17
少し遅れました。
「シィィィィィッ!!」
理性を失った西木は一直線に飛び込んできて右の鉤爪を振るう。
その動きは一週間前と比べると、まるで普通の車とレース用のそれほどに違う。
しかし本能的なその動きはごく単調で、直線的だ。
振るわれた鉤爪を刀で受け流して相手の体勢を崩す。
本来ならここで腕に一撃して戦闘力を削ぐのだが、今回はそうは行かない。
西木はあくまでも人であり、鬼人と違って万が一斬り落とした場合、腕は再生したりくっついたりはしないからだ。
ある程度のダメージは許容するにしても、人に戻ったときに障害が残らないようにしたかった。
「ルァアアアアッ!!」
攻撃を受け流された西木はバランスを崩しながらも、そのまま右の蹴りを繰り出してきた。
それを刃で受けると、すっと刃が食い込む感触がした。
打撃には強くなっていたけれど、やはり鬼人ほど皮膚が硬くはないようだ。
これ以上進めてくるようなら刀を引かないといけないと思ったときに、蹴りを中断して足を引く西木。
どうやら痛覚と自己保存本能は残っているようで安心した。
それすらなかった場合、西木を五体満足で人に戻すのが難しくなるからだ。
蹴りを中断したことで西木の体勢はさらに崩れ、床に倒れ込む。
間髪を入れずに倒れた西木の肩口へと斬りつけると、転がって避けながらも鉤爪で足元を狙ってきたので、それは軽くバックステップして回避する。
それと同時に西木は跳ね上がるように起き上がった。
「グルルゥゥゥ」
僕が正眼に構えた刀を警戒するように二、三度左右にうろうろするが、内から突き上げる衝動が様子見を許さないのか、またしても直線的に突っ込んできて右の鉤爪を振りかぶる。
先ほどと同じ展開だが、気を張っていた僕は西木の左腕に力が入るのを見逃さなかった。
右の鉤爪の威力は先ほどの打ち合いで大体分かっている。
ならば。
「はぁっ!」
今度は受け流さない。
右の鉤爪を刃で弾き、その反動を利用して左の鉤爪を受ける。
大毅流『燕返し』。
巌流島の侍のそれとはことなり、大毅流の燕返しは受け技だ。
弾いた右の鉤爪がつかむような動作をしたのが見えた。
さっきと同じように受け流していたら、刀身をつかまれていただろう。
本能的に動いているといっても学習能力はあるし、対策もきちんとしてくる。
となれば、安易に同じ動作をするわけにはいかない。
覚悟していたことだが、簡単には行かないようだった。
* * *
もう何時間になるだろうか。
血と汗に塗れた道場の床はすぐさま新しいそれで上書きされ、何度も転倒している両者の着衣も元の色が分からないほどになっていた。
昨夜から戦い始めて今や中天に日が位置する時刻となるが、伊織はいまだ持ち堪えていた。
曇天によって気温が高くないのは幸いだっただろう。
本当に黒峰伊織という少女は変わっている。
ほぼ関わりもない青年を、己の尊厳と命を賭けてでも救うというのだから。
いつもは素直なくせに、こういうときは梃子でも動こうとしない。
その理由が自己犠牲や自己陶酔から来ているのであれば、それでも自分は止めただろう。
しかしあれはそのどちらでもない。
こうしなければ望む自分に成れない。
そういう思いがそこにはあった。
(何があるのか知らんが、難儀な奴じゃ)
伊織がここまで戦えているのは、普段の稽古を真面目にやっていることもあるが、毎日山道を走っていることによって付いた体力がものを言っている。
それだけ愚直に言い付けを守っているということでもある。
かたや相手は薬によって限界を越えてはいるが、明らかに動きには精彩を欠いてきている。
そうは言っても伊織の方も体力と集中力の限界に達しているのは明らかだ。
十二にしてここまで戦えていることの方が驚嘆に値する。
自分がこの歳のときにここまで戦えたか?
