11
白熱灯の明かりに誘われた小さな蛾の影が、漆喰の壁をひらひらと舞う。
僕の部屋はふすまが破れた上に壁も壊されたため、お師さんは居間に布団を敷いて僕を寝かせてくれた。
あれだけの目に遭ったのに、僕の傷は打撲と少しの擦過傷だけで済んでいた。
幸運だったことが大きいだろうけれど、毎日の稽古をきちんとやっていたこともあると思う。
もっとも道場の壁を破る勢いで叩きつけられたのだから、打撲の程度は軽くはなかったけど。
今はお師さんが打ち身に効く軟膏を練って、僕の背中に塗ってくれていた。
「あいた」
「む、済まん」
少し擦りむいていた場所に軟膏がしみて思わず声を上げる。
お師さんは丁寧に軟膏を塗った後で包帯まで巻いてくれた。
「ようもこの程度で済んだものじゃ」
自分でもそう思う。
お師さんが来てくれなければ本当に死んでいたのだ。
包帯を巻き終わると、お師さんは今度は僕の刀を手にとった。
割れた鞘から抜き、ためつすがめつする。
「こっちは腰が伸びたな。まあ仕方ないじゃろう」
要するに刀が曲がってしまったということだ。
本来、日本刀というのは攻撃を真正面から受け止めるようにはできていない。
よって受け流す必要があるのだが、僕が未熟でそうできなかったということだ。
折れずに頑張ってくれた刀に内心でお礼を言いつつ、上手く使ってあげられなかったことを悔やむ。
「さて」
お師さんは刀を鞘に納めると、居住まいを正した。
「済まんかった」
深々と頭を下げるお師さん。
慌てて身を起こそうとする僕を、手ぶりで抑えてお師さんは顔を上げた。
「いずれこういうことがあるやもしれんとは危惧しておった。儂が都度対処すれば良いと思っておったが、やはり驕りじゃったな。まさか留守中に鉢合わせるとは」
「お師さん?」
お師さんはあの鬼人に剣人と呼ばれていた。
そのことが関係しているのだろうか。
僕がそれを尋ねると、お師さんは頷いた。
「じゃが深く知る必要はない。というより、知ってはいかん」
話せないというのなら、好奇心はあったけれど僕も無理に聞くつもりはなかった。
でも次の言葉には承服できなかった。
「伊織、おめえはここを出ろ。春樹に儂から頼んでおく」
「いや」
即答されるとは思っていなかったのか、お師さんは目をぱちくりさせた後、眉をぐいと寄せた。
「わがままを言うな。ついさっき死にかけたじゃろうが」
「でもいやだ」
僕にとって師とはお師さん以外にいない。
今の僕はお師さんの腕にはほど遠い。
にも関わらず、絶対に負けるわけにはいかない戦いは、もうあと五年後に迫っている。
その相手の強さは分からない。
すごく弱いのかもしれない。
でも万が一、そうではなかったとしたら?
不確かな希望的観測に身をゆだねて、一世一代の勝負に負けるなんてことはしたくなかった。
もっと腕を上げなければならないのに、師の元を離れるなんて言語道断だ。
問答を繰り返して僕がまったく譲る気がないことを知ったお師さんは、いつもの十倍ほどの苦虫を噛み潰した顔になった。
怖いけれどもう見慣れたし、ここは殴られようが蹴られようが絶対に譲れない。
「分かった」
深々とため息をつき、ついにお師さんは折れた。
「じゃがそうするならば、先ほどの言葉を撤回せねばならん。これを聞いたならば後戻りできん道に踏み込むことになる。聞いたことを他人に話してもいかん」
そう言ったお師さんは、最終確認であるかのように僕を見た。
「それでも、ここを出るつもりはないんじゃな?」
「うん」
やはり即答した僕に、お師さんは困ったような、どこか嬉しそうにも見える顔をした。
「では話そう。剣人と鬼人について」
* * *
剣人と鬼人の起源については諸説ありよく分かっていない。
ただ、昔話において鬼と呼ばれた者はその多くが鬼人であるらしい。
曰く、鬼人とは古より人々の世に害悪を為す存在である。
そして剣人とは、その鬼人から人々を守るために存在するのだと。
「お題目じゃがな」
瞑目してそう言ったお師さんを見るに、単純に一言で言い表せるものでもないのだろう。
ごく普通に考えれば、まず人間そのものが善人ばかりではない。
そう考えると、剣人だって正義の味方ばかりではないだろうし、鬼人にも良い人くらいいるだろう。
僕がそう告げると、お師さんは目を瞠った。
「本当におめえは子供とは思えんな。今どきの大人の剣人にだって、このお題目を無邪気に信じとる奴は少なくねえんじゃが」
ひどく苦い笑みを浮かべたお師さんは、ひとつ首を振って言葉を続ける。
「とは言え、多くの剣人がこのお題目を信じてしまうにはもちろん訳がある」
鬼人は表に出てくるその多くが、実際に人に害を為すことが多いのだと言う。
それこそ、今日僕たちを襲った鬼人のように。
「羅生門の鬼は知っておるか?」
「少しは。鬼退治の話だよね」
「そうじゃ」
立ち上がって床の間の天袋からひとつの巻物を取り出したお師さんは、それを僕に見えるように広げた。
そこにはひとりの武士が橋の上で鬼の腕を斬り落とす場面が描かれていた。
あれ、門じゃなくて橋?
