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「おまえは……」
月明かりに照らされた男は昼間のサングラスをしていなかったが、その声は聞き間違いようがない。
男の方も僕に見覚えがあったのか、無意識にしていた構えを解いたようだった。
「昼間の奴か。俺に何か用か?」
「ううん。散歩していたら練武の気配がしたから」
「気配、か。おまえは結構な腕前のようだな。俺の動きを捉えられるくらいには」
やっぱり見えたことには気づかれていたらしい。
「まだまだだよ。お兄さんの動きはかろうじて見えただけだし」
「お兄さん……」
その呼ばれ方に何か抵抗でもあったのか、男は腕組みして何やら考えていたが、やがて顔を上げて口を開いた。
「安仁屋修二だ。安仁屋とでも呼べ」
やはりお兄さん呼ばわりが気になったらしい。
おじさんと呼ぶ勇気はさすがになかったのでそう呼んだんだけど。
「黒峰伊織だよ。よろしく」
「黒峰……?」
安仁屋さんは僕の名前に何か引っかかっるものを感じたようだったが、結局それを無視することにしたようだ。
「まあ、いい。何か用か?」
「なんでこんなところで練武を?」
「合宿に来ているおまえがそれを問うのか」
どうやら僕たちが稽古をしているところは見ていたらしい。
「おまえたちと同じくだ。砂浜は足腰の鍛錬にちょうどいいからな。仕上げには持ってこいだった」
「仕上げ……?」
安仁屋さんはそれには答える気がないようで、かすかに首を横に振った。
「他に用がないなら去れ。人に見られながら練武をする趣味はない」
確かに、武人にとっては己の技の秘匿は死活問題でもある。
技を知られることで、構えから繰り出せる攻撃、そこから派生する動きの流れを先読みされやすくなる。
それだけでなく、あらかじめ技に対する対策を練られたり、そもそも技を出せない状況に追い込まれることもある。
技を知られても戦えるようにするのが理想ではあるが、知られていないということは間違いなく大きなアドバンテージとなるのだ。
子供相手であっても己の技を見せるつもりはないだろう。
でも、これだけの武人に出会ったのに何もないのも僕には残念なことに思えた。
そんな思いが口をついて出た。
「えっと、ひとつ、お願いがあるんだけど」
「願い……?」
訝かしげな安仁屋さんに僕はうなずく。
結構に不躾で図々しい願いではあるんだけれど。
「ひとつだけ、技を見せてもらえないかな」
「ふむ」
僕の言葉に考えるように瞑目した安仁屋さんは、やがて目を見開いた。
「俺の技は我流だが構わないのか?」
「うん」
「いいだろう。ただし、二つ条件を付けさせてもらう」
「条件?」
「人に話さないこと、それと二度とこの時間のこの場所に来ないことだ」
つまり、安仁屋さんはこれ以降は僕に会うつもりがないということだ。
残念には思ったけれど、これを断って僕が明日ここに来ても、安仁屋さんはさっさと立ち去るだけだろう。
僕より遙か高みにいる人を相手に気配を隠し通すなんて真似は難しいし。
それなら、一期一会でも技を見せてもらった方が自分のためになる。
「うん、分かった。約束する」
「よし。では良く見ておけよ」
左手と左足を前にした構えを取る安仁屋さん。
何気ないものに見えるけれど、彼がその構えを取ったその瞬間にまるで周囲の時間が止まったような感覚に囚われた。
自分の呼吸も知らず止まったことには気づいたが、今はそれどころじゃない。
呼吸ひとつ、筋肉の動きひとつ見逃さないよう、目と気配に集中する。
「ふ……っ!」
――すべては刹那のうちに行われた。
前に出した左足を軸に右足を前へ。
その動作で自然と前に出る左手を、コロのように回転させながら何かを捌くように左へ流す。
