余話其の参
遅くなりました。
続きです。
「うん、黒峰って……伊織のことか? あいつなら明日、確か学校に出てくるって言ってたと思うけど」
その言葉を聞いて周囲の男たちに、ざわ、と緊張した空気が走る。
俺ひとりだけがその空気に同調しなかった。
「本当か!」
「ついに……噂の袴美女を拝むことが!」
延正大学の体育館の、居合サークルのスペース。
もはや二年以上も同じサークルにいるとなれば、そんなに仲が悪いはずも無い。
今話しかけられている鴻野真也は、入った当初からこの道十年の人間でも裸足で逃げ出すほどの剣筋の鋭さと、打ち込みを受けた奴が「殺されるかと思った」と語るほどの気合を放てるほどの男だ。
何でも元々、居合ではないが古流の剣術をやっているのだとか。
入部から三年目の今では、サークル内どころか全国区でもこいつに太刀打ちできる奴はほとんどいないほどになってしまった。
「おまえら……あいつには付いてる男がいるって言っただろう」
「うるせえよ! 今年に入ってから毎日目の前で美女とイチャつきやがって!」
「なんでサークルにいるのが茨木さんじゃなくておまえなんだよ!」
「おい」
青筋を立てた真也から蜘蛛の子を散らすように逃げ去るアホども。
鴻野真也という男は居合ひとつ取ってみても才能があるのだが、学業もまた優秀らしい。
だがそれだけでなく、奴には高校時代から付き合っている幼馴染みの彼女がいたのだ。
茨木清奈という名の彼女は、今年の入学式からずっと男どもの注目の的の一人だ。
俺も確かに驚いた。
ほぼ完璧に大和撫子を体現したかのような外見に、楚々とした仕草、筋の通った姿勢、そして整った顔、凜とした立ち居振る舞い。
男どもが騒ぐのも無理は無かったが、その彼女は結局どこのサークルにも所属することが無く、そうと知った学内の男たちの落胆は激しかった。
直後にすでに彼氏がいると知って崩れ落ちる男どもが続出、大学中が死屍累々の阿鼻叫喚となった。
その彼氏が鴻野であると知ったときの居合サークル面々の絶叫ぶりは、まだ記憶に新しい。
天は鴻野に何物を与えたもうたのか。
しかし、あれはどう見たって鴻野にイカれていて他人の入る余地なんか一ミリも無いのだが、分かっていても理屈ではないらしい。
なお、話題になっていた美人新入生は茨木の他にもあと二人いて、そのうちの一人が今回話題になっている袴美女というわけだ。
「黒峰さんは居合に入ってくんないかなぁ!?」
「あいつは忙しいんだよ!」
逃げた先で叫ぶアホどもに、そう叫び返す鴻野。
彼女である茨木もそうだが、こいつにはもうひとり美人の幼なじみがいるらしく、それがその黒峰とかいう奴なんだそうだ。
何か知らないが忙しい身らしく、滅多に大学に現れないということで、俺も今まで見たことがない。
滅多に現れないのになぜ美女と分かっているのかと言うと、数少ない目撃者の証言もそうなのだが、本人が美人である茨木がやたらと黒峰を褒めちぎるかららしい。
確かに割と鴻野とつるんでいる俺も今まで目撃したことが無いが、茨木がそれらしいことを言っているのは何回か聞いた覚えがある。
「役に立たねえ!」
「ばーかばーか」
「もげろ!」
小学生かと言いたくなるが、まあ居合の才能もあり学業優秀で、さらに美人の幼馴染みが二人いてそのうち一人は現彼女となれば、他の男どもが呪詛を撒き散らすのもむべなるかな。
「ったく……」
嘆息する鴻野は奴らから逃げるように俺の方へと歩み寄ってきた。
「阿多野みたいに冷静なのがいて助かるよ」
「別にそういうわけでもねえんだがな」
阿多野守が俺の名だ。
俺が奴らに同調してないのには理由があるし、その理由がなければ立派に鴻野に嫉妬していただろう。
「阿多野にはかわいい彼女がいるもんな」
「まーな」
クールに決めようと思ったんだが顔がにやけるのが止まらない。
そう、俺には将来を誓い合った可愛い彼女がいるのだ。
金持ち喧嘩せず、という奴だな。
「く、このリア充どもがぁ!」
向こうから負け犬の遠吠えが聞こえてくるが知ったこっちゃねえな。
大体、そろそろ大人しくしとかねえと先輩たちの堪忍袋の緒が切れる。
「余裕だなてめえら。そんなに元気なら前斬百本抜いとくか、あぁ!?」
手遅れだった。
当然のように俺と鴻野も連帯責任で巻き込まれ、その日の稽古は前斬だけで終わった。
