10
「ふむ」
男は貼り付けたような笑顔にほんのかすかな困惑を浮かべて僕を見た。
僕の方は先程とは異なる下段の構え。
覚悟は決めた。
「挑発は失敗、ですか。怒りをコントロールするとは、ますます子供とは思えない」
ごきん、ごきん、と再び音がする。
「ですが、それがどうしました?」
目の前から男の姿が掻き消える。
先程の踏み込みに倍するほどの速度。
咄嗟に防御するように上げた刀に、男の足の鉤爪による蹴りが当たった。
僕はたまらず吹き飛ばされて門塀に背中をしたたかに打ち付けられ、肺腑の息を全部吐き出してしまう。
「がっ、かは………」
隙を見逃してくれる相手ではない。
目の前に右腕を振りかぶった男の姿が大映しになる。
くの字に曲がりそうになる体に鞭打って左に跳ぶと、それまで立っていた場所の門塀が鉤爪によって斜めに大きく切り裂かれていた。
燃料がなければ機械も動物も動くことはできない。
その一瞬で強引に肺に空気を送り込んで次に備える。
果たして男は門塀がバターか何かであったかのように勢いを殺さず、体を回転させて右腕の鉤爪を振り回すようにして斬りつけてくる。
僕はそれを刀で受け、勢いに逆らわずに左へ跳ぶ。
相手の勢いが強すぎてそれでも空中で一回転する羽目になったが、織り込み済みなので刀の鋒は男に向けた状態で着地。
そこを狙って伸ばしてきた爪は、刀で上に弾きつつ自分が地面に転がることで回避した。
おまけとばかりに腕に斬りつけたが、体勢不十分なのと腕の皮膚がやはり鎧のような硬さだったため、効果はまったくなかった。
そのまま後方回転して起き上がり、息をどうにか整える。
「げほ、はぁ、はぁ……」
挑発を失敗してから、男は少しいらついているように見えた。
ほんのわずか、攻撃も雑になっているようだ。
だからこそ、今の連続攻撃を捌くことがかなった。
「……不可解です」
男は手と同じく鉤爪を生やした足で、とんとんと地面を軽く叩く。
しっかりと足の鉤爪で地面を咬むことによって、僕の予測の遥か上を行く踏み込み速度を実現したのだろう。
「なぜ、諦めないのです? あなたと私の間には埋めることのできない差が存在する。私が本気を出せば、あなたなどひとたまりもないことは、あなた自身が良く分かっていることでしょう?」
速度でついていくのは僕の全感覚、全技術を総動員してやっと。
力は比べるのは馬鹿馬鹿しいほど。
あちらの鉤爪は僕の体を紙よりも容易く引き裂くだろうが、僕の刀は相手の体を通るかどうかすら分からない。
戦力差を見るならば、確かに男の言う通りではあるのだろう。
「……ははっ」
「!?」
それでも僕は、男の問いかけがおかしくて仕方なかった。
思わず僕が上げた笑い声に、男ははっきりと顔をしかめた。
「気でも触れましたか? あなたが笑っていい要素など、どこにもないでしょうに」
「だっておかしいからね」
再び下段に構え、感覚を研ぎ澄ます。
男が本気を出していないのは本当だ。
そこにこそ僕の勝機があり、付け込む隙なのだから。
だからここは、確かに僕が笑うような場面じゃない。
今まで見たこともないくらい強い相手が、僕を本当に殺すつもりでいるのだから。
熊に殺されかけたあのときよりも、死の息吹を色濃く感じる。
でも。
「やれるというなら、やってみせればいい」
戦いとはそういうことだ。
できるできないではない。
やったかやらなかったかの結果だけがすべて。
男はやってみせていない。
僕はまだ立っている。
男の言葉がどれほどの真実だろうと、それもまた揺るぎない事実だ。
「そうですか。ならば」
言葉と同時に男の腰が沈むのを僕の目は捉えていた。