そのまま半身になると右拳に全体重を乗せ、右足を深く踏み込むことでそれを数倍の威力へと変換しながら突き抜いた。
「………っ」
思わず息を呑む。
昼間のチンピラたちを相手にしたときとのそれが本気だなどとは思っていなかったが、まさに段違いだ。
全感覚を集中していなければ、捉えることすらかなわなかったであろう稲妻のようなその動き。
そして、この技は……。
「対武器……それも、刀を想定した技?」
「やはり、分かるか」
安仁屋さんは残心を解いて、予想していたという声で言った。
最初の左腕の動きは振り下ろされる武器を捌く動作だ。
それだけなら他の武器が相手でも問題ないが、僕が重視したのは技の終わりが極端な半身になっていたことだ。
これは捌いた武器がそれでも振り下ろされた場合でも、確実に当たらないようにするためだ。
棒などであれば、打点をずらした振り下ろしが当たったところで大したことはないが、刀はその鋭利さゆえにそれでもそれなりに斬れてしまう。
だからこそ、これは刀を意識した技だと僕は判断したのだ。
とは言ってもそもそも刀を左腕で捌かなければならない時点で、とてつもない技量を必要とする技であることは間違いない。
それこそ、目の前にいる人ほどの腕がなければ使いこなせないほどには。
安仁屋さんは我流だと言っていたが、この技には確かな理合を感じられた。
「捌くのと突き込むのが一拍か。凄い技だね。必殺と言ってもいいくらい」
「必殺とは言い過ぎだが、それを目指した技ではある」
淡々と語る安仁屋さんには、逆に本気でそう邁進してきた者特有の凄みが感じられた。
「技の名前を教えて貰っても?」
「落月と言う。さあ、もういいだろう。これ以上練武の邪魔をするな」
「うん、ありがとう」
僕がそこを立ち去ると、後ろで再び始まる練武の気配。
毎日、毎晩、ああやって稽古を積んでいるのだろう。
無手の技は僕の使うものではないけれど、超一流の技を見ることができたのは僥倖だった。
(落月……か)
* * *
合宿三日目、本格的な稽古は今日で最終日だ。
明日は午前中に軽く練習をして、そして帰ることになる。
生憎の天気で小雨模様だったが、嵐でもない限りは鴻野道場の稽古に中止はない。
剣道部員が盛大にブーイングをする中で、鴻野道場の面々は諦めきった顔をしているのが対照的だった。
濡れるのが確定してしまっているので、今日は水着を着た状態で稽古をする人が多かった。
僕も普段着をわざわざ濡らす趣味は持ってないので、パーカーとハーフパンツを上に着けた状態の水着で稽古をする。
基本の素振りが終わった頃にはみんなびしょ濡れで、水着を着てこなかった面子が後悔と怨嗟の声を上げていた。
なお、女子は全員水着着用済みである。
「さてっと、次は打ち込み稽古か」
今日は誰を相手にするのかと周囲を見回すと、なぜかこっちを見ていたらしい男子たちが僕と目が合うと慌てて逸らしていく。
何なのか不思議に思っていると、清奈に腕をつかまれて物陰に引っ張り込まれた。
「え、なに? 清奈」
「なに、じゃありません! って、まあ別に問題あるわけじゃないんですけれど……」
小声ですごい剣幕で叫ぶという離れ業を披露した清奈は、直後に何か困ったような顔をする。
本当に一体何なんだ?
「その、伊織さん。パーカーが」
「パーカー?」
自分の体を見下ろす。
雨でびしょ濡れになったパーカーが、体に貼り付いて透けて下の水着が見え……。
「ぎゃー!?」
「落ち着いて伊織さん。透けてると言っても水着ですから」
「あ、そっか」
「と言っても男子の態度を見れば分かりますけれど、透けてること自体が……」
……海で遊んだ後にやたら視線がくっついてきてたと思ったらこれが原因かー!?
