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剣人  作者: はむ星
【幼年篇】
27/113

26

ご感想ありがとうございます。

格好良いと思って貰えて嬉しいです。

これからも精進いたします。

 息を吸う。

 そして吐く。

 吸う。

 吐く。


 今日は外は雨。

 目を閉じて呼吸に集中すると、意識は内に籠もっていくのに感覚は外へと広がっていく。

 降り始めにはいつもの痛みを覚えていた左腕も、もう意識にはない。

 雨樋を流れ落ちる水、雨に打たれる木々の葉、紫陽花の上で鳴いている雨蛙。

 まるで見ているかのようにそれらが知覚できる。


 ――あれから一年が経っていた。

 あのあと、お師さんはかろうじて一命を取りとめた。

 それでも町の大病院で緊急手術が必要だったし、後遺症が残った。

 全体的に体が弱り、何をするにしてもごく短時間しかひとりではできず、結果として介助が必要な状態になってしまったのだ。

 普段は僕が世話を行い、学校に行っている間は光恵さんにそれをお願いする毎日。

 今まで健康体だったお師さんが急にそんな状態になったことで、どんな気持ちだったのかは僕には想像もできない。

 救いだったのは、そんな状態でもお師さんはお師さんのままだということだった。

 体調の良いときは道場に座り、僕の稽古を見てくれる。

 あの戦いの後、入院中のお師さんに最初に言われたのが僕の玉響の未熟さについてだった。


「伊織。おめえの玉響は確かに開祖ですら到達したことのない領域かもしれん。じゃが、今のおめえはそれが宝の持ち腐れになっておる」


 病院の白い天井を見上げ、お師さんはあのときの戦いを思い返すかのように言葉を紡いだ。


「玉響を遣っておるときのおめえは確かに良く視えておる。曲がりなりにも修二の動きについて行けるほどじゃ」


 お師さんは安仁屋さんを名前で呼ぶ。

 普通、仇に名前で呼ばれるのは嫌だろうと思うのだが、安仁屋さんはそれについて否定的な言動はしていなかった。

 やはり二人の間には複雑な感情が交差しているのだろう。

 以前に安仁屋さんと戦ったのは、僕を拾う一年前ほどだったらしい。

 その頃から、いずれ彼に討たれることになるのだろうと、そしてそれも良いと考えていたのだそうだ。


「が、それだけじゃ。おめえはただ視ている・・・・に過ぎん。それでは玉響の半分しか理解したことにならん」


 お師さんの言わんとするところは僕にも理解できた。

 あの戦いの中でも、僕に足りないと思えたもの。


「先読み……」

「そうじゃ」


 我が意を得たりとばかりにお師さんはうなずいた。


「修二は恐ろしい遣い手になっておった。あやつほどの者の先を行くのは確かに至難の業じゃ。とはいえ、おめえほどに視えておるのならば、あやつの先であろうと読めるはずじゃ」


