24
道場の中はまるで時が止まったかのように静寂に満ちていた。
格子窓から入り込む夏の光の中で対峙する二人の男は、そこだけを見れば一枚の絵画のような厳かさを感じさせる。
だが、二人がやっているのが殺し合いであることは、道場内に充満する殺気からも明らかだ。
お師さんが手にしているのは鬼姫と呼ばれていた刀。
つまり剣人として相手と対峙しているということで、そうなると安仁屋さんは鬼人なのだろう。
その安仁屋さんは見た目こそあまり人と変わらないものの唯一目だけが金色に光っており、その発している気はまさに鬼気とでも称すべきものだった。
正眼に構えるお師さんはところどころに青痣があり、口の端からも血を流しており、息が若干乱れている。
対する安仁屋さんは体の何箇所かに切り傷を負ってはいるものの深くはなく、息も上がっているものの乱れてはいない。
今までどのくらいの間戦っていたのかは分からないが、お師さんは若干だろうがそう簡単に息を乱す人ではない。
恐らく長時間戦っていることと、それに伴って夏の暑さが体力を奪っているのだろうと思われた。
それは安仁屋さんも同じ条件だが、そこはやはり年齢の差が物を言う。
(今なら)
今ならこの戦いを邪魔できる。
嫌な予感は消えるどころか強くなっている。
けれど、声が出せない。
この極限まで張り詰めた空気は、僕が声を上げる――いや、少し身動きしただけで破裂して二人の激突を生むだろう。
息をすることすら憚られる緊張に、夏の暑さも、蝉の声すらも遠くなる。
何もできないまま時が過ぎ、やがてそのときは訪れた。
お師さんがゆるりと前に出る。
一見ゆっくりとしたその前進は相手に選択を迫るもので、その実、相手が刹那に迷う暇しか与えない。
後ろに下がれば突き、右に捌けば逆袈裟、左に捌けば袈裟、しゃがむなら斬り下ろし。
速度、タイミング、呼吸、どれがずれても成立しない拍子の極みとも言うべき対鬼流の技『鬼門』。
安仁屋さんの応手は右前構えから半歩下がって左前構えへのシフトだった。
「いえぇぇぇぇい!!」
裂帛の気合い。
安仁屋さんが下がったそのときを狙い澄ました突きが、離れて見ている僕の目にも止まらないほどの速さで繰り出される。
まさに必殺のその一撃が安仁屋さんに届くかと思われたその瞬間。
お師さんが吹き飛んで道場の壁へと叩きつけられた。
その光景に呪縛が解ける。
何が起こったのかは見えていた。
一度見ていなければ理解すらできなかっただろうそれは、落月と呼ばれる技。
触れるだけで腕が弾け飛びそうな突きを、ここ以外はないというタイミングで左手で受け流した安仁屋さんは、そのまま半歩前へ出てお師さんの前に出る勢いをも利用して右拳を水月へと突き込んだ。
シンプルな技であるからこそ、初見で躱せるはずもなかった。
「お師さん!!」
あの勢いで水月へと突き込まれれば絶命してもおかしくなかった。
現に壁に叩きつけられたお師さんはぴくりとも動かず、その口からは血が流れ出ている。
「……!」
駆け寄った僕はお師さんの状態に声を失う。
胸が拳大に陥没しており、胸骨が砕けている。
口から鮮血を吐いているところを見ると、内臓も傷ついているようだ。
どう見ても、もう戦える状態ではない。
ただ、浅いながらも呼吸はしているし、脈もある。
まだ、生きている。
「おまえは……」
後ろからの声に振り返ると、目を金色に光らせた安仁屋さんが僕を見ていた。
「そうか、偶然にしては、とは思ったが。三日月の縁の者だったわけか」
そう言うと安仁屋さんは再び構えを取った。
その左腕はお師さんの必殺の突きを受けた代償か、かなり深く切り裂かれて血を流していたが、安仁屋さんの声にも態度にもその影響は感じられない。
「そこをどけ。俺はその男を殺さねばならん」
「嫌だ」
そう答えた瞬間、鬼気が僕に直接吹きつけた。
まるで魂を直接つかみ取られたかのような息苦しさ。
知らず足が萎え、呼吸が乱れ、戦意は吸い取られるかのように失せていく。
ここにいれば死ぬ。
それははっきりと分かった。
何よりも、安仁屋さんの金色に光るその目は憎悪に染まっていたから。
「邪魔をするならおまえも殺す。もう一度だけ言う。そこをどけ」
鬼気に殺気が入り交じる。
