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剣人  作者: はむ星
【幼年篇】
2/113

1

 光が去って気づいた。


 死んでから神様とやらと話していると思っていた間、僕は文字通り何も見えていなかった。

 光と思ったものも、意識としてそう感じただけであって、光そのものとは違ったようだった。

 そして光が去ると、それと一緒に暖かさが去ったかのように強烈な寒さが僕を襲った。

 まるで極寒の山に服も何もなく放り出されたかのような、命の危険をはっきりと感じる寒さ。

 凍えながらどうにか目を見開くと、そこには満天の星空があった。

 それは美しかったが、今の僕はそれどころではなかった。

 どうにか暖を取らなければ、死んでしまう。


 だが体が動かない。


 それどころか左右を見ることすら出来ずに、ひたすら僕は空を見上げている有様だ。

 この寒さといい、体が動かないことといい、さっきまでの続きなんだろうか。

 動けないなら助けを呼ぶしかない。


「……あぎゅ」


 赤ん坊らしい声が聞こえた。

 僕以外に誰かいるのか?

 というか、僕自身の声が聞こえなかったような気がする。

 助けを呼ばなければ。


「あぎゃあ」


 僕が助けを呼ぶ声をあげると同時に赤ん坊の声がした。

 というか、今の声は僕?

 いや、今はその詮索は後回しだ。

 体はとうに冷え切っていて、このままでは死を待つばかり。

 とにかく声を上げなければ。


「あぎゃああああああ、おぎゃあああああ、ぎゃああああああ!」


 今度はかなり大きい声が出た。

 振り絞れるだけの声を上げ続ける。

 けれど、周囲に人がいないなら万事休すだ。

 憔悴する僕の視界に、ぼんやりとした明かりが近づき、やがてにゅっと大きな初老の男の顔が入ってきた。


「赤ん坊……? なんでこんなとこに赤ん坊なんぞいるんじゃ」


 男の目は確実に僕を見ているし、その言葉は完全に僕が赤ん坊になってしまっていることを示していた。

 白い髭に禿頭はいいのだが、胴間声に骨ばった大きな顔。

 さらにその顔には無数の傷が付いていた。

 手に持った懐中電灯の光で闇夜に浮かび上がるその顔は、間違っても赤ん坊に見せるものじゃないし実年齢三十歳のはずの僕ですら十分に怖い。


「ふん、どこぞの盆暗が捨てて行きよったか。迷惑千万なことじゃて」


 苦虫を噛み潰したような顔の男は、ますます怖い顔になりながら僕の顔に触れた。


「……ふむ」


 顔は怖いままだったが、男は僕を不器用な手つきながらしっかりと抱き上げた。

 冷え切った体に男のごつごつした体のぬくもりがじわりと伝わり、僕はようやく一息ついた。


「まずは火じゃな」


 僕……である赤ん坊は、どうやら男の家の軒先に捨てられていたようだ。

 男の家は随分と立派な門構えで、何かの道場と言われても違和感がないくらいだった。


「おい、生きとるか」


 ぶっきらぼうな問いに、僕は小さい声をあげることで答える。

 男は頷くと、ぱちぱちと小さな音を立てている囲炉裏の縁に僕を抱きかかえたまま座り込んだ。


 囲炉裏とは古風なことだが、この男にはよく似合っているように思えた。

 天井にはこれまた古めかしい白熱電球が裸のままぶら下がっていた。

 やがて囲炉裏から伝わってくる熱が、僕の体に染み入るように伝わってくる。


 どうやら僕は死なずに済んだようだ。


 差し迫った問題がとりあえず解決したことで、僕はようやく我が身を振り返ることができた。

 うん、赤ん坊になっているようだ。

 首は緩慢にしか動かないし、どうにも据わっていないようでぐらぐらして安定しなくて怖い。

 どうにか視界に入る手足も僕の意思で動くのだが、やっぱりゆっくりとしか動かない赤ん坊の手足だ。


 最初に覚えたのは困惑だった。


 これでどうやって彼女を救えばいいんだろう。

 ハチは嘘を付いたんだろうか。

 でもそうなのだとしても、こんなに手の込んだ嘘をついて一体何がしたいのかさっぱり分からない。


「だぁだ」


 無意識のうちに困惑が声に出たが、僕を抱きかかえていた男はそれを別の意味に取ったようだった。


「ちっと待て」


 僕を囲炉裏の側に置いて、男は立ち上がって部屋を出て行く。

 引き戸を開くような、がらがらという音がしたところをみると外へ出かけたようだった。

 赤ん坊を火の側に置いて出かけるとか、相手が僕だからいいものの割と常識が無いんじゃないだろうか。

 まあでも、今の僕にとっては火の側に置いてくれたことは有難かった。

 死ぬ直前まで冷え切っていた体は、どうにか死なずに済む程度には暖まってくれたようだった。


 落ち着いた僕は周囲を観察する余裕を取り戻した。

 囲炉裏があることといい、明かりが蛍光灯ですらなく白熱灯であることといい、結構な田舎のような雰囲気だ。

 見慣れた家の作りと違って天井が高いし、なんだか見慣れないものがいろいろとぶら下がっている。

 しばらくするとまた玄関が開く音がして、けたたましい声が聞こえてきた。


「じっさまが赤ん坊を拾うとか、まあた面白いこともあったもんだねえ」

「ふん、何が面白いもんか。死にかけじゃったから仕方なかろうが」

「責めちゃいないさ。見捨てたりしたら寝覚め悪かったんだろ?」


 男と一緒に部屋に入ってきたのは、割烹着を着た恰幅のいいおばさんだった。

 火の側に無造作に置かれた僕を見た途端に目を剥いて、すごい勢いで駆け寄ってくると慌てて僕を抱きかかえた。


「アホかいじっさま! 赤ん坊を火の側に一人で置く奴があるかい! 囲炉裏に落ちたらどうすんだい!?」

「あー……悪かった。冷え切ってたもんでな」


 この強面を怒鳴りつけるあたり、肝っ玉母さんと言った感じである。

 強面の方は困りきった顔をして頬を掻いていたりする。


「よしよし。可愛い女の子だねえ」


 ……はい?


「む。女じゃったのか?」

「見てわかんないかねぇ。着ているおべべも女物じゃないか」


 え、ちょ、ま。

 なんですかそれ聞いてないんですけど!?

 おいハチ!?


「おー、よしよし。お腹空いたんかねぇ。ちょっと待ってなね」


 いやお腹は空いてるみたいだけどそうじゃなくて!