男は相当に戦い慣れている。
それはこの平和な日本において異常なことであり、鬼人という特殊な立場がそうさせたのかもしれない。
その戦闘経験ゆえに男は僕の行動を読むことには長けていたが、自分の予備動作を隠すことには頓着していないようだった。
鬼人の強さゆえかもしれないが、間違いなく武術経験者ではない。
なぜなら武術者は自分の予備動作を隠すものだからだ。
西洋武術は動きの中に予備動作を隠す。
東洋武術は動きから予備動作を消す。
アプローチは違えども、それは予備動作を相手に読ませないという意図において共通している。
実際にお師さんクラスになると予備動作など僕にはまったく読むことができないが、男にはそれがなく、僕程度でもその動きを読むことができた。
「これで、柘榴のように砕け散るといいでしょう!」
先の踏み込みの上を行く速度で横に飛び、そこからさらに上空へと跳んだことを、集中した僕は消える前の男の重心、音、風の動きで感知する。
いくら男が人間離れした速さを誇ろうとも、動きを捉えている以上は追随して体の向きを変えることくらいは造作もない。
繰り出されたのは足の鉤爪による空中蹴り。
下段の構えにその攻撃は誂え向きだった。
刀を上に跳ね上げて蹴ってきた足の膝裏を捉える。
大毅流、氷鏡返し。
『刀ってのは刃をまっすぐ食い込ませりゃ、石だろうと斬ることができる。じゃがちょっとでもズレようもんなら、巻藁すら斬れんし、力むと途端に刃はブレる』
巻藁による試し斬りの稽古中にお師さんが言った、斬るときの心得。
『手で斬ろうとするな。下っ腹に中心があると思って体全体で当たれ。そうするならおめえは――』
刃が鎧のような硬さを誇る男の肌に当たる。
刀を握る手への感触は、驚くほどに何もなかった。
『鉄さえも斬ることができる』
星明かりの下、異形の右足が宙に飛んだ。
「があああああああっ!?」
苦悶の叫びを上げながらも男は残った左足で着地してみせた。
まだ相手は戦う力を失ってはいない。
間髪を入れずに僕は刀を返し、袈裟斬りに振り下ろす。
「ちい……!」
男はそれを左腕を上げて防ぎ、そしてまだ空中にあった右足を右手でつかんで大きく飛び退った。
左腕は斬り落とすには至らなかったが、その肘の半ばまで達した傷から赤い血が流れ出していた。
「成る程」
額に脂汗を浮かべた男はぽつりとつぶやいた。
追撃をかけようと前に踏み出しかけた僕は、男の雰囲気が変わったことに気づいて立ち止まる。
頭の中で警鐘が激しく鳴っていた。
「確かに、これは笑われても仕方ないですね。貴女を舐めた挙句にこの体たらく。いや、そんなことよりも」
ごきり、ごきり、と体の変容する音がまた響く。
固唾をのむ僕の目の前で、中肉中背だったはずの男のシルエットが大きくなっていく。
「貴女ほどの剣士を相手に、本気を出さなかった無礼、ご容赦のほどを」
男は変貌していた。
目の前に立っているのは、もはや物語に出てくる鬼そのもの。
身の丈二メートル超。
腕と足はまるで荒縄をより合わせて作られたかのように太く。
さらには、斬り落としたはずの右足まで何事もなかったかのように元に戻っていた。
その体からは、先程までの男も、かつての熊なもど比較にならないほどの重圧を感じる。
「敬意をもって貴女を殺しましょう。お名前を伺っても?」
声すらもまるであの世から響くかのように低くなっていた。
うやうやしく一礼する巨体を呆然と見上げていた僕は、その声で我に返る。
「……黒峰、伊織」
「良い名です。では」
彼我の距離は一瞬にしてゼロとなっていた。
その巨体にも関わらず、鬼はその速度をまったく減じていなかった。