「もともとは京都の一条戻橋の上での話の舞台を羅生門に持っていったのが有名になっちまってるからな。ともあれこれがそれじゃ」
お師さんは絵巻物の鬼の絵を示した。
「鬼人は不思議な力を持つ。今日のあやつのように異形となったり、火を操ったりする者もおる」
そしてそういう力を持つ代償として、何らかの強い欲求を併せ持つのだと言う。
それは殺人、食人、吸血、破壊などに向けられることが多い。
僕と戦った鬼人は、闘いに対してこだわっていたように思う。
強い力を持つ代償なのだろうか。
「人と異なる力を持つあやつらはいつの時代も迫害の対象となってきた。その存在を隠して生きるようになったのは自然な成り行きと言えるじゃろう。じゃが」
それを良しとしなかったとき、その鬼人は自らの力を奮うこと、そしてその欲求を抑えることはない。
こうした鬼人は人の手に余る。
剣人が出会うのは、大抵がこうした鬼人なのだと言う。
「そんな鬼人とばかり出会ってしまえば、鬼人がすべて悪なのじゃと認識してしまうのも責めることはできん。剣人会がそのように印象操作をしておるから尚更じゃ」
「剣人会?」
聞きなれない単語にオウム返しする。
剣人会とは剣人同士の互助組織のようなものだとお師さんは言った。
「鬼人と同じく剣人も表舞台に立つことはない。じゃが人の世で生きるからには個人の力でやれることには限界がある」
そこで出てくるのが剣人会らしい。
その起源は平安時代にまで遡るのだと言う。
鬼人に関する様々な情報はもちろん、鬼人を殺した際の痕跡の始末や目撃者への対処、所属する剣人への仕事の斡旋から結婚相談までと手厚く剣人の活動をサポートする団体なのだそうだ。
所属している剣人に鬼人の討伐依頼などを出すこともあれば、剣人の存在を脅かすと判断した者を粛清することもあるらしい。
聞いている限りではかなりおっかない組織のようにしか聞こえない。
ごく普通に財団法人として登録されており、表向きは古流剣術の活動支援団体として存在するとのことだった。
なお、鬼人側にも黄昏会と呼称される互助組織があると言われている。
こちらは表向きには存在しない地下組織だろうと推測されているようだ。
ちなみにこの巻物は、元々は剣人会に保管されていたものなのだそうだ。
「鬼人は人によって多様な力を持つ。じゃがそれとは異なり、剣人は全員が共通した力をただひとつだけ持つ」
その力は『鞘』と呼ばれる。
己の魂と選んだ刀を体の内へと取り込み、望んだときに取り出すことのできる力。
この力を以て剣人は己の証を立てるのだ。
「そこで見てみろ、その武士の方を」
お師さんに言われて絵巻物の中の武士を見る。
「……鞘がない、ね」
そう、絵の中の武士は刀はしっかりと握っているものの、その腰には鞘がない。
普通にこの絵を見たなら描き忘れか何かだと思うところだが、お師さんの話を聞いた今では、この武士が剣人であることが示唆されているのだと思う。
「お師さんは、あのときの刀が?」
『鬼姫』と呼ばれていた、あの優美かつ豪壮な刀。
確かにあれはお師さんの魂と言われても過言ではないものを感じさせた。
「そうじゃ」
お師さんが右手をすっと動かすとすでにその手にはあのとき見た『鬼姫』があった。
白熱灯の明かりの元でも、その銀の地肌は冴えた光を放った。
「昔、とある人物から譲り受けたものじゃ」
刀身を眺めながら、お師さんはかすかに懐かしそうな表情を浮かべた。
なまなかな人生を送っているはずもないけれど、それはきっとお師さんにとって大切な思い出なのだろうと思わせる表情だった。
刀の鞘となってこそ一人前で、そのときからその人物は剣人と呼ばれるようになる。
どれほどの剣の腕があろうとも、そこが境なのだ。
剣人はその血筋でなければ剣人とはなれない。
『鞘』の能力は血筋による遺伝だからだ。
なんで剣人会が結婚相談までやっているのかと思ったら、それが理由らしい。
血筋であっても能力が発現するかどうかは確定ではなく、血が薄くなればなるほど能力の発現確率が低くなる傾向にある。
よって剣人会は所属している剣人たちの血統を把握し、望まれれば最適と思われる組み合わせで縁談を組むとのこと。