 お師さんは影が動く形で先が読めると言っていた。

 安仁屋さんほどの遣い手が相手になると、この影の動きが速すぎて見えていても反応が追いつかなかったり、影が多すぎて対処を誤ったりするらしい。

 それは逆に言えば先を読むことはできているということでもある。

 僕は相手の動きや空間を精細に把握できてはいるが、相手の動きを読むのは今までやってきたことの延長線でしかなく、イメージとして先が見えているわけではない。

 単純に先読みに関しての経験値が足りておらず、イメージとして捉えるには至っていないのだとお師さんは言った。


「経験を積むことじゃな。儂はこの通りの有様じゃ。おめえの力にはなれんが、そうなれるであろう奴なら何人か心当たりがある」


 そのひとりが今日、道場を訪れる予定だった。

 広げていた感覚が、玉砂利を踏む音を捉える。

 目を開くと、その感覚の範囲が急速に狭まるのを感じた。

 自分の意志で玉響を操れるようにはなった。

 けれど常にその状態とは行かないし、そもそも集中しないとその状態になれない。

 それに目を開くと視覚に意識が持って行かれるようで、感覚の広がりが狭くなってしまう。

 つまり、まだまだ修練不足ということだ。

 薄暗い道場の中で立ち上がると、ちょうどその人物が入り口へと入ってきたようだった。


「やれやれ、降られてしまったのう」


 使い込まれた風情の和傘を畳みながら、羽織の水を払っているのはお師さんと同い年くらいに見える、やや小太りの好々爺然とした老人だった。

 神宮かんのみや慈斎じさい

 剣人会における重鎮であり、元五剣のひとりだとお師さんに教わった。

 剣人会とはほぼ絶縁状態にあるお師さんと友誼を結んでいる、数少ない剣人のひとりだということだった。


「雨の中、わざわざ済みません。本当なら僕の方から出向くべきなんですが」


 タオルを差し出して頭を下げると、慈斎さんはからからと笑った。


「なんの。平蔵の見舞いついでゆえ気にすることはない。して、おぬしが伊織で間違いないかの?」

「はい、黒峰伊織です」

「なるほどのう……」


 僕を上から下まで一通り眺める慈斎さんは、自然体ながら隙がない。

 お師さんを揺らがない巌のようなものとするならば、この人はしっかりと大地に根ざした大樹だろうか。


「その若さでかなりの修練を積んでおるな。それに可愛い顔に似合わず修羅場もかなりくぐって来ておる」


 可愛い顔うんぬんはお世辞として、見ただけで色々分かるんだろうか。

 僕にはそこまでの目はないが、目の前の老人が只者ではないことくらいは分かっていた。

 しかしそのご老人、いつの間にか僕の横に来て、腰……というにはちょっと下すぎる場所をぽんぽん叩いている。


「うむうむ、良い肉付きをしてお」


 ごす。


 割と重い音がして、慈斎さんの頭に杖がヒット。

 慈斎さんがぱたりと倒れる。

 あ、これお師さんが家で使ってる杖だ。

 ……確か鉄芯入りだったような。


「心配になって来てみれば案の定じゃな、慈斎……」


 杖をぶん投げて息を荒くしながら青筋を立てたお師さんが、道場の入り口の柱に寄りかかって慈斎さんを睨んでいた。


「おお、平蔵。元気そうだな」


 何事もなかったかのようにひょっこり起き上がった慈斎さんが、陽気に片手を挙げて挨拶する。

 鉄芯入りの杖を投げつけられて怪我ひとつしてないってどういうことなんだろうか。


「おめえは相変わらずの女好きのようじゃな」

「ほっほ、若いと言って欲しいのう」

「ぬかせ、信楽焼の狸のような体をしおって」


 ずいぶんと気の置けない関係のようだった。

 僕の知らないところで良く会っていたのかもしれない。

 慈斎さんが剣人会に属している剣人だということを考えると、僕とは会ったことがないのも当然かもしれない。

 奥義を伝えると決める以前は、お師さんは僕を剣人会、ひいては剣人とはあまり関わらせるつもりがなさそうだったし。


「お師さん、杖」


 床に転がっていた杖を拾ってお師さんに手渡す。

 このずっしりした手応え……うん、やっぱり鉄芯入りだ、これ。


「済まんな」


 杖を受け取るお師さん。

 今の体調では道場に来るのだって一苦労のはずなのに、杖を投げるなんてことをしたせいで息がだいぶ荒い。

 それでも機嫌が良さそうなのは、旧知の友人に会えたからなのだろう。

 お師さんを手伝って、道場の壁際へと座らせる。


「おぬし、羨ましいのう……若い娘に甲斐甲斐しく世話を焼いてもらうとは」

「やかましいわい」


 指をくわえて見ている慈斎さんを言下に切って捨てると、お師さんは僕を見上げた。


「こいつはこんな馬鹿じゃが、腕の方は超一流と言って良い。ただ、何かと理由を付けてはおめえの体を触ろうとするじゃろうから、そのときは容赦なく殴って構わん。木刀で全力で殴っても死ぬタマじゃねえ」

