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神奈の伊織への呼び方を変更しました。
折れたあばらも完全に癒えたと思ったら、もう夏休みに入っていた。
三隅村は標高が高くて夏は涼しいため剣の修行にはうってつけで、鴻野道場の人たちが毎年こちらにやってきて合宿をしていたのだが。
今年は何をトチ狂ったのか、山王中学剣道部と合同で海に合宿しに行くなどと言い出したのだ。
合宿とは言え、海に行くのであれば泳がないわけがない。
泳ぐと言えば水着。
スカート穿くのでもあれだけ騒いだのに、女性用の水着なんてもっと着られるはずがない。
かといって今の体で男性用の水着とか着たらその方が大問題だ。
そういうわけで。
「行ってらっしゃい」
出稽古に来ていた清奈からそれを聞いた僕の第一声はそれだった。
「なんでそうなるんですか!?」
「いや、だって僕、今年はお師さんにみっちり教わらないといけないし」
言い訳だけど玉響の修得のための修行をしないといけないのは事実だ。
嘘は言っていない、と思っていたら。
「別に行ってきてええぞ。今のおめえの課題にとっては人が多い場所に行くのも悪くねえ」
などとお師さんにあっさりと裏切られた。
確かにおっしゃることはごもっともですけど!?
「とのことですけど、伊織さん」
「伊織姉は水着が嫌なんだと思う」
詰めてくる清奈に、神奈が加勢してくる。
普段は割と諍い起こしてるくせになんでこういうときだけ息がぴったりなのか。
「諦めろ、伊織。俺はもう諦めた」
「いーやーだー!」
「伊織さんが来なければ真也さんも来ません。そうなると私も行く意味が無くなりますし、神奈も同じ。つまり合宿自体が成り立たなくなるんです!」
「それ海に行く前提だよね!? いつも通りここで合宿やればいい話だよね!? しかもなにげに社会人組ディスってるよね!?」
なお幼年組は合宿には来ない。
「無理に伊織を水着にしなきゃいいんじゃないのか」
真也から至極冷静な意見が出るが。
「駄目です」
「うん、絶対駄目」
即座に茨木姉妹に否決される。
なんで君らはそんなに人を水着にしたいのか。
「伊織姉、きっと海に行ったらそのまま飛び込む」
「絶対に水着は必要です」
「………」
とても信用がないことに内心で涙する。
ここで言い返さないのは、己の所行を振り返ると夏に川で今言われたことをまさに実行した覚えが多々あるからだ。
そうは言っても人がいないか、いても知り合いだからやったわけであって、ところ構わずやるってわけじゃないんだけど……。
「えーっと、上に何か着てていい……?」
「問題ないと思う」
「それなら、まあ、なんとか……」
「では決まりですね。今度、麻衣さんとも一緒に水着を買いに行きましょう!」
にこにこ笑顔の清奈に結局押し切られる。
確かに授業に水泳がないので、水着は持ってないから買いに行くしかないわけだけれど。
なんかこうして色々となし崩しにやらされていく気がする……。
* * *
そして合宿当日。
行きは鴻野道場組と剣道部組で、別々にマイクロバスを借りて民宿『しおのや』へと移動する。
こちらの運転手は春樹さん。
僕も前世では運転免許を持ってはいたけれど、前世で十年ほど、今生で十二年、合計で二十年以上運転していないわけだからペーパードライバーもいいところだ。
今やそのペーパーもないわけだけど。
なんだかんだ言っても親しいみんなと一緒に遠出をするというのは心が躍る。
刻一刻と変わっていく窓の外の景色に自然と心が弾む。
「砂浜ってやっぱり戦いにくいかな?」
歩くくらいはどうとでもなるけれど、走ると途端にきつかった覚えが前世の記憶にある。
そこで剣術の動きをするとなるとどうなるか。
「そうだな、動きにくそうだとは思う」
「っていうかなんで二人とも剣術前提で話をしているんですか」
「剣術バカ」
僕と真也の会話に突っ込みを入れる茨木姉妹。
