈もだ」
「何が言いたい」
「そいつとずっと稽古を続けてきて、神奈は一度も音を上げたことなんてないんだ。今はおまえより弱いかもしれない。だが、おまえが慢心して彼女を侮るなら、すぐに追い抜くぞ」
「ふん」
面白くなさそうに鼻を鳴らした砂城は、しかし真也の言葉に興味を惹かれたように身を乗り出した。
「しかし、おまえがそこまで言うか。その娘とやらに興味が出てきたぞ。確か……先代三日月の薫陶を受けているのだったな。名前は何と言ったか」
その砂城の言葉に、真也は顔をしかめた。
「伊織。黒峰伊織だ」
「伊織か。覚えておこう。しかし」
そこで砂城は思い出したように、顔を不愉快そうにしかめた。
「最近、まがい物の出没が多いと思わないか、鴻野」
「確かにな。デモンが出回っているという話は聞かないんだが」
剣人としての活動を始めて一年。
真也たちが当たった事件のほとんどが、このデモンを服用した人間の起こしたものだった。
「流通していないのにそれを服用した奴がいる、ということは、例の氷上とかいう鬼人が直接動いているということか」
氷上という鬼人についての情報は、真也の父である春樹を通して剣人会へと報告が行っていた。
「デモンはそいつが作ってるって話だからな。廃人にせずに薬を抜くには暴れさせないといけないんだから始末に負えない」
「そのあたりは上がどうとでもするだろうよ。殺人は剣人の本懐ではないからな」
先程、暴れていた男たちを回収した人影は剣人会から派遣されてきた人員だった。
デモン服用者を回収し、薬を抜いた上で警察へと引き渡すと聞いている。
彼らの受けている刀傷については不問とされるらしい。
そこは剣人会の隠然たる影響力を感じさせる部分だ。
「いっそ鬼人の相手の方が気楽だな」
「鬼人を甘く見るな、砂城。今の俺たちで敵う相手じゃないぞ」
「それこそやって見なければわかるまいよ。特に氷上はデモン服用者を前面に押し出して自分は行方をくらまして動かぬ臆病者。対峙したならば負ける気はせん」
不敵な笑みを浮かべた砂城は、まだ見ぬ敵を斬り伏せるかのように右手を振った。
「俺はそうは思えない。実際に奴と顔を合わせたことのある伊織は、得体の知れない相手だと言っていた」
「ふむ……確か他の鬼人との交戦経験もあるのだったな。その言葉とあれば一考の余地ありか」
「そうしてくれれば助かる」
「ますます興味深いな。高校は確か同じ学区だったか。その時を楽しみにしておくとするか」
その言葉が何を指しているかを悟って、真也は思い切り嫌な顔をしたのだった。
* * *
お師さんの容態が小康状態となってからは、僕の日常は以前に近くなった。
本当ならもっとお師さんの面倒を見たかったのだが、光枝さんが引き受けてくれたことと、お師さん本人からそんな暇があるなら修行しろと叱咤されたのだ。
今日もいつものように午後からは鴻野道場での稽古だった。
「……真也。神奈どうしたの?」
いつもはやる気がなさそうに見えながらも、親譲りのセンスもあって卒なく稽古をこなしているのに、今日は完全に精彩を欠いている。
「……ちょっとな」
何かあったようなのだが、真也の口も重い。
いつもならこういうときには容赦なく叱る春樹さんも、神奈にちょくちょく注意するに留めているようだ。
神奈は注意されたときには、はっとなって気を入れているようだったが、すぐにそれも元に戻ってしまっている。
心ここにあらずといった感じだ。
「僕は何もしない方がいい?」
「そうだな……。清奈が言ってきたら手伝ってやってくれ。それ以外では何もしない方がいい」
「……分かった」
心配ではあるけれど、神奈のことに関しては他人の僕よりも姉である清奈に任せるのが筋だし、その方が良い。
そう考えていると、その清奈が僕の方へとやってきた。
「伊織さん。少しお話が」
「うん、何?」
「ちょっとここでは……」
清奈は僕を道場の隅っこへと引っ張っていくと、小声で話しかけてきた。
「神奈の実力について、伊織さんはどう思いますか」
「へ?」
神奈に関することだろうとは思っていたけれど、何か予想外のことを聞かれて僕は間抜けな声を上げる。
「ですから、神奈の剣について伊織さんが思っていることを聞かせてくれませんか」
「ああ、うん」
多分、神奈が気落ちしているのはこのことに関してなんだろう。
何かあって、自分の実力に疑問を抱いているのかもしれない。
神奈が向こうで浮かぬ顔で素振りをしているのを確認して、僕は口を開く。
「才能は清奈にだって劣ってないと思う。清奈と違って割と稽古に熱心じゃないところがあるけど、それでも清奈が同じ年のときと同じくらいの腕はあるんだし」
「……それは私の才能の方が劣ってるように聞こえますけど」
「神奈の方が器用だし」
「そ、それは否定できませんけど……」
そうは言うけれど、僕の中では清奈の方が評価は高い。
清奈は不器用かもしれないけれど、壁に当たってもそのぶん真っ直ぐ突き進んで打ち破る力がある。
神奈はその点、少し壁に当たると挫けてしまいそうなところがあると思う。
ちょうど今のように。
「ただ、神奈は優しすぎるかも知れないね」
「優しい……ですか」
「うん。人としてはとても良いことだと思うんだけど」
神奈はぶっきらぼうな物言いや親しい人への毒舌はあるけれど、人を傷つけることをためらう優しさがある。
ただ、それは戦う者としてはつらいことでもある。
それを甘さと言ってもいいが、僕はそうは言いたくはなかった。
「そうですか……ありがとうございます」
「ううん。神奈、はやく自信取り戻せるといいね」
「はい。姉として補佐したいと思います」
「うん。僕ができることがあったら手伝うから」
真面目にうなずく清奈に、僕もまたうなずき返した。
――思えばこのとき、綻びがひとつできていたことを、僕は気づいてすらいなかった。
その綻びに手を突っ込んで広げていく悪意が存在することにも、それがやがて、僕たちにひとつの大きな後悔をもたらすことになることも。