「なんと、友だち甲斐のない奴だのう……」

「都合の良いときだけ友人ヅラするんじゃねえ」

「ほっほっほ」


 お師さんがこんな調子で人と喋るのなんて初めて見た気がする。

 僕は木刀を慈斎さんの分を壁から取って差し出し、自分の分も取る。


「では、始めようかの」


 ゆったりと右下段に構えた慈斎さんに対し、僕は正眼に構える。

 慈斎さんはそのまま無造作に僕へと歩み寄ってきた。


「……!?」


 打ち込めない。

 後ろに下がって間合いを外す。


「ほう」


 感心したような声をあげた慈斎さんは、右下段の構えはそのままに一歩踏み込み、ゆるりと下から斬り上げてくる。

 左腿を狙ったそれを木刀で受けるが、受けたときにはすでに慈斎さんはさらに一歩踏み込んでおり、僕の左斜め前で正眼の構えを取っていた。

 一分の隙もなく構えて僕を正面に捉えている慈斎さんと、構えが崩れていて慈斎さんを斜めにしか捉えられていない僕では、どちらが有利かは言うまでもない。

 そこからは数合も保たなかった。

 慈斎さんの打ち込みを受けるたびに僕が不利になっていった……というよりは、慈斎さんがどんどん有利な位置を取っていったように思える。


「ほっほぅ、さすがは平蔵の愛弟子だのう。初見で私の『波留なみどめ』にここまでついてこれるとは」


 今度は僕の腰を一度ぽんと叩きながら、慈斎さんは喉元に突き付けた鋒を引いて笑う。

 慈斎さんの先ほどの動きを見るに、波留とは常に自分が不利にならない位置取りをしながらも、自ら動くことによって相手を追い込む技のようだ。

 言葉にすれば簡単だが、まず自分が絶対に不利にならない位置を瞬時に把握するというだけでも生半なことではない。

 さらにそこから相手を追い込むとなると、まるで詰め将棋のように相手の行動を予測して最善手を打つ必要がある。

 人を相手にそれだけのことをするのにどれだけの技量が必要なことか。

 なるほど、お師さんがこの人を呼んだわけがよく分かった。


「分かったようじゃな、伊織。こやつの動きについて行くには必ず先読みが必要じゃ。今日ここで、こやつの技をせいぜい叩き込んでもらうがええ」

「はい、お師さん」

「はあ……うちにもこれだけ可愛い娘がおればのう。腕も立つし」

「おめえにも腕が立つと言えば一刀いっとうがおるじゃろうが」

「あやつは男だし可愛げの欠片もないゆえな」


 なんていうか、ぶれない人のようだった。


「それじゃ、続きと行くかのう」


*   *   *


「あたたた……」


 次の日は久しぶりに筋肉痛だった。

 好々爺然とした外見とは裏腹に稽古が苛烈だったというのもあるけれど、やはり慈斎さんの戦い方が、僕がまったく慣れていないものだったことが大きい。

 その巧妙な位置取りと攻撃によるコントロールで、僕は動きたい場所に動けず、反撃しようにも常に慈斎さんが有利な間合いを保っていたためにそのほとんどが失敗。

 思うように動けなかったことで、普段あまり使っていない筋肉まで酷使したようだ。


 自分が有利な間合いを保つというのは戦う上での基本と言えるが、慈斎さんの場合はその一挙手一投足がすべてそのためにある。

 玉響が呼吸を読むことに特化した奥義であるように、波留は間合いに特化した技なのだろう。

 あの技に対応することで先読みの力が磨かれ、理解することで自分の力にもできる。

 そんな技を体験できた意義はとても大きいものだ。


 その慈斎さんは夕べは遅くまでお師さんと飲みながら話し込んでいた。


「それにしても伊織とひとつ屋根の下とか、おぬし間違いが起こらんじゃろうな?」

「おめえと一緒にするな」


 夕食後、まだ飲んでいる二人に軽いおつまみを持っていったときも、お師さんと慈斎さんはやり合っていた。


「伊織、こやつはな、自分よりも二十も年下の女房を貰ったんじゃ。それも五十を過ぎて」

「ほっほっほ、素直に羨ましいと言えば良かろうに」

「阿呆か。しかも子供もきちっと作りよって、いっそ尊敬するわ」

「できたのは可愛げのない息子だったのが残念だのう。ああ、さっき言っておった一刀が息子の名だが」

「出来は良かろうに、可愛げのあるなしでこうまで言われるとは一刀も報われんやつじゃ」


 話によれば、一刀さんはお師さんに認められて今の三日月を襲銘している人らしい。


「おぬしも子供ができておれば、私の気持ちも分かっただろうに」

「ふん。そんな機会もありはせなんだ」

「……おぬしは一途だからのう。だから伊織にも肩入れする、か」


 酔っていたからだろうか。

 お師さんは慈斎さんのその言葉にほろ苦い笑みを浮かべた。

 それはすぐに消えてしまったけれど。


「伊織、おめえは強い。じゃがひとりにはなるな。孤高といえば響きは良いかもしれんが、その先には奈落が待ち構えておる」

「平蔵の前の三日月が、そういう女性だった」


 慈斎さんのその言葉に、お師さんは盃を呷って、空になったその底を見ていた。

 その人がどういう死を遂げたのかは、安仁屋さんの言葉から僕も知ったことだ。

 ああ、そうか。

 お師さんはきっと、その人のことが。


「うん。幸い、僕には真也や清奈みたいなライバルがいるし」

「そうか。そうじゃったな」


 安心したように、お師さんは笑っていた。

 僕がおつまみを置いて部屋を出た後、また二人で思い出話に花を咲かせているようだった。


 お師さんはもともとそれほどお酒を飲む方ではなかったけれど、今の体になってからはそれこそまったく飲んでいなかった。

 それが昨日は少しとは言っても飲んでいたのだから、慈斎さんが来たことでよほど気持ちが高揚していたんだろう。

 僕が出したおつまみも朝見たら残っていなかった。

 まあ、僕が作った食事をおいしいおいしいと言って、慈斎さんはむさぼるように食べていたので、彼がほとんど食べたのかもしれないけれど。

 普段どんな食事を食べているんだろうか。


 その慈斎さんは、お弟子さんがたくさんいる道場を放っておくわけにも行かないとのことで、朝イチで市場まで買い出しにいく車に便乗して帰って行った。

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