「まあ正しく足運びをしていれば、そこまで影響は受けないけれどね」
春樹さんが言う。
僕らも普段から剣術の足運び、すなわちすり足を意識してはいるけれど、とっさの動きとなるとなかなか原則通りには行かない。
すり足は連続した体重移動で足裏と地面の反発を極限まで減らす(意識の上ではなくしてしまう)運足だ。
極めたならば足元が砂地だろうがぬかるみだろうが、影響を受けることなく歩くことができるだろう。
難点は、とっさの動きに対応するためにはさらに高い習熟が必要なことと、そもそもの習熟が困難な点だろう。
なにせ重心移動の奥義のようなもので、正しい歩法のみならず、正しい姿勢も要求される。
僕や真也たちも型稽古、組太刀のときはそれなりにできるが、打ち込み稽古の際にはとっさの回避時とかにそれが崩れる。
長い年月をかけて練り上げるものなのだ。
「それよりも夏の出会いとかねえかなー」
社会人組のひとり、谷ノ上さんがつぶやく。
彼女が欲しいとずっと言い続けているにも関わらずなかなかできない不遇の人物だ。
「鏡を見ろ。もしくは財布の中身でもいい」
すかさずツッコミを入れたのが、谷ノ上さんと仲の良い奈良浜さんだ。
谷ノ上さんに対してのみやたらと口が悪い。
仲が良いのは確かなんだけど。
「金はなくても力はある!」
「だから色男じゃないんだろ」
「うるせえよ!?」
社会人組もやはりテンションが上がってきているのか賑やかだ。
そうこうしているうちに海が見えてきて自然と歓声が上がる。
「やっぱりでかいな、海は」
山間部で育った人間は、割と海を見る機会がない。
真也や茨木姉妹は何度か海に行ったことがあるようだが、やはり見るたびに感慨があるようだった。
「着いたぞ」
時刻はお昼近くになっていた。
春樹さんの操るマイクロバスは鄙びた民宿の前で止まる。
入り口には達者な毛筆で『しおのや』と看板があった。
剣道部の方はもう来ているようで、すでにマイクロバスが一台、駐車スペースに停まっている。
「よう来たねえ」
「お世話になります、岩村さん」
七十過ぎくらいだろうか。
お師さんと同年代くらいに見える、岩村さんと呼ばれた男性が出迎えてくれた。
しおのやは岩村さんの奥さんがずっと切り盛りしてきた民宿で、岩村さんご自身は定年退職してから手伝い始めたんだそうだ。
春樹さんとは昔からの知り合いらしく、割引料金で泊まらせて貰えるらしい。
中からは剣道部員のものらしい、はしゃいだ声が響いてくる。
「それじゃ荷物を部屋に運んで、水着に着替えたら外で集合だ」
女子部屋は海が一望できる眺めの良い部屋だった。
いるのは僕と、茨木姉妹と麻衣と剣道部の他の女子部員の二人。
奈須彩花さんと山田香さんだと紹介された。
緩くウェーブの掛かった髪のせいか、少しおっとりした雰囲気の山田さんは悟志たちと同じ三年生なので、山田先輩か。
ショートカットでボーイッシュな感じのする奈須さんは麻衣と同じ一年。
実は今年は剣道部には女子がかなり入部しようとしたのだが、主将だった池田があのようになったせいでそのほとんどが取り下げてしまったらしい。
残ったのが麻衣とこの奈須さんの二人だったとか。
池田は怪我は完治したものの部には来なくなってしまったという話だった。
なお二年に女子がいないのは、それなりに厳しい練習に耐えきれずにやめてしまったからだそうだ。
「あなたが噂の黒峰さんね。よろしく」
「噂って……えっと、黒峰伊織です。よろしく」
笑顔の山田先輩の握手に応えつつも、噂を流した元凶について考えていると麻衣と目が合った。
「麻ー衣ー?」
「わ、私じゃないよ! 悟志お兄ちゃんがいっつも色々言ってるだけで」
ほほう。
この間のことといい、悟志とは一度話を付けねばならぬようだ。
そう考えているとくすくすと奈須さんの笑い声がした。
「本当に怖がられてるのね。熊と戦ったことがあるってだけあって」
うん?