長くなったリーチを活かして、僕の視界の外から左の鉤爪が叩きつけられる。
かろうじて刀による受けが間に合ったが、その勢いを殺せるはずもない。
踏ん張りきれず横滑りになった僕に、真正面からの鬼の右拳による追撃。
それはまるで視界一杯に迫る巨大な拳を幻視させた。
これを受けたら死ぬ。
刹那の判断で僕は踏ん張るのをやめて、拳は刀で受けながらも後ろに跳んだ。
それは正解だったが不正解だった。
踏ん張ったまま受けていたら、鬼の拳は受けた刀ごと僕の体にめり込み、絶命へと至らせただろう。
その意味では正解だった。
だが、後ろに跳んだというのは見方を変えれば加速をつけたということでもある。
僕はそうすることによって、尋常ではない鬼のパンチを自分が潰れることなく受けることに成功した。
その代償として鬼の拳の速度をそのまま自らの運動エネルギーにしてしまう。
結果、僕は大リーグのピッチャーが投げたボールもかくやという速度で宙を舞い、道場の壁に激突してそれを軽々と突き破った。
まだ道場の壁だから良かったが、これが門塀だったらそれだけで即死していただろう。
激突のあまりの衝撃に起き上がることはおろか、息すらできない。
「名残惜しいですが、幕です。貴女は強かったですよ、伊織さん」
壊れた壁から入ってくる鬼。
熊に噛みつかれたときよりも濃厚に感じる死の気配。
それに抗わなければならない、その顎に捕らえられてはならない。
右手に握られたままの刀が、かすかにカチャリと音を立てる。
「……流石。まだ抗おうとしているのですか」
けれど、体はそれ以上言うことを聞かなかった。
「貴女がもし成人であったなら、今の私にすら伍せる剣士であったことでしょうね……」
鬼はどことなく惜しいと思っているかのように、そうつぶやきながら僕へと近づく。
「その未来が見られないのが残念な気がしますよ」
鬼が右腕を振りかぶる。
あれが振り下ろされたときに、僕の五体はずたずたに引き裂かれて二度目の死を迎えるだろう。
承服できなかった。
果たすべき願いのために、生き延びなければならない。
僕は必死で体に力を込めながら、鬼を睨みつける。
と、ふわりと僕の体が持ち上げられて、景色が急転する。
目の前にいたはずの鬼は、なぜか少し遠い場所で腕を振りかぶったまま驚いたように固まっていた。
見上げると、そこには見慣れた苦虫を噛み潰したような顔があった。
「お、師さん」
「喋んな」
僕がどうにか息を振り絞ってかすれた声で呼びかけると、お師さんは首を横に振った。
その不機嫌そうな顔と声とは裏腹に、お師さんは優しく僕を道場の壁に寄りかからせて座らせる。
それは鬼から見れば隙そのものであったはずだが、なぜか仕掛けようともせずに佇んでいた。
「済まんかったな、伊織。ありゃあ儂の客じゃ」
僕の頭に無骨な手の温かい感触がぽんと乗せられ、そしてすぐ離れて行った。
お師さんのその言葉に、僕は鬼の言った剣人という言葉を思い出す。
「さて、鬼人よ。儂の留守中に好き勝手してくれたようじゃな?」
「お初にお目にかかります、先代三日月。貴方の命を頂きに参上しました」
お師さんは事も無げに鬼人という言葉を口にした。
鬼人もそれを当然と言ったように受けて慇懃に一礼する。
「ふん。そいつは今更じゃが」
鼻を鳴らしたお師さんから、それを直接向けられたわけではない僕すら竦み上がるほどの殺気が放たれた。
「伊織に手を出したのはどういう料簡じゃ」
「少しからかうだけのつもりだったのですが、思わぬ技量をお持ちでこちらもついつい熱くなってしまいまして。さすがは先代三日月の愛弟子」
