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もうちょっと……!
『不可解ではあるが……否、必然と言うべきかもしれぬな。我が前に再び平蔵が立ちふさがったような気がする。愛娘と言うべきおまえへの手出しが余程気に食わぬらしい』
忌々しげに、だがその中に懐旧の念を潜ませたような新良木の声。
それは、一部は合っていても一部は間違っている。
「僕は僕だ。お師さんじゃない」
僕の剣技はお師さんから継いだもの。
その意味でお師さんが立ちふさがったというのは間違いじゃない。
それにお師さんが生きていれば、万難を排して新良木から僕を守ろうとしただろう。。
お師さんは僕の成長を妨げないよう、僕が死ぬような目に遭おうとも見守るだけの強さを持っていたけれど、それは僕がそうすると決めた時の話だ。
幼少時の熊の時、初めて出会った鬼人の時、氷上たちと出会った時。
僕が期せずして巻き込まれた災いと対面した時、お師さんは必ず僕を助けてくれた。
今回の新良木であっても、それは同じだっただろう。
でも、お師さんはもういない。
僕に何が起ころうとも何かを思うことはないし、助けてくれることもない。
ただ、遺してくれた桜花が僕に力を貸してくれるのみ。
「死者は死者であって、墓から起きあがったりはしない。もしあるとすれば、その思い出に生きている側が影響されることがあるくらいの話だ」
だから、新良木がここにお師さんがいるように感じるのであれば、それは新良木がお師さんのことを思い出し、それに脅威を感じているということだ。
それだけ新良木の中で、黒峰平蔵という存在が大きいということの裏返しでもある。
「お師さんが生きていれば必ずあなたを止めようとしただろう。それは間違ってない。でもお師さんはもういない」
『そうか。そうだな』
触手の傷口が塞がり、肉が盛り上がるようにして長さを取り戻す。
新良木の鬼人としての再生力は衰えるどころか、より強くなっているようだ。
顧みて僕の方は、傷は塞がっていても血は戻っておらず、それは体のだるさとして表れている。
長期戦は不利。
でもそれは今更だし、今の深い集中はどの道長くは続かない。
『おまえを倒し、嬲ることで溜飲を下げる。それは変わってはいない。だが、それに加えておまえを倒すことで平蔵の亡霊から逃れたかったのやも知れぬな、私は』
ここで新良木の言っている亡霊とは自らが投影したものに他ならず、それを彼自身も自覚しているようだった。
『そうだ……私は勝ちたかったのだ、平蔵に。だからこそ枯れ木のような体になろうとも、未練がましく鍛錬を続けた。平蔵亡き今、もはやそれは叶わぬ。が、今のおまえならば』
ここで新良木の僕を見る目が変化した。
ただの獲物を見る目から、不倶戴天の敵を見るそれへと。
『鬼哭無双流、新良木賢造。改めておまえに勝負を申し込む』
「五十四代対鬼流正統継承者、黒峰伊織として、その勝負、受けた」
生前のお師さんの口から剣人については聞いたのは、鴻野家と神宮家の関係者を除くと、先々代の三日月くらいだ。
でもそれは、お師さんが他の人たちのことを忘れていたわけでも、増してや歯牙に掛けていなかったからだというわけでもないと思う。
不器用なお師さんは、袂を分かった人たちについては良いことも悪いことも口にする気が無かったということなんだろう。
目の前の男のことだってきっと覚えていただろうし、ひょっとしたら一目置くくらいはしていたのかもしれない。
性根は腐りきっていても、剣の腕だけは確かなのだし、お師さんを超えるために地道な修練を積んできた男なのだ。
いずれにしても、この男の挑戦を受けるのは、お師さんの最後の弟子である僕の役目だ。
「……」
ちらりと一瞬だけ砂城の方を見る。
まだ倒れたまま動かないようだったが、顔色は若干良くなっていたように見えた。
彼に生きてもらうためにも、勝って戻らねばならない。
握りしめた桜花の柄が、頼もしい手応えを返してくる。
『それにしても分からぬな』
「なにが?」
『確かに紅仁散によって鬼人となれば、あの男は助かるやもしれぬ。だがそれにはあの男の欲望を発散させてやる必要がある。そしてあの男はおまえに惚れていたのだろう。ならば何が起こるかなど明白』
お互いに間合いを測っているときに、新良木がそんなことを言い出した。
『あの男はおまえが自分の体を差し出してまで、助ける価値があるというのか? それともおまえは、関わった者すべてをそうやって助けようとでも言うのか』
「……僕はそんな自己犠牲の精神は持ってないよ」
『ならばあの男が特別というわけか』