遊んだあとはさっさとシャワーを浴びて着替えていたから、あんまり気にしてなかったんだけど。
「と、とにかく、その状態よりまだパーカーを脱いだ方がマシです」
「え、えええええ」
水着を晒すのが嫌だからパーカー着てたのに、それが逆効果って一体どういうことなのか。
泣く泣くパーカーを脱いで荷物と一緒の場所に置いておく。
ハーフパンツはそのままにしておいたら、清奈が何やらため息をついたが何も言わなかった。
「ねえ、清奈。あんまり状況変わってなくないかな?」
「だからって私を盾にしないでください。ほら、打ち込み稽古始まりますよ」
無情にもさっさと歩き出す清奈。
「待って待って」
「あんまり恥ずかしがってると、逆に興味を引きますけど」
僕にどうしろって言うんだ。
そうは言っても恥ずかしがっていたら稽古にならない。
腹をくくるしかないか……。
春樹さんの差配で、今日の打ち込み稽古の相手は昨日とは違う人ということになった。
僕が相手をすることになったのは三年の男子部員二人と、山田先輩だった。
男子部員二人の方は最初のうち人をじろじろと見てきたので、割と容赦なくぱんぱん叩いたらそのうちしんなりとしたので良しとする。
山田先輩はなかなか強くて、これなら悟志と戦っても五分に渡り合えるのではないかと思えた。
「黒峰さんって本当に強いのね」
小休止のときに髪を軽く絞りながら山田先輩が言う。
正直、僕とか見るよりこの山田先輩を見た方が目の保養になると思うんだけれど。
近くにいる人の魅力は気づきにくいとかいう奴だろうか。
今も濡れた髪を手で整えている仕草は、柔らかい色気を感じさせた。
「まだまだですけど」
僕の言葉に、山田先輩の後ろでぐったりとなっていた男子部員二人がげっそりした顔をした。
この二人も腕は悪くないと思うんだけど、余計なことに気を取られすぎだと思う。
そうやって山田先輩と話していると、少し離れた仮設トイレの方からかすかな悲鳴が聞こえた気がした。
「……!」
「黒峰さん!?」
山田先輩の驚いた声を後ろに走り出すと、僕と同時に行動を起こした悟志の姿が見えた。
なら、聞き間違いじゃない。
仮設トイレの前にたどり着くと、三人の男が二人の女の子を羽交い締めにしているのが見えた。
「麻衣、奈須さん!」
「んー! んー!」
口を塞がれた奈須さんが恐怖を色濃く宿した目を大きく見開いてこちらを見たのに対し、麻衣は悟志の姿を見たからだろうか、安堵したような顔になっていた。
三人の男は安仁屋さんにノックアウトされたチンピラたちだった。
あのときは周囲に被害もほとんどなく、彼らが気絶しただけだったのですぐ釈放されたんだろう。
だが、目の前で行われているのは歴とした犯罪だ。
「てめえら!!」
追いついてきた悟志が咆哮してチンピラたちに飛びかかろうとするが、ぴたりとその動きを止める。
「動くなよ、ガキども」
囚えられている女子二人の首筋に鈍く光るナイフが突きつけられていた。
三人のチンピラは全員ナイフを所持しているようだった。
残ったひとりは悟志に対してナイフを向ける。
「ったく、雨だから人も少ねえだろうと思ったのによ……昨日の野郎といい、つまんねえ邪魔が入りやがる」
苦々しげにつぶやくチンピラ。
恐らく雨だから人の通りも少ないだろうと考え、そんな中をのこのことやって来た獲物と見て、麻衣と奈須さんに襲いかかったのだと思われた。
大体、麻衣がいくら美人とは言っても、中学生に襲いかかるとかどんなロリコンなんだこいつらは。
それともそれだけ女に飢えてるんだろうか。
どっちにしても救いはないんだけど。
「そいつらに汚ねぇ手で触んなよ」
「黙ってろよ、ガキ。そこで動くな。ついてきたら殺すぞ、こいつら」
「クソッ」
武器はなくてもこいつらを倒すのはそう難しい話じゃない。
それでも麻衣と奈須さんにナイフを突きつけられているとなると話は異なる。
本当に殺す度胸はないと思うけれど、考えなしに行動することは十分考えられるからだ。
それがどのような結果を生むか分からない以上、迂闊なことはできない。
そう考えていると、手の空いていたチンピラが僕の方を見てにたりと笑った。
「おまえはこっちに来い」
「てめえっ!」
「悟志」
思わず男に突っかかりかけた悟志を手で制する。
やつらの近くに行けるならチャンスだし、どうせこいつらはもう逃げられない。
男の近くに行くと、腕をつかまれて引き寄せられる。
「ひひ、三人に対して二人じゃ余りが出るとこだったが、これでちょうど良くなったな」
正直鳥肌が立つくらい気持ち悪かったが、麻衣と奈須さんはさっきからそういう目に遭っているということだ。
そう考えると、湧き上がる怒りの前に気持ち悪さなど吹き飛んでいった。
男たちの命運はすでに尽きている。
僕がやるべきは、そのときに麻衣と奈須さんの二人を無事に逃がすこと。
「なにがちょうど良いのかな」
悟志の後ろから出てくる春樹さん。
いつもの穏やかな口調はそのままに、その声には明らかな怒りと冷ややかさが含まれていた。
そしてそれと同時に、木刀と竹刀で武装して周囲を取り囲んでいた門下生と剣道部員たちが姿を現した。
あれだけ騒いでいれば、近くにいたみんながそれを聞きつけないはずがない。
周囲を取り囲む気配を感じ取っていたからこそ、僕は大人しくチンピラの言うことを聞いたのだ。
ただし、腸は煮えくり返っているのを自覚していた。
「な……!?」
「とにかく、僕の教え子たちを放してもらおうか」
「う、うるせえ! 貴様らこそ道を空けろよ。こいつらを殺すぞ!」
どうやらこのチンピラたちは諦めるつもりはないようだ。
なら、もはや躊躇することもない。
剣の戦い方をする際に勝ち方はいくつかあるが、そのうちのひとつに相手の武器を奪うというものがある。
無刀取りや白刃取りと呼ばれるそれは素手で相手を制するための技であり、今のような状況で使えるものだ。
もちろん、素手である以上は油断をすれば手をすっぱり持っていかれることは間違いない。
しかしチンピラ三人は僕たちにナイフを突きつけていることである意味油断しており、特に人質三人にはまったくと言っていいほど注意を向けていない。
(今!)