 しかし体は欲求にとても正直だった。

 哺乳瓶で温かいミルクを与えられた途端、僕は、というか僕の体はそれに夢中になって飲み干した。

 そしてすぐに襲ってきた睡魔にもまったく抗うことができず、僕はあっさりと眠りに落ちた。


*   *   *


 赤ん坊の僕はそれからしばらくの間は、自分では泣くことしかできずに、ただ食べて寝るの繰り返し。

 男は赤ん坊なんぞ育てられんと最初のうちはごねたようだったが、あの肝っ玉母さんに『一度拾ったなら最後まで面倒みんさい!』と一喝されて諦めたようだった。

 とはいってもほとんどの世話をしてくれるのは、その肝っ玉母さんだったが。

 僕はといえば赤ん坊の身、泣いて食べて寝るしかできることはなかった。


 それでもいくつか分かったことはあった。

 僕を拾った男の名前は黒峰くろみね平蔵へいぞう氏。

 拾われた時に家が道場みたいだと思ったのだが、実際に大毅流たいきりゅうという流派の剣術道場を営んでいるらしい。

 いっつも苦虫を噛んだような顔をしているのだが、それでも僕のことを見捨てる気はなさそうだから、見た目より気の良い人なんだろう。


 そして主に僕の世話をしてくれる肝っ玉母さんは三溝みつみぞ光恵みつえさん。

 平蔵氏の隣の家の奥さんらしく、独り身の平蔵氏や赤ん坊の僕を何かと気にかけてくれるとても良い人だ。


 僕が目にする人物は大体この二人。

 他には見ることがあるのは大毅流の門人である三溝みつみぞ一成いっせい氏。

 光恵さんの旦那さんで、剣の腕も結構なものらしい。

 よく平蔵氏と酒を飲んでるのを見るが、あんまり僕と接点はない。


 他にも分かったことがある。

 まず、ハチは嘘は付いていなかったらしいこと。

 最初はとても信じられなかったけど、今は僕が死んだ時より十五年も前のようだった。

 つまり、過去。

 もちろん平蔵氏や光恵さんが僕を騙すために暦をごまかしているなら話は別だが、居間の今時では珍しいブラウン管のテレビから流れるニュースが、以前に見たことあるものだったりしたから間違いないと思う。

