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剣人  作者: はむ星
【幼年篇】
17/113

16

 稽古の終わりに春樹さんにあの事件で出てきた薬、『デモン』について何か分かったか聞いてみた。

 事件の後、デモンを真也が一錠確保し、春樹さんが剣人会へと分析依頼を出したとのことだったからだ。

 春樹さんは剣人会からは距離を置いてはいるが、お師さんとは違って断絶状態ではないらしい。

 結果は半月くらい掛かるということで、まだ何も分かっていないとのことだった。


 いつもの通りに走って帰る。

 だんだんと日が長くなってきているけれど、道場での稽古が終わって帰る頃にはもう日は沈んでいる。

 暗い中、道無き道を走破するのは気を抜くと大怪我の元だ。

 今や慣れた行程ではあるけれど、その慣れというものに甘えたときにこそ事故が起きる、とお師さんは言う。

 これは真剣を扱うときの心得と同じだ。

 あの鉈以上の重さを持ちながら剃刀のような切れ味を誇る刃物は、持つ者に甘えを許さない。

 暗い森を抜けると、今日は満月で明るかった。

 道場から三隅村の入り口までたどり着くのに大体一時間。

 以前に比べるとスピードアップしているけれど、お師さんに比べるとまだまだだ。

 月明かりのまぶしさに目を細めてクールダウンしつつ歩いていると、村の入り口付近に黒い影がうずくまっているのが見えた。


(人……?)


 村の人なら何かあったのかも知れない。

 小走りで近づくと、足音に気づいたのかその人影は顔をあげた。


「あ」


 僕はそこでようやく、昼間の水島先生の話を思い出した。

 そこにいたのは例の警察から行方を眩ました鉄パイプの不良、西木敏男だった。


「黒峰……」


 僕を認めて立ち上がる西木。

 その顔色は月明かりの下でも明らかにおかしく、額には玉のような汗が吹き出していた。

 表情も何かに追い詰められたかのような切羽詰まったものを浮かべており、どう見てもお礼参りに来た雰囲気ではない。


「頼む……助けてくれ。言えた義理じゃないんだが、頼む。おまえしか、思いつかなかった」

「助け? どうしたの」

「……俺、を」


 その色に恐怖をにじませた、掠れるような声で、西木はこう言った。


「殺してくれ」


*   *   *


「……どういうこと?」


 さすがに聞き流すことはできない。

 僕が西木に近づこうとすると、彼はなぜか同じだけ下がった。


「近づくな。俺は……俺は、おかしくなっちまった。あの『デモン』のせいで」


 あの赤い薬、確かに体に良くなさそうだとは思ったんだけれど。


「おかしくなったって?」

「何かを……殺したくて、たまらねえ。女なら滅茶苦茶にしてしまいてえ。そんな欲望がだんだんと抑えられなくなってきちまってる。だから、何かやっちまう前に、逃げた。それに」


 西木はゆっくりと両手をかざすように上げた。

 その手は節くれ立ったものになっており、爪が異様に伸びていた。

 まるで、あのときの鬼人の鉤爪のように。


「その手……」

精神こころだけなら薬の影響だって普通に思うけどよ、これは一体何なんだよ。俺は一体、何になっちまったんだ……?」

「鬼人と呼ばれる存在かな。適性があれば、だけど」


 後ろから知らない声。

 ぞわ、と背筋に寒いものが走り、僕は西木の方に跳びながら後ろを向く。

 そこにはまるで少年のような、しかし整った顔の青年が立っていた。

 声がするまで気配を一切感じなかったことで、僕の警戒心が跳ね上がる。


「おっと、戦う気はないよ」


 僕が身構えたのに反応したのか、両手を上げて敵意のないことをアピールする青年の姿を見て、西木が思わずと言ったように声をあげた。


「アントさん……」

「やあ。元気そうで何より」


 どうやら知り合い、というか多分、目の前の青年が例の『デモン』とやらの出処だろう。

 西木の状態を理解しているようなことと、鬼人という単語を知っている時点で間違いないはずだ。

 アントと呼ばれた青年は、笑顔を浮かべて僕の方に顔を向けた。


「名乗ろうか。氷上ひかみ安人やすひと。お察しの通り鬼人だよ、黒峰伊織さん」

「……なんで僕の名前を?」

「二年前に君と戦った鬼人はあれで結構武闘派として有名だったんだよ。強さなら僕より格段に上だった。そんなのと戦って生き残った人間、ましてや先代三日月の愛弟子ともなれば、見ている鬼人は見ているよ」


