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いつもご感想ありがとうございます。
楽しんで頂けていれば何よりです。
晩ご飯は新鮮な海の幸をこれでもかと言わんばかりに味わった。
中でも特製のスープに伊勢エビをほとんど丸のまま入れて野菜と一緒に煮た鍋は絶品だった。
エビの旨味の染みた野菜と、それでも旨味を失わないエビのぷりぷりした身が口の中で調和する。
山ではなかなか味わえない美味に、僕だけでなく全員が舌鼓を打っていた。
その頃には奈須さんも体調が戻って起きてきたので、刺激しないように僕は近くには寄らず、麻衣に任せることにした。
今は麻衣と一緒にお鍋をつついているようだ。
鍋を堪能することに専心していると、見慣れない顔が近寄ってきた。
「それにしても伊織ちゃん、足速いね~」
声を掛けてきたのは確か剣道部の二年の男子……だっただろうか。
面識があんまりない人になれなれしく呼ばれるのは割と気持ち悪かったけれど、悪気はなさそうだったのでそこはスルーしてそちらを向く。
「あ、ごめん。今里先輩がいつも『伊織は、伊織は』って話をするからつい。黒峰さん、だよね。俺は唐沢貢。二年だよ」
良い人だった。
あと悟志は有罪。
「毎日走ってますから」
「それにしても凄かったよ。あっという間に置いていかれたし。それにしても」
唐沢先輩は僕の姿を見て納得したように頷いた。
「いつも道衣に袴って本当だったんだねぇ」
しおのやに帰ってきてからはみんな思い思いの服に着替えているが、僕はいつも通りの道着姿だ。
一般的でないことは分かってるけれど、今やこれがしっくり来るんだから仕方ない。
「本当ね。今里くんのホラかと思ってたんだけど、本当に話のまんま。この間も凄かったし」
「あ、うん。確かにあれは凄かった。空中で一回転とかしてたし」
山田先輩が話に加わってきたときに、唐沢先輩が一瞬顔をしかめた気がするんだけれど仲でも悪いんだろうか。
この間、というのは例の西木たちと池田主将の事件のことだろう。
「悟志……じゃなくて、今里先輩は一体何を話してるんですか」
途端に別の鍋を一生懸命掻き込んでいた男子勢の中心から、盛大にむせる音が聞こえてきた。
「ちょ、先輩汚ぇ!?」
「今里、おまえはやってはならないことをした……」
「もうおまえこの鍋に近寄るの禁止な!」
箸と取り皿を持ったまま鍋の近くから蹴り出されてきた悟志は、それどころではないように僕の方を見た。
「おま、伊織……いまさら先輩呼ばわりとかやめろよ!?」
「いや先輩は先輩だし?」
「うおおあああ、気持ち悪ィイ!!」
畳の上を七転八倒しはじめた悟志を放置してると、なぜか深刻な顔をした真也がこっちを見た。
「伊織。それだと俺もそうなるのか?」
「はい、真也先輩」
「ぐふぅ!?」
テーブルに突っ伏して撃沈する真也。
冗談だけど、なんで二人ともそこまでダメージを受けるんだ。
とは言っても仮にも他の先輩を前に、最高学年の二人を呼び捨てにするのも問題あるような気がするのも事実であって。
「……頼むから、いつも通りにしてくれないか」
「お、オレからも頼む……」
当の二人から懇願されてしまったので、少なくとも呼び名は普通に戻すことにする。
「それで、悟志がいつも僕について話してるとかいうことの内容についてなんですけど」
「そうね、いつも道衣に袴とか、今里くん相手にいまだに一本も落としてないとか、三隅村から毎日走って通学してるとか」