もはやそれだけで人が殺せるのではないかというほどの重圧が僕を襲う。
先ほどのが魂をつかまれたような感覚というべきものであれば、今のこれは魂を押し潰されるかのようなそれと言えばいいのか。
それでも僕はここを退くわけにはいかなかった。
「なぜ、そんなにお師さんを憎むんだ」
「……」
こちらに歩を進めようとしていた安仁屋さんが、その動きを止める。
その瞳からは憎悪がほんの少しだけ和らいで、僕へと向けられる。
「そうだな、話してやってもいい。だが、おまえは聞けば後悔するかもしれないぞ」
「聞くよ」
お師さんと安仁屋さんの間に何があったのかを、僕は全然知らない。
退く気はなくても、例えここで死ぬかもしれなくても、そして後悔するのだとしても、それは聞いておきたかった。
安仁屋さんはもはやお師さんには抵抗することはおろか、逃げ出すだけの力もないと理解しているのだろう。
僕の返事に対し、慌てる様子もなくうなずいた。
「いいだろう。俺がそいつを憎むのは――無抵抗の、俺の母を殺したからだ。それも鬼人などではない、普通の人間であった母を」
自分が何を聞いたのか、一瞬分からなかった。
お師さんが、無抵抗の女性を殺した?
ありえない、と叫ぶ自分と、安仁屋さんが嘘を言うとは思えない、とささやく自分がいた。
「信じられないという顔だな。……もっとも、三日月も何の理由も無くそうしたわけではない」
混乱する僕を尻目に淡々と語る安仁屋さんのその金色の瞳は、内包する怒りを反映するかのように揺らめいていた。
それこそ、どんな理由があろうとも許すつもりはない、と言わんばかりに。
「おまえは知らないかもしれないが、三日月というのは剣人において『五剣』と呼ばれる称号のひとつで、認められた者に代々受け継がれていくものだ。今から話すことは、この男がまだ三日月ではなかった頃の話、四十年以上前の話になる」
倒れているお師さんを見下ろして、安仁屋さんは記憶をたどるような目をした。
「当時の三日月は美しい女だったらしい。そいつとこの男は親しい関係だったと聞く」
安仁屋さんはどう見ても三十代前半。
伝聞形なのは後で調べたことだからなのだろう。
「その女を俺の父が殺した。それも徒党を組んで人質まで取った上、嬲りものにした挙句に殺したと聞いている。……父は鬼人として強い力を持っていたが、人としては屑もいいところの男だった。覚えている限りでもな」
その口調には強い軽蔑が含まれていた。
その様子から、当時から好きな父親ではなかったということがうかがえた。
「そして父はこの男から逃げ回ったものの、遂に殺された。それはいい。あれは殺されて当然の男だった。だが」
声がじわりと変化する。
「そんな父を庇った母を、こいつは諸共に斬り捨てたのだ。俺の目の前で。それは到底許せることではない……!」
憎悪が雫となってしたたり落ちるような、抑えても抑えきれない激情を湛えた声。
「母に落ち度があったとすれば、あの父を庇ったことだろう。なぜあんな屑を庇ったのか、それはいまだに俺には理解はできない。だが、それは殺されるほどのことだったか? 断じて否だ」
拳を音が立つほどに握りしめた安仁屋さんは、鋭い視線を倒れているお師さんへと向けた。
「最初は十五のときに挑んだ。一蹴されたが生き残った。次は二十歳のときだった。やはり勝てなかったが、自分と三日月の間にどれだけの差があるかを理解した。そこから勝てると確信できるまで修行を積んで十三年。ようやく、ようやくだ!」
復讐のためだけに人生を積み上げてきた男の、血を吐くような叫び。
そこに在る思いは、僕が軽々に否定して良いものとはとても思えなかった。
しかし、それを肯定するのであれば僕はこの場に留まる資格を持たない。
今、この場を離れることはお師さんの死を意味する。
それだけは絶対に認められなかった。
「い、おり……」
「お師さん!」
意識を取り戻したのか、お師さんが掠れた声をあげた。
僕は振り返ってお師さんを抱えるように支える。
「そいつの言うことは……本当、じゃ……」
それまで倒れていても握りしめていた鬼姫を放し、ごぼりと血の塊を吐くお師さん。
鬼姫は軽い音を立てて道場の床へと転がった。
慌てて背中をさすると、お師さんは大きく息を吸った。