自問して否と答える。
この娘の剣才は明らかに自分よりも上。
若い頃に捻くれて年長者の言うことなど聞きもしなかった自分とは違い、言われたことは素直に、そして貪欲に吸収していく。
彼女がこの試練を乗り切ったとき、対鬼流の奥義を伝える準備が整うだろう。
だからこそ、この戦いには自分は手を出せない。
対鬼流の奥義は極限まで自分を追い込んだ末に死線を越えなければ身に付かない。
本来の伝え方は師、自らが伝承者に対して戦いを挑み、そして徹底的に追い込んで死線を越えさせる。
だが彼女がこの戦いに自ら挑む意志を示したときに、これこそが奥義を伝えるための試練に成り得ると感じたのだ。
伊織は何か勘違いをしていたようだったが、ただこの生成りを助けたいだけであれば自分が手助けしても良かった。
鬼人の血を飲まされた人間とは過去に何度か戦ったことがあったし、それを人に戻したこともあった。
それは自分をして、対鬼流の奥義を会得していなければ無理だったのではないかと思わせるほどの過酷な経験だった。
だが伊織はこれをひとりでもやると決意し、そして自分はそれを認めて奥義を伝えるための試練と認めた。
そうとなれば、手は出せなかった。
出してしまえば、それは伊織の試練の失敗を意味するからだ。
師と弟子の間には情を差し挟んではならない。
それは弟子の大成の妨げとしかならないからだ。
一度手を出してしまえば、次の試練でも、その次の試練でも手を出してしまうことになるだろう。
そうならないためにここで自分ができること。
それは弟子が自ら始めた戦いの一部始終を、ここで見届けてやることでしかない。
(こんなところで死んでくれるなよ、伊織……!)
* * *
何時間経ったんだろう。
朦朧とした意識の中で、ふと僕はそう思う。
目の前にはあちこちを朱に染めた西木。
その顔はまだ理性を失ったように歪んでいて、正気を取り戻したようには見えない。
「クァ……!」
開始当初に比べれば見る影もない動きで間合いを詰めてくる。
霞がかかったかのような意識が、それをかろうじて捉える。
どうにか起こりも動きも把握。
けれどまるで生暖かい水の中にでもいるかのように、僕の動きは遅い。
溜まりに溜まった疲労が、呼吸すらも困難にして行く。
「……っはあっ」
もはや呼吸を隠すことなんて思いも寄らない。
可能な限り息を吸う。
左右から迫る鉤爪に対し、刀を正面に構えて右手は峰に当てて正面へ飛び込む。
相手の体に刃を押し付けた体当たりは、鎖骨のあたりをざっくりと切り裂く。
僕はそのまま体を沈み込ませて左右の鉤爪を躱し、その動きを利用して斬り裂……いてはダメだ。
朦朧とした意識を無理矢理覚醒させて、西木の体をそれ以上斬らないよう刀を引く。
それによって西木の体にそれ以上の傷を入れずに済んだものの、代償として致命的な隙を生むことになった。
西木の左の鉤爪が僕の道衣の右の襟首を掴んだ。
そのまま体ごと振り回されて床に叩きつけられる。
「がはっ!?」
痛みに意識が覚醒する。
ここを勝機と見たのか西木は道衣を離さずに再び僕を振り回し、まるで砲丸投げのように僕の体を道場の壁へと投げつけた。
せめて受け身を取ろうと体を捻るが、僕の体はもはや言うことを聞く状態ではなかった。
「ぎっ!?」
脇腹をしたたかに道場の壁に打ち付ける。
あばらが数本逝ったのが分かった。
「シャアアアアアッ!」
「ぐうっ!」
とどめとばかりに走り寄ってくる西木は、どういうつもりなのか右手を普通に僕に伸ばしてきた。
何かは分からないけれど攻撃ではない。
体勢を立て直すチャンスだ。
はだけた道衣には構わず、あばらの痛みを無視して前に身を投げ出すように低い姿勢を取り、体に沿わせるように刀を上に構える。
そしてタイミングを計って相手の足元へと頭から突っ込む。
狙い通りに相手の足元をくぐり抜けると同時に、百八十度体を返してして刀の峰をその足首へと叩きつける。
大毅流『軒払い』。
本来ならば茶室の入り口などの低く狭い場所をくぐり抜けて攻撃するための技法だ。
もはや斬らなければいいとばかりに全力で叩きつけたそれは狙い違わず左足首へと命中したが、何と西木はそのダメージを無視して右足で後ろ蹴りを放ってきた。