僕にナイフを向けていたチンピラが注意を逸したときにつかまれていた腕を捻って外し、麻衣と奈須さんに突きつけられていたナイフの刃を右手と左手の指でそれぞれつまむ。
それを捻りながら相手の手の甲の方に押し、テコの原理も利用して奪い取る。
少しうまくいかずに手が傷ついたけれど、それは気にならなかった。
「なっ!?」
ナイフは二本とも後ろに放り投げて僕は右手を握りしめて思いっきり振りかぶり、そのまま麻衣を捕まえていた男へ振り抜いた。
「ぎゃごっ!?」
全体重を乗せた一撃は見事命中。
鈍い音を立てて男は麻衣の前から消え失せた。
次。
「ひ、ひいいいい!?」
奈須さんを捕まえていた男は戦意喪失したらしく、奈須さんを放して両手を上げて後ずさる。
知ったことじゃないのでもう一度右手を振りかぶったら、真正面にいきなり両手を広げた麻衣が現れたので慌てて止める。
「やめて伊織! もう大丈夫だから!」
正面から抱きつかれる。
とりあえず前の男を殴らないといけないからどいてもらおうとしたのに、麻衣は頑としてどこうとしなかった。
その殴らなければならない相手を見ると、真也に取り押さえられていた。
「ん? あれ?」
「……伊織」
周囲を見回すと、僕を捕まえていた男は春樹さんに取り押さえられていて、僕が殴った男は悟志がこっちに引きずってきていた。
そして目の前には涙目の麻衣。
「あー……やっちゃった」
自分の怒りに引きずられて麻衣を泣かせるとか、友だち失格もいいところだ。
「ごめん、麻衣」
「ううん。助けてくれてありがとう、伊織」
「助けたのは僕だけじゃないし」
「でも、ありがとう」
麻衣は頑固だった。
その麻衣の髪を撫でようと右手を持ち上げると痛みが走った。
「いてて……」
「大丈夫、伊織?」
「右手を見せて、伊織ちゃん」
チンピラを門下生に任せた春樹さんが僕の方へと来る。
右手を見せると、少し触ってからうなずいた。
「うん、折れてないしヒビも入っていないね。良かった。かなり無茶な殴り方だったからね」
「ごめんなさい」
「そうだね、気持ちは分かるけど、無茶しちゃダメだ。師匠も悲しむよ」
「はい……」
感情に走るとロクなことがないのは前世からの経験でも良く分かっていたことだったけれど、また失敗してしまった。
「……黒峰さん」
「奈須さん。大丈夫?」
仏頂面の奈須さんが、僕と視線を合わせないようにして話しかけてきた。
さっきの今だし、奈須さんもかなりのショックを受けたはずなので無理はしてほしくない。
「……大丈夫。その」
「大丈夫、彩花。伊織は気にしてないはずだから」
麻衣が涙を拭って奈須さんに微笑みを向けた。
ん?
「うん」
奈須さんはそんな麻衣にうなずくと、深呼吸して僕の方を見た。
「私と麻衣を助けてくれてありがとう。あなたのこと、好きじゃないけど、それは本当に感謝してる」
仏頂面のままのその言葉は、失敗に落ち込んでいた心を上向きにするには十分な暖かさを、僕にもたらしてくれたのだった。
次も少しお時間いただきます。
なかなか毎日とは行かないですね。