「あと毎日鴻野道場で剣振ってるって聞いたけど、ひょっとしてその後走って帰ってるの?」
「えっと、はい」
くそう、悟志め、だいたい事実しか言ってない。
熊の件を話してないっぽいのは悟志らしいけど、ドヤ顔でこっち見ているのはなんか腹立つ。
「……三隅村って十五キロくらい離れてたよね」
「そうだぜ。オレと麻衣は当然バス通学だ」
「道理で足も速いわけね……」
呆れたような顔でこっちを見る山田先輩と唐沢先輩。
その視線から逃れるように顔を背ける。
するとその視線の先で、麻衣と奈須さんが小声で何やら言い合いながら、人目を憚るように部屋の外へと出て行くのが目に入った。
「済みません、ちょっとお花摘みに」
「花摘むってガラかよ……って、ぐええ」
失敬なことを言った悟志は中身が出ない程度に踏んづけて、トイレに行く振りをして二人が消えた方へと向かう。
踏まれた悟志には、度しがたいという視線と同情の気配と、なぜか羨望の眼差しが注がれていたが今はそれどころではない。
足音を立てないように、すり足で麻衣と奈須さんがいるであろう方へと廊下を進む。
盗み聞きは趣味が良くないけれど、なぜ奈須さんに嫌われているのかはっきりと知らないと動きが取れない。
すぐに二人のものらしい声が聞こえてきたので、速度を落としてさらに気配を消す。
「……だから、なんで伊織を悪く言うの? 単に合わないとかいうなら仕方ないけど、できれば私は彩花と伊織には仲良くして欲しいの」
麻衣は本当に良い娘だなぁ。
ほんわかとした気分になりつつ、声の聞こえてくる廊下の曲がり角へと気配を殺して近づく。
どうやらこの五メートルほど先で話をしているようだ。
「麻衣は、平気なの?」
「えっ?」
「私は、麻衣を親友だと思ってる」
ぽつりとそう言った奈須さんの声は、僕に向けるそれとはまったく異なる優しいものだった。
「だから、麻衣には笑ってて欲しい。泣いて欲しくない」
「ありがとう、彩花。でも、それと伊織と何の関係が……?」
「今里先輩」
麻衣が息を呑んだのが分かった。
確かに麻衣は昔から悟志にべったりで、今でも他の男など眼中にないといった感じで彼ばかりを見ている。
はっきり言ってかなりあからさまなので、他の人が見ても麻衣が悟志にどういう感情を抱いているのかを推測するのは難しい話じゃないと思う。
特に剣道部の人たちは悟志と麻衣が一緒にいるところをずっと見てきているのだから、知らない方がおかしいくらいだろう。
それは僕でも分かるんだけれど、それと僕と何の関係があるんだろうか。
「麻衣も分かってるんでしょ? 今里先輩が……」
「やめて」
遮った麻衣の声は、聞いていた僕が驚くほど硬いものだった。
その強い調子に僕は驚いたけれど、奈須さんはある程度予測していたのか深いため息をひとつついた。
それにしても、悟志が一体?
「なんでそんなに黒峰さんに気を遣うの? 幼馴染みだから?」
「……そんなんじゃない」
「なら、なんで?」
興奮してきたのか、奈須さんの声が次第に大きくなっていく。
「だって」
対照的に麻衣の声は先ほどの強い調子が嘘のように、小さく掠れていた。
「伊織は私の大切な親友だから」
「……!」
麻衣の言葉に僕は胸の奥が暖かくなる思いと、盗み聞きしている罪悪感を同時に感じた。
だが奈須さんは激昂したようだった。
「大切な親友になら、好きな人を取られてもいいっていうの!?」
廊下に響く叫び声。
慌てて口を押さえる気配がしたけれど、幸い他に聞いていた人はいないようだった。
それよりも。
好きな人を取られるってなんだ?
何の話をしていたんだっけ?