剣人にとって跡継ぎは重要な問題であるがゆえに、これを利用する人は少なくないという話だった。
「まあ縁談を押し付けてくることもあるがな。力が強い剣人なんかには」
またお師さんがかすかに手を動かすと、手の中の刀はまさに手品のように消えた。
その言葉とちょっと苦々しげな顔から、お師さんもたぶん縁談を押し付けられたことがあるんだろう。
結果がどうなったかは知らないけれど、いま独り身なのを見ると推して知るべし。
ともあれ、その話からは僕がどれほど修行をしようとも、お師さんと血が繋がっていない以上は剣人となることはできないということが分かった。
それはそれでまったく構わなかった。
僕に必要なのは強さであって、剣人となることではないのだから。
「ところで、お師さんはなんで狙われたの?」
「ふむ。単純に言えば知名度じゃな」
絵巻物をくるくると丸めながらお師さんは僕の疑問に答える。
剣人会を中心に動く剣人とは違い、鬼人は個人で好き勝手に動く傾向が強い。
そして剣人が鬼人を排除するように、鬼人も大抵は剣人を排除しようとする。
剣人が鬼人を排除する理由は人の世の平安のためだが、鬼人が剣人を排除しようとする理由は様々だ。
恨みや憎しみによるものや鬼人の間での売名行為、鬼人に住みやすい世にするためであったりするらしい。
「やり方は千差万別、弱い剣人を狙って片端から襲っていく奴もいれば、逆に強い奴を狙う鬼人もいる」
そして今回は後者だったらしい。
「剣人会でも最高の遣い手五人を天下五剣になぞらえて『五剣』と呼ぶ。
三日月。
鬼丸。
数珠丸。
童子切。
大典太。
儂は一代前の三日月を襲銘しておったからな、それなりに有名じゃった」
意外にも剣人の最高峰とされる五剣に挑んでくる鬼人は結構多いらしい。
五剣を討てば鬼人の間でも最高の力を持つと目される上、剣人側にとってはダメージが大きいからだと言う。
お師さんによれば、実際に五剣が討たれた例もあるらしい。
「儂は先代ということになるが、今は剣人会との関わりを断っておる。現役よりは手頃な獲物に見えるじゃろうな」
こともなげに言うお師さんだが、この人を見て手頃な獲物に見えるのであれば、そいつは眼科か脳外科にでも行った方がいいと思う。
「現三日月は儂が認めた奴じゃ。銘を譲り渡したときはまだまだじゃったが、今頃はその銘にふさわしい奴になっておるじゃろう」
お師さんに認められるとは、その人は凄い剣才があるのだろう。
うらやましい話ではあるけれど、僕は僕が持っているもので頑張るしかない。
ない物ねだりをしても仕方ないのだから。
「……何を考えたか分かった気がするが」
呆れ顔で僕を見るお師さん。
何か変なことを考えただろうか。
「伊織。おめえが何で強くなろうとしているのかは知らん。じゃが、そのための力なら今の延長線上で十分なはずじゃ」
お師さんが何を言いたいのか今ひとつつかみきれず、僕は首を傾げた。
「大毅流は初伝、中伝、奥伝とある。おめえは奥伝まで修めたが、今日見た技は知らんかったじゃろう?」
お師さんの言葉に頷く。
岩颪と言ったあの技。
見た感じでは掌分かれの派生技に見えたが、やっていることは桁違いに洗練されたものだった。
「大毅流には他にもうひとつ、真伝がある。これを修めたときに大毅流は鬼人に対する流派、すなわち対鬼流と成る」
鬼人に対する流派、と聞いて僕の腹にすとんと落ちたものがあった。
普通、剣術というものは対武器を想定して練られているもののはずだ。
その相手は刀だったり小太刀だったり、はたまた薙刀だったりはするだろうが、徒手空拳というものはほとんどない。
そもそも相手が素手ならば、こちらはただ斬れば良い。
だが大毅流には例えば氷鏡返しのような、徒手格闘に対するものとしか思えない技がいくつも存在する。
刀を持ってる奴に殴りかかってくるようなのは普通いないよな、と常々思っていたのだが、鬼人が相手ならばむしろ徒手格闘の方が多いのだろう。
「対鬼流を修めれば鬼人には敵視される要因となる。奴ら相手に特化した流派なんじゃから当然じゃな。ついでに言えば剣人会にも目を付けられるじゃろう」