 覚悟はしていたんだけれど嫌な情報を聞いてしまった。

 無意識に顔に出てしまったのか、氷上は吹き出して笑い始めた。


「あはははは、まあ鬼人に注目されるって嫌だよね。うん、素直で良いなぁ」

「それで、何しに来たの」

「ああ」


 笑いを収めて、それでも笑顔のまま氷上は僕の後ろの西木を指さした。


「その子を回収にね。このままだと死んじゃうから」

「……」


 死ぬと聞かされた西木には動揺がなかった。

 殺してくれというくらいだからその覚悟があるんだろうけど、回収という言葉には顔をしかめた。

 このまま生き永らえたくはないのだろう。


「どういうことかな」

「さっきその子が自分で言ってたろ。人を殺したい、女を犯したい。そういう欲を抑えれば体と心が耐えきれずに自壊するし、発散しちゃったら半端じゃ済まないから行き着く先は警察による凶悪犯射殺ってオチじゃないかな。完成するまでは鬼人に成ったわけじゃないから銃弾で普通に死んじゃうし」

「デモン、だっけ。あれを飲んだ他の人たちもそうなるの?」

「一錠飲むだけの分にはそう大した副作用はないよ。少々凶暴性が上がるかもしれないけど、仲間内で殴り合って終わりだね」


 まるで晩ご飯の献立でも話しているかのような気楽さで氷上は言う。


「ただ、一錠目の効果中に追加を飲むこと――僕は重ね掛けって呼んでるんだけど。それをやったのはその後ろの子だけなんだ」

「彼を引き渡したらどうするの?」

「貴重なサンプルだからね。殺したりはしない」


 へらへらと答える氷上は、その態度の割に身ごなしには隙がない。

 二年前の鬼人より弱いと自分で言っていたが、本当のことだとはあまり思えなかった。


「殺さない、ということは欲望を発散させる、ってことになるけど」

「やっぱりごまかされないよねぇ」


 頬を掻く氷上。


「なんのためにこんなことを?」

「うーん。強いて言えば好奇心、かな」

「好奇心……?」

「うん。自分の能力ちからで何ができるのか知りたい。割と普通の望みだと思わないかい?」

「デモンがあなたの力なのかな?」

「ま、そんなとこ」


 嘘はつかないかわりに、肝心なところは隠しておいたり曲解させたりするタイプのように思えた。

 どうも苦手なタイプだ。


「ま、そういうわけでその子引き渡して貰えればすぐに退散するんだけど」

「い、いやだ」

「うん?」


 首を横に振った西木に笑顔を向ける氷上。

 笑顔ではあるが、まさに鬼気とでもいうべきものが氷上から放射された。

 僕に向けられたわけでもないけれど、心と体が臨戦態勢に入るのには十分すぎる気配。

 それを直接向けられた西木は恐怖に顔を引きつらせながらも、なお口を開いた。


「お、俺は、この衝動に呑まれたら、きっと俺じゃなくなっちまう。そうなっちまうくらいなら、死んだ方がマシだ……」

「へえ」


 面白そうに目を二、三度瞬かせた氷上は、その口を三日月のように吊り上げた。


「君にはそんなに選べる道はない。ひとつは今言った通り死ぬ道。まあ、人間としての尊厳は保てるだろうね。二つ目は衝動に身を任せて人間ではなくなる道。これも適性がないとやっぱり死ぬんだけど」


 くすくす笑う氷上は、いいことを思いついた、とでも言いたげな表情をして西木を見た。


「考えてみれば血筋でもない奴が鬼人になれる可能性ってとてつもなく低いんだよね。結局死ねることには変わりないんだから、その前に僕の好奇心を満たして欲しいんだけど……っと」