なんか今の奈須さんの口調に棘があったような。
そう思ったのは僕だけじゃないみたいで、麻衣は訝しそうに、清奈は形の良い眉を吊り上げて、奈須さんの方を見た。
「なあに? 本当のことでしょ」
「彩花」
咎めるような山田先輩の声に、そっぽを向きながらも口を閉ざす奈須さん。
何か気分を害するようなことをしたっけ……?
「ともあれ、着替えてしまいましょう? 外で集合ですし」
僕が首を傾げていると空気を変えるように清奈が提案し、そっぽを向いている奈須さん以外が頷いた。
部屋で水着に着替えて、僕はその上にハーフパンツを穿いて上には長袖のパーカーを羽織る。
「気持ち悪い痣ね。よく平気で人に見せられると感心するわ」
着替える際に見えたのか、僕の左腕に残る熊の噛み痕の痣を見て奈須さんが眉をひそめる。
まあ確かにこの痣は大きいし、見ていて気持ちの良いものではないとは思う。
ただ、何が原因かは分からないけれど、彼女ははっきりと僕に敵意を抱いているようだ。
山田先輩も痣を見て驚いてはいたようだけど、それだけだったし。
「やめてよ、彩花」
この痣の話になると過敏に反応するのが、僕ではなくて悟志と麻衣の二人だ。
今も麻衣が奈須さんに眉を寄せて声を発した。
「だって。麻衣だってそう思わない?」
「思わない。なんでそういうこというの?」
「……そう。悪かったわ」
麻衣にそう言うと、奈須さんはさっさと着替えて外へ出て行ってしまった。
出て行く前に僕をひと睨みして行ったけど。
ただ、麻衣に謝るときは本当に済まなそうにしていたのが分かってしまって、僕の方は彼女に敵意を抱くことができなかった。
「ごめん、伊織。彩花、普段はあんなじゃないんだけど……」
「麻衣の謝ることじゃないよ。気にしてない……とは言えないけど。なんでああいう態度なのか、理由が分かればいいんだけどね。悪い子じゃなさそうだし」
「確かに様子が変ね。黒峰さんは彩花と前に話したことはある?」
山田先輩の問いに僕は首を横に振る。
クラスも違うし、廊下ですれ違ったことはあるだろうけれど、それくらいだ。
「私も少し話してみるけど、麻衣も聞いてみて。一番仲が良いんだし」
「はい」
来て早々、少し雲行きが怪しくなりつつも合宿は始まった。
着替えて外に出ると、男子剣道部員と鴻野道場の門下生たちが集合していて賑やかにお喋りをしていた。
僕たちが玄関を出ると、なぜか全員が口を閉ざして一斉にこっちを見るなり、何やらお互いにひそひそと話し始めた。
ううん、ハーフパンツとか初めて穿いたから変なんだろうか。
と言っても僕の方ばかり見てるわけじゃないみたいだけど。
聞き耳を立ててみる。
(おいおい、これは来た甲斐があったってもんじゃないか!?)