 これも録画されてればもちろん話は違うけど、そもそも赤ん坊を騙そうなんてする奴がいるだろうか。

 それにハチは僕が彼女を救うのだと言っていた。

 だとしたら辻褄は合う。

 今もどこかで元の僕がちゃんと生きているのだと思うと、少し、いやかなり妙な気分にはなるのだが、信じようが信じまいが僕にできることはない。


 なら、信じてみようと思った。


 それと僕が女の子になっているのは間違いない事実のようだった。

 トイレに行くことができない以上、粗相するしかないのだが、小の時の感触が、はっきりと違う……。

 意識がはっきりしているのに光恵さんに下の世話をしてもらうのはかなり恥ずかしいことだったが、じきに慣れた。

 なにせ僕は今は赤ん坊で、自分ことは何一つできないんだからしょうがない。


*   *   *


 たまに光恵さんが僕を抱っこして外に散歩に連れ出してくれるのだが、母屋の隣には大きくて立派な古びた建物があった。

 それが大毅流の剣術道場であることは、母屋にいても叫び声や床に叩きつけられるような音が聞こえてくるのですぐに分かった。


 ある日気まぐれを起こしたのか、光恵さんが僕を連れて道場に入った。

 まるで時代劇で見るような剣術道場がそのままそこにあった。

 ワックスなど掛けられていない、生のままの床板。

 窓はガラスではなくただの木の格子。

 漆喰で出来た壁には道場の格言か、『剣禅一如』と極太の筆で書かれた額縁が下げられている。

 その古色蒼然とした道場に四人の男たちが正座して見守る中、光恵さんの旦那さんである一成氏と平蔵氏が木刀を構えて向かい合っていた。


 一成氏はいつもは穏やかそうで、言ってしまっては何だけど平凡なおっさんといった風体なのだが、今は気迫に満ち溢れた様子で上段に構え、打ち掛かる気まんまん。

 対する平蔵氏は正眼に構えてはいるが、気負いは微塵も見られない。


「せいぁっ!!!」


 気合一閃、一成氏は平蔵氏との間合いを詰める。

 剣道とは異なる、もっと荒々しい、体ごとぶつかっていくような剣術。


 すべてを呑み込む大波のような豪快な打ち下ろし。


 木刀といえども当たれば命が危ぶまれるようなそれを、平蔵氏はわずかに動かした切っ先と、おなじくかすかな体の捌きのみでそらした。

 態勢を崩した一成氏は横合いから斬り込もうと強引に踏みとどまったが、急に動きを止めた。

 平蔵氏の木刀の切っ先が、そのまま彼の喉に当てられていたからだ。


 いかつい外見からは想像もできない、洗練された無駄の無い動き。

 前の三十年の人生を合わせても初めて見たそれは、僕に言いようのない感情をもたらした。


 どれだけ修練を積めば、こんな強さを得られるのだろう。

 どれだけ己を律すれば、こんな境地に到れるのだろう。


 僕があまりにまじまじとその光景を凝視していたからか、光恵さんは散歩のたびに稽古の様子を見せてくれるようになった。


 この道場で教えている大毅流という剣術は、江戸の初期には成立してた流派なのだと言う。

 そして大毅流でもっとも重視しているのが、『見盗り稽古』というものだという。

 見盗り稽古とは読んで字のごとく、型を見て動きを盗むこと。

 見るだけではなく、盗む。

 これがもっとも重要なことだと。

 優れた型を見てそれを模倣し、意味を考えることこそが優れた稽古なのだ、と力を入れて語る平蔵氏を見て僕は自分のやるべきことを悟った。