それは僕のもはや胡乱な頭では読むことのできない動きだった。
「ケエエエエッ!!」
「しま……っ!」
僕の右肩に鈍い衝撃が走って、僕は後ろに吹き飛ばされる。
鬼人の怪力は力の入らない体勢であっても無理矢理に攻撃を成立させる。
今の一撃で僕の右肩は外れた。
刀こそ手放さなかったものの、もはや右腕は用を為さない。
「く……」
後ろ受け身を取って起き上がる。
油断だった。
鬼人は総じて頑丈なため、攻撃を受けながら反撃をするというのは珍しくないと聞いた。
それを知っていながら対策を怠った僕への当然の報いと言えるが、ここに来て右腕の使用不能は痛い。
「グルル……」
ゆっくりと振り返る西木も左足を引きずっていた。
左手一本で刀を構える。
刀は基本的に両手で遣うもの。
左手のみで繰り出せる技は少ない。
あちらのダメージも決して軽くないが、今の攻防は僕の方が不利だ。
ただ……。
ダン!
西木が無事な右足で床を蹴って宙へ舞う。
わざわざ隙が大きい跳躍を選んだのは、左足への負担を考えたからだろうか。
左へ回避して着地際に西木の右足首へと刀を走らせた。
左手だけでは峰打ちは無理なので、腱を狙う。
西木は足を縮めて着地のタイミングをずらしてそれを回避し、右手を僕に伸ばしてきた。
それは予測していたので刀を引いて退がる。
(やっぱりそうか)
先ほど僕を捉えて道場の壁に叩きつけたときから、西木の行動が変化していた。
それまでは僕を敵と認識し、殺すための攻撃をしてきていた。
今は僕を獲物と認識しているようだ。
そのため攻撃が僕を殺すものではなく、捕らえるものへと変化している。
これならば勝機はある。
そう思ったときに。
ずくん。
左手が、不意に鋭い痛みを伝えてきた。
この痛みは良く知っている。
左手に残った傷痕が、雨が降ることを伝えてくるサイン。
耐えられない痛みではないが、無視することができるほど軽くはない。
いつもであれば右手である程度フォローできるのだが、今は右手が使えない。
(まずい……!)
痛みに耐えて刀を振ることはできる。
しかしそれは十全のものには成り得ない。
さらに刀に衝撃が加われば痛みもまた跳ね上がり、それは刀を取り落とす可能性へと繋がる。
それに耐えようとすれば、動きが鈍くなって捕まってしまうかも知れない。
こんなタイミングで、と思わず言っても仕方ないことが頭をよぎる。
「ケヒャァ!」
そんな僕の事情なんて相手には関係ない。
僕の状態を知ってか知らずか、右足で刀の腹を蹴って手から弾き飛ばそうとする西木。
体ごと引いて蹴りを空振りさせて、すかさず右足首を狙って斬りつけるつもりだったのが、左手の痛みが反応を遅らせた。
刀は蹴り上げられて宙を舞い、天井の梁へと刃を食い込ませた。
(しまった……!)
刀のない僕に鬼人に対抗する術はない。
身を翻して道場の壁に掛かっている木刀を手にするべく走り出す。
けれどそれは相手の予測の範疇だった。
「ギヒィ!」
腰に重い衝撃。
西木のタックルを食らった僕は床に倒れ込んだ。
頭を打って気が遠くなるも、外れた右肩と折れたあばらが衝撃に悲鳴を上げたことでどうにか意識を保った。
朦朧となりながらも体を捻って西木から逃れようとする。
仰向けになった僕の目の前には、大口を開けた西木の顔があった。
ぞぶり。
道衣がはだけて露わになっていた右肩に噛みつかれた。
蓄積したダメージと疲労はピークに達しており、意識が遠くなっていく。
(ああ……)
もう、駄目なんだろうか。
ここで終わりなんだろうか。
手に刀はない。
体力もない。
何もかも出し尽くした。
意識を手放してしまえば楽になれそうだ。
ガン。
そういう音が聞こえた。
ぼんやりとそちらへかすんだ目を向けると、床に拳を叩きつけた誰かが僕の名を叫んでいる。
なんだろう。
なぜ、そんなに悲しそうなんだろう。
(僕は……それを……)
「……り! 伊織!! 儂より先に死ぬんじゃねえ! 戻ってこい、伊織!!」
死ぬ。
そうだ。
僕は一度死んだだろう。
そしてなぜまた生きてきた?