(剣道部女子もいいけど、鴻野道場の女子もレベル高ぇ)
(いつも袴姿だからギャップがすげえ……)
うん、アホなことしか話していなかった。
思春期の男子ってそんなもんだったね。
自分でも覚えがある。
まあ、清奈と麻衣とかほんと綺麗な上に発育良くて同性でも目が行くことがあるし、神奈はその清奈の妹だ。
山田先輩に至っては水着がビキニだし、奈須さんも今は目つきが良くないけど顔立ちは整ってる。
男どもがああなるのもむべなるかな。
「よし、集まったな。今回の合宿は鴻野道場の人たちと一緒に行う。鴻野春樹師範の指示のもと、剣道部員として恥じることのないよう行動してくれ」
剣道部の顧問の先生が剣道部に対してそう言って後ろに下がると、代わりに春樹さんが前に進み出た。
「鴻野春樹です。鴻野道場の師範をやっています。今回はみんなで楽しく、充実した合宿にしていきましょう」
穏やかに春樹さんが挨拶する。
「今日は初日だし、練習は軽く走って後は自由時間にしようか」
春樹さんの言葉に剣道部員から歓声があがる。
鴻野道場側からは特に上がらなかったのは、春樹さんの正体を知っているからに他ならない。
「それじゃ、そうだね……」
春樹さんは目の前に三日月型に伸びる砂浜を眺めてから、その尖端の小さく見える灯台を指さした。
距離にして片道二キロ程度はあるだろうか。
「まず砂浜をあそこまで行って帰って一往復。そうしたら次はせっかく水着を着ているんだから、浅瀬を走ってもう一往復してみようか。今日はそれで終わりにしよう」
「えーっ!?」
剣道部員たちから悲鳴が上がり、鴻野道場の面々は諦め顔で準備運動をしだす。
なお、悟志と麻衣は春樹さんをある程度知っているため、諦め顔の方だ。
「走るとなると伊織の独壇場か……」
「追いつける気はしねえな……」
だからどうして君たちは僕を化け物か何かのように言うのか。
「でもさすがに砂浜走るのは慣れてないし、距離も短めだよ」
「これを短いって言うのはおまえだけだろう」
「大丈夫大丈夫。真也も悟志も僕の通学に一度ちゃんと付いてきたじゃない」
「二度とやる気はないし、だからこそ言っているんだ」
「なんで通学で恐怖体験をしなきゃなんねえんだよほんと……」
いつもは睨み合ってる真也と悟志の二人が、なぜか息を合わせて僕の通学スタイルを非難する。
確かにあれは走り慣れてないと怖いとは思うけれど、きちんとついて来れた二人は立派だと思うんだけどなあ。
そんなことを考えていると、刺すような視線を感じたのでそちらを見る。
すると予想通りに奈須さんと目が合った。
奈須さんはさっさと目を逸らしてしまったが、どうも何かに怒ってるような様子に見えた。
「それじゃ、スタート! ちゃんと見ているからズルはしないように!」
ぱん、という手を鳴らす音とともにみんな一斉にスタートする。
僕はするするとすり足で走り出す。
あ、案外走れる。
「だあー! やっぱりかてめえええ!」
「足元とか関係ないんじゃないのかおまえ」
気を良くして速度をアップした僕に悟志が叫びながら、真也はため息をつきながら付いてくる。
この二人は予想の範囲内だったんだけど、もうひとりについては意外だった。
奈須さんが鬼か夜叉かといった顔で追いかけてくるのだ。
山姥か何かに追いかけられてる気分で正直怖いです。
三枚のお札の代わりに悟志と真也でもイケニエにすべきだろうか。
ただ、とても無理をしているようですでに息が荒い。
「おい、あんまり無理すんなって、奈須。こいつおかしいんだからよ!」
ほとんど全力疾走している奈須さんに、彼女よりはまだ余裕のある悟志が叫ぶ。
しかし彼女はそれを聞かずに走り続ける。
やがて顔色が青白く……ってチアノーゼだこれ。
足をもつれさせて倒れる奈須さん。
急ブレーキをかけて走り寄る。
「大丈夫?」
転倒した拍子に怪我などしてないかを見ようと手を伸ばすと、弱々しくだけれど手を弾かれた。
「あんた……なんか……」
ぐったりとしつつも険のある目で僕を睨む奈須さん。
根性あるなあ、と却って感心する。
「おい、そんなことしてる場合じゃねえだろ。真也!」
「分かってる」
悟志と真也が協力して奈須さんを抱え上げ、春樹さんの方へと歩き出す。
放っておくわけにも行かず、僕はその隣を付いて行く。
その間、ぐったりとなった奈須さんは悟志に抱えられてうわごとのように何かをつぶやいていた。
「私、の方が……麻衣……」
聞き取れたのはその一言だけだったけれど、何故彼女が僕を嫌っているのかがなんとなく分かったような気がした。
その日は奈須さんが倒れたことで、ランニングは中止。
合宿の再開は明日からとなった。
次回少しお時間頂きます。