奈須さんが僕を嫌っていて、それに悟志が関わっていて、麻衣が僕を大切な親友だと思っていて、それで。
「良いわけない、けど」
その涙混じりの声に、僕ははっと我に返る。
「でも、私、二人とも好きなんだもん……」
これ以上聞いてはいけない。
僕は踵を返した。
「あんな、何も気づいてない奴なんかより、私の方が麻衣のことを考えてるのに……」
その僕の背中に、独り言のようにつぶやいた奈須さんの言葉が突き刺さった。
* * *
合宿二日目。
早朝ランニングを済ませて朝食を摂った後は、砂浜で打ち込み稽古だった。
鴻野道場の面々は慣れているからいいが、剣道部員に防具無しで打ち込み稽古をいきなりやれというのは無理がある。
そういうわけで僕と真也が、みんなの前でお手本を見せることになった。
「防具なしってマジかよ……」
「いつもこんなことやってるのか、鴻野道場」
剣道部員たちがざわざわとそんなことを言い合っているが、春樹さんは気に留めた様子もない。
「なあに、当たっても剣道の突きよりは痛くないよ」
中学生は突きは禁止です。
「さて、準備はいいか、伊織」
「いつでも」
僕と真也はお互いに正眼に構える。
剣道部へのお手本でもあるので、打つことができるのは面、小手、胴のみと決めてある。
もちろん突きは禁止。
真剣で戦うことを想定している鴻野道場では、それらはもとより首、肩、二の腕、腿、脛なども打つので少し勝手が違う。
突きも使うし。
「はあっ!」
素早く間合いを詰めて面を打ってくる真也。
それを左に体をずらして躱すと、予想していたように滑らかに胴狙いに切替えてくる。
後ろに一歩退いてそれも躱す。
玉響を経験してから、僕の感覚は鋭くなっていた。
あのときほどクリアに把握できるわけではないし、そこまで先を読めるわけでもないけれど、確実に以前よりは相手の動きが分かる。
早めに相手の動きが分かるということは、こちらが先に行動をしてその選択肢を狭めることもできるという意味でもある。
正眼のまま少し前に進み出る。
これで真也は前に最短で打って出るか、後ろに下がるかの選択しか取れなくなる。
そして真也はその二択であれば……。
「せえっ!」
やはり前に出てきた。
本来なら突きを用いたかったところだろうが、今は使えないので面打ち。
それを自分の竹刀で受け流して逸らし、踏み込みざまに胴を打つ。
いつもの癖で寸止めしてしまったが、それは構わなかったようだった。
「一本! それまで!」
春樹さんの声が響く。
「また打たされたか……」
悔しそうに真也がつぶやく。
確かに今のは打たせて取ったわけだけど、僕がこの戦法を取れるようになったのはつい最近のことだ。
それにも関わらず打たされたことがすぐ分かるようになった真也は、やっぱり才能が凄いんだと思う。
すぐに打たせる前の駆け引きが必要になるだろう。
「あれ真似しろってのか……?」
「無理だろ……」
剣道部員たちが引きつった顔で首を横に振っているが、春樹さんは何もこれを剣道部にやれと言うつもりではなかったようだ。
「どういうものかは理解できたね。それじゃあ鴻野道場の人間が君たちの相手をするよ。彼らは寸止めに慣れてるから君たちにダメージが残るような当て方はしないし、逆に当てられるのも慣れてるから、遠慮なく打ち込んでいい」
何気にひどいこと言ってませんか春樹さん。
僕らの無言の抗議には一切頓着せず、春樹さんは鴻野道場のメンバーを横一列に並べた。
「というわけで、好きな相手を選んで。先着順だよ」
人数比的にひとり頭三名相手にすればいい計算だろうか。
そんなことを考えていたら僕の前に七名ほどが並んでいた。
「えっ、え?」
「はいはい先着順だよ」
先頭の三名を残し、春樹さんが散った散ったとばかりに手を叩いた。
あぶれた人たちは残念そうに散っていく。
清奈の前にも同じくらい並んでいたけど、偏りすぎでは。
どれだけ女の子好きなんだ。
結局、僕の前には真っ先に突っ走ってきた悟志、それについてきたらしい唐沢先輩、そしてなぜか奈須さんの三人がいた。
「えっと。それじゃよろしくお願いします」
一礼して要領をひと通り説明した僕は、まず奈須さんと向き合った。
爛爛と目を輝かせた奈須さんは、何を考えて僕のところに来たのかは明らかだった。
「メーンッ!!」
いきなり特攻してくる奈須さん。
思い切りが良いのはいいんだけど、隙だらけすぎる。
左前に一歩出て竹刀を絡めながら下に受け流す。
勢いを思わぬ方向に流されてバランスを崩す奈須さんの面を軽く打つ。
「っ!」
悔しげに僕を睨む奈須さんだが、今日は感情には呑まれてないようで大人しく唐沢先輩と交代する。
一本取るか取られるかで交代することになっているのだ。
「さて」
唐沢先輩は息を吐いて、下段に構えた。
防御重視で行くことにしたんだろうか。
確かに下段の構えは面以外打つところがほとんどないけれど。
僕はすっと間合いに入る。
「あっ!」
入ったときに対応できなかった時点で、唐沢先輩にはもうできることがない。
そのまま軽く面を打つ。
「うーん……駄目だったか。さすが、あのとき不良たちを相手に戦っただけはあるよ」
参った、と言って下がる唐沢先輩。
そして次に控えているのが闘志満々でぶんぶん素振りをしている悟志だ。
「オレはそう簡単に負ける気はないぜ、伊織」
そう言って身構える悟志を見た僕の脳裏に、昨日の奈須さんの言葉が過ぎった。
『好きな人を取られてもいいの?』
言われていたのは麻衣。
麻衣の好きな人は悟志。
取ろうとしている相手が僕なのか?