 氷上が僕の後ろへと視線を投げる。

 気配はまったく感じなかったけれど、そこに誰がいるのかはすぐに分かった。

 先ほど氷上が放った気配に感づいたんだろう。


「気配には聡いようじゃな」


 お師さんの低い声が後ろから発せられた。

 西木はまったく気づいていなかったようで、驚いた様子で後ろを見て、強面のお師さんと目が合って固まっていた。


「貴様の言う道はひとつ抜けておる。故意に抜かしたんじゃろうがな」

「……あんた、デモンが何か分かってるのかい?」


 不意に氷上の目が細められ、それまでの軽薄な様子がなりを潜めた。


「貴様の血じゃろう。己の血を飲ませて己の眷属を作ろうという鬼人は昔からおる」

「僕は別に眷属が欲しいわけじゃないけどね」


 再びへらへらとした態度に戻った氷上だったが、その目は笑ってはいなかった。


「確かに道はもうひとつあるけど、それは僕からは説明しない。そこのおっかない人が知ってるようだからね」

「ふん。麻薬患者と同じじゃ。薬が抜け切るまで取り押さえときゃいい。それで、人に戻る」

「正解。やれやれ、これは無駄足だったかな?」


 それを聞いた西木が信じられない、という表情を浮かべた。


「人に……戻る?」

「うん」


 やはり軽く答える氷上。


「暴れても取り押さえてくれる人がいれば、衝動を満たすことはないだろう? でも衝動そのものは抑えていないわけだから自壊はしない。そのうち完全に薬が抜ければ人に戻れるってワケ。ただ取り押さえる方も君も死ぬような思いをするだろうけどねえ」


 両手をゆっくりとあげた氷上は、二歩、三歩と下がる。


「ともあれ先代三日月が出てきた以上、その子はどの道諦めるしかなさそうだ。僕はこれで退散させてもらうよ」

「そこに隠れとる奴も連れて帰れよ。分かっとるとは思うがな」

「仰せのままに。やれやれ、観沙みすなの隠形でも駄目とはね。恐れ入った」


 肩をすくめた氷上は物陰へ手招きする。

 暗がりから出てきたのはスーツ姿の美女だった。

 僕にはその気配はまったく分からなかったが、お師さんには通用しなかったようだった。

 美女はこちらに軽く一礼して、氷上の隣に控えた。


「さて、それじゃ僕はこれで。ただ、ひとつ最後に言っておくけど」


 氷上は西木へ視線を向けて言った。


「死ぬような思いをしてまで君を人に戻す手伝いをしてくれる人って、いるのかな?」

「……っ」

「儂もひとつ言っておくぞ、小僧」


 すでにこちらに背を向けていた氷上は、顔だけをお師さんに向けた。


「儂の周辺に手を出すな。感づいたら潰すぞ」

「はいはい。ほんと、おっかないったら」


 手をひらひら振って氷上は立ち去った。

 お師さんはその背中をしばらく睨み付けていたが、彼らの姿が見えなくなってから不機嫌そうにため息をついた。


「厄介ごとを持ち込みよって」

「お師さん。人に戻れるって本当?」

「可能性はある、といったところじゃな。確実とは言えんが、賭けるに不足しているほど目がないわけでもない」

「そっか」


 唇を噛んでうつむいている西木の姿を見ているうちに、僕の口は自然と開いていた。


「なら、僕がやる」

「おい、伊織」


 僕の言葉に、お師さんは憮然、西木は愕然といった風体でこちらを見た。


「鬼人の血を取り込んだ奴は、鬼人には及ばなくとも一般人よりは遙かに強力な力を持つ。そんな奴が己が衝動のままに少なくとも一昼夜は暴れ続ける。おめえにそれの相手が出来るのか?」