馬鹿どもには後で夕飯を奢らせたが。
* * *
次の日、講義室の一角を取り囲むように人だかりが出来ていた。
まあ、理由は想像が付く。
「おい、見たかよ阿多野。黒峰さん、ものすげえ美人だぞ!」
果たしてその通りで、鴻野と一緒に例の幼なじみが来ているようだった。
しかし随分と男どもが群れをなしているが、どこから噂を聞きつけたのやら。
「自分のモノになるわけでも無かろうに、ずいぶんと嬉しそうだなオイ」
「ぐわあああ!? てめえ、夢くらい見させろよ!」
「そいつは悪かった。しかしなんで人垣みたいになってんだ?」
覗き込むと、その原因はすぐに分かった。
赤毛の男が眼光鋭く周囲を睨め付けて、誰も近づけまいと威圧(というか威嚇)していた。
確か鴻野の友人の砂城とかいう奴だったはず。
学内でも何度か見かけた覚えがある。
なぜか談笑している机から三メートルほど離れているのが不可解だが。
その隣を見ると桜色の胴衣に臙脂の袴を身にまとった、今すぐにでも道場に行けそうな格好の、実に目を惹く女性がそこにいた。
鴻野から少しは話に聞いていたが、本当にいつも道着を着ているようだ。
茨木に鴻野と楽しげに喋っているところを見ると、本当に仲が良いようのだろう。
「くそう、一年の三美人の最後の砦がすぐそこにいるというのに近づけねえ……」
今年の一年が入学した際、凄い美人が三人もいるという噂に男どもが騒いでいたことを思い出す。
そのうちのひとり、水野麻衣は入学式が終わると同時に剣道サークル主将の今里悟志に抱きついて、目を付けていた男どもに何ら期待させることなくいきなり失意のどん底に突き落とした。
その凶悪さに、無邪気な悪魔と言う二つ名を奉られたほどだ。
黒峰は入学式に姿を見せたきりで、ほとんど都市伝説のような存在だったため、男どもはこぞって残る茨木に殺到したわけだが、間を置かずして茨木も彼氏持ちだということが発覚したわけで。
かくして噂の三美人は彼氏がいないのが一人だけになったのだが、その黒峰はレアキャラでほとんど姿を見せなかった。
まともに学内に姿を見せるのはこれが初めてなんじゃなかろうか。
それで耳の早い奴らが集まってきたのだろう。
黒峰は茨木と比較するともう少しすらっと背が高く、髪は負けず劣らず艶があって、噂通り顔は整っている。
成る程、茨木にも勝るとも劣らない美人でこれは男どもが騒ぐのは当たり前だと思うが、その目の光の強さは尋常ではない何かを感じさせる。
俺も美人を見るのは別に嫌いじゃないが、この女は迂闊に触れるととんでもないことになりそうな気がしてならない。
触れるつもりはないから、別に問題はないのだが。
「そういや最後のひとりの水野も、黒峰と茨木とは仲良いらしいぞ」
「ま、まじか……てか、なんでそんなこと知ってるんだおまえ!?」
「鴻野の情報」
「うおお、三美人そろい踏みとか見てみてえ……」
下心のある奴より、興味のない奴の方が情報を手に入れやすいことは往々にしてあることだ。
「ひとり欠けてるのは残念だけど、学内で評判の美女二人とか目の保養すぎるよな。今日出てきてて良かった……」
「しみじみ言うなよ。何なら話しかければいいだろ。男嫌いの情報はねえぞ」
「あの赤毛が邪魔で話しかける隙すらねえんだよ……」
「ふうん」
確かに砂城には隙が無い。
鴻野のライバルという話を聞いた覚えもあるし、当たり前でもあるだろう。
「まあ、俺には関係ねえけどな」
「あ、おい、阿多野!」
近づいていくと、その砂城が凄い眼力でこちらを睨んできた。
命の危険すら感じる……というか明確に殺気を放ってくる。
なぜそこまで。
こりゃあおっかなくて、一般人は確かに近づけないわな。
「よう、鴻野」
「む……?」
俺が鴻野に先に声を掛けたせいか、砂城の発する圧力が目に見えて減じた。
それはやはり分かっているのであろう鴻野が苦笑しつつ、俺を手招きした。
「阿多野か。紅矢、こいつなら心配ないぞ。ベタ惚れの彼女がいる」
「ああ、あの彼女べったりな奴か。話は聞いている」
「おい、鴻野」
砂城は鴻野の言葉にひとつうなずいて殺気を霧散させたが、俺としては鴻野の言葉の方に引っかかりを覚える。
「本当のことだろう?」
「ちっ、まあそうだけどよ」
一応の抗議は簡単に受け流された。