でも僕は悟志を、と言うよりは誰もそういう相手として見たことはない。
前世で好きだった相手を助けるためにここまで走ってきたのだから。
「おりゃあ!!」
掛け声にはっとなって前を見る。
相手から意識を離していれば呼吸を読むも何もありはしない。
すでに悟志は目の前だ。
「く……っ!」
悟志の面は奈須さんのそれより数段鋭い。
とっさに出たのは一番体に馴染んだ技。
剣尖で悟志を一瞬牽制、左へ体を捌いて面を空かし、そのまま小手を打つ。
大毅流、掌分。
「ちぇー! 今のは行けると思っただけどな」
指を鳴らして残念がった悟志は、僕の方へと体を寄せて小声で言った。
「でもおまえ、今ぼーっとしてたろ。らしくねえ」
「あー、うん、ごめん。ちょっと考え事してた」
そう言いつつ、体を離す。
少し訝かしげな悟志に気づかない振りをして奈須さんの方を見ると、やっぱり僕を睨んでいた。
その後は気を取り直して、お昼まできちんと稽古に打ち込んだ。
奈須さんは僕への対抗心からか、打つことにも打たれることにもあまり恐怖心がないようで、結果として良い稽古になったようだった。
本人は複雑そうだったけれど。
唐沢先輩は稽古には満足だったのか嬉しそうな顔をしていた。
やたらと僕に話し掛けてきたので、あまり集中できていたとは思えないんだけれど。
悟志は結局、僕から一本も取れなかったのでフグのように膨れていた。
いつものことだけど。
それと僕は、集中力が足りていなかったのをしっかりと春樹さんに見られていて、お小言を頂戴した。
「伊織さんが怒られるなんて珍しいですね」
お昼の休憩時、道衣の襟元をぱたぱたして胸元に風を送り込んでいた清奈が首を傾げる。
春樹さんは社会人組と一緒にお昼のお弁当を取りに行ってくれていて、僕たちは思い思いに休んでいた。
「確かに。どうしたんだ?」
真也はその清奈から目を逸らして僕の方を見た。
他の男たちは吸い寄せられるように清奈の胸元へと目が行っているのだけれど、さすが堅物。
若干頬が赤いのは仕方ないだろう。
「ちょっと考え事しちゃって。怒られても当然だったので反省してる」
考え事をしていても反射的に技が出ることがある。
反射的ということは、手加減が利いていないということでもある。
それが相手に致命的な結果をもたらすものだった場合、ぼーっとしていたでは言い訳にもなりはしないのは当然だった。
剣術の稽古はその在り方はともかく、大本を辿れば人を殺すための修練に他ならない。
稽古は真剣にやらなければならないのだ。
「伊織姉も叔父さんも真面目すぎ」
「神奈はいい加減すぎませんか……」
「そんなことない。ちょうどいい」
茨木姉妹の他愛ない会話で和んだ気分になっていると。
「てめえには関係ねえっつってんだろ!」
何やら男の怒鳴り声が聞こえてきて、僕を含めた四人ともがそっちを見る。
昼前になって人が増え始めた海岸。
そこでひとりの男が子供背中にして、三人の男たちと向き合っているのが見えた。
次回、また少しお時間頂きます。