「儂の、過ちじゃ。おめえには悪いが、儂はここまでと、いうことじゃろう」
「そんな……!」
「修二よ……ひとつ、頼みがある」
意外なことにお師さんの言葉に安仁屋さんは反発せず、先を促すかのように沈黙していた。
「こいつを……伊織を、見逃してやってくれ。おめえの実力なら、今のこいつくらい、楽にあしらえるはずじゃ」
納得行かなかった。
安仁屋さんの気持ちは分かるとは言えなくても、推し量ることはできる。
大事な人を理不尽に奪われるというのは、自分自身が死ぬことよりも恐ろしい。
僕はそれを知っている。
そしてそれが実際に奪われてしまえば、その相手を殺してしまいたくなっても不思議ではない。
けれどお師さんがそれを悔やんでいなかったはずがなかった。
そうでなければ、安仁屋さんが二回もお師さんに負けていながら、命を奪われていないどころか五体満足であったはずがない。
否、そんなことは些事だ。
「……いいだろう」
お師さんの望みに、安仁屋さんはそう応えた。
けれど、僕は。
それを真っ向から否定する。
鬼姫を拾い上げて構えた僕に、安仁屋さんは眉をひそめた。
「何の真似だ」
「やめろ、伊織。おめえの、敵う相手じゃ、ねえ……!」
何の真似も何も、武器を手にして立ちはだかった時点で決まってる。
敵う相手じゃないことなんて、最初っから分かってる。
「安仁屋さんがお師さんを殺したい理由は理解したし、それが本当だと言うことも納得した」
お師さんの性格からすると、自分のせいではないことも自分のせいだとして黙っている可能性もあったけれど、安仁屋さんにしても憎悪に身を浸してはいても、事実を捻じ曲げるようなことはしないだろう。
細かいところはともかく、大筋では本当なんだと思う。
「そして、お師さんが僕を助けたいと思っているのも分かったし、僕が安仁屋さんに敵わないのは最初から知ってる」
「その割には闘志がむき出しのようだが」
「だって、そこには僕がどう思っているかが入ってない」
僕の言葉に、お師さんも安仁屋さんも意表を突かれた顔をした。
それに無性に腹が立つ。
「安仁屋さんの境遇には同情する。その気持ちが理解ができるなんてとても言えない」
安仁屋さんと違い、僕にはまだチャンスが残されている。
自分は殺されたが、好きな人を助ける機会を与えられた。
だから、大事な人が殺された気持ちは想像するしかない。
けれど、決定的なことがひとつある。
「でも、安仁屋さんは自分のことしか考えていない」
「……何だと?」
気色ばむその姿は、気の弱い者であればそのまま気絶してもおかしくない迫力があった。
けれど、今更だ。
「お師さんはあなたのお母さんを殺したことを後悔してた。あなただって本当は分かってるはずだ。そうじゃなければ、お師さんに挑んで二回も死ななかったなんて有り得ない」
「……だから許せとでも言うつもりか」
「そうしてくれれば良いんだけど、そうは行かないよね」
「当たり前だ」
「だから、ここから先が僕の思い」
鬼姫をしっかりと構える。
二尺六寸余の剛刀は僕が扱うには本来、重すぎるし長過ぎるのだが、鬼姫はそのバランスの良さでそれを感じさせない。
「お師さんは僕の恩人だ。僕を拾って、今まで育ててくれた。それだけじゃなく、僕に戦う術まで教えてくれた」
「伊織……、おめえ」
お師さんは今まで僕の出自について、僕に対して何も言ったことはない。
僕の方は赤ん坊の頃からの記憶があるわけだが、それをお師さんに言ったことももちろんなかった。
「安仁屋さん。あなたなら、僕の今の気持ちが分かると思う」
「なに……?」
失う前と失った後、そういう違いはあっても。
「今、あなたが大切な人を失おうとしているのなら、それを指をくわえて見ているのか。座してその運命を受け入れるのか!?
大事な人を失って復讐鬼になったあなたは、同じ運命を僕に大人しく受け入れろっていうのか!」
「……っ!」
「僕は断じて認めない! あなたがそれを僕に強いるというのなら、今ここで、全力でそれに抗うだけだ!!」
決定的なこと。
僕は僕から大事な人が奪われようとしているのを見過ごすことはできない。
それがすべて。
不退転の決意を込めて、僕は安仁屋修二という鬼人の前に立ちはだかった。