それは、やることがあるから。
前世では救えなかった人を、今度こそは救わねばならないのだから。
そのためにお師さんに付いてひたむきに強くなってきたのだ。
(お師さん……!)
意識が覚醒する。
お師さんは泣きそうな顔をしていた。
そうさせたのは僕だ。
お師さんならば僕を救える。
けれどそうしたら僕は僕の望むものに成れない。
僕の意志を尊重して、お師さんは血のにじむような思いでそこに座っているのだ。
その信頼を裏切るわけにはいかない。
自分の体へと意識を戻す。
血を舐め取っているのか肩を舌が這い回る感触がしていた。
あまりの気持ち悪さにもがくと、無遠慮に体のあちこちをまさぐっていた鉤爪に肩を押さえられた。
(……?)
なぜか西木のその動きが意識でクリアに捉えられる。
見えているのは血を舐めている西木の頭と背中くらいなのだが、意識は西木だけでなく、道場のほとんどを視界として捉えているような、そんな不思議な感覚。
もがくのをやめると、鉤爪はまた僕の体をまさぐり始めた。
何をしたいのかは分かりすぎるほど分かった。
そして、打開策も。
西木が腰を浮かせた瞬間に、僕は右膝をその下腹部へと一分の遠慮すらなく叩きつけた。
「ギィアアアアアア!?」
いくら鬼人化してて痛みに強いとは言ってもこれは耐えられなかったのか、大仰に飛び退いて床にうずくまる西木。
その隙に僕は壁の木刀を取る。
お師さんが力強く頷いているのが見えたので、僕も笑みを浮かべて頷いた。
もう日没も過ぎた。
雨の降り始めた道場の外はすでに暗い。
あと少しで丸一昼夜は越える。
しばらくうずくまっていた西木は、敵愾心に満ちた目でこちらを見た。
恐らく、もう僕を弄ぼうなどという気はないだろう。
こちらも雨が降り始めたので左手の痛みはかなり軽くなっている。
そして何より。
(スライディングから鉤爪で足元狙い)
先ほど感じた不思議な感覚は、いまだ続いていた。
実際にそのようにやってくる西木を余裕を持って躱す。
まるで相手がスローモーションのように感じる。
否、僕の方がとてつもない余裕を持って相手の動きを把握しているのだ。
まるで皮膚の感覚が道場全体に広がったかのように、西木の一挙手一投足を感じ取れる。
(鉤爪を道場の床に刺して止まって右の蹴り)
西木の方を見もせずに、左手の木刀でそれをいなす。
動きのすべてを意識で捉え、今まで培った呼吸の読みで先手を取る。
蹴りに続いて遠心力で振るわれた鉤爪も、その動作に隠すようにした首筋への噛み付きも、まるで鳥観しているかのように、手に取るように分かっていた。
相手の動きが分かるだけではない。
空間を把握しているのか、その距離すらも手の内だ。
もはや相手を直接見る必要がなかった。
「伊織……おめえ……」
お師さんの呆然としたつぶやきすら耳に入らず、僕はその不思議な感覚に身を任せていた。
まるで舞うようなその時間、西木の攻撃が僕に届くことはなかった。
そして。
「……おまえ……すげえ、よ」
意識を取り戻した西木が道場の床に倒れた。
それを見届けた僕もまた、今度こそは安らかに意識を手放したのだった。
次回、また少しお時間頂きます。