「やる。人に戻りたいというのを見捨てるなんてできない」

「それがおめえに何の得がある」

「得はあるよ」


 お師さんは僕を心配してくれている。

 僕が将来にやらなければならない何かがあることを知っていて、それを優先しなくていいのかと言ってくれている。

 それを承知で、僕は敢えてそれに背を向けた。


「ひとつ、僕の気持ちが満足する。二つ、僕に感謝してくれる人がひとり増える。三つ」


 僕は西木の方を振り返った。

 期待と困惑が半々にブレンドされたような表情を浮かべている西木は、あの憑き物が落ちたときから僕には悪い人間には見えなかった。

 意地はあるし、同情もある。

 けれど、こうすると決めたのは何よりも僕がそうしなければならないと思ったからだ。

 頑張れば助けられるかもしれない人を見捨ててしまった僕は、本当に助けたい人を助けるときに頑張ることができるのだろうか。

 そう、感じたからだ。


「これを乗り越えたら僕はきっともっと強くなる。以上!」

「……」


 まさに苦虫を千匹以上噛み潰したような顔。

 正直言ってさっきの鬼人よりも数段恐ろしい。

 肩が震えているのは、僕を殴りたい衝動を我慢しているんだろうか。

 思わず喉が鳴るのが分かったけれど、僕にも退くつもりはなかった。


「ったく。……まあ、ええ機会か」

「お師さん?」

「ともかく道場に行くぞ。ここで暴れるわけにもいかん」


 あっけに取られている西木の首根っこをつかんで小脇に抱えると、お師さんは僕を促して道場の方へ歩きだした。

 道場に着くとお師さんは西木を放り出して、四隅の燭台に火を灯した。

 その間に僕は自分の刀を部屋から取ってくる。


「さて、伊織よ」


 どっかと壁際に座り込んだお師さんは、僕の方に厳しい目線を向けた。


「分かっているとは思うが、儂は手を貸さんし、おめえを助けることもない。これはおめえの戦いだからじゃ」

「分かってる」

「負ければ自分がどうなるかは承知じゃな?」

「……うん」


 デモンによって、西木は殺戮衝動と性衝動が強まっていると言っていた。

 その衝動のままに暴れているところで、僕が負ければどうなるかは火を見るより明らかだ。

 確実にやり切れる保証なんてどこにもない。

 僕にはやるべきことがある。

 それを考えて安全に行くというのなら、ここは西木を見捨てるべきなんだろう。

 掛かる対価が大きすぎるのは、先ほどお師さんに言われるまでもなく、僕にも分かっていた。

 お師さんに助けて貰えればいいには決まっているけれど、これは僕が僕の我儘で始める僕の戦いだ。

 それに手を貸さないというお師さんは筋が通ってるし、文句の言えるはずもない。

 死ぬつもりはないけれど、死ぬかもしれない戦いを自分から始めるのは僕にとって初めての経験だ。

 少し……いや、かなり緊張しているのが自分でも分かる。


「おい……おまえが、そこまでやる必要がどこにあるんだよ」


 道場の床にうずくまっていた西木が、呆れたように言う。


「俺を見捨てれば済む話だろ。てめえでやったことのケツ拭くだけの話だ、恨みやしねえ。鬼人?なんぞにゃなりたくねえからそんときゃサクっとって欲しいけどよ」

「伊織が失敗したときは儂が斬ってやる。心配すんな」

「それじゃそいつが死ぬだろが!」


 激昂して食って掛かる西木に、お師さんは一度瞑目し、そして目を見開いて静かに言った。


「伊織は儂の弟子じゃ。おめえなんぞに負けるかよ」


 その言葉に西木は絶句し、そして、僕は。

 ふつふつと胸の奥から熱いものが湧き出てくるのを感じていた。

 覚悟は、定まった。


 刀を抜いて構えた僕に、西木が舌打ちして頭をがしがしと掻く。


「くそ、どうしてそう……ああ、もうどうなっても知らねえぞ!」

「いつでもいいよ」


 僕がそう言うのを合図としたように、西木の気配が変わった。

 ビキビキと音がして手が完全に鉤爪へと変貌し、その瞳からは理性の光が失せる。


「ギ……ッ、アァァアアアアアアアアアッ!!!!」


 理性を失った獣が一直線に僕を目掛けて突進してくる。

 長い戦いが始まった。

また少しお時間いただくと思います。

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