「そうだね。そうやっても失いたくないと思うくらいには。言っておくけど、真也でも、清奈でも、神奈でも、あなたの知らない幼馴染みの二人でも、僕は同じことをするよ」
『成る程。ならばおまえを倒した後で、あの男も、そやつらも鏖殺してくれよう』
それはどういうつもりで発した言葉なのか。
新良木の真情は僕には理解できないものだったが、いずれにせよ僕の言うことは決まっていた。
「それは無理だよ。僕が勝つから」
じりじりと詰まっていた間合いが、ついに一線を越える。
僕と新良木が同時に、弾かれたように地を蹴った。
『シィィッ!』
新良木の左の触手、五本すべてが刃と化して時間差を付けて僕へと叩きつけられる。
それらを刀の角度を変えながら受け、滑らせながら新良木の本命である右の刃が迫る刹那に横に一歩出る。
そこから体を反転して後ろに回り込みながら、受けた反動をも利用して相手の腰部へと斬りつけた。
『岩颪か!』
だが血が足りないせいか一手遅れる。
恐るべき反射でそれを躱した新良木へと、振り下ろした刀を返して向けた刃を前面に押し出して、力が抜ける体に鞭打って間髪を入れず突進する。
今や足も触手となっている新良木ではあるが、これをまともに受ける気はないようでそれを防ぐ。
その受けられた反動を使って体を一回転。
全体重を載せ、浴びせるように斬り下ろす。
大毅流『龍落』。
『舐めるな!』
右腕の刃でそれを受け止める新良木。
だが僕の攻撃はまだ終わっていない。
そこから体を逆回転して勢いを付けた斬り上げを浴びせかける。
大毅流『虎落』だ。
「あれは俺の……!」
そう、真也と地稽古をやったときに、彼が遣った大技の連続技だ。
あの後に起こったちょっとしたハプニングを思い出すと、恥ずかしさが少し体のだるさを忘れさせてくれた。
いいんだか悪いんだか。
その時の真也の技では龍落は虚実の虚だったが、今の僕の技はどちらも実だ。
龍落は防いだ新良木だったが、虎落は防ぎ切れずに足の触手を斬り飛ばされる。
『その若さで、よくぞそこまで……!』
僕への賞賛の言葉を口にしながらも、新良木もまた止まらない。
大技の二連発で体勢が崩れている僕の隙を見逃さず、己のダメージを顧みずに右腕の刃で突きを入れようとしているのが視えた。
今までの殺気の無い攻撃とは異なる、喉の急所を狙った命を刈り取る一撃。
しかし、それは鋭くはあっても、新良木にしては単調な動き。
人は使えるリソースに限りがある。
頭の中で同時に処理できることなんて、どれだけ多かろうとも三つか四つ。
その事実は人が同時に出来る動きに限りがあることを示す。
動きを反復練習によって反射の域にまで高め、それに費やすリソースを限りなく低くしていくことが鍛錬である。
例えばリソースをフルに使わないと出来ない技があったとして、その技を遣っている間はフェイントや回避、防御は行うことが出来ない。
リソースそのものは人の腕が二本から増えることがないように、元から持っているものから増えることはそうそうない。
しかし鍛錬によって技に費やすリソースを抑えることによって、出来ることが増えていくようにはなるのだ。
だが、新良木は今、己の体を造り変えてしまったことで、この鍛錬によるリソース低減の恩恵を受けることが出来ない。
そして何者であれ、負傷すれば痛みによって集中は削がれ、出来ることはさらに減っていく。
その結果として何が起こるのかと言えば、動きの精度が下がり、雑なものになっていく。
つまりは『甘い』攻撃を繰り出してしまうのだ。
「そこ!」
突きを繰り出そうとしている新良木の右小手に合わせて鋒を繰り出す。
こちらの体勢が崩れているために必殺の一撃とは行かないが、それでも突こうとしている腕の軌道上に刃先があれば、敢えてそのまま突こうとするには覚悟がいる。
自らの攻撃が甘かったことを悟ったのか、刃を引いて退がる新良木。
内心、僕も一息つく。
『対鬼流『無明』か。その技を成立させるためには私の動きを完全に読む必要があるはず』
対鬼流『無明』は相手の技を読み、その出鼻をくじく技だ。
難易度が高く、その構成から相手の力量が高ければ成立し難い技だが、これを仕掛けられる側には多大なプレッシャーを与えることになる。
僕もこれをお師さんに仕掛けられたことがあるが、自分のやることのすべてに先回りされるという恐怖は、こちらを萎縮させ、動きから大胆さを奪い取る。
老練な新良木に対して僕が常に『無明』を仕掛けられるわけではないが、甘い攻撃を挟めなくなったという事実だけでも、精神的な疲労は倍加するはずだ。