普通に会話に加わった俺に周囲がざわついたが、反応しても面倒くさいだけなので知らんふりを貫く。
「伊織、こいつは阿多野守。居合サークルで一緒の奴だ。阿多野、こっちは黒峰伊織。俺の幼馴染みで、剣の目標だ」
うっかり聞き逃しそうになったが、最後の言葉にぎょっと目を剥く。
鴻野の剣のセンスは非凡で、まだ三年しか修行していない居合にしたってその道十数年の奴と比べても遙かに上を行っている。
それまで積み重ねた素地あってのことではあるが、その素地の方の目標が目の前の美女だとこいつが言ったのだ。
「またそんなこと言う。僕だって追い越されないよう努力してるんだよ」
張りがあるが透明感を失わない声が、多少不服そうにそう言った。
一人称を僕と言っている女を実際には初めて見たが、不思議と不自然な感じは受けない。
「それでも俺が目標としているのは事実だからな」
鴻野が澄まして言っているところをみると、随分と気安い関係のようだ。
その彼女は軽くため息をつくと、俺の方に目を向けた。
敵意を込めて見られたなら回れ右して逃げる自信があるが、今の彼女の目は凪いだ湖面のように穏やかだ。
「真也の友人? よろしく、黒峰伊織です」
しっかりと通る声とともに差し出された手には剣ダコが出来ているのが見て取れた。
しかしそれよりも手を差し出す何気ない動作の方に、俺は慄然とした。
うちのくそ爺を前にしたときのように、まったくもって隙が無い。
初めて鴻野と対峙したときも感じたが、それよりもさらに上の次元にいるような……。
確かに、これは鴻野が目標とするに値する相手かもしれない。
内心の動揺を押し隠しながら握手を済ませる。
思っていたよりも掌が柔らかかったし 周囲から悲鳴だの怨嗟だのが上がったが、どっちにも構っている心理的余裕は無かった。
「良い腕だね」
ついでに離れ際にそう言われた。
やはりバレバレだよな……。
「阿多野は物心ついたときからお爺さんに居合をたたき込まれているらしいからな。俺もまだ居合じゃ敵わない」
「おまえが言うと嫌みにしか聞こえねえよ」
「ほう、鴻野が認めるほどの腕か」
砂城がそこで初めて、俺に興味を抱いたように視線を向ける。
「知っているかもしれないが、こいつは砂城紅矢。学校には滅多に顔を出さないけど俺らの同学年だ。俺の剣のライバルってとこかな」
「ふん、居合なんぞにうつつを抜かしていると置いていくぞ」
「この間の地稽古では俺が五本中三本取っただろ。紅矢こそ勘が鈍ってるんじゃないか」
五本中三本取ったことをことさらに言う、ということは通常それだけ取れないということを意味する。
つまり、この砂城という男も鴻野より強いということか。
「はい、真也さんは大学に入ってから剣に余裕が出てきたと思います」
茨木が我が事のように嬉しそうな笑顔を見せて、鴻野の腕に手を添える。
この鴻野の彼女もまた凄腕の剣士の片鱗を見せることがあるのだが、大抵の奴は外見に騙されて全く分かっていない。
「ぐううう、おのれ鴻野真也、許すまじ……!」
「なぜ、なぜ俺には彼女がいないのか……!」
俺には彼女がいるから無事だが、そこら中で嫉妬に悶え苦しんでいるやつらが続出している。
カップルが醸し出す甘い雰囲気は、彼女欲しい盛りの独り者にはまさに劇物以外の何物でもない。
「はー、ラブラブだねぇ」
黒峰が少し呆れ、少しからかうように言う。
「羨ましいならいつでも俺が」
「はい近寄るな」
ここぞとばかりに手を広げて近づこうとした砂城が、黒峰に睨まれてすごすごと引き下がった。
成る程、三メートル離れているのはこれが理由か。
惚れた弱みなのか知らないが、何ともまた立場の弱い……。
砂城のように気の強そうな男が唯々諾々と従っているのには、何か理由がありそうではあるが。
その様子を見た外野どもがチャンス有りと見て喜色を浮かべているが、この男が駄目だからと言って自分たちが相手にされるとは限らないことには思い至っているかどうか。
「ところでどうした? 何の用もないのに話しかけてくるほど暇じゃないだろう、阿多野は」
「まあな。ちょいとおまえの彼女に用がある」
「俺が聞いちゃいけないことか?」
「いや」
やって欲しいことが女性向けなだけであって、やましいところは何も無い。
あと1話続きます。