 十五年後に彼女を助けるべく、僕は強くならなければならない。

 それなのに僕は赤ん坊で見ること、聞くこと、泣くこと、食べること、寝ること、考えることしかできない。

 けれど、見ることと考えることならできるのだ。

 拾われた先がこの道場だったというのはハチの計らいだろうか。

 とにかくおあつらえ向きというべきだった。

 僕は内心で平蔵氏を師と仰ぐことに決めた。

 師匠、と大上段に構えるのもなんか気恥ずかしいのでお師さんと呼ぶことにする。


 問題は稽古中にここに連れてきてもらうことだったが、勘がいい主婦である光恵さんは、ここに連れてくれば僕がおとなしくしていることにすぐ気づいたらしい。

 そうして光恵さんの計らいにより、僕はお師さんが稽古をつけている間は道場にいることになった。


 しかし最初のうちは動きを見ても何がなんだかさっぱりだった。


 お師さんは門下生に求められれば型は何度でも見せるが、その動きの意味は解説してくれない。

 あくまでも、その意味は自分で考えろということらしい。

 道場がやってる間は剣術を見て動きを覚え、そして夜になればその動きを反芻しながら意味について考える。


 前世では武術にはまったく縁の無い人生だったから、意味を推測するのは困難を極めた。

 だが門人がある動きについてお師さんに自分なりの答えを言い、それにお師さんがうなずいたり首を横に振ったりすることで正解かどうかを教えることがあることに気づいた。

 まるで禅問答みたいだが、正解であればお師さんは正解だと言ってくれるようだ。

 そして正解した技についてはその人が攻撃側(打太刀というらしい)、お師さんやその技の正解を得ている門下生が斬られる側となって(使太刀というらしい)実際に木刀で打ち合う。

 相手との間合いや呼吸をはかる訓練をそれで行うとのことらしい。


 ちょっとズルではあったけれど、僕はいくつかの動きとその正解を盗み聞いてひとつひとつの動きの意味を知るようにした。

 例えば右手で袈裟懸けに振った刀を途中で止めて左手で峰を持って下に引き下ろす動作は、相手の肩口に食い込んだ刀を持って、そのまま手前に引き倒す動作なのだとか。

 考えてみれば刀が食い込んだ相手をその刀を使って引き倒すんだからエグい技だけど、こういうひとつひとつの動作の意味を知っていくことで、他の動作の推測も付くようになっていった。


 こうなると、稽古を見ることががぜん面白くなってくる。


 僕は食い入るように毎日の稽古を見て、夢中になってその意味を考えた。

 今いる門下生たちは一成氏を筆頭にいずれもそれなりに稽古を積んだ人たちらしく、その動きは実に堂に入ったものだった。

 彼らの動きも僕から見れば大したものなのだが、お師さんはやはり別格だった。


 素人である僕が見ても分かる。

 大毅流の技のひとつひとつが、彼の体の内にしっかりと宿っている。

 ぴたりと決めたその構えに、型を行うときの目の動きに、刀が描く軌跡に、そしてそれらを行うときの心構えに、そう感じる。

 僕はそのお師さんの動きを、型を、すべて目に焼き付けるようにして覚えていった。

 そして、その動きの意味を考え続けた。

 いつか自分で動けるようになったときに、それを再現できるように。

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