これでようやく、コンディション的にも対等となった。
「……なあ、なんでいきなりあン娘強ぅなったん? あれじゃうちが相手しても苦労しそうなんやけど」
傍で見ていた連華が、油断無く砂城を見守っている一刀さんに話し掛ける。
「俺に言われてもな。まあ、剣士にゃ急にコツを掴む瞬間ってのがある。それが今だったんだろ。但し、それを掴んだところでその強さに至る鍛錬が足りなきゃ、意味がねえ。伊織が急激に強くなったんじゃねえ。元からあれだけの強さがあったのが、ようやく表に出たってことさ」
「そういうもんなんかねぇ」
実際にそういうものなんだと思う。
本来、強さへの近道は無い。
僕は今回、剣鬼となることによって強さが底上げされたけれど、今までたゆまず鍛錬をしていたからこそ、その強さを己のものとして扱うことが出来た。
逆に剣鬼にならなかったとしても、力と速度は落ちても同じようなことは出来たはず。
鍛錬は常に身の内に在って裏切ることはない。
『良かろう。では我が最大の奥義を以て、おまえを打ち倒す。覚悟せよ、黒峰伊織……!』
空気が震えるような裂帛の気合を放ち、新良木が八相の構えを取る。
無明によって不利になった形勢を打ち消し、さらに己を鼓舞させるために最後の切り札を切るつもりだ。
「受けて立つ」
ここで退けば再び新良木が精神的に優位に立つ。
それだけは避けねばならない。
新良木の名乗った流派は慈斎さんや砂城と同じ鬼哭無双流。
この流派の特徴は己に有利な間合いを取ることに長けている点にあり、その奥義もまたそれを突き詰めたものが多い。
だが長年の研鑽を重ねてきたこの男が、それだけに終わるはずもなく、僕どころか誰も知らない一手を隠し持っていておかしくない。
けれど、それを正面から受けると決めた。
新良木には新良木の自信があるのだろう。
僕は僕の……お師さんから受け継いだ、唯一無二の対鬼流を信じるのみ。
新良木の八相の構えに対し、上段に構える。
「伊織……」
同じ対鬼流である真也は、僕が何をしようとしているのかが分かったのだろう。
そして新良木もまた気付いたようで、その異形の顔に小さく笑みを浮かべた。
『確かにこの大一番で使う技ではない。が、これ以上ふさわしい技も無い』
対鬼流『空断』。
僕が繰り出そうとしている技はそれだと、二人は判断した。
それは間違ってはいない。
僕が繰り出そうとしている技そのものは『空断』であり、他の何ものでもない。
「少し、違う」
構えを取る僕の言葉に、二人が目を剥いた。
未だこれを出来るかの自信なんて無い。
でも、やらねばならない。
「確かに技は『空断』で間違いない。でも、それは結果だ」
「伊織……てめぇ、まさか」
僕の言葉の意味を理解したのは、一刀さんだった。
己を鼓舞するように、僕は一刀さんの言葉に頷いてその名を口にする。
「無想の太刀。今から僕が遣うのは、それだ」
『何だと……!』
お師さんからして、生涯を懸けて追い求めた理想。
僕ごとき若輩が言って良い言葉では無いし、今だって出来る自信は無い。
だから、自分を追い込む。
「黒、峰……」
「紅矢!」
意識を取り戻したらしい砂城が上体を起こし、慌てて駆け寄ろうとした真也を、一刀さんが止める。
……時間が無い。
早く決着を付けなければ。
「黒峰……俺、は、大丈夫、だ……ぐ、ぅ……!」
大丈夫なわけがない。
紅仁散の恐ろしさは身を以て知っている。
あのどす黒い感情に逆らい続けていれば、気が狂ってしまうし、そうならなくとも深手を負っていて瀕死の砂城では、体力が尽きてしまう。
そうなる前に、新良木を倒してしまわなければならない。
「俺、は、貴女を、信じて、い、る。だか、ら、俺は、必ず、助かっ、て、みせ、る……!」
「砂城、先輩……」
身を焼き尽くすほどの衝動に焦がされているだろうに、砂城は笑って見せた。
ああ、そうだ。
助かってみせると言ってくれた。
なら、助けなければならない。
「そうだ、伊織。紅矢は大丈夫だ」
刀を抜いて、真也が砂城と僕の間に立ちふさがる。
「伊織よ。てめぇはこいつを信じて、決めてこい。それまでは俺と真也でこいつのお守りをしといてやるよ。おらァ、掛かってきな、青二才!」
一刀さんの挑発に、砂城は笑顔のまま意識を手放したようだった。
巻き起こる激しい剣戟とは裏腹に、僕の意識は深く、静かに落ち着いて行く。
『何を笑っている……?』
そうか、今、僕は笑っているのか。
きっとそれは、皆の頼もしさに自然と浮かんだものだ。
「この一刀にて決着をつける」
その言葉は自然と口を突いて出た。
ちなみに筆者はシングルタスク人間です。
ひとつしか物事考えられないねん……。