鬼人に睨まれるのは分かるが、なぜ剣人会に目を付けられるのかが分からない。
僕の疑問は顔に出ていたのか、お師さんは続けて説明してくれた。
「対鬼流はいまや伝える者がさほどおらん。他の使い手は儂の知る限り春樹だけじゃ。その奴にしても奥義までは伝えておらんし、今は剣人会から距離を置いておる」
お師さん、さらっと春樹さんが剣人だって言っちゃったけど良いんだろうか。
しかしそうなると、対鬼流の使い手は相当レアなことになる。
確かに鬼人を相手とする剣人会からすれば、それに有効な流派がひとつ、失伝するのは座視できないだろう。
「剣士に限らん話じゃが、人というものは己の持つものを伝える相手を常に求めておる。唯一無二と言ってもいいほどの原石が傍らにあれば、それに己のすべてを注ぎ込んで磨き上げる。それはもはや本能と言っても良い」
お師さんは僕の目を見て言う。
「普通の剣士は才能の有無によって後継者を決めることが多い。じゃが儂は才能は見ん。あるに越したことはなかろうが、才能があったとて儂と異なる本質を持つ者に、儂の奥義は極められんからじゃ。
儂が今までの生涯で奥義を伝えても良いと思った相手は二人。
鴻野春樹と、伊織、おめえじゃ」
いきなりのお師さんの言葉に、僕の思考がフリーズする。
「ここで伊織、おめえの剣才が問題となる。儂が重視するのは本質で、おめえのそれに不足はない。じゃがそれと併せて剣才にも恵まれておる」
褒めてくれることもほとんど無いのに、いきなりこれは不意打ちすぎた。
顔が真っ赤になってる自覚があったが、お師さんは淡々と話を続けた。
「普通の剣士は剣才を重視する。そこでそれを持つおめえが儂が死ぬまで傍にいてみろ。剣人でなかろうと、対鬼流、ひいては奥義を伝えなかったはずがない。そう思われて当然じゃ」
「お師さんが死ぬ……って」
「阿呆。儂とて人間じゃ。もういつお迎えが来てもおかしくない歳になっとる」
軽く頭をはたかれて思わず首をすくめる。
僕としてはあと二十年は余裕で元気そうな印象しかないけれど、年齢だけで言えば確かにその通りなのかもしれない。
確か今年で七十一になるはず。
「話を戻すぞ。伊織、おめえに対鬼流、さらには奥義が伝わったと思われれば、鬼人は必ずおめえを狙う。剣人でないなら殺しやすいからなおさらじゃ。それに、生き残ったとしても剣人会がおめえを見逃すとも思えん。面倒臭いごたごたに巻き込まれることは必至じゃ」
剣人が鬼人に対抗できるのは、いついかなるときであっても得物が共に在るからだ。
普通の人間が常に刀を携行するのは難しい。
剣人でない剣士を鬼人が狙うなら、刀を持たないときを狙えば良いわけだ。
お師さんはそこまで懸念して、僕のことを心配してくれているのだ。
「じゃから、おめえは今のうちにここを去れ」
「イヤ」
腕を組んでうなだれるお師さんから、深い深いため息。
お師さんの心遣いは理解できるし、とても有り難く思っている。
けれど、それとこれとは話が別だ。
大体、僕がここを去るのがイヤだと言うからお師さんもここまで話したはずだ。
「お師さんは僕を死なせたくないんだよね?」
「そうじゃ」
「だったら、僕が死なないくらいに強くなればいいんでしょ?」
そのくらい強くならないと、五年後に絶対に勝つことなど覚束ないだろう。
あの通り魔が強いのかどうかは分からないけれど、僕は最悪のケースを想定して動くことに決めていた。
やり直しはできないのだ。
「……やれやれじゃ。洟垂れが粋がりやがって」
いつもの苦虫を噛み潰した顔で、お師さんは頭をがりがりと掻いた。
「なぜこの話をしたか分かっておるな?」
「鬼人や剣人に近づくな、ってことだと思ってる」
「分かっとるならいい。覚悟もできておるんじゃな?」
それこそ今更だった。
力いっぱい頷いた。
「分かった。伊織、おめえに儂のすべてを伝えよう。今日のところはとっとと寝て怪我をさっさと治せ。治ったら今まで以上に剣を叩き込んでやる。いまさらついて来れんとは言わせんからな」
何かを吹っ切ったようなお師さんの声に、僕は満面の笑みで頷いた。
「はい、お師さん!」
次回も少しお時間頂きます。