「そうか。生きて帰れるとは思わぬことじゃな、ぬし」
「何を今更。鬼人と剣人が出会ったならば、どちらかが死ぬしかないのは決まりきったことでは?」
鬼の言葉にお師さんは、なぜか痛みを感じたかのように顔を歪めた。
けれどそれは一瞬のことで、鬼はそれに気付かずに言葉を紡ぐ。
「対鬼流の第一人者、先代三日月、黒峰平蔵。剣人の最高峰に挑もうというのに、命など惜しんでいられましょうか」
「ふん」
お師さんの手にはいつのまにか刀が握られていた。
腰帯に鞘は差さってないし、さっきも刀をもっているような様子はなかった。
それに、今その手に握られているのはお師さんがいつも使っているものではない。
いつも使っている二尺四寸の刀は、反りはほとんどなく拵えも黒一色で刃紋は直刃。
実直で飾りの無い、まさに実用刀といった趣がある。
今握っている刀は二尺六寸はあるだろうか。
緩やかに反った刀身は厚重ねで重厚感たっぷり。
だがその刃には優美に波を描く、のたれと呼ばれる刃紋が描かれていた。
凄まじい斬れ味を予感させながら、優雅さを失わないその姿。
その刀に僕の目は思わず釘付けになっていた。
「それがその名も高き先代三日月の『鬼姫』ですか。なるほど、その名に相応しい」
「遺言がありゃあ聞いてやる」
「これでも勝つつもりですので、お気遣いなく」
じりじりと間合いを詰める鬼。
お師さんは無造作に刀を上げると、こちらは正眼に構えた。
鬼の動きがぴたりと止まる。
お師さんであれば鬼に対してさえその一撃は必殺なのだろう。
鬼と言えども迂闊なことはできない。
並の胆力では気絶してしまうほどの緊張が二人の間に漂い、僕は意識を手放さないよう必死で集中する。
痺れを切らしたのは鬼の方だった。
「殺ァァァァァァァ!!!」
鬼は左右の手のすべての鉤爪を伸ばし、それを広げて時間差を付けてお師さんへと斬りつける。
人では不可能な、鬼人ならではの乾坤一擲。
限界まで加速したそれは、遠目だからこそ見えたものの、対峙していた場合は僕の目には止まらなかっただろう。
それはまさにお師さんを呑み込む瀑布のように見えた。
だが、瞠目すべきはお師さんの動きだった。
その動きは鬼のように速くはないが、一切の無駄も微塵の躊躇も感じさせない。
剣尖をその場に置いたまま体を右へ捌いて、そのまま刀を受けの構えにする。
時間差の付いた斬撃のうち、体の捌きだけでは躱しきれなかったそれを、刀の角度を微妙に調整しただけで受けきる。
さらにはその受けた状態のまま刀を滑らせて横にするりと回り、相手の攻撃の圧すらも反動として利用。
まさに紫電一閃。
お師さんが鬼の後ろに回り込んだとき、すでに鬼の腰は両断されていた。
初めて見たその技、その動きは、あるべきものがすべて正しい場所に納まったような不思議な感覚を僕にもたらした。
「対鬼流、岩颪が技の名じゃ。冥土の土産に持っていけ」
残心を崩さぬままお師さんが言う。
「はは……まさかここまで及ばぬとは。ああ、なんと素晴らしい、実りある一日だったことか」
ずるり、と上半身がずれた鬼はため息のような声をあげた。
「願わくば、もう少し長い間、楽しみたかったですかねぇ……」
濡れた音がして、胴体が文字通りに泣き別れとなった鬼はその場に崩れ落ち、ややあってからさらさらと体が崩れ始めた。
「鬼人が鬼となってそのまま死ねば、後には遺骸も残らん。普通に死ねば人と変わらんそうじゃがな」
独白のようにつぶやいたお師さんは、ここではないどこかに思いを馳せているように見えた。
僕がその生涯で初めて出会った鬼人は、こうしてこの世を去った。
次回更新には少しお時間頂きます。